第四話 『死の匂い』

 「ふぅ、誰にも見られてないか?」

 「ええ、大丈夫。やっぱり裏通りって人気は全然無かったわね」

 「そうなるように道を選んだんだからな。貴族街に近づくだけでお尋ね者の俺達にとって危険なんだ、最低限人目は忍んでいかないとな」


 人目を忍び、小声で二人は会話する。


 時刻は夕方、場所に貴族街を囲む石壁の目の前。

 二人が宿屋を飛び出してから二時間後だ。

 飛び出してのが昼過ぎとはいえ、こんなにも時間が掛かったのはしょうがない。

 魔族を奪還しようとした勇者時代の凶夜の前例があった為、吸血鬼が囚われている貴族街付近は警備が厳重になっていた。

 その為、顔が割れているであろう二人は目的地に近づくにつれて動きが制限されていきこれ程までに時間が掛かってしまったのだ。


 「それで、やっぱりやる訳? あれ」

 「ご丁寧にこの壁もツルッツルだからな。やるしか無いだろ」

 「じ、じゃあ私から行くわね?」

 「そんな急ぐなって。上に居る見張りの様子を伺わないとだな」

 「そういってまた私を蹴り飛ばすんでしょ!? 嫌だ、嫌だわ……」


 エイラは地面に突き刺さった時のことを思い出したのか、全身を震わせている。

 恐怖、もあるのだろうがエイラの場合羞恥心からの震えだろう。

 どちらにしても、しばらく残るような傷が心に残ったのは明白なようだ。

 そんな状態のエイラを見て、凶夜は申し訳なさそうに言った。


 「昨日は悪かったって。今度は蹴らないから安心しろよ。俺が先にいって通路確保したら合図送るから、それでいいだろ?」

 「ま、まあ。それなら」


 凶夜の提案にエイラは震えを止まらせ肯定の意を伝える。


 「時間が惜しい、貴族街に入ったらすぐに一番目に向かうぞ」

 「わかったわ!」


 手短にエイラにそれだけ言い残すと凶夜は少し脚を縮め、直後跳躍した。

 壁の高さは外壁と比べると低いが、それでも個人が乗り越えることが出来るような高さではない。

 だが、凶夜の軽い跳躍はそれを軽々と越した。凶夜の跳躍を始めて目にしたエイラすら余りの軽さに呆れた程のジャンプ力だった。


 壁に飛び上がった方の凶夜というと、


 「ふっ!」

 「ぐふっ……」


 ……バタンッ


 「これでよしっと」


 上に陣取っていた兵士の鳩尾に加減した拳をめり込ませ手早く無力化させていた。

 一定感覚ごとに兵士は配置されているようだが、如何せんその感覚は広い。

 まさに警備はザルだ。上からの侵入はやはり想定外なのだろう。

 これなら何処かに支えて立たせておけばしばら時間を稼げそうだな、そう考えた凶夜は兵士の持っていた槍を壁に突き刺しそれに同じく兵士のベルトでくくりつけて立たせた。

 そのカモフラージュに満足したのか、すぐに下で待っているエイラに合図を送った。


 「たぁっ!」


 思いっきり飛んで壁にギリギリ足を乗せたエイラ。

 だが、着地の際に制動しきれず衝撃を諸に受けた壁の淵、エイラの暫定的な足場は崩れた。


 「っ!」

 「危なっ!」


 思い切り体勢を崩したエイラの伸ばす手を凶夜は驚異的な反射神経で引っ張り、エイラは間一髪壁の上に留まることに成功する。


 「っギリギリセーフ! 大丈夫かエイラ?」

 「え、ええ。どうにか怪我せずに済んだわ。ありがとう」


 素直にお礼を言うエイラの顔は、若干青い。驚異的な身体能力を得たのはつい最近のこと、当然一般人同然だったエイラは高い場所から落ちかけるような経験はしたことがなく恐怖を感じていたのだ。

