09/11/16:40――深井正晴・後悔のハジマリ

 俺、深井ふかい正晴まさはるがいつか、ふいに立ち止まって背後を振り返り見て、後悔のハジマリを探そうとしたのならばきっと、いまこの時に戻るだろうことを、少なくとも今の俺はまだ知らない。けれど、たとえもしもここがハジマリであることを知っていたところで、きっと俺は何もできずに後悔だけを抱く結果を延延と続けるのだろうことは予想できる。

 ここにはいつもと同じ日常があったんだ。そんなことを口にしたらきっとリイディのヤツは、日常はいつもと同じだからそう呼ばれる、なんて混ぜ返すような言葉を辛辣に放つだろうけれど、その違いに思考を向けたとしても、俺には何の得になるのかもわからないのだから、立ち止まるよりもまず足を前へ向けようと無理に納得して顔を上げるだろう。

 まだ就業中の時間帯であるにも関わらず、総合管理課の待合室にいる俺は、どこか冷えた空気にため息を小さく落とす。無機物ばかり、どれもこれも稼働音すらしない静謐さを想像させられる状況だが、こんな嫌な空気を望んで作り出している建物なのだから、俺じゃなくたって近づきたくはない。

 意味もなくごめんなさい、と言いたくなる空気。悪かったと謝罪したくなる雰囲気。ここでは人間そのものが異物のように扱われているようで、何もしていなくたって悪いことをした気分になってしまう。それだけならまだしも、この待合室にいるのは俺一人じゃなく、管理課所属の数少ない実働の一人であるディも一緒だ。舌打ちを我慢するのも大変である。

 壁に沿うようにパイプ椅子が並べられており、できるだけ顔を合わせないよう、視界に入らない微妙な位置にそれぞれ座っているのだが、いないように扱おうと思うものの、それができたらため息など落としはしない。そこに存在していることを俺は確認し、認知しているのだから当たり前だ。人は簡単に消えていなくなったりはしない。

 しかし、やはり俺のため息もよく響くらしく気付かれ、ひしひしと文句ありげな視線が痛い。痛いが、それに反応すると余計に面倒が起りそうなので無視しておいた。

 総合管理課が呼び出した場合に限り、学業だろうが仕事だろうが免除され、時間内および一日平均の給料は確約される。逆に言うと拒否権が発生しないので、足を運ぶしかない。それだけの強制力を持っているのである。

 さて、俺が呼び出された理由だが、その内容はつまるところ新規転移者の世話である。

 相手がいつの時代から転移して来たのかは知らないし、聞くことがそもそもルール違反に当たるのだが、どうであれ新しい環境に馴染むのは苦労する。かくいう俺もその一人であったし、今でこそ暮らしに文句がないほど満喫しているが、当時は随分と混乱したものだ。そのため、必ず誰かが補助につくのだが、相手が悪い場合もままあるらしいので、俺としてはそうならなければ、と願うほかない。

 ――となると、途中ですれ違ったアイツだろうな。

 なんで俺なんだと端末を見ながら首を捻っていたためぶつかってしまったが、どこか暗い……冷静、冷徹、あるいは見下すような、そこはかとなく暗澹とした瞳をしていたように思う。俺の語彙が足りないのもそうだが、落ち込んでいる様子とはちょっと違って、こう、ああやはり説明しろと言われても困るのだが、なんだか妙に気にはなったのだ。

 だからどんな相手だろうと待つ間、俺ができることを考えながら、たぶん二十分ほどだろう。ノックが四度あったそれを、救いの音だと感じたのは、考えの大半はとっととこの場から逃げ出したいという想いだったからかもしれない。

「おう、終わったのか。早かったな」

 さっきはすまなかったと苦笑しながら立ち上がり、右手を差し出す。背丈は小柄な部類だろう、俺よりもやや低い。眼鏡をしているためか、どこか知的に見える。

深井ふかい正晴まさはるだ。しばらく同居することになったから、よろしく頼むぜ」

「どうも、雨天紅音です。こちらこそ、よろしくお願いします」

「――丁寧だな」

 まだ俺が誰なのかもわからない現状では仕方ないかもしれない。そう思って握手をしつつも、俺が十七歳であることや、敬語も必要ないので気軽に接してくれと伝えると、ありがとうと言って彼はぎこちなくも笑う。さきほど見た暗い瞳など、一切感じない顔だった。

 ――俺の気のせい?

