09/11/16:00――雨天紅音・冷徹な訪問者

 何故、どうして。

 理由のない行動はなく、あらゆる些細な、微細な行動に至るまでそこには必ず理由が存在する。それが己の理由であっても、あるいは他者へ向かうものであっても、理由のない行動はやはり存在せず、行動がある以上はまるで月と太陽のよう付随する形で理由が存在してしまう。

 無意識に、という言葉が存在するように、その理由をすべて把握できているかどうかは別問題だ。むしろ、できていたのならば人の範疇から逸脱しているだろう。けれど、反射的に――いやこの言葉そのものが理由だけれど――動いた、あるいは何故こんなことをしたのだろうと、そんな自問自答をしたくなるような行動ですら、理由はあるのだ。ただそこに気付けないだけで、気付いてはいけないだけで、ならばこそ、己の解釈不足や知識の浅さに悔いるくらいが丁度良いのかもしれない。ゆえに理由そのものを、影響と呼ぶことだってあるのだ。

 けれど、理由と意味は違うものだ。行動に理由はあるけれど、意味があるかどうかは別となる。誰しもがそこを混同しがちであるが、明確な境界線がそこには引かれており、けれどその境界線もまた自覚と無自覚のように曖昧で、線引きそのものが個人を絡めた途端、ねじれている紐のように複雑化してしまい、その解き方もわからなくなる。存在は確定しているのだが、どこにあるのかは不明なのだ。

 行動に理由ではなく意味を求めた瞬間に、それは作為となり、酷くなれば形骸化してしまい、自己満足どころか自信喪失につながる場合もあるけれど、しかし最大の難点と呼べるのは、その意味が自分に向かうのか他人へ向かうのかで、行動の理由すら反転してしまう場合があることだろう。

 時に、本末転倒の四字熟語を口頭で説明するのが難しくなるよう、実例を交えればなんとなくわかるものの、その実例に実感が伴っていたところで、共感を得られなければただの空疎だ。つまるところ意味とは、そんな魔力を持っている。だから人は、その本質を見えようともせず、意味を欲する。

 だが意味とは求めるものではなく、得るものだ。つまり結果に対して期待するのではなく、出た結果に満足しろと、そういうことだ。それが道程であるのならば意味など考えず、行動結果ならばその意味を得られる。これは、なんというか夢見がちな少年少女たちに対して厳しい現実を突きつけているみたいにも感じるが、年齢による経験ではなく、熟慮の結果として得られる結論ならば、早いも遅いもあるまい。

 結局のところ僕が何を言いたいのかと、ここで一度総括してしまえば、それは僕の行動に理由はあっても意味はほぼないものだと、そう思ってもらいたいと、心底から伝えておきたいのである。何故ならここから先は本来、記録には残らないものであるし、僕は記録に残らないよう――あるいは残さないよう行動し、結果を得ようと考えている。

 それを踏まえて言いたいのだが、何故、どうしてと疑問を抱くのならば僕の行動、あるいはそこに付随する理由にしていただき、決して意味には向けないで欲しい。ここで僕が、意味などない――なんて、そう決定的なまでな断定を行ってしまえば良いのかもしれないけれど、やはり先に述べたよう、そう思ってもらいたいと保険を掛ける意味合いで、僕は付け足したい気持ちが強い。

 どうしたって意味は、僕が持っていなくとも、他人がそれを評する場合に影響を与えてしまうから、断定によって僕が嘘吐き呼ばわりをされる可能性だとてある。

 それでも構わないと僕は思っているけれど、それを他者に押し付けるのは傲慢というものだ。僕は嘘を吐くことに対して躊躇などないし、それを頭から信じていて嘘だと発覚したところで、それが僕の体験であり当事者であっても何も感じず、そこに感情を動かすような人間ではないから、少なくとも僕に対しては嘘を吐いても構わない――が、だからといって僕がここで嘘になりうる言葉をはっきりと明言してしまうのも、あたかも事実のように断定するのも、嘘吐きだと公言するのも、どうかと思う。

 自分にやられて嫌なことは他人にもするな。

 これは母の教えであり、僕は嘘偽りなく、これを一度たりとも破ったことはない。法の裏をかいくぐるような真似をしたわけでもなく、実直にその言葉を受け止めてなお、反する行為には至っていない。あるいは、これからもそうだろう。三つ子の魂百までというか、人としての最低限のルールだと僕は思っている。もっとも僕がまともな人間かどうかは、べつなのだけれど。

