雨天静香・百の眼の娘

 一年で、都鳥ひやに基礎を叩き込み、人里から離れた妖魔の領域に足を踏み入れて半年――次第に戦闘の勘を掴みながら、一歩ずつ噛みしめるように足を進め、位階の高い人型の妖魔であってもまったく引けを取らないようになった頃に、どういうわけか、どこからともなく、彼女は姿を見せた。

 かつてと同じ、やや派手とも思える和装を着た、実に小柄な少女を装う――猫目ねこめである。

「こらー! 雨のー!」

 怒声に限りなく近いそれは、周囲の空気を震わせるほど大きく、岩に腰かけていた静香は、その音量に顔をしかめた。

「……うるせェよ猫の。なんだお前ェ、わざわざ俺を捜してこんなとこまで来たのか」

「おみゃあ! なんで宮のがほかの妖魔と契約してるにゃ⁉ これはどういうことだにゃ!」

「あー? ンなこたァ知らん。基礎を教えてからは、おおとりのとこに置いてッたきりだ。なんだの小僧、妖魔と契約したのか」

「契約どころか妖魔混じりになってたにゃ……! あっしがやろうと思ってたのに!」

「俺に怒鳴ったッて現実は変わりやしねェよゥ……」

 だいたい、それを言うのならば、一年以上も音沙汰のなかった猫目が悪い。

真名しんめいの扱いにゃ気を付けろと言っておいたがなァ」

「……波長が合ってたんだにゃ」

 近くまで来た猫目は、肩を落とすように言う。

「元より争いを好まにゃい、鏡娘きょうこって妖魔にゃんだけど」

「ははッ、鏡同士で引き合ったか」

「笑いごとじゃにゃいにゃ!」

「俺にとっちゃァ、あいつの生きざまに口を挟むこたァねェよ」

「くぅ……やしいにゃあ‼」

 右足で、どすどすと地面を踏みつける様子を鼻で笑った静香は、岩から降りる。

「そんな文句を言いに来たのかよゥ」

「そうにゃ!」

「暇だなァ、お前ェさんは……こっちの待ち合わせの相手は、お前ェじゃねェよ」

「――にゃ?」

「ぼけッとしてンなよゥ」

 そうして、すぐに。

 ぽたりと、地面に水滴が落ちたのが始まりとなる。空から降り注ぐ雨は、次第に勢いを増し、躰を大地をと濡らしていく――。

「……本気かにゃ」

「冗談でここまでしねェよゥ」

 肩を揺らすように、笑っている。

 雨天静香がわらっている。

「で、どうする猫の」

「なんの話にゃ?」

「今ここでやるか?」

 薄い、白とも青とも取れる術式紋様が一つ、静香の足元に浮かび上がった。

 ――瞬間、雨音が消える。

「どうすンだよゥ」

「――やめとく、にゃ」

 気圧されたわけではない。だが、直感に従った。

 ――楽しめるか?

 そんな自問自答に、否と、思ったからだ。

 おそらく拮抗した戦いになる。どちらが倒れるかもわからないが、楽しめる余裕は消えるだろうし、一手を突き詰める究極の戦闘に発展しかねない。

 そして、何よりも、その結果として、その結末として――この雨天静香という男は、確実に、完成するだろう。

 少しだけ、それを怖く感じた。

 その判断が良かったのか、悪かったのか。いずれにせよ、これから先にただ一度ですら、本気で猫目が静香と戦闘をすることは、その機会は、この時点で失ってしまった。

「安心しとけ、殺しはしねェよ。しばらく、目は使えなくなっちまうとは思うけどなァ」

「……助言、してきていいかにゃ」

「今から逃げろッてか?」

「そんなこと聞かないにゃ、あの小娘は。ただ、遊びは捨てろって言うくらいはにゃ」

「好きにしろ。――間に合えばなァ」

「義理はにゃいけど、このままじゃ百の眼の小娘があんまりにゃ……」

 来た時よりも速い動きで走り去る妖魔を見送ってから、静香は一人、雨の中、目を瞑る。気持ちを整えているのだろうが、口元には嬉しそうな笑みが浮かんだままだ。

 長かっただろうか、それとも早かったのか。

 早く来いと急かしていた妖魔の楽しそうな声を聴きながら育った静香は、いつしか自分が楽しんでいたことに、気付いていて。

 ずっと、この状況を五体満足で迎えることを望んでいた。

 ――そして。

 望みは、叶った。

「最初の一人かよゥ――」

「……」

 柄のない和装、片目を閉じた男がいる。

 いや、いるのではない、在るのだ。

「お前さん、本体とは繋がってるのか?」

「それを知る必要があるのか」

「名乗りは、一度で済ましてェもんだ」

 ふらりと、揺れるよう先ほどまで座っていた岩の横から前へ。似たような岩があちこちに見当たる、草原のような開けた場所。人里からは離れ、森のように障害物も少ないこの場ならば、力の強い妖魔側にも制限がないはずで。