 足元を見れば震えている。これではとても凶夜の走行速度に付いては来れないだろう。

 それについては凶夜も助けた瞬間から気づいていた。

 だが、ここで休憩していれば確実に計画は潰れる。

 かといって仲間であるエイラをこの場に置き去りにするのはリスクが大きすぎる。

 悩む凶夜は、瞬時に苦肉の策を弄した。


 「……ほら」

 「……え?」


 エイラの目の前にあるのは屈んだ凶夜の背中。

 それが肩車を意味することはエイラにもすぐに理解出来た。

 そして理解すると同時に、恥じた。

 背中に背負われるなど、まるでお荷物。

 お前は荷物だ、そういう意味を凶夜は考えておらず単なる効率重視であることは分かっているが、それでもそんな考えがエイラの思考を掠めた。


 「だ、大丈夫! 私は一人で行ける!」

 「嘘つくな。足が震えてるじゃないか。そんな状態じゃ俺の速度にはついてこれないだろう。時間が惜しいって言ったろ」

 「………ごめんなさい。わかったわ」


 エイラの精一杯の強がりも凶夜の正論の前には形を為さない。

 なすがままに凶夜に背負われたエイラ。


 『本当に、私って情けないわね……』


 未だに落下の恐怖に震える脚を見つめながら、凶夜の背中でエイラはそんなことを考え続けていた。




 「ほら、着いたぞ。もう歩けるか?」

 「ええ、脚の震えは止まったわ。大丈夫よ」

 「そうか」


 数分後、エイラは凶夜の背中から下ろされた。

 背中に塞がれていた視界を前に向けると、そこには大きな屋敷が建っていた。

 辺りは既に暗くなり始め、赤みがかった空には月がぼんやりと浮かんでいた。


 「ここに入るの?」

 「ああ。吸血鬼は月の光を得て強くなる。既に月が出ているから十中八九地下だな」


 吸血鬼という種族特性から監禁場所を凶夜は予測する。

 時間は少なくなったが、監禁部屋を絞れるのは大きい。

 だからこそ、凶夜は急ぎながらも焦ってはいなかった。


 「ここまで入り込めば目的地はすぐそこだ。一気に潜入するぞ」

 「ええ」


 凶夜が窓の鍵をいじくると、すぐにガチャッと音を立てて開いた。

 その様子に目を丸くするエイラに凶夜は説明した。


 「長い間逃げ隠れすると、こういう技術は自然と身に付いちまうんだよ」


 説明になっているか分からない説明だったが、エイラはそれで納得し今度こそ二人は最初の屋敷に潜入した。





 「ハハハハハハァッ!!」

 「ねぇ! 莫迦なの!? あんた頭がおかしいんじゃない!?」


 無事潜入を果たした二人は現在、部屋の壁をぶち破りながら全力疾走していた。

 正確には壁をぶち破っているのは凶夜だけだが。

 それでも大きな物音がなるのは変わらない。

 すぐにでも屋敷の住人やらが駆けつけてくることを危惧したエイラは凶夜を怒鳴った。


 「こんな派手にしたら潜入した意味が無いでしょうが!」

 「潜入した意味が無くなったから派手にやってんだろ! 速度重視ってやつだ! ヒャッハーッ!」


 それに対する凶夜の反応は実に簡単なものだった。


 「潜入の意味が無くなった? それってどういうこと?」

 「さっき窓から潜入した時、周辺一帯の連絡機を使い物にならなくさせといたから安全なんだよ! こんだけ広い敷地ん中でど真ん中に建ってる屋敷だ俺らの起こす音なんて周りには聞こえねぇしなっ!」


 依然として壁をぶち破りながらエイラに説明をする凶夜。

 全身で壁をぶち壊しながら真面目に説明する様はシュールそのものであったが説明内容は納得にいくものであった。


 時は遡り、屋敷に潜入した直後。


 「よっと」

 「よいしょ、っと」


 屋敷に潜入した二人は廊下を見渡す。

 貴族の屋敷ということもあり、中はとんでもなく広い。

 この廊下など横に六人並んでもまだ余裕そうだ。

 その大きさにエイラが圧倒されていると。


 「お、あったあった」


 廊下に備え付けてあった通話機、凶夜はそれを見つけるとニヤッと笑った。

 その笑いにゾゾゾっと嫌な予感を覚えたエイラは、堪らず問いかける。


 「い、いきなり笑ってどうしたのよ。その通話機がどうかした?」

 「エイラ、通話機の仕組みってどうなってるのか知ってるか?」


 話の見えない唐突な質問に戸惑いながらも、エイラは答えた。


 「そりゃ一般常識なんだから知ってるわよ。魔力を通しやすいミスリル製の線を詰めたケーブルを張り巡らして、通話口から話す音を魔力に変換してから伝えたい相手の通話口に届けて、出す時にまた音に変換され直すんでしょ?」

