-2sone 不鮮明


「子犬拾ったみたいな感じで大丈夫だからね」

 十並となみマコトは、目についた水性ペンで頬にヒゲを描いた。

「どうでもいいけど……。何か食べる?」

 素っ気ないランプの灯り。隠れ家のような仄暗い室内。

 上着をソファの背に掛け、清高きよたかはキッチンで手を洗い始めた。ダークネイビーの世界の中で、捲った袖から見える白い手首が作りもののようだ。

「ありがたくいただきます!」

 キッチンから放られてきた濡れタオルで顔を拭う。偽の子犬は跡形もなく消滅した。

「角部屋いいね。最上階とか。魔法使っちゃった?」

 文系と理系の寮は別の建物だ。こちらの方が森側にあるので静けさのレベルが違う。

 ――隣も下もうるさくない。ミラクル!

 予測した通り、清高の部屋はモノトーンですっきりと纏められていて、派手な色の服を着た自分が異物のようだ。

「適当に座ってて」

 彼は小さな明かりしか点けずに、キッチンで鍋の中身をかき混ぜている。


 窓越しに景観を楽しんでいる最中さなか、カップを置く音に呼ばれてカーテンの裏から帰還した。

「気に入らなかったら残して」

「いい匂いするからたぶん大丈夫」

 提供されたマカロニスープが家庭的すぎて泣きそうになる。

 料理上手いね、と褒めたところ、清高は照れた素振りをして短く否定し、それきり黙ってしまった。

 もっと喋ってほしかったので、数秒戻って『人間の食べものじゃないね』に訂正してみるべきか。

 本当はとてもあたたかくて美味しい。

「もしかしてこれ、僕の分しかなかった?」

 バスルームへ向かいかけた背中に訊ねる。

「いや、まだあるけど」

 清高は食べないらしい。無食病予備軍なのか。

 彼の頭から足先までを辿ると、生きることを諦めた人みたいに線の薄い身体があった。



 シャワーを借りた後、リビングのソファで寝ると申し出たが、清高は隣室のベッドを使ってくれと言う。

「えっ。まさか、一緒に……?」

 彼は唖然とした顔でこちらを見た。

「そうじゃなくて俺寝ないから。いろいろやることあって」

 侵入を許さない言い方だ。余計なクエッションを口にしたら絶対に追い出される。

「わかった。僕はノイローゼが悪くならないようにもう寝ます」

「そうして」

 彼はほんの微かに唇の端を上げる。退廃的な遠い笑顔だ。

 頑なに馴れ合いを拒むタイプが新鮮で珍しく、些細な仕草にも興味を引かれる。

「無理に上がり込んでごめん。今さらだけど、迷惑だったら遠慮しないで言っていいよ」

 たとえ嫌がっていても、清高は本心を口にしないはずだ。否定的な返事をすると罪悪感に支配される自罰的な回路を取り込んでしまっている。

「……いや、別に。泊めるって言ったの俺だし」

 やっぱ帰る、と立ち上がったら引き止められそうなムードだ。

 うるさい部屋に戻るつもりは全然ないけれど。

「あのさ、ファッション誌ある?」

「ない」

「コミックは? できれば真面目な恋愛系で女の子かわいいやつ」

「ない。……小説だったらあるかも」

 趣味がすれ違ってしまった。次から必要なものは持参しなければ。

「そっか。ありがとね。おやすみ」

 冷たいドアノブに手を掛け、少しだけ振り返る。

 濡れた髪をそのままにして、清高がソファで文庫本を開いていた。

 何を読んでいるのだろう。

 パジャマ代わりに着ているらしい黒のカットソーがよく似合っていて、物語と同化しようとしている姿が閉鎖的で綺麗だと思った。

 この瞬間、彼の世界から自分が切り離されたことを知る。

 壁際へ寄せて無造作に積まれた本のタワー。

 清高の、文学への眼差しが深く研ぎ澄まされていて、追うように読み進めてもきっと、同じ物語を感じることはできない。

 ――本当はもっと早く読みたかったのに僕が寝るって言うまで待っててくれたのかな。

 無表情と無感情を装っているくせに心を捨てきれていない清高は、彩のある日常を遮断して、街灯の消えた夜道へ歩き出そうとしているように見えた。

 何だか心配だ。

 生き方はいつも、その人の自由だけれど。



 まだ起きてはいけない時刻に目が覚めた。

 不気味にも思える静寂。秒針の音すら聴こえない。

 一瞬どこにいるのかわからなくなって、黒い毛布を握り締めた。

 ――……ああ、清高の部屋じゃん。

 初見の感想と被っているが、シンプルなのかシックなのか判断しにくい空間だ。雑貨の類は一切なく、あるのはチャコールグレーのカーテンと、橙色の明かりを灯す気弱な間接照明、ひとりで使うにはオーバーサイズなベッドくらいだ。

