第4話 トニー・ゲルマー

 警備会社『アストロナイズ・セキュリティ』は、その名が示す通りアストロナイズ社傘下の企業である事に間違いは無い。……と同時に、数あるグループ企業の中でも謎の多い会社として、好事家達の口の端に上る存在でもある。

 同社は、顧客が持つ固定資産(家屋、店舗等)の管理・警備を行う『警備業務』に加え、探偵のような『調査業務』も請け負っている。『他者の秘密を調べる仕事』というのは、確かに大層魅力的である。退屈な自分の人生に飽きている詮索好きな人間なら、尚更の事であろう。


 実は、『アストロナイズ・セキュリティ』は、公にされていない業務――公共の安全を確保する『公安業務』も請け負っているのだが、その事実を知る者は、アストロナイズ市広しと言えど数える程しかいない。


 ――『アストロナイズ・セキュリティ』 公共安全部・公安課

 アストロナイズ市内某所にある同課の事務所。オルダー・バナードは時間通りに出勤すると、所属する課員全員の席が見渡せる課長席の前に立った。そこには、昨日の合同葬儀で言葉を交わした銀縁眼鏡の男――レコン・クローラ課長が座っている。随分と早い時間から出勤していたのか、始業時刻前だと言うのに既にかなりの量の書類を裁き終えているようだった。

 クローラ課長は腕時計をチラリと見て、ボソボソを喋った。

 「時間通りだな。よろしい……そろそろ、朝礼を始めよう」


 クローラ課長が椅子を引いてゆっくり立ち上がると、あちこちの席に座っていた課員達は何も言われずとも課長の周囲に集まって来た。全員が揃ったのを確認すると、クローラ課長は朝の訓示を始めた。

 「諸君、おはよう。まずは……我々の新しい仲間を紹介する。オルダー・バナード君だ。彼は調査部・調査4課の所属だったが、私が直々にスカウトして公安課に来てもらった。正式な辞令は4月になるが、みんな仲良くやってくれ」

 居並ぶ面子のうち黒人の課員が、小さな口笛を吹いて驚きを露わにする。

 「ヒュ~! 課長直々とは、そりゃ凄ぇや」


 クローラ課長は珍しく頬を緩めた後、再び表情を硬くした。上司の表情の変化を読み取って、課員達の顔も一瞬で引き締まる。

 「さて……ここからは仕事の話だ。資源採掘船ハンマーヘッド爆発事故に関して、事故調査委員会が組織される事になった。今の所、熱核ロケットエンジン用の水素燃料タンクがにより爆発した可能性があると報じられている。だが、公安課としては『公共の安全に対する脅威』という角度から調査を進める方針だ」

 クローラ課長が言葉を切ったタイミングで、のオルダーが質問した。

 「公共の安全に対する脅威……というのは、具体的に言うと何ですか?」

 「そうだな、例えば……第三者による攻撃活動等だな。まぁ、これはあくまで、そんな物がの話だ。もちろん、先入観に囚われるの良くないが、その可能性について常に頭の隅に置いて欲しい」

 続けて、白衣姿の科学者然とした女性課員が挙手する。

 「……で、私達は当面何をすれば良いんですか?」

 クローラ課長は、軽く腕組みをして答える。

 「事故現場の様子を撮影した『写真』が、既に送信されて来ている。まずは、写真解析から始めてくれ。何か手掛かりになる物が、写っているかもしれない」

 「わかりました。早速、取りかかります」

 白衣の女性課員は、面白そうな仕事をゲットして軽くニヤついている。

 クローラ課長は、他の課員達に目を配るような仕草で話をまとめた。

 「現場で回収された残骸が届くのは、恐らく1ヶ月程先になる。それまでは、マスコミの報道内容も監視してくれ。我々が掴んでいない情報で、報道内容に変化が表れるかもしれない。……私からは以上だ」


 クローラ課長が両手をパンと軽く叩くと、課員達は自分に課せられた任務に散って行った。だが、その場にポツンと残されたオルダーの様子を見て、クローラ課長は『うっかりしていた』という表情で自分の右手で自分の頭を軽く叩いた。

 「オルダー、君の机を決めてなかったな」

 クローラ課長は手の空いてそうな課員を1人手招きし、オルダーの席とパソコンを用意するように指示を出す。命令された課員は大きく頷き、部屋の外へ出掛けて行った。恐らく、物品倉庫へでもパソコンを取りに行ったのだろう。