 ――さておき。

 このような前置き、いや独白、いやいや思考を行っているのは何故かというと、これが僕なりの自己確認だからだ。これを自己証明だといっても過言ではなく、何よりも自身が自身を認識することの困難さは筆舌に尽くしがたく、意識してそれを行えるようにしなければ身につくものではない。

 物体が観測によって存在を証明できるのと同様に、他人がいなければ自身は確定できない。そもそも自己紹介などといった類のものを僕は妄想か何かだと思っているし、短所や長所を記せなどと言われると苦笑したくなる。いつだとて記されるのは、僕自身ではなく誰かが僕に対して評したものであって、僕自身が思っていることとは違うものだ。

 だから人は孤独を嫌う。嫌悪する。いや、それは紛うことのない恐怖なのだろう。

 人は孤独にはなれない。この世に存在する孤独とは即ち、一時的なものであって継続するものではなく、そうであったところで稀な状況になるだろう。

 部屋に一人でいても、外には人がいるのだと頭の隅では理解している。もちろん実際に外に出て人を見なくては観測できないため、いないとも受け取れるが、外にはいるが今は一人だ、という状況が安心を生み、安寧に身を委ねることができる。

 極論を言ってしまえば、孤独とはどこに行っても人がいない状況を指す。そもそも人を探す、などといった行為が頭に浮かばないような過酷な状況だ。人という存在を否定された場所に、自分という何かがそこに在ることが孤独なのである。

 そうした状況でも自分を見失わない方法が、僕にとっては考えることだ。とりとめもなく、無駄に、どうだっていいことを考える――。

 そうしてわかったことは、しかし、どうやら今の僕は孤独ではないらしい。

 思考の時間はほんの数分にも満たない程度だっただろう。耳に届く喧騒にも似た人の気配が、そこに含まれる雑音じみた声が、スピーカーから流れる録音ではないことを確認したのが最初で、けれど僕はまだ瞳を開かずに大きく深呼吸を意識して行う。

 空気がある。嫌な臭いはしない――けれど、まるで滅菌室に入った時のような人為的、作為的な清潔さを感じた。これは大自然の森の中で深呼吸をした時とは真逆の感覚だ。それと両足が地面、ないし床についている。そこから全身を確認するように己の肉体を把握した上で、身震いするように状態を見ながら瞳を開く。

 人が五感の中で重点を置いているのは聴覚であり、次いで視覚だ。突発的な状況に対して混乱してしまう場合の多くは、耳を封じられたり目が追いつかなかったりと、とかく情報の多さに脳が処理をしきれなかった状況だろう。だから、もしも夢を見てその内容を覚えておきたいのならば、できるだけ覚醒した直後に目を開かず、物音を聞くよりも前に、意識して夢の内容を思い返し――つまり思考することで再記憶を行えば、忘れにくくなる。

 ともかく、僕はそうした手順で自分のいる場所と状態を確認した。目を開いても、飛びこんでくる景色からの混乱はない。

 長く続く廊下だった。遠く、ぱたぱたと軽い足音がいくつか聞こえるものの、僕の視界内に人はおらず、右手にある窓に目を向ければ視線の高さが窺えた。何階なのだろうと考えてみるが、そんなものが即座に出るほど僕は高さに慣れてはいない――が、けれどその景色が、人為的な庭であったことに現実味を覚え、大きく身震いが発生して肉体と精神が一致する。

 身体の状態確認ではなく、存在の合致に似たそれは、寝起きに伸びをするような感覚が近い。試しに手を握って開けば、その動作に先ほどまで感じた違和がなかった。

 庭の外側――と奥、塀にも似た囲いの外は手が加えられていないような森になっている。その更に奥はどうなっているのだろうか、森が続いているのかと窓に近づくための一歩で足の動きを普段よりも強く自覚しつつ、ちらりと視界の隅に移った動体が人のものか、それとも僕の状況認識の甘さが引き起こした錯覚なのかと疑問を抱きつつ、ほぼ無意識に眼鏡の位置を正した。

 正して、気付く。当たり前のように、眼鏡があるのだと。

 僕の眼鏡は黒フレームで長方形。これがあっても少し目付きが悪いと評判の仏頂面が、焦点を変えてみると窓に映っている。対人向けにしては無愛想が過ぎるなと思い、右手で頬をほぐすように動かして、そこでようやく。

