09/11/17:20――伏見こゆき・心の端の想い出

 まだ、落ち着かない。

 作業の手を止め、周囲に投影されている中の一つに目を走らせた私、伏見こゆきは小さく吐息を落とし、作業用につけていた眼鏡を外して眉間をもみほぐした。

 ここの技術では映像投影システムが完成していない。そのため、眼鏡というディスプレイ――ないし、フィルタを通すことによって疑似投影し、薄手の専用グローブを利用することで映像に触れて操作することが可能になる。この技術に関しては管理課でしか利用していないのは、汎用性が高すぎる件と、利便性から没頭されるのを防ぐためだが、事務作業が基本の仕事となる私としては有用性が高い。もっとも、あまり長時間使ってしまうと脳に負荷がかかるのか、効率が極端に落ちてしまうけれど。

 しかし、作業効率は落ちていない。時計と一緒に確認したグラフでは七十二パーセントの事務処理を行えていたし、チェックから戻ってきたファイルもなく、いつも通りだ。

 いや、いつも通りを意識していた。そうあろうと努力した結果であり、成果であり、だからこそ今の私は普段通りではない。

 椅子の背もたれに体重を預け、しばし瞳を閉じて鼓動を感じる。強く高い鼓動だ、緊張時によくみられる兆候で、間違いなく今の私は緊張しているのだという自覚もあった。それもこれも、あの雨天紅音と名乗った転移者が原因だ。

 少し――説明しておこう。そもそも、このエンジシニがどういう施設で、転移者とは何なのかを。

 原点、つまるところそのきっかけであり始まりは、二○二八年八月十六日――エンジシニで生まれた私にとってははるか昔、もはや原型すら留めていない現在からでは想像すら困難な時代、愛知県野雨市と呼ばれる場所で花火大会が開催されていた。それはどこにでもある、ありふれた夏祭り。海沿いに屋台が並び、河原には人が集まって花火を待つような楽しみばかりのイベントはしかし、結果としてみれば大惨事となった。

 何が起きたのかはかつても、そして今も、ある意味では解明されてはいない。私はそれを研究しようとは思わないし、何よりこれは聞いた話であって、私には一切の実感がないものだ。

 死傷者二千人前後の――当時は爆発と公表された事故があった。爆発でないことは事後の調査でわかっていたものの、表向きは花火の誤爆により火薬が化学反応を起こして広範囲爆発を引き起こした、としか出せなかったのだ。

 何しろその事後の調査で――そこに時間歪曲が発生し、あたかも宇宙に存在するブラックホールのように屍体だろうが生物だろうが無機物だろうが、あらゆる一切をごっそりと飲み込んで消えたのだ。そんなことを公表したところで誰も信じないし、それを信じる者もどこかおかしい。

 だが、研究者とは、信じられないのならば論理的に否定したくなる人種だ。どうしても起こるはずがないと証明したくなるのである。

 時間歪曲の観察は当時、芹沢企業と呼ばれる大企業、手袋から自動車本体まであらゆる分野を開発する企業の一部門が主導で指揮を執り、芹沢に間借りして研究を行っていた湯浅機関に研究を委託することとなる。

 所長の湯浅つじは、こんな言葉を残している。

「時間は常に不可逆である。進行方向は一定で、かつ、先にも後にも行けないものだと、証明するまでもなくルールとして、概念として決定づけられたものだ。であるのならば歪曲自体が時間軸に干渉していたとして、そう前提を起こしたところで、干渉はしていたとしても変更を行うことは――ない」

 彼は、一番最初の転移実験に自らの身を賭した。賭して、当時はいなくなったとされる。しばらくは妻のふみ、まだ若い――過ぎるくらいだ――息子である湯浅あかの二人が引き継ぐ形をとるものの、一年後にふみもまた、転移装置に身を投じる形で消えた。

 残されたあかは研究を続けるものの、所長の位置につき研究を主導しながらも、副所長であるブリザディアが最終的に研究を完成させ、転移装置〝スフィア〟を創りあげた。

 全体の流れとしてはこれで間違いないだろう。今、ここに続いているエンジシニが当時から何年後のことなのかわからないが、間違いなく続いていることは確かなのだ。

 何故ならば。

 私の両親は湯浅つじ、ふみの二人であり、この立場になる前はおじさん、おじさんと呼んで遊んでもらった相手こそ、エイク・ブリザディアなのだから。

 デスクの引出しから写真立てを取り出してみれば、そこには三人が写っている。そこに私はおらず、私からすればまだ若く見える両親と、息子のあかが中央にいる写真だ。

 スフィア――いや、当時の時間歪曲はここ、エンジシニに繋がっていた。何故かは今もわかっていないが、間違いなく繋がっている証明として、紅音のような転移者の存在がある。それを迎え入れるのが、そして生活させるのが管理者としての私の仕事だ。

 そして、ああ――杞憂なのだろうか。

 それとも、想像通りなのか。

 見れば見るほどに、似ているではないか。

 雨天紅音と、湯浅あかは。

 似ているのだ。

 特にその瞳――写真にあるのは、うつろな瞳。どこを見ているともわからない、何も見ていないのではと思うほど空虚さを感じる、冷徹なもの。それは、この部屋を去る際に彼が見せたものと、酷く似ている。

 杞憂ならば、それでもいい。だが当たっていたら、これは問題だ。

 もちろん、紅音が兄に当たるという意味合いもあるが、それ以上に、私は両親から彼の特異性について聞き及んでいるのだ。決して話半分で切り捨てられない、いわば異常性。それが悪い方に転んだ時に、何が起こるのか想像もつかないのだから、手を打っておくに越したことはないだろう。

