三.一九二八
雪雲が去り始めた三月、医者から包帯を外す許可が下りた。
肘の先、剥き出しだった骨は、すっかり肉と皮で覆われていた。
家に戻り、テーブルに新聞を広げた。求人ページを開き、左手でメモを取る。文字はガタガタだが、読めなくはない。一月の後半から、職安で紹介された、半壊した図書館での蔵書の整理のアルバイトに出ていたが、それも先週で済んでしまった。明日また職安に寄るつもりではあるが、あちらが出してくる仕事は日雇いが多く、内容も道路工事や瓦礫の撤去など、時勢を顧みれば仕方がないとは言えこの体ではなかなかに難しいものばかりだ。早めに定職を見つけなければ、そもそもたいした額でもない貯金が底をついてしまう。
ソファに背を預け、目を閉じる。少し疲れた。
ようやっと包帯も取れた、晴れて怪我人卒業だ。喜ばしいじゃないか。医者にも綺麗な傷跡だとお褒めの言葉を頂いた。慰めと言うのが正しいのかもしれないが。
薄いドアの向こうから聞こえるのは、時折走る車の音だけ。平日の昼間は静かだ。
どうしていたんだったか、ふと考えた。そして、そもそもこんな時間に起きてはいなかったのだ、と思い至った。パブで歌うのは夜が更けてから、そして空が白む頃にここに帰り、申し訳程度の酔い醒ましに水を一杯飲んでそのまま眠りに付く、そんな毎日だった。まだ日が上り切っていない午前の記憶なんぞ、あるはずもなかった。
酒場の仲間達はどうなったろうか。ここから程遠くない飲み屋街。どこも似た様な薄暗い店内、黄色い灯りに照らされたボトルの列、人熱れで湿気た中に籠った、煙草とアルコールの匂い。愚痴の多いあの店のマスター、チップを弾んでくれた常連客、べらぼうに歌の上手かったピアノマン、内緒でギネスを一杯差し入れてくれるウェイトレス。馬鹿で、おしゃべりで、温かいあの連中に、ギターが弾けなくなったと告げれば、どんな顔をするだろうか。考えて止めた。馬鹿らしい。
飯でも食おう、腹が減っている時と寝ていない時に考える事は大抵碌でもない、と母親が言っていた。
買い置きのクロワッサンがあったはずだ。薬缶を火に掛け、アッサムを淹れる。コーヒーは昔から何故か好きになれない。
紅茶とミルクは半々、砂糖は大さじで二杯。これが黄金比だ、誰が何と言おうと。
三時半。ビターゼが学校から戻って来た。
手には手紙を持っている。そこで郵便屋から託けられたらしい。 県裁判所からだ。封を切る。中には紙切れが一枚。未成年後見人登記の証明書だった。
ビターゼ・トゥシシビリ。一九二〇年一二月二八日生。出身地オデロン市。
親権者の欄には不明、とだけ書かれている。
『県裁判所の選任により、一九二八年二月二五日を以てエドゥアルド・リューベンを未成年後見人として登記した旨をここに記す。』良し。これでもう役所と裁判所を往復しなくて済む。しかし『父親の旧友』にこうも簡単に子供を預けてしまうとは、裁判所も適当なものだ。
制服から着替えたビターゼが、いそいそとキッチンに入って行った。夕飯の材料を見繕っているのだろう。良く働く子供だ。
実際ビターゼにはかなり助けられている。
何せ飯を作ろうにも、茹でたジャガイモの皮を剥くことすら出来やしない。洗濯も、洗うは良いが、干すのも畳むのも上手くやれない。幸いにも、と言うのか何なのか、件の寺院は自活教育をモットーにしていたらしく、ビターゼは子供ながら家事の一通りを熟す事が出来た。当の本人は、寺でしていた事をここでも当たり前にやっている感覚らしいが、お陰で今や面倒を看て貰っているのはこちらの方、と言う何とも情けない状況だ。
「たまごがない」
「オムレツか」
「うん」
「じゃあ買に行くか」
壁のコートを羽織って、外へ出た。日は既に翳り始めている。
「学校はどうだった」
「まあまあ」
「勉強付いていけてるか」
「まあまあ」
「そうか」
「そうじゃないよ」
大通りに出た所でビターゼに袖を引かれた。
「おみせ、そっちじゃないよ」
「今日は向こうのお店に行かないか」
「むこうにもおみせあるの?」
「ある」
「しらないや」
そりゃそうだ、今まで避けていたんだから。
