09/21/10:10――雨天紅音・波乱の放棄者

 携帯用食料をかじれば、肉と香辛料の味が口の中に広がる。腹を満たすタイプのものじゃないのは作った僕、雨天紅音がよくわかっているけれど、空腹を紛らわす程度のものにできあがったかどうかを確認する意味合いでの、いわば試食であり、それほど食事的な意味合いを求めてはいなかったのだが、合成食料を調理した結果としては満足な部類だ。

 木の上に腰を下ろし、照準器で木木の隙間を抜けば、その先にぼんやりとエンジシニの外壁が見える。たかが二千ヤード、いやもう少し距離はあるか。ちなみにこの照準器も自作で、双眼鏡を改良しただけのものである。まあ持ち運びに便利なよう小型化したら、知っているものに近づいたってだけなんだけれど、この手のハンドメイド作業は、得意な方だ。

 順調に進んでいる――のだろうか。

 僕はふうと吐息を落として照準器をポーチへ入れると、肩の力を意識して抜いて眼鏡を外した。ここにきて初めて、僕はあらゆる表情を消して、いつもの僕に戻る。

 まったく、演技というのは面倒だ。とくにこれは持続するのがとても面倒である。僕はそもそも表情が豊かな方ではないし、死んだ魚の目の方が、死んだとわかってお前よりゃ良いとよく褒められたものだ。

 ほっとしている自分が感じられる。

 馴染んだつもりではいたが、あの無菌室のような人工的な清潔さは僕には合わなかったのか、大外に出た今になれば、この自然な空気を吸い込むと、〝違う〟ことがよくわかる。この差異が相性そのものだろうけれど、いかんせん僕が馴染みきれていなかったともなれば、彼女が馬鹿にしそうだ。

 木から降りて裾を払った僕は、まだ移動しようとせず、背中を預けるようにして、そのまま呑気に食料をかじる。銃声の音がする戦場ならばともかくも、こうした自然環境の中で、人は緊張に張りつめたり敵を想定して警戒したりと、そんな行動をとるのだが、実際には愚行の類に該当する。

 自然はそこにある。人間なんてものは異物なのだ、それを強調すれば余計なものを招く。だから、自然の中で惰弱な人間はまず、自然の中に溶け込まなくてはならない。熊のように縄張りを誇張せず、兎のように獲物から身を潜め、鳥のように広い視界を心掛け、鹿のように臆病でいること。

 慌てることはない。この自然の中では人間も捕食される側の一人だ、自己を失くしたヤツから自滅する。そもそも、痕跡を作って歩くような人間が立ち入って良い場所ではない。だから僕に撒かれるわけだ。

 いや、本当に大したことはしていない。僕の姿を目視していなかったのを確認した瞬間、痕跡だけを作り上げて僕はとっとと木を伝って二重尾行の確認、ディの排除、それからのんびりと別のルートを歩いてきて、今は昼休憩というわけだ。どうということはない。

 追ってこれるはずもないが、追ってはこないだろう。僕の弁当――文字通り、爆弾じゃなくて、手作り弁当にメッセージを入れておいたから、リイディなら間違いなく無駄だと理解できるだろうし。ま、追ってきたいならそれでもいい。僕はただ、関与しないだけだ。

 順調ではないかもしれない。けれど、予定通りではある。昨日のうちにプログラムは完成したし、手札は九割揃った。あとの一割は、これからの情報次第――か。

 足元に視線を落として僕は耳を傾ける。まずは呼吸、心音、己から発生する音を意識から排除し、自然そのものの感覚に身を委ねた。イメージとしては感覚そのものを流れる風に任せる――のだが、実際にそんなことはできないし、単に耳を澄ましているだけだ。

 水の音が聞こえる。

 何もないところからのマッピング作業は、かつて彼女と一緒した訓練を彷彿とさせられるが、目印を作っておくほどこの森は複雑ではない。方位磁石が狂うこともないのは確認済みなので、余計な痕跡を作らないことを優先する。けれど、水場があるのならば、いくつか確認をしておく必要性はあった。