 やがて意識が透明になり、貸し出された着替えに袖を通した記憶も戻ってきた。

 ――少し前に初めて喋った男子と完全無欠の双子コーデ……。

 サイズ感は好ましいのに、自分にはまったく似合っていない。

 読書に没頭していたようだが、清高はリビングで寝たのだろうか。

 いなくなっていないか気になって、そっとベッドを離れる。

 ドアノブに手を触れた刹那、扉越しに小さな物音を拾った。

 時間の経過に抗い、命を削って先ほどの本を読み続けているのかもしれない。

 声をかけるのが躊躇われ、僅かに開けたドアの隙間からリビングの様子を窺ってみる。

 ――本人発見。

 清高は角のデスクで分厚い図書を広げていた。机上のPCは液晶が光っているものの、画面のほとんどが彼の背中に隠れてしまって、何が映っているのか判別できない。

 清高は額に手を遣り、妙に悩ましげなシルエットだ。

 ――あ、レポートね。単位貰えないと進級やばいから。

 おそらく、親しい友だちがいなくて誰にも頼れないのだろう。クラスで孤立している姿が安易に想像できる。雰囲気が暗くて話しかけにくいのは確かだ。

 手伝おうか、と口にしかけたところで言葉を呑み込む。

 懺悔のようなポーズのまま肩を震わせ、清高は殺した声に涙を滲ませた。

 湿り気を帯びた髪の輪郭が少しずつ沈んでいき、PCの隣で力尽きたように俯せている。

 恐怖すら覚える光景だ。

 悲鳴を上げる霧が雫になって頬を伝ったような、重く立ち込めた悲しみの余波に心を縫い留められた。


 一体何があったのだろう。

 あの様子は尋常ではない。

 ――誰かに脅迫されてるとか……?

 あるいはよくない物事に巻き込まれたのか。

 息を詰め、画面に目を凝らす。

 液晶に映る『ダブル事件』の文字。

 このシティを襲う猟奇殺人。別名『アルファベット事件』。

 犯人は捕まっておらず、殺しの手口が惨いことから、新たな犠牲者が見つかるたび市街の空気が凍る。

 これまでに殺された3人はすべて女性だ。性別以外に共通点がなかったため、無作為に選ばれたのではないかと推測されている。

 遺棄された死体はどこかが必ず欠損していて、肌に釘のようなもので『W』から始まる文が刻まれていた。頭部がない場合は『Who am I?』、脚が持ち去られた身体には『Where is my leg?』というように。

 ――でも……。

 清高が犯行に関与しているとは思えない。

 しかしなぜだろう。胸がざわついて不安を増幅させる。

 まずいところへ来てしまった。

 身動きせずに立っているのも限界になり、タイミングを計ってベッドへ引き返す。

 カーテンの端をつまみ上げ、夜明け前の空に一秒でも早く朝が来ることを願った。

 夢に見た理想の環境だが、もうここへは来ない方がいいのか。そうすれば清高との接点もなくなる。理系と文系で分かれているので、構内で顔を合わせることも多くはないだろう。

 けれど、清高の死に呑み込まれそうな危うさと、生命感の薄さが胸につかえて仕方がない。もうすぐ失われるものを見ているような気分にさせられる。

 退屈な日常に降り注ぐ氷針のスパイス。

 騒がしい日々を断ち切った影響なのか、新しい歯車が回り始め、流れが急速に変わりつつある。

 たとえ靄っぽいものを抱えることになったとしても、清高の秘密を探るような真似はやめようと思った。フランクな台詞で人の傷を抉るなんてぞっとする。

 それに、シャンプーその他を自然派で揃えるオーガニック卿が、進んで血腥い犯罪に手を染めるだろうか。もし仮に繋がりがあるとしたら、きっと被害者の側だ。

 彼のやさしさに縋ってしまった以上、このまま放ってはおけない。

 見なかったふりをしたら必ず後悔する。その痛ましい予感が確信に変わる。


 泣くなと叱られているかのように嗚咽を押し殺し、清高は途切れがちに息を継いでいた。

 温度の上がらない距離感。親密とはいい難い関係。

 なのに不思議と、隣の部屋にかけい清高という人間が存在している生々しい感触に心を動かされる。

 ――清高が僕を助けたから、今度は僕が清高を救うのか。


 ただひとつ、訊きたいことがあった。

 何度考えてもわからない。時間、場所、服装。すべてが謎だ。

 あのとき清高は、深夜の緑地公園で何をしていたのか。



                                -2 sone end.

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