-4sone 無力
――俺は何がしたいんだ……。
なぜ緑地公園で
真昼の陽は高く、眩しさと熱で眩暈がする。
もう、いつものベンチでしか眠れない。授業の合間の短い休息。
俯けた視界の端で、きらきらと光る線が舞っている。
新体操部らしい女子が芝生を駆け、ホースの水をリボンに見立てて踊っていた。
軽やかな足取りで近づいてくる。
ターンが激しい。
あ、と思ったときには遅かったようで、身を庇う隙もなく多量の水を浴びていた。
・
訪ねた保健室は静かだった。
細く窓が開いていて、包帯と同じ色のカーテンが揺れている。
過去に何度か言葉を交わした保健医見習いの
ふたりきりだと意識しながら扉を閉め、声を出さずに立ち尽くす。
いつもそうだ。ひたすらに沈黙し、気づいてくれるまで待ち続ける。
拒絶される予感がしたら自分から出て行くし、やさしく迎えて貰えたら胸の裡で安堵する。
やがて莉保が顔を上げ、こちらを向いた。
「筧くん」と目を丸くする。「どうぞ、入って」
彼女はつまらない男子生徒の来訪を喜んでくれているようだ。暇すぎて辛かったのかもしれない。
莉保の、肩より少し上で切り揃えた髪。平均くらいの身丈に重ねると、男物を着たみたいに白衣が若干大きく感じる。化粧が薄く、子どものような肌をしていて、その瑞々しさを尊いと思った。
駆け寄って来た彼女に腕を引かれ、無個性な円い椅子に座らされる。
「どうしたの?」
「濡れました」
「見ればわかる」莉保は楽しそうだ。「それにちょっと透けてる」
出来心で胸元に『automaton』などとタトゥーを入れたりしなくてよかった。機械のくせに、理数ではなく文系のクラスに登場するという設定も謎だ。
借りたタオルで水気を拭っていると、彼女がドライヤーで参戦してきた。
「残念だけど、乾かすの難しそうね。……筧くんさえよければ、私の白衣、着てみる? 毎日洗ってるから汚くはないはず」
親切なのか、遊ばれているのか判断できない。
「ロッカーにジャージが」
「使わないのに? 真面目なのね」
いろいろと知られていて、隠す必要もなかった。
当時、最高に顔色が悪かったせいか、走ったら死ぬと言ったのを教員が信じてくれたので、体育の授業中は無人の図書室で課題を片づけている。足りない時間は作るしかない。
「ジャージ取ってきてあげる。私がいない間に誰か来たらお願いね」
・
着替えを受け取り、導かれるままベッドの側へ移動した。
前髪から滴り落ちた雫が、頬の真ん中を通ってシャツの襟元に吸い込まれていく。
「筧くん隔離してみた」
レールに沿ってカーテンを引いた莉保が悪戯っぽく笑う。感染者扱いだ。
水気が移らないよう毛布を敷き、硬いベッドに腰を下ろした。
身体が重い。
予想外のアクシデントに見舞われ、眠気と疲労で意識が遠くなってきた。
「私に拭かせて」
莉保が小さな子にするように、真正面からタオルで頭を包む。そして小刻みに左右の手を動かし始めた。
「真っ直ぐできれいな髪ね。普段どうしてるの?」
「自然乾燥です」
ふうん、と彼女は感心した様子で後頭部まで視線を巡らせる。
こちらは至近距離で目が合わないように自分の手元を見つめるしかない。
油断していると、莉保は予告なしでシャツのボタンに指を這わせてきた。
「あの、大丈夫です。俺が」
「手伝ってあげる。遠慮しなくていいから」
シャツのフロントラインを、桜色の爪が器用に下りていく。
断りきれずに息を止め、気恥ずかしさが通り過ぎるのを待った。
途中、彼女はカーディガンの存在を忘れていたことに軽いショックを受けたらしく、「こっちが先だったか」と苦戦気味に
最後のボタンが陥落したのを見届け、替えのTシャツに手を伸ばした刹那、莉保がもう濡れていない目の下にそっとタオルを寄せてきた。
「泣いてもいいのよ」
「えっ」
日頃の暗さが原因なのか、いじめに遭っていると思われたらしい。
「……それは」
事実とは違うけれど否定できない。傷ついているふりをするべきだと悟った。
彼女が自分の中に、失った誰かを探している気がしたからだ。
