09/21/16:40――伏見こゆき・瓦解
手を出すな――敵対するな、という意味での助言を受け取った私、伏見こゆきは直通ラインの窓を手で触れて消すと、眼鏡を外してから右手で額を押さえるようため息を落とした。
尾行の件をリイディから頼まれた際に、もしかしたら、と思って大外にて一人で暮らしている母に連絡をしておいたが、結果として接触があったらしく、連絡を受けた。けれど、通話は数分と経たずして切断され、こちらから連絡を入れても不通状態。会話はほとんど終わっていたから良いのだろうけれど、なにかトラブルでもあったのだろうかと心配するくらいはできても、直接なにかをすることは今の私にはできない。
何がどうであれ争うな。
繰り返し言われた言葉に、私は頷いた。なにしろ争うつもりも、敵対するつもりも、基本的には――業務的には、ないのだ。
もちろん私は、母の言葉を無条件に受け入れて肯定できるほど子供ではないし、きちんと己なりの解釈をそこに加えた上で、つまるところ私個人が見た雨天紅音という人間を踏まえたのならば、助言――いや忠告に対し、さてどうかと問われれば、残念ながら反する言葉を持ち合わせていなかったのだから、同感であると伝えるべきだったのだろう。
けれど、だったら、どうすればいい?
じっとしていると俯いてしまいそうだったため、立ち上がった私は窓に近づいて外を見る。もうそろそろ夕方になるのだろう、この徹底的に管理された世界は、夕暮れを見せようとしていた。
総合管理課責任者の立場としては、どうであれ、管理が脅かされるのならば対処しなくてはならない。であるのならば、私はたった一人の転移者のために、人手を割き、集中するわけにはいかないのだろう。ここで生活している者のために、少数を切り捨てる――そんな行為にはもう慣れていて、罪悪感を覚えながらも、実行しなくては、なんて義務感のほうが強くなっていた。
今までもそうしてきたし、これからもそうする。こんな私についてきてくれる人たちもいるのだから、裏切れない。私は、責任者なのだ。
それでもディが無事だったことは心底から安心した。通信が切れた時はかなり慌てたし、こんな時に祈るしかできない己を呪ったものだ。しかし、生きていた――それはとても安堵したものだが、状況だけ見ればそうもしていられない。
ディはよく訓練されている。転移者の一人である元軍人に手ほどきを受けているし、エンジシニの中では五本の指に入るだけの実力者だ。不意打ちであっても、対応できるだけの躰を持っている。その上、感情と行動を切り離すまでにも至っているのだから、私にしてみれば随分と心強い味方――だが。
あっさりと制圧された。
雨天紅音、いや、湯浅あか。
彼はいったい、何をしようとして――いや、そうではない。私はまだ、彼がどんな人物かすら正確に把握できていないのだ。だから。
私がどうすべきか、なのだ。
テーブルに戻り、彼のレッドへ通達を送る。まだ大外の出入り口にあるロッカールームで着信しているだろうけれど、戻ったのならば必ず気付くし、無視はしないはずだ。
いや、あるいは無視してくれたら――強硬策もいくつかできる。
「エース」
頭上から放たれた声に、私は俯いていたことに気付いて顔を上げると、腰まである黒髪のアールが、どうかしたのかと首を傾げていた。
「失礼、なんでもありません。どうしました、アール」
「ディが戻ったそうです。こちらに来るようですが、同伴者三名とのことで……構わなかったですか?」
「ええ、構いません」
「わかりました、すぐにお通しします」
隣室の通信部屋にいるアールは、用件だけ口頭で伝えてすぐに戻る。これらもお互いのレッド、ないし据え置きの端末で行えばいいのだが、それが逆に手間となる場合もある。また、コミュニケーションは口頭で行った方が良いとの考えから、可能ならば口頭でと私がアールに頼んだのだ。もちろん、ほとんどがこうした事務的なやり取りなのだけれど、やはり不要だとは思えない。
深呼吸を意識して行ってから、椅子に深く腰掛けて姿勢を正す。これからのことを考えれば、それこそ頭を痛めることになるだろうけれど、私は一人ではない。それは、忘れないでおこう。
「――どうぞ」
「失礼します」
ディを先頭にしてリイディ、それから深井正晴と小里古宮も一緒だ。これは想定通りだろうし、ただ話を聞くためというより、私個人にも質問があるのだろうけれど。
「戻りました」
「ご苦労でした。さっそくですがディ、雨天紅音氏に対する個人的な感想を聞かせてください」
まずは、こちらの用件を先に――だ。