路地を出て、大通りを左に進むといつものマーケットに出る。ビターゼの小学校もそちら側だ。その反対、右手側を五分ほど行くと、パブ街の入り口がある。子供を連れて行くには宜しくない場所だが、四時ならハッピーアワーにもまだ早い。人気は殆どないだろう。
駆けては止まり、いつもと違う街並みを興味津々の顔で見回すビターゼは、宛ら新大陸を発見した大洋の探検家か、はたまた荒野を行くアブラハム御一行か、と言った風だ。しかし、肝心の約束の地が、疲れた大人達の溜り場なのがどうにも申し訳ない。世の世知辛さに気付くのに、八つはまだ早過ぎる。
未だ舗装もされていない、埃舞う土道に入る。
思った通り、まだ閑散とした薄暗いパブ街は、開店準備をする従業員と、ここを抜けて駅へ向かう少数の通行人の姿があるだけだった。たった数か月来ていないだけなのに、既に少し懐かしささえ覚える行き付けの看板、壁の落書き、ああここは閉店したのか、割と繁盛していたのに。店を畳んで別の街へ避難したのだろうか。張り紙を眺めながら、記憶の中の、薄毛の店主を案じた。
通り奥にあるグローサリーに向かう道すがら、見慣れない店が目に留まった。
黒いイーゼル盤にはチョークで『records』の文字。こんな所にレコードショップなんてあっただろうか?思い出せない。
表のウィンドウガラスの向こうには、鈍色のホーン光る蓄音機があった。見た事のない型だ。国産……の訳がないか、エルタイからの輸入品だろう。
どうしたの、とビターゼに声を掛けられ、足を止めて見入っていた事にに気が付いた。
「これ知ってるか?」
わかんない、とビターゼは首を振った。
これは、と話し出したその時、珍しいかい?と声が掛かった。
「エルタイの高音質蓄音機だよ、ここいらじゃ然うはお目に掛かれない」
店から現れたのは、蓄音機と同じ鈍びた色の金髪をひっつめた婦人だった。
可愛い坊ちゃんだねえ、と女は屈んでビターゼと目を合わせた。ビターゼは臆することなく「こんにちは」と挨拶をする。
「良い子だ、暇なら中も見てくかい?」
あれがどんなもんか聴かせてあげるよ、女はそう言ってにやっと笑った。年の頃は四十前と言った風だが、化粧っ気がなく、頬と鼻の頭の雀斑が、まるで少女の様だった。
ビターゼがこちらを振り返る。構いはしない、金はないが時間はある。大国の最新技術がどんなものか、興味もあった。
が、入って早々に後悔した。
ここはただのレコードショップじゃあない。
ギターショップでもあったのだ。
白い壁一面に掛かったギター、くそ、見たくもなかったのに。
最近廃業してしまったオリバー・ディッソンの111、そのディッソンの製造元であるマーチンの00-28はアディロンダック・スプルースの杢目が上品だ。隣はギブソン、ごりっとした重い音は癖が強く好みではなかったが、伴奏用のリズムギターとしてなら抜群だ。
そして、マーチン000-18。電灯を受けて淡く光る、白肌のシトカ・スプルース
あの日もこれを抱えて歌っていた。瓦礫に潰され粉々になってしまったであろう相棒。厚い胴から鳴る煌びやかで明るい音が、まだ耳の奥にこびり付いている。
もう、二度と鳴らせない音。
「あんたはギターが好きなのかい?」
女が青いスリーブから盤を取り出しながら言う。黒く渦を巻くレコードの名は『サリー』。エルタイの歌手アデリナ・ブジェジーニが歌い、向こうで相当ヒットした曲だ。女声曲だがキーが低いので、客のリクエストで何度か歌った事もある。彼女は太陽を、星を見た事がない。部屋にただひとり、夢だけを見て過ごす。
「もうちょっとましな曲はなかったか」
「いい曲じゃないか」
「曲はな」
「あたしが好きなんだよ」
カウンターに運ばれて来た蓄音機は、見知った物より随分と大きい。当然中のサウンドボックスやアーム部もかなりの大きさだ。筒状の一枚板でなく、ブラスを幾つも張り合わせたホーンの形状も珍しい。正面から覗くと花が開いたかの様だ。花弁に施された細かなエッチングと言い、ここまで来ると最早工芸品だ。