 だったらいいのだが、しばらく付き合いはあるだろうし、気にしておこう。

「んじゃ行こう。こんな辛気臭い場所に長居はしたくねえんだ」

「――心に疾しいところがなければ、問題ないはずですが?」

 また嫌味を含めた発言に、俺は一瞥だけ投げてひらひらと手を振った。

「そういう心証を押し付ける空気ってのが辛気臭いんだよ。人もいねえし、こんな場所じゃ落ち着きもしない。あれだ、なんなら改善要望でも出してやろうか?」

「結構です。もう読み疲れました」

「ふうん。じゃあなディさん、お互いに顔は合わせたくねえけど」

「同感です」

 勘違いして欲しくないのだが、俺はべつに反感を持っているわけではない。また、険悪な間柄でもないのだ。事務的な会話もするし、今のような冗談じみた悪態の応酬くらいする。するが、やはり親しくはないのだろう。

 廊下に出てもまだ落ち着かなかったが、端末を取り出すともう夕刻に近かった。この時間感覚が麻痺するのも、俺としては苦手な理由の一つだ。

「もうこんな時間か。っと、紅音――でよかったか?」

「はい」

「じゃあ紅音、とりあえず飯でも食いに行こうぜ。時間的には夕方なんだ」

 安価な学食よりも、商店街に出た方が雰囲気は良いだろうし、選択の幅は広い。建物の内部よりも人の動きも見られるだろう。

「そうだ」

「……?」

「俺は、迷惑ってことはねえから。いや実際にそうならちゃんと迷惑って言うし。だからとりあえず、……あー、俺も説明下手かもしんねえけど、なんかわからねえことあったら気にせず、何でも言ってくれ。同じことを何度聞かれても構わねえから」

「あ、はい。ありがとうございます」

 その言葉は素直だ、実際に感謝していると思う。だったらそれでいい。

「って、ああそうか、あれだ。スフィアの使い方も説明しねえと」

「スフィア?」

 立ち止まったのはエレベータのような入り口がある前だ。俺たちエンジシニの連中にとっては必要不可欠な移動手段である。

「転移装置ってやつだ。基本的に一方通行で出口も決まってる。中に入って扉を閉じるボタン――エレベータってわかるだろ? あれと似たようなもんだ。内部音声に従って実行ボタンを押せば転移できる。簡単なもんだからやってみるか?」

「そうですね」

「え――」

 おい大丈夫かと声をかける前に扉が目の前で閉じる。実際に操作自体が簡単なのは本当だし、安全性も確保されている。だが初見、体験するのが初めてであるのにも関わらず、即決即断で中に入るとは、かなりの度胸だ。情けない話だが、俺が初めての時は五分くらいあれこれ悩んだものだ。

 経過ランプが稼働から空室へ変化したため、俺は中に入ってレッドと呼ばれる、普段使っている携帯端末をかざして認証、軽い酩酊のような感覚の後に扉が開き、外に出た。

「――ん?」

 いない。

 左右を見渡しても人の動きがみられるだけで、肝心の紅音の姿が見当たらない――おいおい迷ったのかよ、と思った直後、背後から声が届いた。

「敬語は」

「お――」

「――使わなくても、いいかな」

 軽く肩を竦める仕草は、先ほどのような硬さを感じない。豹変……とまでは言わないにせよ、俺としては気軽に接することができてウェルカムだが、一体何が理由で?

「悪い、ちょっと移動していてね」

「いや……驚いただけだ。あっさり使うのも、後ろにいたのも」

「うん? だって深井さんたちは日常的に使っているんだろう?」

「そりゃそうだが」

「それと、敬語っていうのは使い終わるタイミングっていうのが難しいからね。さっきの建物はぴりぴりしてたけれど、この様子ならもういいかと思って」

「べつにいいんじゃね? 相手によって対応を変えるなんて当たり前なんだし、俺がいた……さっきの建物の中でも、俺を相手なら最初から態度を、いや口調か、変えたって問題なくね? 年齢が近い同性相手だから気が緩んだんだなーとか、そう受け取りそうなもんだけど」