「率直に言えば、……やはり、わかりません。何をしたいのか、どういう人物なのかも。ここ数日間に何度か折を見て尾行しましたが、特に気にかかる行動もありませんでした。ですから、エースが警戒していたことも、今日まで私は軽視していたかもしれません」
「では、今は?」
「わからないのは事実ですが、――油断ができない相手であることは確実です。ここの住人とは誰とも違う、そして誰とでも同じような矛盾を覚えました」
「矛盾、ですか」
人ならばそれは抱えていて然るべきもので、一貫性のある人物評価ほど当てにならないのだが、そんなことをディに対して今さら言うまでもない。だから、それでもなお、なのだ。
頷いた私はようやく、背後にいた三人に顔を向けた。
「――お疲れ様です。怪我などは、ありませんでしたか?」
「外に出て、歩いて、弁当食べて帰ってきただけさあ」
「二つだけ、確認させろ」
いつもの調子でリイディが返答したのを遮る格好で、ため息を落として顔を上げた深井正晴が私を見た。
「いや、紅音に関してを除けば一つだ。蛇足――閑話、まあどっちだっていい。俺はあんたら管理課に良い感情を抱いちゃいねえし、リイディとは違って望んでこんな場所にきたくもねえ――が、紅音が関わってる以上、知らん振りもできん。だから、確認だ」
「お答えできる範囲でしたら」
「一つ、かつていた場所に戻りたい――そう言ってた連中を、消えたあいつらに、お前らは何をした?」
「……他言無用でお願いできますか」
「そのつもりで訊いてる。紅音のことが重要なのもわかってる」
本題の前に、片付けたい理由がある。だからこそ堂堂と、その疑問を打ち明けた。本来ならば説明してはいけない部類のことだが、迷うまでもない。少なくとも答えたのならば、彼は敵にならないのだから。
「人は過去へ戻ることができません。そういった方たちは、このエンジシニから違う場所へ送っています」
「別の場所ってのは、なんだ」
「かつての――別の国、と言えばわかるでしょうか。管理課は受け渡しをするものの、そこから先のことに一切関与していません。その先にどのような暮らしがあるのかも、伝聞としてある程度は聞いていますが、ほかはなにも」
「おい、そりゃちょっと無責任じゃねえのかよ」
「おっしゃる通りです」
しかし、痛感しつつも、私にはせいぜいがエンジシニで手一杯で、それ以上の荷物……いや、責任を抱えるだけの容量がない。無責任、その通りだ。去って行く者に場所を提供するだけしかできない自分を、そしてこの場所を気に入って貰えなかった不甲斐なさを、私はいつだって自覚している。
「どのみちエンジシニの外に出ちまうわけだ。外の情報に関して封鎖してんのも、あんたらなんだろ?」
「そうです」
「どうしてだ」
「管理には情報統制が必要です。足並みがそろわなければ、そもそも管理などできません」
「……納得はしねえよ」
「はい」
できないだろう、と思っている。最小限の犠牲で最大限を生かそうと考えて行動しなければならない私の心情まで理解して欲しいとも、思わない。それは傲慢というものだ。私は責任者で、彼は違うのだから。
「もう一つ……あんたらは、紅音をどうするつもりなんだ?」
「……現状、危険であると認識していますが、こちらから何かをするつもりは、今のところありません。経過観察中と言えば伝わるでしょうか」
「ああ。……だが、危険視してるってのも事実なんだな?」
「はい。今回の件とも合わせて、こちらでは警戒しています」
「そうか……まあ、俺だってわからねえし、不明の塊だけどな」
「――もうすぐ、当人がこちらへいらっしゃいます。いくつか私から訊きたいことがあってのことですが、よろしければ同席してください」
「わかった。――話の邪魔して悪かったな」
「いいえ」
「アカを呼んだんかい?」
「呼びました」
「直截しても答えるとは限らないし、それが正しいとも限らないんだぜい」
「それでも、必要ですから」
「覚悟したんだねい」
覚悟、だろうか。
そう言われれば、そうかもしれないけれど、――必要なのか。
覚悟が、必要なのか――そんな小考をしている間に、彼は姿を見せた。
「失礼します……って、あれ? こんな場所で揃うなんて珍し――くもないのかな? 僕と同じで、ただ呼び出されたのかもしれないけど、うーん」
そう言って、いつものように、雨天紅音は眼鏡越しにこちらを見ながら、苦笑を落として肩を揺らした。
「あれ、やあ、ディさん、お久しぶりです。僕がここへ来たとき以来になりますね。その節はどうも」
「……」
対応しようとしたディは、しかし口を噤み、視線を逸らしてから軽く目を伏せ、彼らから離れた位置で身動きを止めた。