 けれどそのためには、当人が湯浅あかなのかどうかを探らなくてはならない。

 いくら総合管理課の責任者だからといって、エンジシニに住む個人のプライベイトまで覗き見することは不可能だ。やれることには限界がある。だからといって、湯浅あかですかと問うても、真っ当な返答がないことは想像に容易い。

 当人であればなおさら、だ。

「エース――」

 隣室から顔を出したディが、私を見て一度口を噤み、足を止め、視線を合わせると苦笑するように肩を竦めてデスク越しではなく、隣にまで移動してきて停止した。

「どうしました、お疲れのようですが」

「いえ……少し、気になることがあって。ディ、この写真の真ん中にいる子供と、先ほどの雨天紅音さんは似ていると思いますか?」

「五年もすればわかりませんよ。それに、私から見て……そうですね、面影があるとも見えません。想像できませんね」

「そうですか」

「エースは、似ていると?」

「ええ。ただ直感のようなもの……なので、確証はありません」

「危険人物ではないのでしょう?」

「その可能性はあります」

「……どの程度、ですか」

「わかりません。わかりませんが、もしそうならば、先代が危惧していたことになります」

「となると、さすがに黙ってはいられませんね。かといって、来たばかりで確保して尋問、というわけにもいきません」

「例外を一度許せば、それは例外ではなくなってしまいますからね」

 それはそうですがと、苦笑をにじませたディは腕を組んで胸を少しだけ持ち上げた。

「その写真は確か、エースのご家族の写真でしたね。先代にも協力した湯浅夫妻……と、思っていましたが」

「そうですよ」

「立ち入ったことを訊きますので返答は任せますが、以前より疑問だったので、この際です。先ほどエースの言った真ん中の子は、エースではありませんよね。どなたですか?」

「湯浅あか、です」

 なるほどと、頷くディは既に察していたようで驚きはない。しかし、と言葉を繋げようとしてしばらく黙し、やがて。

「そうですね……」

「いえ、構いません。ですから私にとっては兄に当たる人物です。もちろん、両親から聞いているだけで、実際に逢ったことはありません」

「失礼、立ち入った質問を続けるものではない、と思ったもので。それでは、湯浅あか氏については、どのような?」

「簡単に言ってしまえば、――わからないのです」

「そんな、わからないとは曖昧な……」

 小さく笑おうとしたディだが、私が真剣そのものなのを理解したのか、言葉を次第にしぼめてしまう。それから気を正す意味で一度瞳を深く閉じた。

「詳しく教えていただけますか」

「とはいえ、本当にわからないんです。たとえば――人には行動に当たって理由があります。これは父の言葉ですが、まずそこがわからない」

「それは、行動に理由がないのではなく?」

「ええ、あるはずです。あるいは、ないのかもしれない。二元論になりますが、基本的に選択肢はその二つで、他人の行動であっても後になってそれはおのずと発露するものでしょう。しかし、彼にはそれが当てはまらないと言っていました」

「主体性がない?」

「いいえ、主体性はあります。何しろ、先代のエイク・ブリザディアから聞いたところによれば、両親が転移した後に、湯浅あかは単独で研究所を仕切り、ほぼ完成の領域にまで研究を進めたのです。当時、確か……十五か、六の若さで」

「――先代は、当時に同じ研究所で働いていたのでしょう?」

「ええ。副所長の地位でした」

「信じられません。先代ならば、先代の知識と思考能力があったのならば……いえ、それ以上に成果を出していた、と?」

「そうです。先代ですら、あの人がいなければ完成はしなかったと、言葉にするくらいの人物です」

「ならば」

「しかし、彼にとってそれは、古くなった手袋を棄ててしまうのと同じくらいに、軽いものだったようです」

「……?」

「知っているでしょう。公式的に、スフィアはブリザディアが完成させたものです」

「では彼は、……転移したのですか。完成という名誉、成果そのものを提示するよりも前に」

「そう先代からは聞いています。――こちらに残りを放り投げて消えた、と。無責任などというレベルではありません。先代ならばあと少し、本当にちょっとだけ手を加えるだけで完成する直前で、第一稼働被験者になって消えた。ディ、あなたにできますか?」

「……いいえ、できません。そんなことは、考えられない」

「私も同様の見解です。浪費した時間、積み重ねた経験、その成果を受け取らずに放り捨てるなど、馬鹿げている。これだけ考えれば何かに固執しない人物のようにも捉えられますが、実際にはそうでもないようです」

「そもそも、あの研究は、固執でもしない限り、完成への道筋など見えてこないと、私は思います。結果だけを見て、その一連を流れとして追うことができる今でも、論理の飛躍が無数に存在していますし」

「そのほかもいくつかありますが……やはり、最終的にはわからないと、そう結論に至ってしまうのですよ」

「なるほど、ようやくエースの言っていた意味がわかりました。その人物が、先ほどの雨天紅音氏に似ている――と?」

「可能性はあります」

「なら、看過はできません。せめて同一人物であるかどうかだけでも、探る必要はあるかと。……エース、干渉することを避けるのならば、尾行することに許可は出せますか?」

「それはディがやる、とのことですか」

「そうです。あくまでも可能性ですし、あまり他言するような内容でもありません。一応は尾行訓練も受けていますし、私なら動けます。許可さえいただければ」

「業務が重なりますよ」

「承知の上です」

「わかりました。接触は避け、可能な限り発見されないよう、尾行の許可を出します。通常業務に支障をきたすようであれば、優先順位を下げてもらっても結構です。あくまでも――」

 可能性だ。

 確実ではない。

 だからきっと、私の失敗はこの時の、この判断だったはずだ。けれど現時点での最善……いや、次善策は、この程度しか出てこない。

 私には、責任というものがあって、この椅子に座っているのだから、それを放棄するわけにはいかないのだ。


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