「そうだね。だったら僕は不自然なことをしたんだろう」

「……なんでだ?」

「さあ、どうしてかな。今もまだ混乱しているのかもしれない」

 そう言いながらこっちを見る紅音は、随分と落ち着いて見える。混乱しているなんて馬鹿げていると笑い飛ばしても構わないくらいに、ちゃんと俺を認識している瞳だ。

「あの総合管理課は政治家の執務室を彷彿とさせられる威圧感が常駐していたからだよ」

「あ、ああ……合わせたってことか」

 相手ができているようで、できていないような感覚がある。なんだろう、いや――気にしなければいいのか。

 主導権の奪い合いをしているわけでもなし。

 しばらく歩くとファストフード系列の飲食店に到着し、俺は食えないものだけを確認しておき、注文を済ましてレッドで料金を支払う。

「いいの?」

「金なら大丈夫だ、必要経費として計上されてるぶんは使わないと損だろ。俺は、食費を減らすくらいなら仕事を増やすって性質でね」

「なるほど」

 まだ混雑する時間帯ではなかったため、席はあちこち空いている。窓際でいいかと問うと、少し考えた紅音は壁際にある一席を指定したため、そちらに移動する。

「さてと、飯がくるまで説明するけど、俺下手なんだよなあ。まずはレッドか。だいたいの情報は詰まってるから後でじっくり読むといい。操作はどうだ?」

「やってみないとわからないけれど、たぶん大丈夫。電子機器に苦手意識はないし、基本的にはタッチパネル形式なんだね。ネットにはアクセスしてる?」

「おう。つーかまあ、そこが基本だ。とりあえず最初は……地図だ。エンジシニは大きく区分けされてる。まずさっきまでいた総合管理区。総合管理課の根城だな。さっき感じた通り、上司の部屋みてえに、普段から立ち入りたくねえって場所だ。用事がなけりゃな」

「わかるよ。学校でいうところの、職員室みたいな」

「そういうこった。で、ここが商業区で結構な広さがある。この近辺は飲食店が立ち並んでるし、通りを歩いていくと商店が並んでるな。簡単に飲食店街、商店街なんて分けてもいるけど、実際にゃ商店街だって電気街やらデパートやら、本当にいろいろだ」

「実際に歩いてみないとわからない、か。スフィアの数は?」

「おう、レッドで地図表示すりゃ最寄りのスフィアを表示することもできるし、迷ったら目的地を入力すりゃ最短ルートを出してくれるぜ」

「それは安心だよ。すぐ迷いそうだと思っていたところなんだ」

「広いからなあ、最初は誰だってそうさ。んで、物品は食品を作ってる生産区――こっちは工場系が多いな。人は少ないけど、だから逆に迷うと本気で困る。まあ折を見て案内するよ、俺は人並み以上に地理が頭に入ってっから」

「そうなの?」

「おう、これでも配送部で仕事してっから――と言ってもあれか。うん、後で説明する。残りは……居住区で、これは婚姻した連中や仕事を中心に生活してる人たつが住んでる個人の持ち家が並んでる区画だな。新しく建造ってのは珍しいから、空き家もそれなりにあるぜ」

「じゃあ僕……と、深井さんは違う場所に?」

「呼び捨てでもいいぜ、名前でも。そう、最後の一つが学区って言って、いわゆる学校だな。俺とお前が生活すんのも、そこの寮になる」

「確認するね。総合管理区、商業区、生産区、居住区、学区の五つに大きく別れている」

「そういうことだ。まあどの区画にも、一部は立ち入り禁止区域が設けられてるし、警備部の腕章を見かけたら、あんまし近寄らない方が良いって覚えておくといい」

「わかった、と頷いておくけれど」

 ちょうど料理がきたので、続きは食いながらにしようと言う。特に指示はしていなかったので箸だが、どうやら紅音も扱いには慣れているようだ。日本人なのだろう。風貌も東洋人であるし、俺もそうなので近しいものを感じていたのも事実だ。