「嫌われてるぜい」
「そうなのかな……うーん、困った。人に嫌われるのはちょっと堪えるよね」
「……そりゃそうでしょ」
「俺だってそうだ」
「――ご苦労様です。急なお呼び出しをして申し訳ありませんでした」
ここで閑談をされても困るが、どこかぎこちない雰囲気も感じられたため、私は自分の領域に引っ張り込もうと口を開いて空気を引き締める。だが彼だけは、そんな空気は知らないとばかりに。
「――謝るんですね?」
言葉を逆手に取ったかのように、こちらを見て真っ先に対応した。
「つまり、こゆきさんは悪いことだと思っている――そう受け取って構わないのですね?」
「悪いかどうかはともかくも、ご足労願ったのはこちらです」
「ならば、この呼び出しに強制力はなかったと?」
「おい紅音」
なにをしているんだと、そんな意味合いを込めて深井正晴が声をかけるけれど、彼は一切反応せず私だけを見ている。
攻撃的な目――も、していない。いつか話した時と、彼の態度はなんら変わりがなかった。
「いいえ、管理課責任者である私が判断し、呼び出しました。これには強制力があります」
「まるで、プライベイトなのにビジネスを利用したように聞こえますが?」
「必要なことです」
「なるほど、ではそのつもりで聴きましょう。用件は何でしょうか」
納得したのか、理解したのか、そんな初歩的なことすら彼からは読み取れない。
「では、改めて訊きます。雨天さん、あなたはディに危害を加えましたね?」
「危害……ですか? どういう意味でしょう」
どこか落胆したような気配がある……が、それは演技にしたって、本質であろうとも、この状況で? ――何故だ?
「首を絞められて気絶する際に、あなたの声を聴いています」
そうなんですかと、控室への出入り口で立っているディを見て訊ねるが、睨まれるだけで返答はない。当たり前だろう。それにしたって、わざとらしい態度だ――いや、待て。穿った見方をすれば、何もかもが怪しくなるだけじゃないか。
「声を聴いたと言われても……どういう状況だったのか、詳しく説明してもらえませんか」
そう、言われて、私は一瞬だけ何を言うべきか迷う。尾行していて気絶させられたなど、どうやって説明すればいいのか。
「雨天さん、それでは、あなたはディに対して危害を加えていないと、そうおっしゃるのですか?」
「こゆきさん――」
笑う。
微笑む、に近い。
だが、わかる。その表情が作りものだということくらい、わかった。
歪だ。営業用の笑顔とも違う、もちろん楽しみの最中に発生するものでもない。けれど、先ほどと同じ落胆がそこにはあって。
「こゆきさん、平行線の議論がやりたいのならば構いませんが、だから僕はそもそも、ディさんは僕に危害を加えられるような、そんなことをしていたのかと訊いています」
「ちょ、ちょっと紅音、あんた言い過ぎじゃ――」
「うん? そうかな、おかしな真似はしていないし、当然の疑問だよ。筋が通ってないじゃないか。状況も説明してくれないなんて、一方的に僕が責められてるような雰囲気だしね」
話の邪魔をするな――言外にそう伝えたのが小里古宮にも伝わったのか、どこかしゅんとして視線を落としてしまう。けれど深井がその背中を軽く叩くことで落ち着かせていた。
深呼吸を一つ。
「あなたは」
問おう。
埒が明かないのならば、直截するしかない。
「あなたは、湯浅あかですね?」
「はあ? ……あ、と、失礼しました。えーっと、……そうですね。いや肯定の意味合いではなく、そのあか……って、リイディの呼び方と同じだけれど、もしも僕がその人物だったのならば、なにかあるんですか?」
「違うのですか」
「違いますよ」
これは、嘘だろう。だが、何を馬鹿げたことを、と演技しておいてこちらの情報を引出す、それすらも演技なのだから、一体何を目的として、こんなことをしているのだろう。もしも事前情報がなければ、素直に頷いてしまいそうな流れでもある。
一体、どれほどの過去を背負っているのだろう。ずっと、なにか嘘を吐くために、演技でも続けていたのだろうか。それとも本気で? なんだ、本当に虚実の境界線が見えてこない。
「私は、雨天さん……いえ、あなたを叱責、また咎めるために呼び出したのではありません。ただ、確認がしたいだけです」
「はあ、そうなのですか」
「ですからもう一度、訊きます。ディに危害を加えたのは何故ですか?」
尋問の常套手段、同じ問いを繰り返すこと。けれど、しかし。
「それには答えましたので、まあ繰り返しますが、――危害を加えるようなことをしていたからですよ」
「な――」
ここで、肯定する? どうして?