 僕がここへ転移してきた際に、人影のようなものが見えたそれが、本当に人だったのかどうか。最低でもそれだけは確認しておかなくてはならない。

 水場は生活に必要だ。それこそ痕跡があってもおかしくはない。

「さて……行くか」

 方位をだいたい掴んだ僕は、ポーチが閉じているのを確認してから移動を開始する。火薬の香りが漂う森林において、移動速度は非常に重要な意味合いを持つ。そのため、移動に関しては重点的に鍛えられているし、染みついたそれを忘れることもできず、初見の森の中だというのに僕は疾走に限りなく近い移動速度を維持する。これでも、軍部の中では遅い方だった。

 三年――か、四年になるのか。初期訓練の一年は海兵隊訓練校に所属していたものの、後期実習で実戦配備されてからの僕は、軍部を間借りしている別の組織――のようなものに引き抜かれた。といっても、僕はその実態を深くは知らなかったし、彼女と出逢ったのがその場所であり、そもそもは研究員なのだ、軍人として扱われるのは御免だったので都合が良かった。

 その組織というのは、僕が知る限り、軍部と繋がり仕組みこそ同じであるものの、命令系統が違う――いわばスペシャル扱いだったらしい。古巣に戻ってから、なかなか嫌味を言われたものだ。だから、肩書としての二等軍曹も、軍部での階級として扱われていたとは思うけれど、経歴という意味合いでは違ったのだと思う。

 僕は軍人じゃない。だから、それほど専門でもないのだ。移動速度が遅いのも、当然だと言いたい。それでも、一般人よりは早いと思うんだけれども。

「――!」

 川が見えた、と思った瞬間、僕は弾かれるよう飛びながら伏せ、転がるように茂みへ入り込んだ。

 失態だ。

 水場を見つけ、やや視界が開けたことに――あるいは、水場そのものの存在が確認できたことに安堵し、緊張が僅かに緩んだのだ。その瞬間を狙ったかのように、川を挟んだ向こう側、何かが反射して光ったのを視界が捉えていた。

 匍匐で移動したあと、改めて脳内地図で方向を確認しつつ、上半身を起こして木に背中を当てる。

 ――照準器の反射か?

 いや、たぶん、一瞬のことだけれど違うはずだ。以前、養父の知り合いである狙撃手のメイリスという女性の訓練に付き合い、僕は狙撃の的にされたことがある。プロテクターをつけていても当たれば痛いので、回避することは困難だが隠れなければと山の中に逃げ込んだが、これがまた当たる当たる。笑えるほど、死ぬほど当たった。お蔭で照準器越しに〝視られる〟ことを感覚として身に着けた。いやもちろん、感覚的なものなので数値化、論理化することはできないのだけれど、察することができるのは僕がよくわかっている。

 その感覚を今は信じよう――否、僕には僕の感覚しか信じられるものはないのだ。そのあたりをきちんと、強く、自覚すべきだ。

 だとすればなおさら、顔を出せないな。もしもの可能性を考慮するのならば、迂闊な行動はできない。もしかしてディをスケープゴートとした誰かの尾行があった? 進行方向としてはまったく違う位置だったが、僕が水場を求めていたのを予想した上で先回り?

 どれも、可能性の話だ。落ち着け。

 いつしか高鳴っていた鼓動と、後頭部に滲み出していた汗に気付いて、僕は意識して呼吸を落ち着かせ、平常時よりも心音を低くするために呼吸の回数を減らしつつ、物音を立てぬよう移動を開始し、その途中で念のためにと形見のツールセットからナイフを出し、口に咥えた。

 もし――狙撃銃ライフルならば、射程距離外に逃げるのが難しい。メイリスは対物狙撃専門だったけれど、千五百ヤードなら軽く当てた。今回は高い位置での反射、そして太陽を背にしている場所。つまり、こちらから確認しにくく、また僕から見えるイコール射線が確保されてしまう、だ。警戒するに越したことはないし、もしもこれが僕の勘違いであっても、それが確認できたならばそれで構わない。無駄な労力なんてのは、警戒においてもっとも必要とされることなのだから。

 水場、調べたかったんだけどなあ。

 態勢をあれこれと変えながら、酷く遅いペースで二百ヤードは進んだだろうか。狙撃はないようだが、そちらの意識とはべつの部分で警笛が鳴り響き、僕は足を止めて周囲に視線を走らせながら、そっとしゃがみ込む。

 ――ワイヤートラップ?

