02/10/17:00――キツネビ・いやな予感

 ぞくり、と背筋に走った悪寒のようなものに身震いしたキツネビは、思わず両腕で躰を包むようにして去るのを待つと、空を見上げて晴天であることと、気温もそれなりに高いことを確認した。

「――どうしたの?」

「あ、うん、ちょっと……悪寒がして」

 なんだろうね、なんて言っていつの間にか止まっていた足を動かす。変なキツネビだなと、やや前を歩いていたリンドウが首を傾げた。

「まさか、昨日のことを引きずってるんじゃないよね?」

「はは、なにを言ってるんだリンドウ、――引きずるに決まってるじゃないか。絶賛落ち込み中だよ、まったく情けない」

「そこまで落ち込むかな。実戦では、徹底して僕を狙えば、そう対処が難しくはないと思うけど」

「対策、してあるだろう?」

「あるけど」

「あっさり肯定されると、更にへこむわね、これ……あ、ごめんリンドウ、ちょっと、甘いもの食べたい。甘いもの。太るとかどうとか関係ないわこれ、駄目だー。昨夜に夢で出てきた師匠の小言が離れないわー」

「……まあ、いいけどね。適当な露店で買って、歩きながら食べようか」

「まだ戻んないの?」

「そりゃあね」

「まあそうだよね」

 尾行されたままベースに戻るなんて下手を打つ真似、できるはずもない。

「ちなみに、こういう時の対応、どうしてたんだい?」

「状況によりけりだけど、僕の場合は大抵撒くよ。しつこい場合は術式使うけど」

「へえ、たとえばどんな」

「認識迷彩系が一番早いかな。コンマ数秒だけ認識をズラすタイプの」

「それ気付かれない?」

「少なくとも、意識と無意識の境界線、その隙間にある〝空白〟が自己把握できてないと、たぶん気付けないと思うけど……」

「こわっ! リンドウそれちょっと怖いって! 境界線は把握してるけど、空白? そんなものまで知らないから! ね? 私にはやめて! ね!」

「……慌てると素が出るのかな?」

「ひうっ!? そ、そんなことないでごじゃりますよ!」

「ううん、パターンがまだ掴めないなあ……まあいいか」

「よくない!」

「はいはい、クロワッサンだって。甘いの。食べるだろう?」

「うん、食べる……じゃないっ!」

 銅貨を支払い、受け取ったクロワッサンは五つ。そのうちの三つをキツネビに渡して、ぐるりと公園を回るルート再び歩き出す。

「あ、ありがと」

「うん」

「そうじゃなくてね」

「はいはい。なに?」

「美味しいんだけど、境界の空白って?」

「あー、そこらへんは僕の課題でもあるから、あまり具体的に言いたくないんだけど」

「そこをどうにかして。べつに解決策まではいらないから」

「それは知ってる。そうだね、……あ、本当に美味しい。手軽でいいね、これ」

「リンドウ、続きつづき」

「うん。境界線……というより、区切りそのものは、いいよね」

「それは私もちゃんとやってるし、把握は前提じゃない」

「その把握にも関わる話なんだけど、じゃあキツネビ、大地と空との境界線はどこにあるんだろう?」

「それは――」

 それは、さすがに即答できない。大地そのものでもあると言えるし、あるいは一定以上の高さが必要とも言える。その基準はあってないようなもので、個人差がそこに含まれ、特定の答え――つまり、正解は。

「――正解はない、かな」

「そうだね、だから僕も課題として研究してる。今のは根底にあって、根源的なものだけど、そもそも境界線と呼ばれるもの――いや、線と呼ばれるものは、どこまでを線として捉えるのかっていう、意識の問題を利用した手段なんだよ」

「ううん……彼我の境界を思い出すなあ。でも、線は線だろう?」

「そう。けれど、太過ぎればそれは〝面〟だ」

「なるほど? つまり、線として捉えられるものには、太くても一定範囲は線として考えられるように、線自体にも〝隙間〟があって、それこそが自己把握そのものの陥穽だっていう考え方ね?」

「そういうことかな」

「あー……」

 その辺りは、たぶん、キツネビがその性質上、受け流している部分だ。

「そういうキツネビは?」

「え、私がなにさ」

「こういう時の対応」

「そりゃ状況によりけりってのは同じだけど、相手の情報を可能な限り引き出してからは、危険性を意識させて終わりって感じかな。場合によっては捕縛から尋問の流れもするけど」

「尋問か」

「なに、興味ある?」

「……僕、やったことないなあと思って。目的の情報を抜くなら自白剤を使えばいいんだろうけど」

「使わないっての。というか、そろそろ動いてみる?」

「うん、探りくらいは入れてもいいんじゃないかな」

「じゃあ、私がやるよ。八秒で対象を目視してくれ」

「わかった」

 くるりと身を翻すようにしてリンドウの正面に立ったキツネビは、クロワッサンの袋を押し付けるような動きをしつつ、口元が笑みに変わる。よく性格が悪いと言われる所以がこれなのだ。

 悪戯をするのは楽しいし、何かに挑むのも楽しい。だからつい、笑ってしまう。

 カウントスタートは始まっており、二秒目で背中を向けて疾走する。ただし移動距離は四歩だけ、姿勢は最大限にまで低くなっており、両手を使って真横へ飛んだ。

 公園にはそれなりに人通りがある。それらの人間の視界を立体的に捉え、先ほど拾った三つの小石を使いながら、死角を作って飛ぶ――跳ぶ。七秒目に足をかけた建造物、音もなく目標位置まで到着に二秒、つまり。