 「そうそう。でもミスリルってある程度過剰な魔力が流れると使い物にならなくなるんだよな。………俺ってさ、魔力適正は無いんだけど魔力の量だけは、並外れて高いんだよな」


 そう言いながら凶夜は通話機の側にしゃがみこみ、他の通話機に繋がっているであろうケーブルに浅い切れ込みを入れた。

 丁度、中のミスリル線が露出するような浅さだ。


 「凶夜、あんたまさか……」


 それを見て、これから凶夜が行おうとしている行動の予想が出来たエイラは顔を青くした。

 ミスリルに過剰な魔力を流し込み使い物にならなくさせる、その後に起きるを知っているが故に。

 そして彼女がだった故に。


 「ホントに止めて! せめて私が離れるまで―――」

 「はあぁぁああ!!」

 「いぃぃやぁあぁぁ!!」


 エイラの嘆願空しく凶夜によって通話機のケーブル、そこに付けられた浅い傷から露出するミスリル線に魔力が流し込まれる。

 膨大な魔力の流れにより生じた光が廊下を照らす中、エイラはその場から一目散に逃げ出した。


 「バカバカっ! 何で私も居るのにあんなことをしでかすのよ! ホンット頭おかしいんじゃないの!? でも、流石にここまで離れれば………」


 墜天使というエイラにとって不本意極まりない種族の圧倒的な身体能力をフルに発揮させながら廊下を全力疾走、突き当たりまで退避し安心するエイラ。

 だが、


 「ハハハッ!! 残念だったな! エイラ、お前が思っている以上に範囲は広いぞ!」

 「え! それってどういう―――」


 テンションのおかしな凶夜の大きな声にエイラが疑問を持ち、それを形にする直前それは起こった。


 バリバリバリバリッ!!!


 「ひぎゃあぁぁぁ!!」


 魔力性の膨大な電撃が屋敷を包み込んだ。

 一瞬の出来事ではあったがエイラ、勿論凶夜の全身を強力な電流が貫いたことは確かであり、


 ドサッ


 廊下に倒れたエイラからプシュ~、と聞こえそうなほど上がる煙からダメージを受けたことも確かだった。


 「ほら、起きろ」

 「んえ?」


 もっとも、凶夜の軽い蹴りで簡単に目を覚ますくらいなのだからダメージそのものは深刻なものでも無いようではあったが。

 だから本当に特筆すべきは二人の全身から煙が上がっていることなどではなく、頭部だろう。

 つまりは髪の毛であろう。


 「凶夜、あんたねぇ! ………は?」


 感情のままに凶夜を怒鳴ろうと思ったエイラは立ち上がり見た。そして凶夜の頭部に目が釘付けになる。


 「そんなに驚くようなことでも無いだろ。だって、ほら、なあ?」


 頭部にエイラの視線を受けながらも、逆に凶夜はエイラの頭部に意味深な視線を送った。

 それが表す意味をエイラが感じとった時の表情は、まさに血の気が引いたと表現するような劇的な変化だった。


 「ま、まさか私まで」

 「そのまさかだよ。ほれ」


 ぼすっ、と凶夜が手を置いたエイラの頭部から、髪の毛からそんな奇妙な音が聞こえた。

 到底、普段のエイラの髪型ならば聞こえるはすがない音。

 その髪型一つでファンキーを体現出来るような、アニメでは爆発シーンならびに感電シーンでお馴染みな、あの髪型。


 「くくっ……アフロ、似合ってんじゃん」


 二人の髪型はもう、それはそれは立派な円形のアフロだった。


 「似合わせるなっ! どうしてなのよ!?」


 エイラのその『どうして』には実に色々な意味が混ざっていた。本来なら凶夜も説明すべきなのだろうが、しかし今は時間が無いのも事実。だから凶夜は説明することにした。


 「ショートカット」


 ただ一言、口早にそれだけ言うと凶夜は近くの壁に向かって走りぶち抜いた。

 その次も、その次も、凶夜は壁をぶち破り凶夜の雑過ぎる説明に呆気を取られていたエイラは慌ててそれを追いかけた。


 そして現在に至る。


 「確かにこの髪型だって変装としてはいい出来だし、あの電撃によって屋敷の人も無力化されているだろうけど、何で凶夜はそんなにハイテンションなのよ」

 「ご丁寧に解説ご苦労さんっ! 色々溜まっててタガが外れたんだよ! こちとら貴族には悪い記憶しかないんでな、ついでに屋敷を無茶苦茶にしてやろうと思うくらいには恨みが溜まってんだよ!」


