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2017年12月26日 01:22
コレめちゃんこ好みです。端的に真理に肉薄してる感じがっ。
作者からの返信
睡蓮たしぎ様まずは、このような辺境の地までお越しいただきましたことに、最大限の謝意を。ほんとうにありがとうございます!そんなふうに仰っていただけて、とても嬉しいです。この辺りのお話って、少しでも真面目に考えはじめるとどんどん沼にはまっていくような、そんな印象があるのですよね。決して泥沼というわけではないのですが、たとえばある瞬間に答えだとおもったものが、次の瞬間には別の「答えらしきもの」に信念ごと上書きされてしまう、そんな感覚です。特に個人のアイデンティティとはなにか、それはどういう性質を持っているか、なんてことを思案しはじめると、だんだん自分の足元さえ揺らいでくるような錯覚に陥ったり...考えるのをやめさえすれば「ちゃんとここに自分がいる」と確信できるのに、不思議なものです。本稿(というほど分量はありませんが...)を執筆当時、わたしがどのような心境でこれを書いていたかは、じつはすでに半分霧の中に隠されてしまったようにおもっています。というのは、これが言及しているのが「ずっと深くまで自分を見つめても成り立つ普遍的事柄」なのか、はたまた現世における単なる社会性みたいな枠組みの中についての言及にすぎないのかが、いま読み返すといまいち判然としないからです。とはいえ。仰ってくださったように、わたしもどちらかといえば前者よりの思考で本稿をしたためたのではないか、とおもっていますし、少なくともいまのわたしは、それこそ真理寄りのなにかのような感覚でこの言葉を捉えています(作者自身がそういうのは若干はばかられはしますが...)。まあ社会の中で生きるアイデンティティを語る上での真理、といってしまえば、それはそれできっと奥深いものなのでしょう。定義する、って、その行為自体が難しいですよね。絶対性と相対性という言葉がありますが、絶対性も結局ある種の相対性の上に成り立つ概念だとわたしはおもうのです。「○○と比べてある尺度で××」が相対的定義で「これは□□」が絶対定義だとしても、考えてみればその「□□」を語るためには対立する、あるいはより根元的ななにかが必要となるように。この辺りは言葉の綾みたいな領域に踏み込みかねないので、あまり具体例みたいなものを提示できずわかりにくいのですが...そもそもこんなことを申しているわたし自身、わかっているのかといわれればわかっていないのかもしれません。難しいものです。とまれ、「わたし」は「わたしでないなにか、誰か」がいるから「わたし」たりうるのだとおもいます。もちろん物理的にまったく同じ人間なんて発生しようがないので、人と自分は必然的に差異を持つといってしまえばそれまでなのですが、もっとおおらかな、一般的な感覚に寄り添うレイヤーで自己同一性を規定しようとするなら、やはりそこには他者との対立が介在せざるをえないのでしょう。それは競争とも反発とも違って、もっと純粋に「そこにある差を差としてだけ認める」ような、尊重的な「あなた」や「わたし」の定め方なのかもしれません。
コレめちゃんこ好みです。
端的に真理に肉薄してる感じがっ。
作者からの返信
睡蓮たしぎ様
まずは、このような辺境の地までお越しいただきましたことに、最大限の謝意を。ほんとうにありがとうございます!
そんなふうに仰っていただけて、とても嬉しいです。
この辺りのお話って、少しでも真面目に考えはじめるとどんどん沼にはまっていくような、そんな印象があるのですよね。決して泥沼というわけではないのですが、たとえばある瞬間に答えだとおもったものが、次の瞬間には別の「答えらしきもの」に信念ごと上書きされてしまう、そんな感覚です。特に個人のアイデンティティとはなにか、それはどういう性質を持っているか、なんてことを思案しはじめると、だんだん自分の足元さえ揺らいでくるような錯覚に陥ったり...
考えるのをやめさえすれば「ちゃんとここに自分がいる」と確信できるのに、不思議なものです。
本稿(というほど分量はありませんが...)を執筆当時、わたしがどのような心境でこれを書いていたかは、じつはすでに半分霧の中に隠されてしまったようにおもっています。というのは、これが言及しているのが「ずっと深くまで自分を見つめても成り立つ普遍的事柄」なのか、はたまた現世における単なる社会性みたいな枠組みの中についての言及にすぎないのかが、いま読み返すといまいち判然としないからです。
とはいえ。
仰ってくださったように、わたしもどちらかといえば前者よりの思考で本稿をしたためたのではないか、とおもっていますし、少なくともいまのわたしは、それこそ真理寄りのなにかのような感覚でこの言葉を捉えています(作者自身がそういうのは若干はばかられはしますが...)。
まあ社会の中で生きるアイデンティティを語る上での真理、といってしまえば、それはそれできっと奥深いものなのでしょう。
定義する、って、その行為自体が難しいですよね。絶対性と相対性という言葉がありますが、絶対性も結局ある種の相対性の上に成り立つ概念だとわたしはおもうのです。「○○と比べてある尺度で××」が相対的定義で「これは□□」が絶対定義だとしても、考えてみればその「□□」を語るためには対立する、あるいはより根元的ななにかが必要となるように。
この辺りは言葉の綾みたいな領域に踏み込みかねないので、あまり具体例みたいなものを提示できずわかりにくいのですが...そもそもこんなことを申しているわたし自身、わかっているのかといわれればわかっていないのかもしれません。難しいものです。
とまれ、「わたし」は「わたしでないなにか、誰か」がいるから「わたし」たりうるのだとおもいます。もちろん物理的にまったく同じ人間なんて発生しようがないので、人と自分は必然的に差異を持つといってしまえばそれまでなのですが、もっとおおらかな、一般的な感覚に寄り添うレイヤーで自己同一性を規定しようとするなら、やはりそこには他者との対立が介在せざるをえないのでしょう。
それは競争とも反発とも違って、もっと純粋に「そこにある差を差としてだけ認める」ような、尊重的な「あなた」や「わたし」の定め方なのかもしれません。