「雨のること一つ――」

 ああ、ようやく始められる。

「――心のものとなり、他門の派生にあらず。我、天より授けられし雨をうたうたげとなし、枯れを律することながれと呼ばず、ただ全を統べる術として在るべし」

 その言の葉を、己のものとして、相手へと告げ。

「雨天――」

 この戦いのために、真名しんめいを口にする。

「雨天露浬つゆり静香しずかだ」

「なるほど」

 男もまた、その名乗りだけで納得した。

百眼ひゃくがんが一つ、隻眼せきがんだ」

 名前が交わされたのならば、それこそ、戦闘開始の合図である。

 未だ楽しみを、僅かにでも抱く妖魔が、静香の相手は務まらないのだと、一人目で気付いただろうか。

 仮にも天魔第一位、その眼の一つである隻眼は、あろうことか〝人間〟の接敵に気付くことができなかった。

 踏み込みは左足、突き出したのは左の拳。右の拳は脇に添えるようにした半身、いわゆるそれを正拳突きと呼ぶのかもしれない。

 ぴたりと、添えられた左の拳に視線を落とした隻眼は、無防備にも、ゆっくりと顔を上げ。


 ――空気を震撼しんかんさせる轟音と共に、消し飛んだ。


 妖魔には存在を固着させる核がある。それを壊さなければ事実上の死がないため、厄介だとされるが、逆に、核さえ無事ならば殺さずに済むのである。

 故に、その一撃は、圧倒的な暴力の証左。基本四種を混合した破壊のみ――雨粒さえ振動を嫌うようはじけ飛び、恐る恐るまた地面に落ちだす。

 雨に心があったのならば、きっと、何事もなく地面に到着したいと、切実に思ったことだろう。

「……いいねェ、こりゃァ好調だ。ははッ、いいねェ!」

 楽しい。

 だが、その楽しさに呑まれることはない。けれど忘れることもなく抱き、静香は前へ進む。

 今度は、静香が言うべきだ。

「早く来いよゥ」

 今まで言われ続けて、ここにきて立場は逆になる。

「やろうぜ、百の眼。――精根果てるまでなァ」

 証明しよう。

 雨天とは武術家であり、武術家とは雨天であることを。


 それを戦闘と呼ぶべきではないのかもしれない。

 ありきたりな表現になるが、それは一つの災害だ。最初から最後まで、ほかの妖魔の介入がなく、いや、できないほど場が荒れ、それは遠くにいた狐の妖魔にすら届いていたのかもしれない。

 百の眼が姿を見せるまでに六時間、そこから戦闘――闘争、あるいは競争が始まって十時間。

 右の膝を立てるようにして座り込み、そこに右腕を乗せた和装の女は、長い髪を振り払う力もなく、片目だけで老人を見た。閉じられた片目からは、涙のように血が一筋流れている。