今までは上手く誤魔化していて、私も直截したとはいえ明確な返答を得ていなかったというのに、今ここで、どうして……?
「――エース、おいエース、何をやっている。らしくもない」
次の言葉を迷っている間に、正面入り口から大柄な男が入ってきた。朴訥な言葉に含まれる威圧感、鋭い瞳が私を見てから雨天へと向かう。
まずい。まさか、彼は。
「てめえが湯浅あか、だな」
「雨天紅音ですよ、お間違えなく」
「や――止めなさい、エル」
「うるせえ。疑問があんなら、拘束して尋問すりゃいいだけのことじゃねえか。何をぐだぐだやってんだ」
それは短絡的だ――が、どうすればいい? どうすれば、この場を丸く収めることができる? エルは実力主義で、元軍人だ。私の言葉を蔑ろにはしないが、素直に聞く人でもない。
考えている最中にエルは雨天の傍へまっすぐ向かい、強い力で襟首を掴んだ。そのまま覗き込むように睨み、口を開く。
「いいかよく聞けクソ坊主。――邪魔者と危険人物は排除する、それが俺のやり方だ。答えろ、何を企んでいる」
「……」
やめろと、もう一度言おうとした口が開いたまま止まる。
彼が。
雨天紅音は、その恫喝に一切動じていなかったのだ。直接向けられているわけでもない古宮が、身を小さくして深井の袖を掴んでおり、当の深井だとて渋面だというのに、彼は。
エルは雨天を放り投げるよう、押すようにして部屋の隅へ。彼は抵抗せず、投げられたまま、床に腰を落とした。その視線は――私を見ている?
「アール、やれ」
「よしなさいエル!」
局地的な転移――向かう先をどこに設定しているのかはともかく、こちらから何かをする初動としては、相手が悪すぎる!
テーブルを叩いて立ち上がった瞬間、きしりと、空気が軋むような音がして。
雨天の眼鏡が真っ白になったかと思うと、一気に外側に弾けるよう砕け、フレームが折れるように――床に落ちて、音を立てた。
その光景が、いや。
裸眼の彼が俯くようにその残骸を見ている様子が、どうしようもなく、――どうしようもなく。
私の心を凍らせる。
――もう。
もう、後戻りなど、できない。
――怖い。
どうして、こうなってしまったのだ、なんて疑問よりも恐怖の感情が足元から這い上がる。それに、エルは気付いていない?
「おいおい、なんだそりゃ、転移の強制停止? なにしたんだお前、冗談だろ。確定だエース、尋問する」
頬から僅かに流れている血を、雨天は見て。
襟首を掴んで立ち上がらせたエルを見て、そして。
「――なるほど」
そう言って顔を上げた彼は、顔から一切の表情が消えていて。
「これが、答えか」
声色も変わらないのに、口調も変化がないのに、その言葉で私は反射的に弁明していた。
それが通用するかどうかは考えていなかった。とっさに、それしかできなかったのだ。
「違います雨天さん! 違います、決して乱暴な手段に出るような真似はしたくありませんでした、わかってください!」
「それはつまり、この人の独断だと認めるようなものだ。それは、この人を切り捨てる意味でもある。責任者とはなんなのか、自覚しているんだろう」
「なに言ってんだ、てめえは。いいから――」
「状況を理解しているのはこゆきと、リイディだけか」
「は? てめえはな」
「温いと言ってるんだ、寝ぼけてるのかお前は」
「やめ――」
普段ならば、日常生活の中ならば、決して聞かないような音がした。耳慣れない、きっと状況を見ていなければ、わからなかったであろう、音。
右手を襟首の手にかぶせ、左手でエルの肘を抑え付けたまま、躰を捻るようにして左足から踏み込み、容赦なく、エルの肘を逆側に折った。
「――っ!?」
痛みにか、襟から手が外れるのは当然で、そのまま雨天はエルの腕を抱え込むようにして肩の関節を外し、勢いをそのままに、仰向けで倒れようとするエルの胸に、右足が上から重圧をかけ――叩きつける。その勢いは、肋骨が折れるほどに、強く。
「がっ!」
「雨天さん!」