 「君の座席と機材は、今日中に用意しておく。それまでは、空いてる席に適当に座っていてくれ。……もっとも、呑気に席に座ってる気なんて無いんだろう?」

 クローラ課長は何でも御見通しだった。

 オルダーは、昨日撮影した『トニー・ゲルマー』の写真と『バイクの登録記録』をクローラ課長に手渡した。

 「この男は、トニー・ゲルマー。アストロナイズ市内で『ゲルマー修理工場』という小さな店舗を経営しています。先日、彼が組立てたバイクを偶然見かけたのですが、個人で作ったにしてはあまりに完成度が高過ぎました。恐らく、彼には何かあると思います」

 クローラ課長は、『トニー・ゲルマー』の写真を凝視する。

 「なるほど、それで興味を持って調べた訳か。で、この男を疑う根拠は何だ?」

 「根拠は……、ありません」

 「全く呆れた男だな」

 クローラ課長は少し笑いながら自分の手帳に何かを書き込むと、書き込んだページを破ってオルダーに手渡した。

 「この男を訪ねてみろ。ヒントくらい分かるかもしれん」

 渡された手帳のページには、『ブロッカ・ニトラス』という名前と連絡先が記されていた。

 「このブロッカ・ニトラスって、誰ですか?」

 クローラ課長は自分の席に戻り、書類の処理を始めながら言った。

 「古い知り合いだ。……私が公安課に入った頃からのな」

 

 早速、オルダーは『ブロッカ・ニトラス』なる人物と連絡を取った。最初は接触する事を渋っていたが、クローラ課長の紹介であると分かった途端に相手の態度は急変。宇宙港のレストランで、正午に会う事となった。


 ――月面・アストロナイズ宇宙港 旅客路線ポート

 アストロナイズ社傘下の宇宙旅客船会社『アストロナイズ・スターライン』のロゴマークが鮮やかに描かれた旅客船が見事なタッチダウンを決めた。到着ロビー棟からアコーディオン式の連絡チューブが伸び、旅客船の船体に接続される。強固な隔壁シャッターが開くと、約2時間の船旅を満喫した観光客達が流れ込んできた。月の低重力に不慣れな何とも奇妙な歩き方は、月面にやってきた者全てが体感する一種の通過儀礼の様な物だ。


 地球から訪月する観光客は年間約50万人。そのうち約30万人もの人間を、アストロナイズ市だけで受け入れるという。こうした観光客が落とす金は、言うまでも無く同市の重要な観光収入となる。観光客が最初に金を使うと場所言えば、宇宙港の敷地内にある様々な飲食店テナントであろう。いずれも趣向を凝らした店造りであり、少しでも多くの客に足を運んでもらおうとする経営者の涙ぐましい努力が具現化された物とも言えた。オルダーはこの様な場所を見て歩く度に、自分には絶対に向かない世界だと痛感するのだった。


 その中でも一際目を引く高級レストランがあった。入口の柱には過剰なまでの曲線的装飾技巧が施されており、大してヨーロッパ文化に詳しくないオルダーのような男にも、これがあの有名な『バロック式装飾』という奴なのだな……と言わせしめる妙な迫力と説得力、そして凡人には理解し難いセンスが同居していた。看板に記された店名を確認すると、正しく『ブロッカ・ニトラス』に指定された店であった。


 入口のガラスドアを開けて入店したオルダーは、入り口付近に待機していたウェイターに用件を伝える。予め話が通っていたらしく、彼はオルダーを『ブロッカ・ニトラス』の席に案内した。去り際にメニューを置いて行ったが、オルダーはランチメニューの金額が財布の中身より一桁違うのを確認しただけで閉じてしまった。そしてゆっくりと、テーブルの向かい側に座る『ブロッカ・ニトラス』に視線を移す。

 初対面の人間と面識を持つ場合、人は身体的特徴をまず記憶しようとする。それは、『背の高さや体格』だったり『顔形の美醜』等だったりする訳だが、目の前にいる『ブロッカ・ニトラス』の場合、身体的特徴は右目に着けた黒の眼帯と上唇の上に鎮座するチョビ髭であった。テレビのコント番組から抜け出て来たような風体に、オルダーは大笑いしそうになったが……周りのテーブルから伝わる僅かな殺気を感じ、テーブルの下で自分の太ももをつねって必死に堪えつつ話を始めた。