 肉体としても僕は僕なのだろうなと、そんな当たり前のことを思った。

「――っと、悪い」

 どん、と肩にぶつかった衝撃で窓に手をついた僕だったが、慌てるなと言い聞かせながらゆっくり振り向くと、携帯端末らしきものを片手にして、背丈の高い男性が僕を見て軽く頭を下げた。いや高いというよりも、僕が男性平均よりやや小さいくらいなものだから誇張表現かもしれないが、少しだけ見上げるようになってしまう。

「よそ見をしてて気づかなかった、俺が悪い。ほんっとにすまん!」

「あ、いえ」

「次からは気を付ける。すまんな」

 平身低頭というわけでもないが、きっちりと頭まで下げて謝罪され、彼はすぐに廊下の先へと歩き出した。僕はその背中を見ながら、気配に反応できなかったのは本調子じゃないからだと、そんな失笑ものの言い訳が頭に浮かんで唇の端を僅かに歪めた。

 言葉はどうやら通じるようだ。もっとも僕の生まれである日本語ではなく、共通言語イングリッシュの方だ。それにしても、さてはて、これからのことを考えるのは当然として――ここはどんな場所で、今の僕はどうすべきか。ご馳走が多すぎてどれから手をつけていいのかわからない――というよりも、そもそも今日のご飯を作るためには朝から狩猟をしなくてはならないのだが、どこに獲物がいてどんな武器を手にすればいいのか悩むような、まあつまるところ何もわからない状況である。

 動き回るのは得策ではないが、しかし動かなければ情報を得られない。そう急ぐこともないのだが、かといって僕がこの状況下で落ち着いていることを印象付けてしまうのは、今後を考えたのならば避けるべきだろう。あくまでも混乱の最中、といった演技は必要だ――などと思っていると、廊下の先から黒色のスーツを着た女性がこちらへ向かって来ていたので、視線を合わせる素振りを見せながらも、すぐに左右を見て慌ただしさと混乱を演出する。

 僕を捉えた視線は外れない。つまり、僕の存在を確実につかんだ上での接触だ。

「失礼」

 短く言う言葉から高圧的な何かを感じながらも、目の前で立ち止まった女性は僕よりもやや背丈が低く、左腕の腕章を軽く掲げて見せる。僕がそれを読むよりも早く、あるいは読む余裕がないと見切ったのか、そこにある文字と同じ役職を口にした。

「総合管理課本部に所属しているディです。あなたはこちらへの転移者で間違いありませんね?」

 問うているようで断定的な口調は事務的で、だからこそ感情が含まれない言葉に僕は、いくつかの懸念が当たっている予感を内に抱きながらも、そこに面白さを感じてしまう。もちろんそれらは表情に出さず、困ったような顔になって、ええとと澱む。

「どう……ですか。そうなる、のでしょうか」

「当施設にはいくつかの規則がございます。そのため転移者であると確認できたのならば、手続きを行っていただきたい」

「はあ……」

「ご案内しますのでこちらに」

 やや赤色の混じった髪の女性は無表情のままくるりと背中を向けたため、僕はわかりましたと言いながらそのあとにつくように歩き出す。できるだけ視線は周囲に向けず、ぼんやりと全体を見るように。これは混乱時によくある視点で、寝起きでぼんやりとした頭で目を開けている状態に近い。いわゆる演技で、何もわかっていない素振りを今のところしておこうと思っただけのことだ。実際によくわかっていないし。

 頭の中では冷静に、ディと名乗った彼女がアルファベットのDで合っているのかな、などと考える。僕にとってはコールサインのフォネティックコードの並びが身近……でもなかったけれど刷り込まれていて馴染み深いのだが、どちらにせよ番号付けだ。彼女がそれを許容しているのかどうかで話は変わってくるだろうけれど――しかし。

 それにしても、転移者か。これには失笑ものだ。

 いやいやしかし、なるほど、すんなりと受け入れられているし、これといって否定も文句もないほどに僕の現状を的確に表現している言葉ではないか。彼女たちにとってそれが、突発的なものであったとしても、対応慣れできるほどには数多い出来事の一つとして捉えていることはよくわかる。

 そうだ、彼女は受け入れていた。

 まったく――どうかしてる。

 彼女に案内されて通された部屋で、僕は着替えることになった。着ていた洋服はすべて脱ぎ、所持品も没収され、用意されいた衣類を装着する。下着すらも丁寧に準備されており、スタンダードな白のワイシャツに紺色のネクタイ、そして紺のスラックスだ。サイズは少し大きかったが、まあ小さいよりはいいだろう。あまり手早く着替えると不審がられるため、ボタンがなかなか留められないふうを装いながらも、けれどネクタイは締めなかった。