小さな悲鳴を上げて小里氏がしゃがみこむが、そんなことまで気にしていられない。デスクから一歩を踏み出そうとした私は、振り向きもしない雨天の言葉に、身動きを止めた。
「どうしてこゆきが荒事で済まそうと思わなかったのか、わかったかな? どうだ?」
苦痛に歪む顔を、髪を引っ張って起こして問うが返答はない。ただその顔から血の気が次第になくなっていくのを、私は見る。
「間抜けが過ぎるぜボーイ。こっちがチビだから油断したか? その程度で上官にでもなったつもりだったか? クズらしくゴミ拾いでもしてりゃよかったのになあ。現場なら二ヶ月の便所掃除だ、フライドポテトを食べるたびに思い出すぜ?」
元軍人のエルが、あの――強い、そう思っていたエルが。
恐怖で、顔を歪めていた。
「やめて下さい雨天さん! ごめんなさい、謝ります、だから――」
「その謝罪には、あまり効果がないよ。けれど安心して欲しいな。まさか僕が殺すとでも?」
手を放して小さく肩を竦めると、ずるずると躰を引きずるようにしてエルは彼から少しでも離れようと、震える躰を必死に動かした。
「温室育ちとじゃれ合う趣味はなくてね。そうでなくても気が抜けてるよボーイ、平和ボケは見苦しいぜ。相手を見た目で判断するなと、上官から言われたのを忘れたのか。ははは、お笑い種だ。ま、いつでもできるなら、今しなくても良いだろうし――」
ぐるりと、彼がこちらを見た。その顔に、表情はなく。
「返答は受け取った。僕は好きにする」
「待ってください!」
「何故?」
「それは……あなたは、何をしようとしているのですか」
「少なくともこゆき、いや管理課にとって害のあることだよ。宣戦布告を受けたのは今だけれどね、あなたがたの存在は最初から僕の敵だ。子供の遊びにはならないから、少しは期待しているのも良い」
いつもの口調、いつもの軽口。ただ、そこにあった笑みの気配がない。
それにしても、もっと早く手を打つべきだったのにねと、彼は続ける。
「止めるなら今の内だ。ある意味で、そこに転がってる温室育ちの行動は、正しい。いや――僕が間違っているのか」
「……どうしても、止めてはくれないのですか」
「僕だって目的くらいは持つ。それを達成しようと思う。何か異質な人間と勘違いしているようだけれど、僕はそれほど異なってはいないよ。それでも、そうだな……一つだけ、訊いておこうか」
「……どうぞ」
もはや、現状で彼を拒絶することすら、私にはできない。いや私以外の全員が、目を合わせることすら恐れている。
「〝記章〟はどこにあるのかな?」
「――」
リイディが僅かに反応した――のを、私だけではなく彼もまた気付いていた。
だが、私は。
「それ、は……わかりません」
「そうか。ならこれで話は終わりだ」
「――待って下さい! 本当に知らないんです、私は」
「言っただろう? その真偽がどうであれ、知らないならそれでいい」
背を、無防備な背を向けた彼が出入り口に向かって立ち止まる。そして再びこちらを見た。
「で、行きたいんだけれど開けてくれるかな、ここ。暇そうにしてるディでも、できるんだろう?」
「え、あ、……その」
「ディ、開けて」
「はい……」
べつに何もしないよと、警戒しているディに対して両手を軽く上げて見せる。
何よりもそれが、その切り替えがわかりにくいことが、恐ろしい。
「ありがとう。じゃあまた――いや、ディのためを思えば次はない方がいいか。そっちの人も、できれば二度と逢わない方がいいかもね。僕は敵に容赦をしない。それと正晴」
「お、おう、……なんだ」
「たぶん三日くらい戻らないから、心配はしなくていいよ」
「……待って下さい」
「なにか?」
「あなたは、――湯浅あかですね?」
愚かにも同じ問いを繰り返す。彼は。
「そうだよ。わかりきってることを、いちいち確認しないことだ」
今度はあっさりと答え、音も立てずに扉が閉まる。
私は。
ただ今だけでも何も考えず休みたいと、心底からそう思って、椅子に腰を落とした。
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