 「ニトラスさん。初めまして、お電話したオルダー・バナードです」


 だが、オルダーの挨拶がまるで聞こえないかのように、眼帯の男――ブロッカは、本日のランチである『真牡蠣のフライ』を口に運んで堪能していた。数秒の沈黙の後、オルダーはこのテーブルのルールを理解した。――ブロッカの食事が終わるまで、笑わずに待たなければいけないというルールを。

 3月は真牡蠣が産卵期に向けて栄養を蓄える時期であり、上質でクリーミーな牡蠣の味わいに魅せられた人は大勢いる事だろう。……まさに旬である。タルタルソースをたっぷり塗られたカリカリの衣が、次々とブロッカの口内に放り込まれて行くのを見せつけられた後、彼が丁寧に口元をナプキンで拭き取った所で地獄のようなランチタイムは終了した。


 「お待たせしました。ブロッカ・ニトラスです。……クローラさんとは御無沙汰してますが、元気にしてますか」

 拍子抜けするほど丁寧な言葉遣いと甲高いブロッカの声に、オルダーの笑いのツボが反応仕掛けたが、太ももをつねる力をアップして何とか乗り切る。

 「ええ、まぁ……、ニトラスさんとは古いお知り合いだと聞きましたが……」

 「お互い若い頃は色々ありましたからねぇ。……で、御用件は何でしょうか」


 仕事の話になってしまえば、こっちの物である。オルダーは『トニー・ゲルマー』の写真と『バイクの登録記録』を取り出し、掻い摘んで事の次第を説明した。

 「ニトラスさん、何か心当たりとかありますか?」

 すると、ブロッカは『トニー・ゲルマー』の写真に顔を近付け、右目の眼帯を捲った――眼帯の下には、確かに正真正銘の肉眼が存在していた。


 オルダーは思わず、『右目、あるのかよ!』と突っ込みを入れそうになったが、太腿をさらに強くつねって耐えた。

 「トニー・ゲルマー、この名前……確かに知っていますよ」

 「知ってるって……、どういう関係なんですか?」

 その質問に答えようとした直前、ブロッカは大きなくしゃみを1つした。だがその勢いで、上唇の直上に鎮座していたチョビ髭が吹き飛び、オルダーの目の前に軟着陸した。……『付け髭かよ!』と心の中で叫ぶが、崖っぷちで踏みとどまる。

 「あ、失礼。トニー・ゲルマーは、私がある男性に売った名前ですよ。そうですね……もう7~8年程前になりますかね。彼の本名は確か……」

 なかなか名前を思い出せないブロッカ。そこへ、すぐ隣のテーブルに控えていた側近らしきスマートな男性が近寄り、耳打ちして助け船を出した。

 「ああ、思い出しました。ヴィクトル・チンです」

 「ヴィクトル・チン……ですか。貴重な情報を有難うございます……」


 だが、オルダーの忍耐もここまでが限界だった。『ヴィクトル・チン』という名前の響きに圧倒され、ついに爆笑してしまった。笑いたい時に思いっきり笑うのは、実に気持ちが良い。……だが、次の瞬間、笑ってしまった事を後悔した。周りの席からスーツ姿の男達が一斉に立ち上がり、オルダーに拳銃を突き付けていた。

 「やめろ、ハジキをしまえ」

 ブロッカ・ニトラスは今までとは丸で違うドスの利いた低音の声で部下共を制した。部下達は、自分のホルスターに拳銃を収め、元の様に席についた。

 「関心しました。私の座興にここまで笑わなかったのは、あなたで2人目です」

 「……それは、どうも。ちなみに、1人目は誰ですか?」

 「レコン・クローラ。あなたの上司ですよ。彼は全く笑いませんでしたが」

 オルダーはクローラ課長の顔を思い浮かべながら、確かに笑わなそうだなぁ……と密かに考えた。なるほど、『古い知り合い』だとか『色々あった』というのはこういう事だったのか。だが、オルダーは軽く頭を振って、話を本題に戻す。

