-3sone 不文律


 セルラのアラームが鳴るより早く、ドア越しに声が届いた。

「そろそろ起きてくれないか」

 十並となみマコトは開きかけた目を閉じて脱力する。

「ごめん無理。黒い毛布から出られない」

 清高きよたかは「好きにして」と素っ気なく言ったきりこちらを構わなくなった。

 もっと根気強く起こしてほしかったけれど、激しい夜を終えて疲れているのかもしれない。

 たとえ自分が死ぬほど二度寝したくても、思い遣りの心は大切にしたい。


 渋々ベッドを離れてリビングへ足を運ぶと、テーブルに朝食の準備ができていた。

 昨夜の余韻を引きずった身体に朝の陽が突き刺さる。

「おはよ。頑張って目覚めた」

「そう。……パンあるから食べれば」

 開店時間を見計らって、近くのベーカリーで買ってきてくれたらしい。サラダとスープはたぶん手作りだ。

「すごいね。ありがと。普段ぎりぎりまで寝てて変な菓子パンしか食べないから感動した」

「別に大したものじゃないだろ」

 本人は否定的だが、誰に見捨てられても生きていけるように自主練を繰り返す清高の映像が、目蓋の裏で切なく揺れる。

「ね、冷蔵庫にディサイダーある? けっこう期待してるんだけど」

「ない。そういうの飲まないから」

 微炭酸の気分は鎮静化させるしかない。

 明るみの中に立つ清高は緑地公園で出会ったときと同じ印象だ。表面上深く悩んでいる風には見えないが、波風に侵食されかけているような危うい表情を崩さない。

 何気なく視線を遣ると、ソファの端に薄いブランケットが畳まれていた。あの後、少し寝たのだろうか。

 ――本人に訊くのはだめだよね……。暗黙のルール黙殺できるほど未知数になるの怖いし。

 気まずさに向き合った結果、やはり昨夜の出来事は忘れようと思った。かせは少ない方がいいに決まっている。

 とにかく、今日と明日のことしか考えないという高潔なポリシーを守らなければ。


 食器をキッチンに返して清高を呼んだ。

 彼はすでに髪を整え、着替えも済ませている。淡いグレーのシャツに黒のカーディガン。目立ちたくないのか、まったく派手さのない引き算コーディネートだ。真面目っぽさをチャームポイントにして、女学園の礼拝堂に忍び込むつもりなのだろう。

 ちなみに文系も理系も式典以外は上半身の服装が自由なので、衣服の選択は本人に委ねられている。だからつい楽しくなって、ポロシャツコレクターになったりしてしまう。

「で、何? 呼ばれたから来たんだけど」

「連絡先トレードしない? 今キャンペーン中だから全部の数字掛け算した答え教えてあげる」

 一瞬断る素振りを見せたが、清高はふと思い当たった顔をして頷いた。

「本当は知られたくなさそうだね」と痛いところを突いてみる。

 彼は睫毛を伏せて視線を隠す。

「いや、別に。自分の番号忘れてた」



 退屈な授業中、気がつくとまた清高のことを考えていた。

 おそらく現在、彼を2%くらいしか知れていない。

 ――恋愛系の好きだったらどうしよ……。いや、それはない。ないよね。人間として好きなのかな。

 情を捨てられず、生きにくそうにしている無口な清高が。

 あのとき、頼んだのが誰であっても部屋に上げたのか。それとも彼なりに何らかの判断基準があったのか。

 窓の外を眺めてみたが、文系クラスの様子は覗けない。

 高等部が使用している、元は大学のキャンパスだった講義室は、ひとりの世界に潜りやすい恰好の催眠ワールドだ。周りの生徒もぼんやりしている。

 清高はきっと今頃、意識を保つのに精一杯だろう。徹夜の身で授業に集中参戦しているとしたら、最早人間ではない。

 間延びした化学を乗り越えられず、再び意識が『W事件』に戻った。

 清高の押し殺した嗚咽と、棺に縋りつくような悲しい背中が頭の中でリプレイされていく。

 ――談話室の真上の部屋に割り振られたのも含めて、こうなる運命だった……?