 足元、というよりも地面に這うように一本のワイヤーがあった。どこに先端があるのかと視線を動かすと、違う一本が発見できる。合計で六本……多すぎだ。二重トラップとして位置を変え、二本仕掛けるのはセオリーだが、こうも多くては見つけてください、と言わんばかりだ。本命が別にあるのか、それとも――トラップとして活用する気がないのか。

 しかし、まずいな、これは。

 警戒すべき対象が道中で増えた場合は、真っ先に己が包囲されていると思え――それが、基本知識だ。

 優先順位は、危険度を度外視して、すぐにでも対処が可能な方をまず先に。攻略できる方から攻略しておけば、本命に対して余裕が持てる。もちろん、警戒を怠ってはいけないが――ワイヤーの行く先を辿り、僕はその小さな装置を発見した。

 アンテナがついている、親指ほどの機械。なるほど、これは対侵入者用警報の一種か。引っかかると音が鳴るか、あるいは信号そのものをどこかへ発信し、受信した端末が音を立てる。

 僕はゆっくりと離れ、迂回するように移動しながらも、トラップの意味からいくつかの情報を得る。

 一つは、間違いなくこのトラップを張った人間がいるということ。熊のマーキングと一緒で、自分がここにいますよと示しているようなものだ。そしてもう一つは、発信機としての装置が組み込まれている以上、その人物のベースには電子機器があり、つまり電気が通っていることになる。

 どこから?

 そんなもの、エンジシニからに決まってる。

 トラップは円形に設置されていた。狙撃のことは忘れていないが、おおよそ全体にわたって、まばらに、特に低い位置にあった。人であっても獣であっても、通り道にするような場所に多く、誰かを引っかける意図が読み取れない。やはり、ただの警報なのか。

 時折、耳を澄ませて川の流れを探る。そう遠くない位置……つまり、ベースもやはり水場には近いらしい。

 体感として、エンジシニからここまでは五千ヤードほど。まだ森は途切れていない。だが、自然というには――人の手が加えられているような、整然さも感じる。

 気が抜けない。強い警戒は、あの光の反射の直後からしないよう心掛けてはいるけれど、安堵してしまえば力が抜ける――そこまで考えた僕は、どうでもいいかと、そんな結論を抱いてしまい、ふいに立ち上がって口から左手へツールを移した。

 面倒、なのでもなく。

 嫌だ、というわけでもなく。

 ――どうでもいい。

 そんな結論が唐突に飛来すると、いつだって僕はこうなる。無防備にも姿を晒し、トラップを迂回するのも面倒で、奥へと進むように直進を開始した。それでも、染みついた習慣が、茂みをかき分け音を立てるような真似をすることにはならなかったけれど。

 駄目だなあ。

 堪え性がないのか、それとも違う理由でもあるのか。

 僕の行動に関するあらゆる選択肢の中に、どうでもいいと放棄するその一つが存在するがゆえに、僕はそれまでしていた行動をやめてしまう。

 悪い癖なのは自覚してるさ。けれど、どうして間違ってるかなんて――それこそ、どうでもいいじゃないか。

 さすがにトラップにわざわざ引っかかろうという意識はなかったらしく、それほど迂回はしなかったけれど、引っかからずに抜ける。そこからおおよそ二千ヤードは歩いただろうか、僕は唐突にその場で転んだ。

「な――」

 一瞬、それほど強い衝撃でなかったのにも関わらず、尻もちをついた状態で混乱が押し寄せ、頭の中が真っ白になる。緊張も安堵もなく、ただ無防備な己に気付いたのは五秒後のことで、僕は深呼吸をしようとして、唇が僅かに震えていることに気付いた。

 理解が追いつかない。

 立ち上がる、なんて選択肢が思い浮かばず、僕はそのままゆっくりと右手を前へ出した。

 視界一杯に広がる森の光景だがしかし、僕の手は、伸ばしきる寸前で停止する。

 壁――だ。

 それが物理的なものなのかどうか、掌の感触で現実を認識し、それが現実であることを改めて咀嚼する時間を置いてから、ようやく震えが落ち着き、僕は頭を振ってから立ち上がり、まじまじとその壁を見た。