 ハハハハッ、と高らかに哄笑をあげながら屋敷を爆走し、意図した通りに屋敷を無茶苦茶にしながら凶夜一行は目的の場所へとたどり着いた。

 あくまで屋敷内での、という意味でだが。


 「お、これが地下へ続く階段じゃないか?」

 「そう、みたいね。取り敢えず誰から入るか決め───」

 「ほいっ」

 「えっ」


 地下へと伸びる階段を覗き込み、中へ誰が入るかと提案しようとしたエイラは、しかしその提案は結局されなかった───する必要が無くなった。

 何故なら、凶夜がエイラを階段へと蹴り入れたからである。

 段差に当たる鈍い音と、その度にエイラの口から漏れる低い悲鳴が転がり落ちていくと共に小さくなっていった。

 その様子をじっくり見てから、凶夜は一言。


 「うん、まあ大丈夫だろ」


 まさしく鬼畜の所業である。

 まあしかし、凶夜は屋敷の構造、そして資金面と吸血鬼を奴隷化してからの時間を考えて階段の長さは余り長くは作られてはいないだろうこと。

 デフォルトで地下室がある家なんて貴族の家でもそうそう無い。だからこそ規模はある程度予測可能。

 罠が備え付けられている可能性もあるが、国の後ろ楯があるとはいえ二十人分の吸血鬼拘束道具とその拘束施設の武装化は容易なことではない。

 ましてや捕らえられてから半年経ってすらいないのだ。用意など出来ているはずもない。

 それでも用意するとしたら、優先度が高いのはまず間違えなく前者、拘束道具だ。

 加えて人間をやめた、文字通り種族を変え身体能力が人外なエイラならば死ぬことなどそうそうないだろう。

 そういう計算の元に行った所業なのでエイラの安全は保証されていたようなもの。

 だが、そんな凶夜の脳内だけで展開された理論など一切存ぜずのエイラにとってはやはり鬼畜以外の何物でも無いだろう。

 というか、女性を階段から突き落とすって倫理的にどうなの? と疑問を感じずにはいられない問題ではある。


 「ほいほいっと」


 まあ、そんな問題、それも過ぎてしまった問題など凶夜が、突き落とした張本人が気にするはずもない。

 たとえ自らがそれを招いたとしても過ぎてしまった、起きてしまったことはしょうがない。

 そう割りきれることこそが凶夜の間違いなく強い点ではあるのだが、それも状況によっては一長一短だ。

 例えば人殺しなど、倫理観が問われる時には簡単に割り切ることが出来る。

 それは元勇者、また現魔王である凶夜にとって───戦いの場に出ることが多い凶夜にとって無くてはならない、逆にいえば無ければ成立しないほどの重要なファクターだ。

 だが、それは過ぎてしまったことを反省しないということでもあった。

 過ぎてしまったことは割り切り、一切を振り替えることをしない。

 だから、何度も同じ失敗をする可能性がある。

 それは『完璧』と『完璧主義者』の違いでもあり───凶夜と敵の違いでもあった。

 そのことで、彼は痛い目に見るのだがそれはまだ先のこと。

 地下への階段を悠々と下る凶夜はそんなことは知るよしもなかった。


 「おーい。エイラ、大丈夫かー?」

 「ふっざけんじゃないわよ!! 早く降りて来なさい! ぶん殴ってあげるわ!!」


 下から聞こえてきた声に凶夜は胸を撫で降ろした。

 自らが招き安全はある程度保証されていたとはいえ、万が一これでエイラが死んでしまっていたら凶夜にとって新たなトラウマだ。

 それに現状駒を失うのは痛い。勿論、駒というのは例えであり駒の中には凶夜自身も入っていた。

 仲間、というものに裏切られた彼にとっては現在唯一といっても過言ではない味方であるエイラを、だから『仲間』とは言いたく無かったのだろう。

 ………仲間が嫌でも『駒』はどうなの? という思いはよぎるのだが。

 それでも、例え殴られるのだとしても無事なエイラを確認出来たことは凶夜にとって嬉しい出来事だった。

 ………危険を招いた、どころか蹴り込んだのは間違いなく凶夜なのだが、そんなことは彼お得意の『割り切り』で既にバッサリと切られていた。意識の彼方へと、切り捨てられていた。