 「ニトラスさん。先ほど、あなたは名前を売ったと言ってましたね。それが本当なら、戸籍の偽造・改編は立派な犯罪ですよ?」

 ブロッカは、恐らく今まで何百万回とこの話を言われてきたのだろう。驚くほど、冷静な態度でオルダーの問い掛けに応じた。

 「私はあなたが質問してきた事に素直に答え、問題解決に向けて手を差し伸べたまでです。つまり、あなたが持つ需要を満たしてあげた訳ですよ」


 ブロッカはテーブルから身を乗り出して、オルダーに問いかける。

 「オルダーさん。あなたにとって正義って何ですか?」


 オルダーは、すっかりブロッカのペースに飲まれていた。ブロッカは、さらに言葉を続ける。

 「私にとって正義の基準とは、需要があるかどうかです」

 「需要……ですか」

 「8年前、知人を通じて知り合った『ヴィクトル・チン』は、詳しい事情は知りませんが、とにかく偽名を欲しがっていました。そこで私は孤独死した人間の死体を手に入れ、『ヴィクトル・チン』が死亡したように工作しました」

 「つまり、本来のトニー・ゲルマーは、とっくに死亡していると……」

 「その通りです。私は今でも、これは正義と確信しています。なぜなら、そこには、『ヴィクトル・チン』という需要があったからです」

 

 オルダーの頭の中で、今まで持っていた倫理観がミキサーで砕かれていく。

 「誰かの需要を満たすという事は、誰かの窮地を救うという事です。その窮地を救う方法が、もし犯罪以外に無いなら……法を守って見捨てるのが正義ですか? 答えが出たら、いつでも逮捕していただいて結構です。お待ちしております」


 それだけ言い残すと、ブロッカとその一味は高級レストランから出て行った。オルダーは、しばらく後に呆けた頭のまま……公安課の事務所に戻ってきた。午前中とは違うオルダーの顔付を見て、何かを察したクローラ課長が話し掛ける。


 「その顔は、ブロッカの奴に一本取られたって感じだな。私も昔、ブロッカの奴に同じ質問をされてな。勿論、その場で答えなんか出せなかったがね」

 「……で、課長は答えを見つけられたんですか?」

 「恥ずかしい話だが、今でも答えは見つけられない。……もしかしたら、一生答えは見つからないのかもしれない。まぁ、奴は何かと裏の事情に通じていて、便利だからな。奴を利用するため、無意識に答えを考え無いのかもしれん」


 クローラ課長の言葉で、オルダーはやっと元の自分にリセット出来た気がした。

「それはそうと、課長。『トニー・ゲルマー』の本名が分かりました。この男の本名は『ヴィクトル・チン』。8年前にブロッカ・ニトラスによって、孤独死した人物――つまり、本当の『トニー・ゲルマー』と名前がすり替えられたそうです」


 オルダーからの捜査情報を聞いたクローラ課長は、別の課員に『ヴィクトル・チン』という名の人物について全て調べさせる。その結果、判明した事実とは――


 数日後――

 カレンダーは4月になっていた。ゲル爺は、いつも通り『ゲルマー修理工場』の店先で掃き掃除をしていた。確か、今日はニュートが新しく通う技能訓練校の入学式だったはずだ。こういった人生の節目に親に立ち会ってもらえないのは、やはり寂しいものだな……と、柄にもなく物思いに耽っていた。ゲル爺も仕事があるので代わりに参列してやる事はできないが、せめてニュートの好きな物は食べさせてやろうと思っていた。実は、彼の大好きなパンをこっそり買い置きしておいたのだ。


 そこへ、古めのスポーツバイクが止まった。

 「はい、いらっしゃい。こりゃまた、年季の入ったマシンだな」

 「モーターから音がするんで、ちょっと見てくれますかね」

 「はいはい、では……見させてもらいますよ」


 ゲル爺がバイクの傍にしゃがんでチェック作業を始めると、バイクに乗って来た客――オルダー・バナードが彼の背後に回り込み、彼の耳元にささやいた。


 「どうです? 直りそうですかね ヴィクトル・チンさん」

 その名前を聞いたゲル爺……ヴィクトル・チンは、握っていたドライバーを思わず落としてしまった。震えながら振り返ると、オルダー・バナードが『アストロナイズ・セキュリティ』の社員証の入ったパスケースを見せながら言った。