 だが一口食べて、僅かに眉根を潜めた。

「どうした」

「ん……合成食料だね、味気ないや。まあだからこそ、食糧不足もないってことか」

「よくわかるな、その通りだ。人工的に培養されてる。詳しくはちょっと俺にゃわからんなあ」

「ふうん。と、そうだ、さっき出てた配送部とか、警備部とかは?」

「部活動――つーか、アルバイトだな。会社の下請けってイメージできるか?」

「メインに対する補助だね。あるいは作業の分割」

「そうそう。学校――に、まあ通ってるんだけどな。部活は強制じゃねえけど、別途報酬が出る。内容はいわゆる会社の下請けみたいな形で、あちこちの会社と連携しつつも独立した組織のような形で社会貢献してるんだ。詳しくはこいつも後にしとくが、数はかなり多い。まあ俺は配送業の手伝いとしての配送部、警備部は総合管理課の下請けで巡回や警備、それと簡単なトラブルの事後解決を担ってる」

「事前じゃなく事後か……縛りを緩くすることで自由度を高めながらも、後手という決定的な欠陥をそのままにしてしまう、かつての警察と同じだね。皮肉が利いてて面白いよ」

「面白がるなよ……んで、生活に必要な金の話な。金銭感覚は、実際に商店に行って掴むしかねえけど、よほど贅沢しない限り一ヶ月は暮らせる金が、紅音のレッドに振り込まれてるはずだ」

「一ヶ月か……いわゆる猶予期間だね。稼ぐためにはどうすればいいの?」

「まず、学校に通うこと。授業を受ければ単位ごとに一定の金額が支払われる。ここは就職が義務付けられてねえから、学校の年齢制限はねえよ。ずっと学校にいたって、怠け者の烙印は押されねえし、押すなよ?」

「うん、それは個人の自由だと思うけど」

「んで俺みたいに、ちょっと贅沢しようと思ったら部活をすりゃいいのさ。あ、金の受け渡しは管理課を経由しねえとできないから、不法な手段で金を仕入れるのは基本的に不可能だかんな? あいつら目を光らせてやがるし、そこらへん厳しいから」

「あはは、そんなことしないよ。僕はまだわからないことだらけだし……でも、だから一ヶ月くらいで方針を決めた方がいいってことだね」

「ま、選択肢が多いから困るかもしれねえけど」

「こういう言い方はおかしいかもしれないけれど、とりあえず学校に通っていれば生活に困ることは、そうないってことだね」

「おう。一応、学科ごとに試験もあるぜ」

「それは進級のために?」

「それもそうだが、なんつーかこう、ある種の資格になるんだよ。バイトや就職でも、その試験に合格してるってだけで深い部分まで預けてくれるっつーか、技術を認められるっつーか……現場での優遇? それなりに給料も弾んでくれるって話」

「教育機関だから、か。学科もいろいろ?」

「部活ほど多くはねえけど、それなりにな」

 ふうん、と頷きながらも食事を続ける紅音には、新しいものに対する混乱が一切ないように見える。それを隠しているのか、本当にないのかは知らないが、なんだかここで暮らしていたと言われても頷けるくらいに馴染んでいるようにも思えた。そんなはずがないことを、俺が一番知っているはずなのに。

 食事を終えてからは、まだ時間もあったので商店街の一角を回ることにした。本格的な買い物は明日からで良いだろうけれど、少しでも雰囲気を感じておくと後が楽だと思ったからだ。

 紅音が質問をして俺が答える。そういう流れは当然だし、俺がわからないことを訊いてくることもあったが、素直にそれを伝えると、そうかと落胆もなく紅音は頷く。そんなやり取りを続けていたが、ふと質問が途切れたと思ったら、ショウウインドを覗き込んでいた。

 とはいえ、足を止めて見入っているわけではない。ほんの数秒だけ立ち止まったようなしぐさだが、俺の記憶では宝石店だったはずで、紅音は装飾に興味があるのかと――もしそうなら、ちょっとギャップがあるなと、内心でだけ笑っておく。

「なんか面白いもんでもあったか?」

「ああいや、何があるのかなって」

 どんな店か確認していたのか――と、納得する。この時の俺は、いや俺でなくとも誰であれ、まさか紅音がショウウインドウ越しに背後を見ることで尾行確認をしていた、などとは思わないだろう。それが事実だと知るのはもっと先になってからのことだ。

