ノイズ・キャンセラ
satoh ame
-1sone 不健全
下の階がうるさい。
進級に伴う移動で、談話室の真上の部屋を引き当ててしまった。
もう限界だ。
集中できない。
フラストレーションで痛覚までやられたらしい。
インクと混ざり合った血は毒に似ている。
防波堤を突き破って、ついに劇薬が溢れてしまった。
望んでも元には戻れないだろう。
短い戦いだったけれど、ここまで我慢した自分にエールを送りたい。
――発狂せずによく頑張りました……。
高等部2年の新学期が始まってから4日で力尽きた。
今宵は久々のアルコール・イン・ザ・パークだ。
衰弱した心身が回復するまで誰にも邪魔はさせない。
シティ・ユメイの夜は不思議に包まれ、お気に入りの緑地公園は閑散としていた。
ベンチに横たわり、透明な空を眺めていると、自分が綺麗なのか汚れているのかわからなくなる。
――この静けさに乾杯!
先ほど、ペットボトルの中身を犠牲にし、甘酸っぱい缶カクテルを注ぎ込んだ。一見すると、具合が悪くてスポーツ飲料を手にしている感じになる。
指先までアルコールに染まりかけた頃、遠くから砂を踏む靴音が聴こえてきた。
――ポリスじゃありませんように。……学生証置いてきたからいいけどね。
しばらく目を閉じていると、謎の気配が立ち止まった。
観察されているのかもしれない。距離にして約20mか。
――笑ったらやばいよね。
Xは話しかけてくるわけでもなく、少し離れた場所に佇んでいるようだ。
気味が悪くなり、何気ない風を装って薄く目を開ける。
狭い視界の中に、黒っぽい衣服の青年が突っ立っていた。
「……大丈夫?」
彼は無表情のまま、感情の読めない低音で訊ねてきた。
深く斜めに下ろした長い前髪。身長はたぶん1.77m前後で同じくらいだ。
「何度か構内で見かけたことあるから」
だから声をかけたのだと言いたいらしい。
「心配してくれてありがとう。僕は君のこと知らないけど、君は僕のことそれなりに知ってるよね?」
彼は頷いた。「理系クラスの十並さん」
ワーカーみたいな呼ばれ方だ。
「君、1年?」
「2年だけど」
「奇遇だね。僕も。せっかくだからマコトって呼んでよ」
露骨に無理という顔をして彼は歩き出した。後々面倒なことになりそうなアル中を、適切な段階で見捨てるつもりのようだ。
「待って、行かないで」
気づくのが遅れたが、すでに、この世界に自分以外の人類は彼ひとりかもしれない。
「名前! ……は教えなくていいから学生証見せて」
「いや」ごめんと警戒を露わにするX。
「僕さ、人の身分証見ると興奮するんだよね。お願い」
彼はうんざりした足取りでこちらへ来て、ポケットから取り出したカードケースを開く。
雰囲気がダークな割に、内面の強化が不完全で意思の弱い人物と見た。
「えーと、『
「別に。もういいだろ」
「名前の由来は? あるなら教えて」
「丘から海見下ろしてる絵画。作者不明の」
飛び降りる直前に描いたのかも、と本人がシニカルにつけ加えた。
「そうなんだ。怖いけど綺麗だね」
口元を強張らせ、彼は虚ろな白い顔でボトルを一瞥する。
「それ、中身違くないか」
「ばれちゃった? 清高、ミステリアスだし探偵に向いてるかもね。……本当はアルコール苦手なんだ。どうしよう。半分あげようか?」
彼は拒絶的に首を振った。そして核心ともいえる疑問を投げかけてくる。
「何で?」
「何でって何が?」
予感はしていたが、あまり笑わない系統にときどきいる、致命的に言葉が足りないタイプだ。
「ああ、わかった。補足しなくてOK」
直訳すると、なぜ深夜の公園でそのようなことをしているのか理由を言え、だろう。
このシティで物騒な殺しがあったばかりなので、余計に気になったのかもしれない。
「下の階がうるさくて重度のノイローゼになりました。談話室の真上とかありえないよね。……実はちょっとセンシティブで、静かな時間がないと成績維持できない欠陥品なんだ」
「言えよ。騒いでる奴らに」
「無理。そんなのだめ。命より大事な好感度を危険に晒すわけには……」
理解できないといった面持ちで浅く頷き、清高がこちらに背を向けた。肯定しているように見せかけて断ち切るという巧みの技だ。
「えっ、僕のこと置いてくの? 明日の朝には体温20℃以下になってるかも。人集りできてて何かのロケかと思ったらマコトくん死んじゃってました、みたいな」
素っ気なく振り返ったとき、彼の左目の下に細い傷痕が見えた。
涙を亡き者にしたくて真横に
器用に生きられなくて辛そうだ。
――大丈夫、僕もだよ。
清高は視線を外して溜息混じりに言った。
「今夜だけ……。俺の部屋でよければどうぞ」
-1 sone end.
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