「慣れてるので別に何も……。このままでいいんです。戦うつもりはありません」
莉保は悪い未来を想像しているようで、複雑な瞳をこちらに向けて言った。
「辛かったらいつでもここに来て。私、助けられるように頑張るから」
貰ったレタスサンドを仕方なく口に運んでいると、吐き気に似た罪悪感に襲われる。
食べるという行為は生きる意志とイコールなのか。
受け入れるつもりはないが、今はまだ死ぬわけにはいかない。
被害者の左脚を捜し出さなければ。
――奴らは、このシティの中でしか犯行に及ばない。
切断部位の遺棄現場を押さえ、必ずこの手で逃走不可能な窮地に追い詰める。
時間はあるのか。それともないのか。黒い焦りに操られている。
不意に莉保が言った。
「このあいだ、協力してくれてありがとう。貧血で倒れた生徒の役、あなたにやってほしかったから」
礼を言われるほどのことでもなく、指示通り床に俯せていただけだ。
「そういうのは俺より演劇部の人の方が」
「そんなことない。……またしてくれる?」
隣に座った莉保に腕を回され、薄い布越しに体温が浸みてくる。曖昧な36℃ではなく、痛みを伴う冷たい熱だ。泣きたいのに泣けないとき、身体の中で生まれる暗く凍りかけたエネルギー。認めたくはないが、自分もきっと同じものを抱えている。
だから黙っていようと思った。無駄に動かず、感情を無効化し、彼女の気が済むまで立ち上がらない。
さりげなく命を繋ぎ止めようとしてくれた莉保へのささやかな返礼。
「やめろって怒らないの?」こちらの右肩に顔を伏せたまま、莉保が涙声で呟く。「……怒れないんでしょ。突き放されて傷ついてる私を見ると自分を責めたくなるから。……でもそういう人、人間らしくて私は好き。内緒で死んじゃったりするけど」
本当はここで、求められても応じることはできないと伝えるべきだ。
生き延びるつもりのない自分に深入りすれば、莉保は未来でまた孤独に打ちのめされる。
――だけど俺には助けられない。
・
寮の最上階。
通路の奥に、十並マコトがいた。
帰宅部同士僅かな差で、彼の方が先に着いたようだ。壁に緩く凭れてテキストらしきものを開いている。
よく見るとマコトは、都会の光と夢を集めたようで綺麗だった。
けれどどこか未完成。
自分とはすべてがまるで違っている。
何度も同じ部屋で話をし、平和に傾く柔軟さを持てたとしても、彼のようには生きられない。
そして、あの人懐こさに感化される予定もない。
立ち止まっていると、マコトがこちらに気づいて笑顔を見せる。
「清っ高っ。暇だったから早く来てみた。……元気ないね。レアっぽいジャージ姿だし。具合悪そうだけど平気?」
ふと、莉保がマコトを好きになればいいのにと思った。
「何でもないんだ。気にしないでくれ」
「清高もう帰って来ないんじゃないかって実は心配してたんだよね。寂しくて全然集中できなかった」
彼は口の端を上げ、手にしていた本を胸の位置に掲げる。
「ごめん」
「冗談だったのに。そんな謝らないでよ」
マコトの出所不明なアクティブについていけず、身体から力が抜けていくのを感じた。
それでも心のどこかで、マコトがあの夜、たくさんいるはずの友人でも女子でもなく自分を頼ってきた理由を見つけようとしている。
本心の奥底で、誰かに必要とされたがっているのだろうか。
そうだとしたら精神回路をクリーニングに出したい。
考えているうちに、身体に貼りついていた現実の包囲が緩み始める。
限界だ。
望んでも人間は、機械のようにはなれない。
解錠の手を休め、ドアに額を押し当てながら目を閉じた。
叶うなら記憶を棄て、悪いことの起こらない世界に今すぐ逃げ込みたい。
「清高?」
不安げに揺さぶられ、自分がうっすらと笑っていることに気がついた。
この日常に未練はない。
『W事件』の本当の始まりを知っているのは自分だけだ。
――ここで終わりにはできない。関わった時点で俺の敗けだ。
-4sone end.
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