「そういえば、夜はどうなっているの?」

「ん? あーそうだな、夜間営業は基本的にねえよ。人が外に出て歩き回るってのもほとんどねえな。警備部の見回りは夜間にあるらしいけど、禁止されてるわけでもなし、出歩く理由もそうないってわけだ」

「なるほどね。僕は休める時に休んじゃうから、たぶんそういうことはないだろうけど……」

「ん、そろそろ戻るか。寮の説明もあるし、そろそろ落ち着きたいだろ」

 スフィアを使えば時間をかなり短縮できる。距離などあってないようなものだ。

 学区の寮は文字通り、集団で生活する場所であって廊下には同じ作りの扉がいくつもある。すれ違う知人に軽い挨拶をしながら自室へ戻りつつも、紅音に学食や購買もここにあることを伝えた。実際にしばらくは、学区から外に出なくても生活自体には困らない。

 部屋は八○三号室。ちなみに隣は八○五号室になっており、俺の部屋は八○四であるところの紅音と同じ部屋になるわけだ。基本的には二人で一部屋。ただ生活に馴染めて一人で生活をしばらくしてみたい場合、管理課に要請が通れば相方か自分が空いてる部屋に引っ越すこともできる。俺がそうだったけれど、番号まで変えなくてはいけないのが面倒だった。

「ここが俺の部屋な。紅音の部屋にもなるけど。鍵はレッドをかざせば開くから失くすなよ? まあ、失くしたら何もできねえし、二台以上は所持できねえ仕組みになってる」

「そうなんだ。気を付けるよ」

 玄関はかなり広く、十人以上が来訪しても靴の置き場には困らない。靴を脱ぐ日本式で、出ているのは俺の雪駄だけで、ほかは靴箱に収納してある。今までは基本的に独り暮らしで、頻繁に来客もあるため、掃除や整頓だけには余念がない。

 玄関から入るとまずはリビング。一人でも手に余った広さだが、二人でもそう変わらないだろう。共同の場所とはいえ、常に二人で使用するわけでもなし――いや、常にそうであったところで問題はないか。

「ここが共同な。あっちのキッチンとかもそうだし、風呂もそうなる。んで、左側のが俺の部屋で右が紅音の部屋だな。とりあえず中見るか?」

「そうだね」

 示した部屋を紅音が開き、俺は背後からそれを見る。壁際にダブルベッドと奥にはデスクとチェア。逆側の壁には何もない本棚があり、広さはおよそ二十畳はある。お手洗いは部屋の横に備え付けであり、俺の部屋と同じつくりだ。内装はこれから紅音の自由にすればいい。

「どうよ」

「うん、かなり広いね。もっとも狭いイメージをしたから驚いた。とりあえず寝ることはできそうだけれど、本当に何もないんだね。生活用品くらいは揃えないといけないかな」

「そりゃそうだ、ちゃんと揃えろ。よっぽど酷い改造しなけりゃ問題はねえから、好きにすりゃいい。あと、扉を閉めれば基本的には防音だからな。とりあえず茶でも飲もうぜ」

「わかった」

 さて、紅音はどの飲料が良いかと考えはするものの、買い置きのものは俺の好みである緑茶しかない。最初から選択の余地などなく淹れて出すが、紅音は特に文句を言わなかった。

「ここ……エンジシニには何人くらいが生活しているの?」

「そう言われても、少なくはないぜ。ただまあ、悪いな。正確な数字は浮かばないんだ。一万はいねえ――のかなあ」

「増減はしてるってことだね?」

「おう。病気ってのはほとんどねえから老衰……だけどまあ、帰る連中もいるからな」

「ふうん……」

 帰るとはいえ、総合管理課に出向いて除籍扱いになると伝えられるだけで、実際に彼らがどうしたのかを俺は知らない。感覚としては消えた、に限りなく近い状況に、俺は不信感も抱いている――が、それを紅音に伝えて不安がらせても仕方のないことだ。

 だから、話題を変える。

「そうそう、俺やお前みたいな転移者は第一世代って呼ばれてるぜ。んで、第一世代の子供……つまりエンジシニで生まれた子が第二世代だ」

「へえ、今はどこまで?」

「だいたい第三世代が……八歳? まあその前後ってところだろ」

 俺は他人の事情にあまり首を突っ込まないし、調べようとも意識していないので情報は曖昧だ。リイディならもっと詳しいだろうけれど、ここにいない友人を当てにしても返答はない。