 そこに壁があることを、ぶつかる瞬間――いや、その後ですらわからなかった。それほどまでに自然に、まるで僕の認識そのものに干渉しているかのような完全さをもって、そこには境界線としての壁がある。

 何度も、何度も、壁であることを自覚する。繰り返し、嫌になるほどそれが壁だと言い聞かせながら、僕はずっと右手を当て続け、四分が経過した頃にあふれ出る疑問の処理に取り掛かった。

 ここもまた、エンジシニの内部なのか? 最初に浮かんできた疑問を打ち消す。この先にあるのが実像であることに確信が持てず、かといって映像だと断定することはできないが、あまりにも高度な技術が利用されていることは決定的であり、これがエンジシニの技術によるものだとは思えない。何よりも、大外と呼ばれる場所で生活している人間の存在があまりにも少なすぎる点から、この境界線はエンジシニがどうのではなく、エンジシニが存在する大陸そのものに関係しているのだと推察できる。

 では、そもそも、この大陸とは何なのか――僕は右手を添えたままに、外周を歩き出す。

 大陸そのものがドーム状になっている? コロニーのように? いや、そもそも大陸がどのような形状で、ここがどこなのか、かつて僕が知識として得ている世界地図そのものが、ここでは常識になるのか? 僕はまだ、この時代がいつなのかを把握していない。つまり考えるだけ無駄だ、情報があまりにも少ない。

 逃げ場がない――ということか。それとも、エンジシニのような施設がほかにもある可能性が? もしそうならば、僕はここで終わるわけにはいかないけれど、しかし、転移者の多くがエンジシニに集まっている以上、僕が求めているものはエンジシニに存在するはずだから、可能性としては低いのか。

 ドーム状……だけれど、雨も降ると言っていた正晴の言葉を信じるのならば、雲の流れや気候そのものはどうなる? それすらも映像で自然環境を管理可能なドームだとすれば? いや、それはあまりにも非常識だ。規模が大きすぎるし、ドームでは成り立たない。立つとしても支柱がいくつ必要になることか。やはり、人がエンジシニの外に出てこない現状を、唯一の確証として論ずるべきなのだろうけれど、しかし。

 何のために必要だったのかが、疑問になる。

 境界線の存在理由についてあれこれ考えていると、水場に出た。川が見える位置でぴたりと足を止めた僕は、右手が触れている壁ではなく、じっと川を凝視する。

 違和感があった。

 もちろん、おかしなことはある。川は壁に当たっても跳ね返されず、映像かどうかはともかくも、壁の向こう側に流れているように見えた。しゃがみ込み、じっと壁と水との境界を見てみるものの、僕には流れているように見える。となれば、川の中側から向こうへ通じているのではと思い、違和感を抱えたまま近づき、右手で壁に触れ、左手を川の中に入れてみるが――しかし、残念ながら左手も壁に当たった。

 まるで、水という存在だけを選別して向こう側に流しているような錯覚――なまじ、錯覚ではないかもしれないあたりが、僕の発想の限界なのかもしれない。

「……そうか」

 現時点ではわからない、なんて結論が出て落ち着いてしまったのは、僕にとってそれほど重要な発見ではなかったからか、それでもまだ、どうでもいいだなんて思ってしまっているのかは定かではないにせよ、この光景の中にある違和感が発見できた時点で、僕は触れていた手を離して立ち上がり、裾の埃を払った。

 壁の付近から、水の音がしないのだ。

 厳密には壁の向こう側から川に存在するはずの、せせらぎと表現されるような音が一切ない。まるで虚空に放り投げられているような、しかし滝になっているわけではなく、ではまさか、大陸そのものが浮遊しているかのような――そんな可能性、いや想像、いやいや妄想の類を思い浮かべ、僕は誰にともなく両肩を竦めて、それこそどうでもいいことだと結論を下した。