 切り捨てていたが、殴られることはしょうがないことは流石に凶夜も理解していた。

 それも踏まえて、駒の無事を確かめたくて階段を下る速度は増していたのだから、彼も大した度胸の持ち主だ。


 そして階段を下りきり、


 「よっ! エイラ、無事で何よふぐぅ!!」


 凶夜の顔面に鉄拳がめり込んだ。

 いや、本当に、比喩なしにめり込んだのだ。

 ミシミシミシッ!、と嫌な音さえ響いたような気がするほど、豪快なコークスクリューブローだった。

 それを受けた凶夜は派手にぶっ飛ぶ、であればまだマシであっただろう。

 だが実際はそれよりも悲惨、悲惨にして凄惨、顔が見えなくなってしまった。正確にはのである。

 ピクピクと痙攣する凶夜の姿は酷く痛々しい。


 「ふっ、ざまぁ見なさい」


 そんな凶夜の様子をエイラは満足したように鼻で笑ったのだった。




 「痛っててて………。おい、エイラ。明らかにオーバーだろ。マジで死ぬかと思ったぞ」

 「殺す気で殴ったんだから当然でしょ。そうでもしないと凶夜は反省しないだろうし、それにオーバーっていっても私の感じた恐怖に比べたらむしろ足りないくらいよ。暗闇の中、何も出来ないまま硬い地面にぶつかりながら転がるのよ、その怖さがあんたに分かるかしら!?」

 「…………」


 今までに無いほどエイラはキレている様子、そして先程の力を体感した凶夜としてはそれ以上は何も言えなかった。

 いや、そんな理由よりも、恐怖を思い出して訴える故に、その恐怖故に瞳孔が開いていたエイラの姿に単純に凶夜はビビったのだった。

 元勇者であり現魔王すらビビらせる、元々美人顔なエイラなど欠片も無い凄まじい形相であった。


 「で、この先に囚われの吸血鬼が居るのよね。援軍とかの心配は?」


 だがそんな形相が長く続けていられるはずもなく、普通の、普段通りの顔にエイラは戻った。

 それはどうせ凶夜は答えないだろうとも、答えても「分からない」としか言わないだろうと、第一こんなことでは凶夜は反省しないであろうと思ったが故の諦めだったのだが、もしかしたらこれが凶夜を改心させる数少ない機会だった、それに成り得る瞬間だったことを既に諦めてしまった彼女は知らない。

 知ることが出来ないのだった。

 エイラを蹴り入れたことに対して少なからず凶夜は反省していることに、彼女は気づけないのだった。

 そんなエイラの諦めは露知らず、想像すらも出来ずに、ただ凶夜はエイラの表情が普通に戻ったことに安堵を覚え、質問に答えた。


 「それは心配無いだろう。連絡機を壊した時に生じた電撃は俺達、人間を辞めた存在だからこそ問題なく動ける程に強いものだ。屋敷の人間は死んではいないが、少なくともしばらくは身動きすら出来ないはずだ」

 「そう。じゃあさっさとここの吸血鬼を連れだしちゃいましょ。この場所、何だか空気が悪いわ」


 空気が悪い。


 その表現は、この場所の空気を表すのには少し控えめな表現であった。

 長らく教会に幽閉されていたエイラは知らないだろうが、反対に長らく戦場に身を置いてきた凶夜はこの空気を知っていた───知りすぎる程に、知っていた。

 鉄臭く生臭い、血の香り。

 血で濡れて、錆びた鉄の香り。

 何かが腐ったような、鼻を刺すえた匂い。

 それらが混じり合い、ここで死んだ者達の怨念があたかも影響しているように異常に重く、肌を突き刺すように冷たい空気。

 それらを総じて、凶夜は『死の匂い』と呼んでいた。


 「こんな所に閉じ込められちゃ戦意も潰えるだろうよ。いつでも出られる俺でさえ、幾多の修羅場を潜り抜けてきた俺でさえ長居は避けたいんだからな。早く救いだしてやろう」

 「ええ、そうね」


 二人はぼんやりと、途切れ途切れに明かりが付けられた通路を走って行く。

 不用意に立ち止まったら危ない、そう本能が警鐘を鳴らし続けていたから。

 何かの、誰かの、沢山の視線を二人は感じていたから。

 だからこそ、何かに急かされるかのように薄暗い通路を二人はひたすらに疾走した。

 この重く暗い空気から逃れるように。

 何かが、誰かが、後ろから迫ってくる錯覚から逃れられるように。


 そして二人は通路を抜け、大部屋へと辿り着く。

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