「く――ックック」

 老人は、いや、静香は自然体のままでいる。本来ならば見下ろすような恰好になるものの、彼女の方が全体的に大きいため、丁度視線が合うくらいなものだ。

「まさか、ああ――まさか、このわたしが一つ眼になるとはのう」

「満足したかよゥ」

「そうじゃな……かつて夢見た戦いであったというのに、思いのほか、遊べぬものじゃの」

「あっしはそう言ったにゃ」

「俺だってそれほど余裕があるわけじゃねェよ。ただ――最後まで立ってなきゃァ、俺は武術家じゃねェ。俺が座り込んだら、そいつは、俺のしまいだ」

「妾の負けじゃよ」

「そんなのは見りゃわかる」

「じゃから、お主はこの結果を、どうするのじゃ、静」

「……まったく、考えちゃいなかったけどなァ」

「おい」

「お前ェさんが呼ぶからだろうがよゥ――子供みてェに、早く来いッて」

「あのな静、妾がこうなった以上、妖魔たちの統制は取れんぞ。玉藻たまもの馬鹿は、統治なんぞ遊びにしか使わん」

「今の人間じゃ相手はできん、か。そりゃァ――……シュでもかけちまうか」

「どういう意味じゃ」

「猫のと同じだ」

「あっしかい?」

「人間にしちまえばいい。猫のが人里に紛れて生きられるのなら、そういうことだろうがよゥ」

「おい……」

「そんな無茶にゃ」

「――いや、可能だよ」

 差し込まれた声の方を見れば、どういうわけか両肩を大きく上下に揺らし、膝に手を当てた一夜が、笠を右手に持ったまま俯いていた。

「……なにしてんだよゥ」

「静、君は、いささか移動が早すぎるし距離が長すぎる……はあ、疲れた。死にそうだ」

 どさりと、地面に腰を下ろして。

「座った方がいいよ、静。俺から見た君は、今にも倒れそうだ」

「座ったらしばらく立てねェよ」

「猫のがいるから問題ないさ」

「……おい猫の、俺を倒すなら今の内だってよゥ」

「うっさいばーか、座ってればいいにゃ」

 吐息が一つ。ゆっくりと膝を曲げた静香は、一度両手を地面につけてから、それでも落ちるようにして尻をつく。あぐらを作るにも、随分と時間をかけた。

「――ああ、さすがに堪える。雨天ッてのも大変だ」

「それを証明できたのは、一つの成果だろう? 君が望んでいたものだ」

「まァな。あー……で、なんの話だったか」

「妖魔の話だ。〝ここ〟で〝そう〟なるのかと納得する反面、これがようやくなのか、またなのか、俺の判断は複雑化している。だがそれでも、許されているんだろう」

「またお前ェさんは、難しいことを言ってやがる」

「であるのならば、俺はどう口にすべきか困るわけだ。――百眼、俺は久しぶりと言うべきか、それとも初めましてと?」

「どちらも同じことじゃろう。お主のような〝存在〟は、想定しておる。中立とも、調停者とも違う――人であり人でなく、妖魔ではなく、だがやはり人ではなかろう」

「ほう、お前ェも難しいことを言いやがるじゃねェかよゥ」

「お主が考えておらんだけじゃろ」

「まァな。で……ん?」

「妖魔を人間にする、という案だ静。俺はそれを可能だと言った」

「おゥ、じゃァそれで」

「だが条件がある」

 じゃろうなと、百眼は頷くが、静香は頬杖をつくようにして、続きを促した。

「妖魔が妖魔ではなく、人間になれば、それは人間だ。一つの社会が形成されるのに、そう時間はかからないだろう。けれど、妖魔もまた、妖魔として存在は認めなくてはならない。その上で、静――そして百眼。君たち二人が、生き続ける限りはと、そんな条件付けが必要だ。何故ならば、シュをかけるのが君たちだからだ。完全に、とは言わないけれどね」

「妾が、人間と共に生きろ――と?」

「違うぜ。人間じゃねェ、俺とだ」

「何が違う」

「誰に負けたのか、もう忘れちまったのかよゥ」

「……この男、いじわるじゃな」

 どういうわけか、猫目が激しく同意している。

「静は賛成か?」

「賛否は知らねェが、悪くはねェ提案だ」

「ほう、何故じゃ?」

「俺ァ今、立ち上がるのも億劫おっくうなほど疲労していて、お前ェさんは片目しか残っちゃいねェ。互いに背を預けて休んだ方が、楽だろうがよゥ」

「む……」

「いずれにせよ、決めるのは君たちだ」

 だが、どう決めようと〝世界〟は強く介入しないだろうことを、一夜は知っているし、わかっている。

 ここに転機が訪れていることも、疑いようはない。

 簡単に言ってしまえば――雨天静香が、一人で、世界を変えてしまう結果になる。

 本人にその自覚がないのが、救いなのかもしれないが。

「さて、どうする?」

 ――そうして。

 百眼に、百の眼の妖魔に、静香はしばらく考えたあと、千鶴ちづという名を与えた。それを真名とし、共に生きることになる。

 ただそれは、世界を変えた結果だけれど。

 雨天静香が武術家であったと、ただそれだけのことだ。

 そう。

 ただの人間が、己で得た結末である。


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