 この疑問に関しては、すべてが終わったあと、僕が生き残っていたのならば、探ればいい。

 川には小魚も泳いでおり、僕は沿うようにして戻るが、幅がおよそ三メートルほどであることを確認してから森の中に入った。

 川と呼ばれるものは山が起点であることが多い。流れや深さからして、この近辺が下流ではないことはわかるが、かといって歩いて確認した範囲では、それほどの起伏はなかった。であれば頂上部? それにしては平坦過ぎる。鳥の存在も確認しているのだから、人の手が加えられている部分があるとはいえ、動物そのものの生態は一般的な森と変わらないだろうし、野鳥の類に詳しくない僕でも、すずめやメジロくらいの判断はつく。

 けれど、ここが一体どこなのか、なんて疑問は浮かばない。優先順位が低いからだ。

 再びワイヤートラップを発見し、僕の方向感覚がそれほど間違っていないことが証明される。今度は分解せず、引っかからないよう注意を払いながら、トラップを抜ける方向を選択した。単純な配置であるため、人のように多くの関節を持ち、柔軟な姿勢を保てるのならば、そうそう引っかかることはない。

 その先に、畑を発見した。

 そして、僕以外の人間も。

 女性――だけれど、年齢は五十よりやや上くらいだろうか。タオルを首に引っかけてはいるが、帽子はなく、鍬を振る動作そのものは滑らかだが、僕が視線で捉えているのに気付かない状況から見て、警戒心がそれほど高くないのが窺える。

 さてどうしたものかと考えるより早く、僕の足は近くにある茂みを蹴飛ばして、音を立てていた。まったく、一度なるとこれだ、またどうでもいいとか判断を下したんだろう。我ながら呆れる。

「――あんた」

「邪魔するよ」

 僕は気楽に言って、表情を作ることもせず、近くにある木に背中を当てて背後を警戒――つまり、彼女以外の存在を警戒しつつ、ツールのナイフを握ったまま腕を組んだ。

「なんだ、こんなところで、逃げてきたつもりか? お笑い種だ」

 僕は言う。

「しかもまだ逃げ切れてすらいない。逃げた、と自覚することで停止している。それとも、逃げているつもりはない、なんて言い訳を己に言い聞かせているのか――ま、どうであれ僕には関係ないか」

「――礼儀を知らんやつだ」

「うん? ああそう、ふうん……確かに、ナイフを握ったままだ。あくまでもツールの一つであって、ペーパーナイフ程度にしか切れ味はないし、人を刻むには適さない。しまっておくよ」

 ポーチの中に滑り込ませ、手探りでノイズ発生装置を稼働させておく。電気系統がどのようになっているのか、僕はまだ確認していないけれど、回線が無線で接続されているのならば、すぐに通報されることはないだろう。もっとも、彼女がそれをやるかどうかは、僕の態度次第だろうし。

「ところで、転移に際した時間軸上の干渉についての仮説は、もう出ているのかな?」

「出ていたとして、あんたに説明してやる義理はないね」

 口は悪いが――海兵隊ほどじゃないか――彼女は鍬を手放し、近くにあった岩に腰掛ける。森の中にある畑だ、木陰はどこにでもあるのだから、椅子さえあれば良いと思って設置したのか、最初からあったものなのか。

 だが、視線は僕を捉えて離さず、やや警戒がにじみ出ていた。

「勘違いしないで欲しいね、内容なんてどうだっていいさ。出ているのか出ていないのか、まずはそこだ」

「あんたは――」

「僕じゃなく、そっちだ」

「出てないね。あんたはどうなんだい」

「仮説、ね。そっちがどれほどの時間をここで暮らしていたのかは知らないけれど、ここに来て十日しか経過していない僕が出した仮説で良ければ、言ってもいいけれどね。ちなみに、僕が転移してきたからの日数を口にしたのは余裕ではなく、サーヴィスだ。なにしろ、僕の問いから始まった会話だからね、譲歩はするよ」

「……相変わらず嫌な子だね、あんたは」

「そっちこそ、相変わらず停滞していて、とてもじゃないけれど自分の頭を使っているとは思えないね」

 まったく、どうかしてる。考える時間はあっただろうに。

「――寿命だよ」

「……なんだって?」

 あくまでも仮説であって、これは確定事項ではない。ただ、ここ十日の空いた時間を使って思考した一つの結論としては、それなりに信憑性があると思う。

「転移時における年齢そのもの――と、勘違いしがちだけれど、それでは矛盾が出る。どんな公式になるかまで着手はしていないけれど、いくつか得たサンプルの数値から考えられる可能性として、その一つが寿命だ。つまり、転移の対象が、その時点からどれだけの寿命を持っているか――それによって、こちら側での転移終了時点が変わる。だから、歳を経た者が先に転移してきた」