サイドのハンドルを回す。ギアがターンテーブルを回し、その上の黒い盤にぷつん、と銀色の針が落ちた。しばしの無音から、アコーディオンのメランコリックで色気のある音が流れ出す。思った通りのボリュームに加え、低音の厚い響きと高音の抜けの良さ。良い音だ。そこらのパブにある中古品とは比べ物にならない。……ああ、この細かなイントロのラインをギターで再現するのは大変だったな。鍵盤と弦では勝手が違うと言うのに、あいつらは好き勝手注文してくるんだよな。
初めてレコードを聴いたらしいビターゼは、相当驚いたのか口をぽかんと開けたまま回る円盤にに釘付けだ。学校ではそこそこ賢い様だが、八歳児に蓄音機のメカニズムを理解するのは難しいだろう。
彼女は太陽を、星を見た事がない。
部屋にただひとり、夢だけを見て過ごす。
夢から醒めれば、日の光を知れるのに。
彼女は目を開かない。
エルタイの政府高官と懇ろだったと噂のある歌手だ。声も曲も良いと思うが、アドイノラにとって心象の良い人間ではない。
「お気に召したかい?」
「良い音だ。腹が立つ程」
「音楽に罪はないさ」
「尤もだ。サウンドボックスが相当大きいな。低音の出が良いのはその所為か」
「それもあるけれど、ホーンかね。口が大きいんだよ」
「確かに」
「最近エルタイじゃあホーンなしのもあるらしいけどね、やっぱこれがないと格好が付かないよ」
ホーンのない蓄音機、想像も付かない、どこから音を出すんだ。そんな代物この国じゃあ後十年経っても作れそうにない。
すごいね、とビターゼが呟いた。
「蓄音機か?」
「すごいね、ふしぎだ」
「これが欲しいかい?パパにお願いしたら買ってくれるかもだよ」
そう言って女は笑いながらレコードをスリーブに戻した。
「庶民が手を出せる代物じゃないだろ」
この出来栄えだ、こいつ一台でコツコツ貯めた金がすっ飛ぶ位はするはずだ。
「国産の安いのも取り寄せたげるよ」
「今は別段入り用じゃない」
「じゃああっちのギターはどうだい?」
あんた弾けるんだろ、と親指で壁を指す。
「生憎今はこうなんでね」
右腕を挙げてみせる。ぽっかりと黒く空いたコートの袖口に、女の顔が強張った。
「戦争かい」
「事故かな」
「悪い事言っちまったね」
「構わない」
気にしてない、と言うと嘘になるが、悪意なき言葉に傷付くほど繊細でもない。
まだ蓄音機に張り付いているビターゼを呼び、店主に礼を言う。良い物を聴かせてもらった。
「だが、今度はもうちょっとましな曲にしてくれ」
「用意しとくさ。坊やもまたおいで。パパと一緒にね」
店を出て看板を見上げると、白地に赤で『ラシャ・ミュージック』とある。
ラシャ、か。良くある男の名前だ。
三月が終わり、四月、五月に入っても、短い仕事で食い繋ぐ日々が続いた。外はすっかり春めいて、流石にセーターではもう暑いだろうと、また例の服屋に頼んで夏まで使える未だ舗装もされない、埃舞う土道を歩く。はさ物を幾つか選んでもらった。履きっぱなしの靴がかなりくたびれている事にも気付いてはいたが、まだ使える物を買い代えてやる余裕まではなかった。
そんなある日、無職が暇を持て余し、平日の真っ昼間からラシャ・ミュージックでぼんやりレコードを聴いていると、ダッツェに「あんたどこで働いてんだい?」と問われた。
「どこと言われてもな、日雇い労働者みたいなもんだ」
「子持ちでかい!」
「前職が出来なくなっちまったからな」
役所から下りる障害給付金で生活はぎりぎり成り立ってはいたが、靴を買い替えてやるのにも思い倦ねるこの現状、苦しい事には代わりない。やはり定職を、と思い職安に通い、新聞を調べ、足を使い、方々様々を尋ねたが、ここまでまともな職は見つからなかった。出来る事の限られるこの体だ、雇用主が取りたがらないのも分からなくはないが、それでも無下に断られれば腹も立った。
「世間は厳しいよ、全く。俺みたいなのには特に」
「ならうちで働くかい」
「はあ?」
「うちの従業員になるかいって言ってるんだよ」
おいおい正気か。まじまじとダッツェを見つめたが、彼女は瞬ぎもしない。
「人雇える程儲かってるのかよここは」
「失礼な。従業員ひとり何て事はないさ。それに、あんたギター詳しいだろ。あたしはレコードは分かるけど、ギターはさっぱりなんだよ」