 偶然の出会いが絡み、交わるはずのなかった他者の領域に足を踏み入れてしまった。

 清高と自分が、あの迷路じみた緑地公園で接触する確率はかなり低かったはずだ。

 ざわめく木々にそっくりな胸中を外気に晒していると落ち着かない。なので彼は、人目につかない時間を狙ってペンキを塗りに行っていると仮定する。コードネームは『black painterブラックぺインター』。



 放課後、顔見知りの女子に囲まれて洋菓子クラブへ連行された。

 以前、「プロになれるよ」と褒めた台詞が彼女たちのハートに響いたらしく、バニラの香り漂う花園に迎えられるようになった。

『ねぇ、十並くんも一緒に来て』と腕を引かれるとオファーを断れない。

 ――やっぱ彼女は作らないに限るね。みんなから好かれた方がモチベーション上がるし。


 口の裏に残る甘さを舐めながら、少し回り道をして食料を調達する。

 上を見ると、橙色の空に青みがかった紫の帯が流れていた。

 自分の寮へ一度戻り、清高の部屋を訪ねる。

 追い返されるリバウンドエンドも覚悟していたが、間もなくドアが開いた。

「今日、来ないかと思った」嫌そうに眉を寄せながらも、仕方なく受け入れるといった仕草で細く息を吐く。清高はもう制服を着ていなかった。

「遅くなってごめん。迷子じゃないよ」

 リビングで手土産を渡す。

「食べものとか適当に買ってきた。泊めてくれたお礼のつもり」

「そんな気遣わなくていいのに」

「あとね、これあげようと思って」

 私室のクロゼットで眠っていたパーカを差し出す。

「気分で黒いの選んじゃったんだよね。裏地、クラウディなチェックでかわいいよ」

 しばらく押し黙っていたが微かに気に入ったようで、彼はその場で袖を通した。

 笑顔の欠けた「ありがとう」の言葉。

「貰ってくれてよかった」

 首から下だけを見ると、酷い風邪にやられてひと回り痩せた自分が着ているみたいだ。

 でも全体を捉えると、真っ直ぐに梳いた髪と黒の濃度が一致していて、清高のために生まれてきた服のように思える。

「実はそれのオレンジ持ってるんだよね。刺されたときダメージ受けちゃってリペアに出してるけどそのうち返ってくるはず。僕たちの関係は秘密にしながら色違いで学食ランチしよ」


 食材を手早く仕舞い、清高が扉へ向かう。

 夜に進む後ろ姿。なめらかな白い首。

 ふと緑地公園での場面を回想する。あのときも彼は同じ系統の装いだった。

「どこか行くの?」

 想定内の質問だ、というように足を止め、清高はこちらを振り返った。

「俺は深夜まで戻らない。この部屋は好きに使ってくれ。その代わり……」

「何?」

「急な在室確認があったら対応してほしい」

「外出は内緒ってことね! OK。それだけでいいの?」

 彼は肩の荷が下りたように緩く頷いて歩き始めた。

「清高。カケイキヨタカ。……待って。今、懐かしいこと思い出した。小さい頃ずっと仲間探してたのにどうして忘れてたんだろ。……僕たちふたりとも最初と最後同じだよね。名前」

 一瞬間を置いて「ああ」と興味の欠片もなさそうな反応。

「名前の中に不変的な何かを感じない? 生き方の方針っぽいものとか。それに出発と到着がになってるみたいで安心感あるじゃん」

「俺は違うところに辿り着きたいけど」

 本人の言う通り、近い未来に短い書き置きを残してどこか遠くへ行ってしまいそうだ。

 清高の、前髪に隠れた瞳が動揺しているのを見て、こちらも不安になる。

「今日は顔にケガしないようにね」

 頬と目の間。彼の治りかけた傷と同じ場所を指差して笑う。

 ここまで来たら、充実不足の毎日から脱出を図るつもりで、臨場型のスリルに身を任せるしかない。清高が必要だ。


 ひとりになってから、ふと冷蔵庫を開けてみた。

 微炭酸のクールなディサイダーが6本。

 持ち込んだのは2本なので、他は清高が用意しておいてくれたものらしい。

 自分は清高の目的、あるいは計画の一部に利用されるために迎え入れられたのか。それとも彼の、大人びたやさしさに救われてここにいるのか。

 考えるだけ無駄だけれど、考えずにはいられない。

 清高は、摑まえようと手を伸ばすほど離れていく波間のボートに似ている。

 ――訳ありっぽい他人に甘えた僕が悪いのか。

 けれど彼に拒絶されているようには感じない。

 しかし彼が心を開いてくれているようにも感じない。

 キャップを開け、冷たいスパークに口をつける。

 ――つまり、こういう距離感が人を惑わせるんだね。



                                -3 sone end.

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