 もっとも、その方が効果的だ。何しろ経験を持つ彼らならば、発想それ自体が若者に劣っていても、仕組みの安定性にかけては右に出る者はいまい。湯浅夫妻、そしてエイク・ブリザディアにしたってそうだ。彼らが先に転移していなければ、エンジシニだとて今のように確固たるものにはなっていないはずなのだから。

「突飛な発想さね。……あんた、こんな奥地にまで何をしにきた」

「そっちみたいな存在を探りに、だよ。思わぬ情報も得られたけれど――いやいや、安心してくれ。だからって、あなたに逢いにきたわけじゃない。僕としては湯浅ふみと顔を合わせたところで、情報を引き抜く以外に理由はないし、だったら湯浅ふみじゃなくたって問題はない」

「聞かないのかね、あんたは」

「何を?」

 まさか、と僕は笑う。

「湯浅つじの行方? エイク・ブリザディアの生存? どうだっていいじゃないか、今ここにいない人間の話をしてどうなる。今はいないんだろう? それはもう確認したことで、どうでもいいんだ。ただそっちは、どうせ伏見こゆきと繋がってるんだろう。これの方が厄介だ。――ま、手は打つけどね」

 まったく、面倒だ。彼女がどうであれ、僕にとってはそこらにいる他人とまったく同じなのだから、これといった感情も浮かばないのだけれど、彼女の方はそうでもないらしい。警戒はしつつも、攻撃的な意志が見えない。

 悪いが僕は、それを逆手に取るほどの興味もないのだ。

「何をしにきた、と言ったね」

「言ったさ」

「まずは確認しておこう。――ここはエンジシニじゃない。つまり四六時中行動を監視されないし、ログも残らない。いや、答えなくてもいいんだ、そうであると前提しよう。だからこの際、一つ問うておきたくてね。そっちも一度くらいは考えたことがあるだろうし、無自覚ではいられなかったはずだ」

「前置きが長いねえ」

「――〝記章〟はどこにある?」

 今度こそ本気で彼女は黙った。

 記章とは本来、軍帽や軍服の一部に、階級章とはべつに、所属などを示すためにつける印のようなものだ。けれどこの場合は意味合いが少しだけ違う。だからこそ――それがわかっているからこそ、彼女は黙したのだ。

「……答えにくいことを訊くんだね、あんたは」

「逃げてきた身分じゃ、そうかもしれない。けれど僕はそうじゃないから関係ないね。過去のことを訊くのがタブーになっている、なんて聞いた時は大笑いするのを堪えたものさ」

 間違っている僕が断言してもいい、エンジシニは間違っていると。

 だから、僕は。

「何をするつもりなんだい」

「答えを貰ってもいないのに、僕がそれに答えてしまうと、そっちのハードルが上がるだけだけれど、それを承知で言っているんだね?」

「まったく……面倒な子だよ」

「手がかかる、とは言われたことはないね」

 小さく肩を竦めると、呆れたように吐息がある。湯浅ふみ……ね。見たところ、転移してきてこちらで十数年、ないし二十年といったところか。

「アレが、存在すると思うのかい」

「ない、と考える要素がそもそもないだろう? 寿命だ、とは言ったけれど、そこに際した時間軸関係における因果律が狂っているのは事実だ。一定の時間軸、いやそもそも時間軸は一定でなくてはならない。けれど、それが逆転してしまう状況すらありえてしまう」

 僕が十六歳の頃、まだ三歳くらいだったレイディナが、今は同級生であるように。

「何をどう干渉しているのかはともかくも、何かが干渉しているのは間違いない。しかも流動する時間に対して一時的に、長距離――道程と時間の両方の意味だ――転移の際にだけ、干渉している。そして、スフィアシステムにはない。それはいったいなにか?」