確かにダッツェはギターに明るくはなかった。客に細かい質問をされ困っているのを後ろから助けた事も一度ではない。
好きでもないギターをどうして扱っているのか、気にはなったが、聞けなかった。尋ねれば、きっとダッツェは笑って話してくれるのだろうが、それでも。
何はともあれ、晴れて就職と相成った。これで靴も新しくしてやれそうだ。
ラシャ・ミュージックで働き始め、そこでふたつ、大きな出会いがあった。
ひとつはタイプライター。利き手をなくしてからどうにも文字を書くのが億劫だ、そんな話をしていた時にダッツェから勧められた。元々彼女はタイピストだったらしく、役所に出す書類も自分で打つ事が出来た。彼女に教えを乞いながら機械の作りと文字盤の配列を覚え、数ヶ月の練習で手元を見ずとも原稿が作れる様になった。そして、タイピングの練習がてらに作ったラシャ・ミュージックのフリーペーパーが、音楽ライターとしての初仕事になった。新作の発売情報に、ラジオヒットの紹介、旧作のレビュー、ギターの薀蓄とネタは様々。中でも、パプ回りをしていた頃に聞いた、音楽家達のゴシップは評判が良かった。有名人のプライベートはいつの世も庶民の格好の暇潰しだ。
当時のオデロン市は、市内中心でもまだ瓦礫や焼け跡が多く残っており、とても穏やかに生活出来る環境ではなかった。失業者が職安に列を成し、引ったくりや窃盗が倍増、また、避難民が残した空の住居を狙った空き巣が多発する等、市中の治安はかなり悪化した。誰しもが不安を抱え、今日を生きるのに精一杯だった、そんな頃にあって、生活必需品でない音楽を扱うラシャ・ミュージックがそこそこに繁盛していたのは、それでも皆、生活の中に小さな潤いを欲していたからだろう。嬉しい時は共に歌い、悲しい歌には涙する。そうして人の心を慰め、しばし現実を忘れさせてくれる。音楽は嗜好品さ、しかも煙草や酒と違って体に害もないんだよ、とダッツェが笑ったのを覚えている。
ふたつ目はギター、尤もこれはビターゼの話になる。
ビターゼは学校が終わると良く店に顔を出した。家でひとりはつまらないと言い、ダッツェにお菓子を貰ったり、件の蓄音機を弄ってみたり(壊しはしないかと冷や冷やしたが)、百平米程の小さな店の中を忙しく動き回った。学校で友達はいないのだろうか、あの位の頃なら家に帰って即鞄を放り投げ、サッカーしに飛び出して行くもんじゃないのか、そんなこちらの心配もどこ吹く風の様子で、店はビターゼの格好の遊び場となっていった。
そんなビターゼが、取り取りのギターに目を付けない訳がなかった。
野良犬の徘徊の如くひと通り店をうろついて、いつもの様にカウンターに潜り込んで来る。しばらくは大人しく座っていたが、やがて壁とこちらを交互に見て、ふう、と溜息を付いた。くそ、それが八歳児のする事か。言いたい事があるならはっきり言え。
「……そんなに気になるのか」
「かっこいいね」
おきゃくさんが、ひいてたよ。ビターゼが壁の端に掛かったシングルオーを指差した。小振りなギターで、子供でも扱いやすいだろう。良く見ているもんだ。
「あれは買う人だけが弾いていいんだ」
「おきゃくさん、かわなかったよ」
「……壊したらどうするんだ、弁償しなきゃいけないぞ」
「こわれないよ」
「どうして壊れないって言えるんだ」
「じょうたいがいいって、おきゃくさんとはなしてたでしょ」
……ああ言えばこう言う。
タイプの手を止め、ビターゼに向き直る。知り合いの店だろうが商品は商品、ここは保護者として一度説教でもしなきゃならんか、そう決めて息を付いた時だ。
「構わないよ、弾かせておやりさ」
「いいの!?」
「ダッツェ!」
揃った声の向かった先はカウンター奥のドア。その先はダッツェの住まいになっている。買い物に出ていたダッツェがちょうど店に戻って来たのだ。
「客が来たらどうするんだ」
「幾らあたしがギターを知らないったって、こんな雨の日にギター買に来る客がいないのは分かるよ」
窓の外は朝からの豪雨。髪が巻いてしょうがない。確かに、例え売れても今日は持って帰らせない。我ながら苦しい言い訳だった。
