不器用の出会い

相田 渚

不器用の出会い

 もう5年目なんだからしっかりしてくれよ。


 4月から2ヶ月間、豊は溜め息まじりに何度も上司からそう言われてきた。その度に、失敗ばかりしているわけじゃないという言葉を飲み込み、ひたすら謝罪に徹した。

 そのやりとりを思い出したからだろうか。

 最寄りの町田駅に到着しても座席から腰が上がらない。

 全身の力が背もたれに吸い取られているようだと感じているうちに、ついにドアが閉まり電車が進んでしまった。


 始業時間には間に合わないな。


 ぼんやりとドアを眺めていたが、町田から5駅ほど離れてようやくその考えに至った。不思議と焦燥感は湧かず、ゆっくりとポケットから取り出した携帯の電源を落とす。


 小田急線の終点は小田原駅か。そこで市内ぶらぶらするかな。


 のどかな外の景色をしばらく眺めながら計画を練っていると、電車が止まりアナウンスが流れた。


「秦野駅、秦野駅。この電車は停止信号により数分間秦野駅で待ち合わせます」


 新宿から町田の往復のみの日々を過ごす豊にとって、聞いたこともない駅名で電車が止まってしまった。

 このまま待てば数分後に電車は出発し、やがて小田原駅に着くだろう。しかしこれも何かの縁だと直感した豊は、軽い足取りで電車から降りた。


                 ◇◆◇◆


 日帰りなら今日は晴れてますし、弘法山公園から吾妻山へ登るのがおすすめですね。ちょうど紫陽花が見頃ですよ。 


 駅の案内所で教えてもらった言葉を頼りに、弘法山公園へ足を運んだ豊は、入り口の看板を見て立ち尽くした。

 公園という言葉から代々木公園のようなイメージを抱いていたが、浅間山、権現山、弘法山の3つの山をひっくるめて弘法山公園と呼んでいるというのである。


 まぁ、時間はあるしゆっくり行くか。


 のんびりとした気持ちでしばらく歩き続けると、ほどなくして浅間山を通り過ぎ尾根道にさしかかった。


「うわぁ、紫陽花でいっぱいだ」


 紫陽花といえば鎌倉。

そんな固定観念が覆される立派な花道である。

緑の葉に囲まれるようにして青、白、紫といったしっとりとした色の花が咲き誇り、鮮やかな道を作りあげている。

 豊の口から、意味もない感動の声が自然と漏れる。 

 

「4月の桜のトンネルも素敵だったけれど、紫陽花の花道も綺麗ね。ほら、小さいお花が可愛らしいわ」

「そうだな。去年も見事だったが、今年もよく咲いている。7月はヤマユリを見に来よう」

「その次は紅葉ね。楽しみだわ」


 立ち止まっていると、後ろから老夫婦が会話に花を咲かせながらゆっくりと豊を追い越した。

 聞こえてきた会話につられ視線を少し上に向けると、確かに道の両脇に太い木がずらりと並んでいる。彼らの言うとおり桜の季節は壮大なピンク色のトンネルができそうだ。

 

 桜もいいな。

 ここ数年はお花見と称して居酒屋で飲み会をするだけだったもんな。


 独り言ちて、豊は紫陽花を愛でた。


                 ◇◆◇◆


 紫陽花を堪能した豊が次に向かったのは、吾妻山だ。

 6月とはいえ、頂上に向かう途中の300段の階段を登りきると流石に汗が噴き出してくる。ジャケットを脱いで、更に木々に囲まれた坂道を一歩一歩進んでいくと、広大な芝生が目の前に広がった。

 両腕を伸ばし大きく息を吸い込むと、植物の青々とした匂いがすっと体中に行き渡る。


「ん~きもちいい~」


 スーツだろうともはや躊躇せず、豊は手足をめいいっぱい広げ芝生にごろんと寝転がった。

 目を閉じてじっとしていると、色んな音が聞こえてくる。


 そよそよと時折肌を撫でる風。

 耳をくすぐる鳥の鳴き声。

 ガラガラと遠くで響いているローラーの音。ここには滑り台があるんだったか。

 お母さん、富士山だよ。向こうで相模湾も見えるのよ。

 お腹すいたあ。お弁当食べようか。 


 見知らぬ人の話し声に、豊のお腹もぐうと空腹を告げる。

 ぱちりと目を開けて体を起こした豊は、駅前で購入したおにぎりを鞄から取り出し、ばくばくと口に運ぶ。ここ最近の食欲がない日々が嘘のように、3つあったおにぎりは一瞬で消えてしまった。

 たくさん歩いたからお腹がすいたのだろうか、と予想しながらお腹を撫でるとくすくすと笑い声が聞こえてきた。

 振り向くと、弘法山公園ですれ違った老夫婦がレジャーシートの上に寄り添うようにして座っていた。


「ごめんなさい。とても美味しそうにおにぎりを食べていたものだから」

「いや、気にしないでください」

「お詫びといっては何だけれど、これをどうぞ。何も飲んでいないようだったから、買い忘れたんじゃないかと思って」

「…お恥ずかしながら実はその通りで、今とても喉が渇いていたんです。お言葉に甘えていただきますね」


 照れ笑いをしながら豊は婦人からペットボトルを受け取り、口に含んだ。清涼感のある水が喉を潤していく。


「お2人は、弘法山公園とか吾妻山によく来るんですか?」

「ええ、毎年四季の折り目に来ているわ。鎌倉や箱根もいいけれど、ここが好きなの」

「弘法山公園の桜はかながわの花の名所100選に入るほど美しいし、吾妻山の富士山も絶景だ。君が飲んでいる水は秦野市内で買った物だが、日本一おいしいと評価されているんだぞ」

「へぇ、すごいんですね。それだけたくさん魅力があるのに、俺今まで全然知らなかったですよ」


 感嘆の声をあげると、婦人がころころと楽しげに笑った。


「きっと伝え方がちょっぴり不器用なのよ」

「不器用…」

「いや、今のままの方が落ち着いて散策できるんだ。そのままでいいさ」

「ふふ、そうね。そうだ、あなたここの展望台に行った?望遠鏡で富士山の頂上が見れるのよ」


 にこにこと勧められるがままに、豊は立ち上がり展望台へ向かい、望遠鏡を覗きこんだ。頭の中では、老夫婦の会話が響いている。


 確かな実績はあるのに、伝え方が不器用。

 でも、その魅力をちゃんと理解してくれている人もいる。


 理解した途端、ストンと豊の体から余計な力が抜けた。

 

 望遠鏡を覗いた先には、富士山の頂上の美しい雪化粧がくっきりと映っている。


 明日はちゃんと町田駅で降りることができそうだ。

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