 それが。

「それが〝記章〟だと?」

「僕はそう確信している。タイムマシンなんてものは存在しない。アレはただ、ここへ来るためだけの移動装置だ。スフィアと同じ――いや、実際には逆になるのか。スフィアがアレを原型にしているんだから。ならば、入り口があるなら出口がある必然性を踏まえるに、出口とはそれを示す何かがあるはずだ。それこそ〝記章〟だと僕は疑っていない」

 だいたい。

「おかしい話じゃないか。僕の両親は、あれから十年と経過していないはずなんだけれどね?」

「……あんたの話は知らないよ。けれど、見つけてどうするとは言わないのかい。そもそも――見つけられるのかね?」

「どうであれ、存在が確定しているんだから、そっちが知らないというなら、それで構わないさ。ま、わかりやすく、エンジシニの管理課そのものが、なんていうのなら、簡単なんだけれどね」

「……探していた頃もあったさ」

「だろうね。そして、見つけられたのならば、こんなところに逃げてはこない」

「わかっていて聞いたのか、あんたは」

「性格が悪いとは、それなりに言われていたよ」

 それなり、だ。何しろ海兵隊など悪ガキの集まりみたいなもので、僕よりも性格が悪かったり荒かったりする連中ばかりだったから、僕程度の性格など埋もれてしまうのである。……と言うと嘘になるか。まあそいつらから、性格が悪いと結構言われていたからな、うん。

 ――あいつだけ、面白いと言っていた。

 物好きな僕の友人は、もういないけれど。

「こゆきは元気にしていたかい?」

「ん、ああ、そうだね、生きているよ。貫禄もあるし〝ビジネス〟では冷静そのものだ。冷徹かもしれない」

「なんだい、プライベイトでも付き合いがあるのかい?」

「さてね。ただ――彼女は脆い」

「あんたと違って、か」

「くだらないことを言うなあ。知っての通り、僕は穴だらけの壊れた人間だ、しかも狂っている。おかしいと、間違っていると、生きているのが不思議だと、そう言われても何ら反論できない人種なんだ。僕と比較しては相手に失礼だよ」

「くだらない……か。自分のことだろう」

「己のことだからさ。自覚していなければ、僕はとっくに自殺している。いや、殺されているよ」

「なるほど、――相変わらず壊れてるのかい」

「その通りだ。けれど、壊れたおもちゃを棄てたそっちも、壊れているとは思うよ。まさか、葛藤したなんて言い訳を並べて、今もそれを内に抱きながらも、免罪符を求めてるわけじゃあないだろう?」

「……」

「僕の主観から言わせてもらえば、湯浅つじにせよ、あなた、湯浅ふみにせよ、かつての行動そのものに対しては何ら責める言葉を持たないよ。もちろん、ここへ来てからの行動の仔細は知らないけれど、現状という結果そのものに対しては、文句を言うよりも前に呆れかえったけれどね」

「あんたは、エンジシニに不満があるのかい」

「不満はないよ」

 嘘ではない。

 そもそも、満足する、しないという領域の話ではないのだ。

 もしもの話をしたのならば――心底、あそこが僕の満足できる場所だったのならば、不満を言えるような場所ならば、僕は目的を最初から抱かずに済んだ。ぐちぐちと文句を言えるのなら、それを改善しようと動いたかもしれない。

 けれど、もう、そんなレベルじゃあないんだ、あそこは。

「……あなたは、僕を止めるかな」

「私が、あんたを? 冗談はよしておくれ――ああ、確かに、今ならあるいは可能かもしれないね。それは正しい。けれど、あんたを止められるような人間じゃあない」

「止められない、と言い換える気はないのかな?」

「どうだかね」

「あなたがそんなだから、こゆきが重責を負っているんだと言っても、意見は変わらないかな?」

「……何が言いたいんだい」

「呑気に暮らしてるのが気に入らないって言ってるのさ」

 けれど、だからといって何かをしようとは思わないけれど、なるほど、気に入らないか……嫌悪というよりもこれは、強い否定だな。

 まあいい、どちらにせよこの女にこれ以上問うこともなし、ポーチの中に入っている端末で時限式のウイルスを仕込んだあとは、トラップを仕掛けながらエンジシニに戻るだけだ。

 夕刻まで時間はある、ゆっくり戻ろうじゃないか。

 あの、偽りばかりの楽園へ。


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