「そういえばこの施設は、ドームみたいになっているんだね。外や空は映像?」

「……なんだ、俺の知り合いみてえなことを気にするんだな」

「普通は気にしない?」

「そいつはどうか知らねえけど、詳しくはわからんな。映像じゃない――ガラスのようなもの? だったか。大外はリアルだし、空もリアル。小窓みたいなのがあって外気も取り入れてるしな」

「へえ、てっきり温度も湿度もコントロールしてるのかと思ってたよ。調整はしてるみたいだけど」

「雨天時は閉めるらしい。気候的に雪はねえみたいだ。でもま、四季の気候を演出するってのも、ある程度はな。どっちにせよ――無菌室で育った人間は、無菌室でしか生きられねえよ」

「なるほどなあ」

 甘やかされて育った人間が環境に適応できなくなるのと同じだ。逆はそう問題ないのだけれど、人から抵抗力まで奪ってしまえば免疫は低下し、順応すらできなくなる。だから適度に、環境を変化させることも必要だ。もっとも、俺はそういう考え方はあまり好きじゃないし――。

「なんて、これは受け売りだ。俺の台詞じゃねえ」

「へえ、そうなんだ。ああそうだ、その、大外っていうのは?」

「ああ……悪い、なんつーか俺の説明も順序がめちゃくちゃだよな。大外ってのは、いわゆる施設外のことだ。ドームの外な。一般的に言うところの外ってのは、俺らにとって建物の外側って意味合いが強いんだ」

「出ることは?」

「できるが、ほとんどしねえよ。一応形式としては、レッドを置いて……なんだったかな。ともかく没収されて、戻る時には滅菌処理を受けるはずだ。昔と変わってなけりゃ、だけどな」

「ということは深井さんも、一度くらいは外に出たことがあるんだ」

「あんまと奥までは行けなかったけど、最初の頃にな。何しろ周囲が森だ、土地感はねえし、道しるべもないんだぜ。地図すらないのに、遠出は難しいだろ。姉ちゃんの尻を追っかけてた方が楽しい」

「あははは、そうかもしれないね」

 まあ俺はそんな軟派ではないのだが、冗談としては上等だろう――そんなことを思っていると、ハンドベルを鳴らしたような澄んだ音色、来客用のチャイムが鳴った。はて、誰だろうかと腰を軽く浮かせてから、テーブルに置いてあったレッドの日付と時間を見て気付く。

「――しまった。連絡入れんの忘れてた」

「どうかしたの?」

「いや、俺のツレが来たんだ。週に一度くらいは顔を合わせて話をする相手なんだが、あー……どうしたもんかな、こりゃ」

「……うん。だったら僕は部屋に戻って休むよ。それなら問題ないだろうし」

「ばっか、問題はあるだろ。本来なら逆じゃねえか。紅音、そういう気づかいは必要ねえぜ。あれこれ情報もあって頭痛えかもしんねえけど、あれだ、まあ――すまん。余裕がありそうなら付き合ってくれるか?」

「僕はいいけれど、そっちはいいのかな」

「いいさ。俺の同室なんだ、紹介させてくれ」

「わかったよ」

 レッドの操作で玄関を開くと、二人の女性が入ってくる。まずは背丈がやや高い女性が頭を下げた。黒髪はやや短いものの瞳も黒く、血筋としては日本人になるだろう。付き合いはそこそこ長いが、やはり確認するまでには至っていない。

「初めまして、小里こざと古宮ふるみやよ」

「どうも、雨天紅音です」

「なんか押しかけたみたいでごめんね。迷惑なら帰るけれど」

 相変わらず真面目な対応だ――そう思っていると、小さく肩を竦めた紅音が笑いかける。

「いいよ、迷惑じゃない。それに、どうであれ心配で様子見にきたんだろう? それが僕であっても、深井さんであっても構わないよ。空気も華やかになるし歓迎さ。そうだろ深井さん」