仕方ないと諦めてデスクを片し、ご指名の0-18を壁から降ろす。ヘッドやボディには所々細かな傷はあるものの、確かに状態は良好だ。前の持ち主が小まめに手を入れていたのだろう。
ビターゼを椅子に座らせ、落とすなよ、と念を押してギターを膝に乗せてやる。いくら小型とは言えそこそこの重さはあるし、ネックは長さも太さも八歳児の手には余る。
「左手でネックを下から……そうだ、親指と人差し指の間に入れて。手は開いて、弦には触るなよ?そのまま右手で、一番上のを引っ掻いてみろ」
びん、と空気を鈍く震わせるE。うわあ、とビターゼが声を上げた。数か月聴いていなかっただけなのに随分と懐かしく感じる、生のギターの音。しかし少し低い、ダッツェに音叉を出してくれと頼んだ。
さて、チューニングをしようにも、どうやれば。
ふむ、と考えて立ち上がる。ビターゼは何度も少し狂ったEを鳴らしている。そう、強く引っ掻いたり、指で弾いたり、弾き方で音が変わるんだ。
──ああ、そうか、弾かせればいいんだ。
「ビターゼ、ちょっと立って。交代だ。床にぶつけるなよ」
空いた椅子に替わって座り、おいで、と手で招いた。
「乗って」
ビターゼは大きな目をぱちぱちと瞬かせた。意味が分からないか?
ここに、と膝を叩いて見せてもビターゼは動かない。ならば、と後ろからギターごと抱え上げた。流石に片手では結構重い。そのまま膝の上に座らせて、ビターゼの背中越しにネックを掴む。行けそうだ。
戻って来たダッツェから音叉を受け取り、椅子の足で打つ。先の玉をギターのサイド板に押し当てれば、共振して響く440HzのA。耳で覚え、直ぐに放ってネックに左手を回す。ああもう、片腕だと本当にまどろっこしい!
「弾いて、上から二番目」
こう?とビターゼが五弦を弾く。びん、と震えた細いスチールが瞬間指の腹を擦った、その感触に思いの外胸が躍った。高々指一本、頼りないハーモニクス、ただのチューニングだと言うのに。
「ちょっとちがうね」
「分かるか?」
ひとつ合わせれば後は耳だけで十分だ。軽くペグを回し、六弦から一弦まで順に調律して行く。
「弾いてみろ。右手をちょっと丸めて、上から振り下ろして」
「わかった」
二弦一フレ、四弦二フレ、薬指は五弦の三フレ。コードは基本の基本、C。
じゃあん、と派手な音が店に響いた。ボディは小さいがパワーがあるのがマーチンの良い所だ。他所より高いだけはある。
「びっくりした!」
ビターゼが勢いよく振り返った。ほっぺたが真っ赤だ。
「結構でかい音するだろ」
「きれいなおとだったよ、きらきらだ」
その通り、小振りなので高音の抜けが良いのがこの型の特徴だ。さっきのチューニングと言い、ビターゼは中々耳が良いのかもしれない。
「今のがCの音、今度はDだ」
続いてE、F、と何度かストロークを繰り返すと、コツを掴んだのか、鳴る音がどんどん大きく華やいで来た。時折指が引っ掛かるのはご愛嬌だ。
「これで、かのじょはたいようを、できる?」
「『サリー』か?」
「あたしも聴きたいね、出来るのかい?」
穏やかな笑みで様子を見守っていたダッツェも話に乗って来た。
「やれなくはないが……、何でそんなにあれが好きなんだ?」
ビターゼとダッツェはここでしょっちゅう『サリー』を流していた。確かにメロディは美しいとは思うが、あんな悲しい曲ではなく、もっと明るい曲だって世の中には沢山あると言うのに。何だって暗い部屋にひとりで眠る女の歌なんて。
「……もっと幸せな歌も出来るぞ」
「あたしはあれが良いんだよ」
「ぼくもあれがいいんだよ」
こら真似するな、とダッツェがビターゼの真っ赤な頬をぐりぐりと撫でると、ビターゼはきゃあ、と実を捩って笑う。ああもうじっとしてくれ、せっかくのマーチンを落として傷物にしたくない。
「分かったよ。頭はカットするぞ。ビターゼ、さっきみたいに弾いてみろ」
この速さで、とギターのボディを叩く。BPMは130くらいだったはずだ。
コードを抑える。鳴らすのはA。『サリー』の最初のコードだ。1、2、3、息を吸う。
……しまった歌詞はうろ覚えだ。
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