 こちらを振り返ったリンドウに気付いた対象が、尾行に気付かれたかと身動きをするその直前、キツネビはその細い首に裏から左手を当てて握った。

「動くな――」

 やや低い声で言えば、更に激しく動こうとする。それは正解、動くなと言われて停止すれば、その先の道筋は細くなる。だからこそ、キツネビは首を掴んだのだ。

 相手の体幹そのものに触れて、身動きを掌握するために。

 けれど、なかなか抵抗をやめない相手は――。

「ああ、面倒だな」

 そのまま、ひょいと持ち上げ、路地の影に放り投げ、倒れたところで足を喉に当てる。

「二度だ。殺さない私の気持ちを、多少でも汲んでくれると助かるね。やあリンドウ」

「うん、これまだ残ってるよ。僕が食べてもいいの?」

「駄目よ、私が食べる」

「どうぞ」

「あ、人避けした?」

「簡単にね。ところでディーケイ、そんなところで寝転がると、服がだいぶ汚れると思うんだけど」

「私が転がしたの」

「じゃあしょうがないか」

「――お前たちは、何者だ? 何の目的があって、ここへ来た」

「……」

「またリンドウは何か考えてるし。というか、よくこの状況で質問なんてできるね。これは素直に褒め言葉だけど」

「皮肉だよ」

「だろうね」

「ディーケイ、一つだけ聞いておくけど、あなたはマエザキを知っているか?」

「なに……? それは、誰だ」

「嘘かどうかは、まあいいや。じゃあオトガイ商店については?」

「――……知っている。第四層にある、商店だろう。一度入って、追い出されたことがある」

「なるほど」

「リンドウ、何を納得した」

「ははっ、そのくらいは自分で考えなよディーケイ。なあに、第四層に行くこともあるんだなと納得しただけさ。――おっと、余計な真似はしない方がいい」

 首から離した足は、そのままディーケイの右手首を踏んだ。それほど体重は乗せていないが、痛みはあるだろう。大地との板挟みだ。

「君はどうやら甘く見ているだろうけど、リンドウがいなければ、とっくに君の右腕は使い物にならなくなってる」

「……え? 僕はべつに止めないけど」

「じゃ、このまま指くらいは全部折ってやろうか。簡単だ、このまま足に体重をかけて、ねじりながら潰してやればいい」

「……やめて、くれ」

「あの日の夜のことなら、言った通り、君の運がなかっただけだよ。私とリンドウは、知り合いとあそこで会話をしていた。君の視力じゃ、三人目までは見つけられなかっただろうけれどね。君を待っていたわけじゃない――君が、入り込んだ。被り物を取ったのは、私の意地悪さ。ま、そこから先に対して話題にすら上がらなかったけど」

「そういえば、そうだね。どうしてだろう」

「リンドウの理由は?」

「え? 話題にするほどの問題じゃなかったし……」

「低脅威目標だったってことかな」

「どう、だろう。僕は日頃からそういう意識はしないけど、ディーケイは僕と敵対したいのかな」

「――いや」

「うん。だったらそれでいいじゃない、今は」

「簡単だなあ……ま、いいか。もう立ってもいいよディーケイ。尾行の目的は、アールティから何かしらの情報を仕入れてから、かな?」

「ああ、やっぱり、そのあたりなのかな……でも、アールティは侍女服を着てなかった」

「着てたら問題だよ! 私はそんなの見たくもないし、そもそも彼は男で侍女じゃないからな!」

「知ってるけど……なんとなくそう思って」

「リンドウもなんかズレてるっていうか、可愛いところっていうか……」

「何故、私とアールティの関係を?」

「うん? おかしなことを聞くんだね、そんな安直な名付けをしておいて。ディーケイ、あなたの名前については出逢って名乗られた時から既に考えていたよ。アールティの登場は、その背後関係を洗う切欠になってくれたから、助かったと伝えておいて欲しい」

「だからって、私より先に、勝手に調べるってどうなの」

「そんなことは知らない。それに、実地調査はキツネビが先にやったじゃないか」

「あんな簡単に情報が抜けるとは思ってなかったんだよ」

「それは僕もだけど」

「つまり――腑抜けてんじゃねーぞ、ディーケイ。戦闘特化だからって甘えたことぬかすな。だったら、情報統括特化の馬鹿に、間抜けって言っとけ」

 実際に、調べるのは簡単だった。アルファベット読みの孤児たち――拾われて育てられるのに行政が一枚噛み、徹底して得意を伸ばす〝教育〟を行う。そういう施設の存在は基本的に明るみに出てこないが、こういう情報を集めるのは旅人としては鉄則でもある。何しろ――関わって良いのか否かを、見極めるために必要な情報だから。

「でも、行政がかかわっている以上、無自覚じゃいられないよね」

「まあそうね。だからこうやって、――釘を刺してるんじゃないか」

「必要かな、それ」

「必要じゃないの?」

「僕には不要に思えるよ」

 何故ならば。

「だって――僕の目的の邪魔になれば、どうせ排除するんだから」

「まったく……リンドウはもう少し、他人のことを考えてあげるといいよ」

「一応考えてるつもりだけど、おかしいかな。批評するのは苦手なんだ」

「それは知ってる。――っと」

 また、悪寒がした。誰かに見られている気配はない……が、嫌な予感がする。誰か噂でもしているのだろうか。

「……今は、いいか。ともかく忠告だ、ディーケイ。あまり迂闊に嗅ぎまわらない方がいいよ。さっきも示した通り、――私も敵対した相手を生かしておく理由を持たない。この国一つが敵に回ったとしても、ね。だからせいぜい、気を付けてくれよ」

 本当に。

「そういう面倒事は、やっぱり避けたいと思うからね」

 本当に、ああいうのは、誰かに巻き込まれるのであっても、自分でやったとしても、無駄なことをしてしまった――なんて、思えてしまうから。


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