「間違いねえな、あははは。――生真面目だけどな、こいつ」

「それなら余計に、そこをつついて崩したくなるのが男ってものじゃあないか」

 冗談交じりの言葉に、古宮はやや視線を逸らした。頬には朱が混ざっており、それを見た隣の女が笑う。

「にやにや、ミャアが照れておる」

「うっさい。――ほら挨拶」

「誤魔化したのう。まあいっか、あたしはリイディ。よろしくするかどうかは、まだわかんないねえ」

 初対面を相手にいつもの、人を馬鹿にしたような探るような態度。古宮が何かを言いかけるが、それよりも前に紅音が正面から対応した。

「つまり、ベッドに入りたいなら手順を踏めと?」

「――そうだねえ」

 やや間延びした声にブルーアイ。僅かにホワイトが入った髪は腰元までと長く、紅音よりも背丈は低いか。発育も古宮よりも良いらしく、口調のせいもあってふわふわした印象を受ける。これまた付き合いはあるのだが、なかなか捉えどころがない厄介な女だ。

「まあお二人とも、僕は今日来たばかりなので、とりあえずはよろしく。右も左もわからないからね」

「ま、大丈夫だろ。ほいお茶」

「ハルさあ、ここは緑茶じゃなくて紅茶だろお。買っとけよお」

「なんでリイディの趣味に合わせなくちゃいけねえんだ、俺の趣味に合わせろ」

「あんこ系の茶菓子って太るのよね……」

「出さねえよ、微妙な催促してんじゃねえ。あー、こいつらは一応、学友な。授業科目は違うけど」

「そういえば、学科も部活ほどではないにせよ、数があるって言ってたね。もしよかったら、教えてくれないかな」

「俺らのか? つっても、俺は一般学科だぜ。普通科っての?」

「私も一般学科よ。部活はやってないけど、スポーツは多少やるから同好会に入ってる」

「同好会というと?」

「ん……そうね、趣味で遊ぶためのグループかしら」

「なるほど。バカラを楽しもうにも一人じゃできない、か」

「なんだそのたとえは」

「ちなみにカジノもあるぜえ」

「へえ――そうなんだ」

「一応、公共の賭場だけど、あそこは警備部や管理課の根城みたいなもんだぜ」

「ふうん。まあ僕は、基本的に賭け事はやらないけれど」

 俺もやらない。勝てるかもしれない、なんて勝負は負けるかもしれない勝負と同じものだ。どちらにせよ、大きなメリットがあると避けたくなる。小心者なのかもしれない。

「あたしはねえ、情報処理科だよお。技術研究部にいるねえ」

「なるほど、参考になるかどうかはともかくも選ぶのが大変そうだなあ、これは。やりたいことができる、か」

 俺も最初はそう思った。だから無難な選択をしておいて、後で変えたりするのが普遍的だ。誰かの話を聞くというのも、サンプルは多くしておくと効果的で、参考にするかどうかは個人の裁量だろう。

「でも、選ばなくてもいいって選択肢はないねえ」

 リイディが当たり前のことを言った。しかし、どうしてか紅音は軽く瞳を伏せてから、口元だけで僅かに笑みを表現した。

「技術研究部はあたしだけでねえ。アカがくるなら歓迎するぜえ」

「勧誘かよ。だからって配送部にゃ誘えねえな。迷うだけだ」

「まだ来て間もないのに、そういうこと言わないの。紅音も気を付けなよ? 正晴、気遣いは上手いけど世話はたぶん下手だから」

「ぐっ……当たってる」

「ははは、大丈夫だよ。僕はまだ右も左もわからないから、覚えることが山ほどあるしね」

「待て紅音。そいつは俺が世話下手なのをフォローしてねえぞ?」

「え? ……えーっと、そうだね、うん。大丈夫だ深井さん、まだ下手な世話を受けていないからね」

「おおう、言いおるぞアカめ、もっとやれ」

「煽るなリイディ」

「はいはい。それより紅音は説明、一通り聞いたの? 何か質問とかあるなら、私たちでも答えるけれど」

 そうだねと、紅音は首を傾げるようにして。

「じゃあ一つ。総合管理課が文字通りの管理を担っていることはわかったけれど、その体制として疑問があるんだ。どうして伏見こゆき氏が責任者なのか、知っているかな?」

「――え?」

 驚きに問い返したのは古宮で、俺は思わず表情を硬くしてしまう。リイディは相変わらず笑ってはいたが、瞳まで笑っていない作り物だ。紅音はそれらを見て、何かおかしなことを言ったかなと、そんな表情を作った。