 「公安課の者です。 何の件か、分かりますね?」


 ゲル爺は観念して全てを話した。

 「確かに仰る通り、儂の本名はヴィクトル・チンです。アストロナイズ・モータースで主任設計技師をしておりました」


 オルダーは合いの手を入れず、ゲル爺の好きなように話させている。彼は、遠い目をして、思い出に浸っているようだった。


 天才的なオートバイ設計技師だったヴィクトル・チンは、優れた才能を持つがゆえに多忙を極める存在でもあった。彼は単に新型車の設計だけをするのではなく、実際に試作車輛の組立にも進んで関わったのである。見よう見真似だった溶接・塗装の腕前も、ベテランの熟練工すら一目置く程のテクニックを身に付ける様になっていた。

 だが、次第に家族と過ごす時間が削られていった結果、たまの家族サービスにと予約していた日帰り旅行に同行出来なかった。仕方なく、妻と子供だけを短距離クルーザー船に乗せて見送った。――それが最期になるとも知らずに。


 「あとはお決まりのパターンです。妻と子供を乗せたクルーザー船は、月面の短距離周遊航海の途中で事故に遭いました。遺体なんか残っちゃいませんよ。それからは、何をやっても面白くなくてねぇ。……酒も一生分くらい飲んだかな」


 荒れた生活を送っていたヴィクトルだったが、新たな転機が訪れる。

 地球政府軍の関係者と名乗る人間が、接触を図って来たのである。

 バイクを作る事しか能の無いヴィクトルだったが、半ばヤケになっていた事もあり、提示された報酬の額に目が眩んで移籍した。――アストロナイズ社内の極秘技術文書を手にしたまま。


 「それから数年は、地球の衛星軌道にある開発工廠で無我夢中で働きました。でもね……何か違うんですよ。いくら仕事しても、が全然埋まらないんです」


 ゲル爺は膝をついて、自分の胸の辺りをギュッと掴んだ。

 自分が造りたいものは、もっとカッコ良く、誰もが風を感じられるような……そういう乗り物なのだ。乗ってハンドルを操作する事にステータスさえ感じられる、そういう物を作りたいのだ。


 ヴィクトルの勤務態度が悪化した事を理由に、地球政府軍は彼を放逐した。

 彼らにしてみれば、技術知識が軍用としては陳腐な物だった事もあり、追い出すタイミングを見計らっていたのだろう。行き場を失ったヴィクトルは月に帰るしか無かったが、今更どんな面下げて帰れると言うのだ。


 事情はどうあれ、アストロナイズ社はもとより同胞である宇宙居住者アストロナント達を裏切ったのだ。……許してくれるはずも無いだろう。


 「そこで、トニー・ゲルマーとして生まれ変わったんですね」

 「はい。その後は、この修理工場を立ち上げて……ご覧の通りです。でも、良く考えてみれば、こんな生活が長続きする訳がないんです。正直な話、この数年間……いつ捕まるのか気が気じゃ無かった。いい加減、潮時なのかもしれません」


 ゲル爺は両手首を揃え、オルダーの前に差し出した。


 「、私はこの店のバイト店員ニュート・カーバイン君とも面識がありましてね。まぁ、知り合ったのは偶然なんですが。彼は10歳の時に父親を亡くしていて……ともすれば、若いうちに道を踏み外す可能性もあった。でも、そうならずに、まっすぐに成長してる。……なぜですかね?」


 オルダーの言葉に、ゲル爺はハッとした。

 「あなたは、ニュート君に自分の子供の姿を投影してたんじゃないですか? ニュート君が、あなたの背中に父親の影を追っていたようにね」


 フルフェイスのヘルメットを被ったオルダーは、ポンコツのバイクに跨り、モーターを始動させた。そこへ、鋭いモーター音と共に最新鋭のバイクが滑り込んできた。ニュートが、技能訓練校の入学式から帰ってきたのである。


 オルダーはゲル爺の耳元に近寄り、一言だけ囁く。

 「ニュート君を、これからも頼みます」


 オルダーのバイクが走り去った後、ゲル爺は流れる涙を首にかけたタオルで誤魔化した。ヘルメットを脱いだニュートが、ゲル爺の背後から声を掛ける。


 「ゲル爺、腹減ったぁ。なんか食う物無い?」

 「帰ってきて、いきなりそれか! まず、ただいまが先だろ」

 「ゲル爺、ただいま!」

 「よしよし、ちょっと2階に来い。良いモンを用意しておいた」

 ゲル爺は、ニュートの手を引いて2階に連れて行く。

 大好物のパンを目の前にして、歓喜するニュートの声。

 『ゲルマー修理工場』の看板は、いつもより少し輝いて見えた……。

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