「若い人だよ、管理体制の責任者としては似合わない。もちろん、お飾りなら頷ける話だけれど、そういう様子もなかったし、どうしてなんだろうと思ってね」

「問題があるのか?」

「ん? 回ってるなら問題はないと思うよ。ただ、望めば誰でもできるような立場じゃないだろうし、何か理由があるのかなと……おかしいかな、これは」

「いや、驚いたのは俺と古宮にとっちゃ二度目の質問だったからさ。なあ?」

「うん、ねえ……」

「そうだったかねえ……にやにや」

「じゃあ、おかしくはないんだね」

 いや、おかしいだろう。

「でもそれ、まだわかってないのよねえ」

「ふうん?」

「実際、警備部や管理課の目も厳しいし、あんま表だって動けねえのが原因って気もするけどな。それほど本腰を入れてるわけじゃねえけど、何故かはわかんね」

「伏見さん、あんまり表に顔を出さないから余計によね」

「なるほど。じゃあその関連でってわけでもないけど、警備部も部活の一つなんだよね?」

「なんだよ、興味あんのか? まさか、警備部に入ろうってわけじゃねえだろうな」

「入ると、迷惑かな?」

 好きにしろと返答をしたいところだが、本音としては面倒だ。今の俺たちが叩けば埃が出る身、というわけでもないが、やはり管理体制側というのは敬遠したいものである。

「あはは、入るわけがないよ、ああいうのは苦手だから。ただ、管理課と繋がりがあるのなら、警備部は部活の中で特殊な位置付けになってるんじゃないかと思ってさ」

「そうね。参加自由の部活動の中じゃ、警備部だけは推薦が必要……かな。私たちは簡単に引き抜きと言っているけれど」

「そこにも何かしらの理由がなければいけない、と。なるほどね」

 じゃあ次かなと、話しが変わる。

「明日は日用品なんかを買おうかと思っているんだけれど」

「おいおい、早いな」

「そう?」

「俺なんか二日か三日くれえは、ぼんやりしてたもんだぜ」

「呑気じゃのう」

「うるせえ」

「そんなものかな。僕は見ての通り、深井さんのお蔭もあってずいぶんと落ち着いているよ」

「褒められてんのかこれ……」

「にやにや」

「笑ってねえで答えろリイディ」

「はいはい。――で、なに?」

「ここでは価格競争があるのかなと」

「価格……競争? ……って、なんだっけ」

「にやにや」

「ちっ、こいつ役に立たないわね。ちょっと正晴」

「商店同士が客入りを競って、低価格商法を取り入れることだ。店ごとに価格を変えてくる――んだがな紅音、こっちじゃそういうことはねえよ。大きいデパートなんかの店舗だと、使用回数や金額に応じて値引き……そうだな、ポイント制度って言えばわかるか? あんなような感じのものがあるだけだぜ」

「なるほどね。いくら手に入れる方法があるとはいえ、今の僕には所持金が限られてる。だから効率的にと考えていたけれど、そっか。あまり考えなくてもよさそうだね」

「なんならあ、明日の買い物に付き合ってやるぜえ」

「それは助かるよリイディさん。ついでに、女物の服を買うなら任せるけれど、肌が露出しないタイプに限って欲しいね」

「……詰まらんのう」

「先回りかよ。つーか、女装したことあんのか?」

「いや、ないよ。ただ僕は機能性以外にそれほど着物に頓着しないんだ。それが服ならば、それでいい。なんだって基本的には同じさ。あ、でも付き合ってくれて助かるのは本当だよ」

「んじゃ、昼過ぎくらいにしようぜ。俺は付き合えるかどうかわかんねえけど、学食も一度案内しときてえし」

「おっけい。……それがしは疲れたので寝る」

「ここで寝るなよ!」

「また私が引っ張って帰るのか、この流れ……」

 紅音が参入したとはいえ、冗談も含めて笑いあう日常が、確かに俺にとっての、いつもの日常がここにあった。

 間違いなく、存在していたと思う。

 一体誰が、これを悪いことだなんて――否定するだろうか。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る