「どう縛ればいいのか……」

 首に引っかけたまま出ると、待っていた彼女に指摘されたが、あえて間違った言葉を使うことで無知を演じた。こういう何もわからない状況では、わかっている人間の反応を探るのが効果的だからだ――が、そうですかと頷かれただけだ。まあ、こうした印象操作は長時間の接触が必要になるものだ、今すぐに成果が出るわけでもなし、気長にいこう。

 案内されたのはなかなかに広いフロアだった。正面には事務机があり、革張りの椅子に座っているのは、これまた女性だ。切れ長というのか、いやに鋭い視線を私に投げ、ディと名乗った彼女とは違って、視線の中には探るような意図が見える。だが感情的ではなく、かといって事務的に探っている様子はなかった。

 まるで。

 どこかの誰かとの類似点を探っているような――そんな印象だ。

「初めまして。総合管理課責任者の伏見ふしみこゆきです」

 やや高い声色で、幼さを感じる部分もあったが、威圧感はある。経験によって積み重ねられたものであり、立場として必要とされる威圧ではあるものの、年齢によって得たものではない。普段の僕なら鼻で一つ笑ってしまうところだが、驚いたように硬直してから周囲を見て、小さく頭を下げておく。

「私はこの施設、エンジシニの総責任者です。あなたはこれより、当施設内部で生活してもらうに当たり、最低限の手続きを行ってもらいます」

「はあ……」

 エンジシニ――何かの隠語か、暗喩の類だろうか。施設といった以上、内外の区切り的な意味合いは含まれるだろうし、名称には因果関係も踏まえた何かしらの意味、ないし意図が含まれる。もちろん名付け親の趣味、なんて可能性もあるが、熟考の時間はないにせよ、気付かずにはいられない。

「こちらにどうぞ、まずは書類にサインを。――ディ、ご苦労でした」

「いいえ。失礼します、エース」

 エース、ね。アルファベットのAのことで、やはり彼女たちのコールサインか。どうでもいいが、女性がメインになって動いている部隊かもしれない。僕にとって重要なのは、そうした呼び方を平然と僕のような転移者、つまり新参者に聞かせる理由の方だ。意図したものではないのならば、情報を僕に与えることになるのだから、警戒が足りないと空を仰ぎたくもなるが――やれやれ、考えることが多いなあ。

 差し出された書類は履歴書のようで、ゆっくりと時間をかけて目を通す。もちろん、同じところを何度も読むよう視線を動かすのは忘れない。あくまでも僕は、右も左もわからない新参者なのである。内容は、名前や性別、住所はないけれど年齢はあり、特技欄もあった。

「ええと……」

「どうぞ。ここで生活する上で必要な名前を明記してください」

「……? それは、その、偽名……のようなものでも」

「そうです。ただし一度決定したものは変えられません。転移の理由を深く問うことは暗黙の諒解ルールとなっていますが、あちらからこちらへ来た以上、繋がりを切りたいと思っていた方もいらっしゃいます。あなたがそうだとは断定しませんが、お好きにどうぞ」

 では本名でもいいですかと問うと、構いませんとの返答があった。だから僕は少し考える素振りをして、頷き、決して迷わずにペンを走らせ、雨天うてん紅音あかねと偽名を記した。

 偽名というのは難しい。呼ばれた時に即座に反応できなければ偽名であることが発覚してしまうし、かといって本名をなぞってしまえば逆算されてしまう可能性もある。突拍子もない名前では、そもそも僕に対する呼称として確立しないだろうし、かといって身元不明死体の仮称ジョン・ドゥを使うのは馬鹿のすることだ。

 だから簡単な駆け引きで、これが偽名であるか本名であるかを疑わせる。疑わずとも、どちらとも取れないようにしておきたい。僕はまだこの施設が何であるかも知らないのだから、危険因子を無自覚で抱え込むことは避けておくべきだ。

 何しろ、僕には理由があるのだから。

 年齢は十六と嘘を書かず、けれど特技に関しては首を捻った。

「あの……」

「ああそこは結構です。ないようでしたら、そのままで」

「そう、ですか。ではこれで……」

「拝見します。……雨天紅音さんでよろしいのですね?」

「はい」

 じろりと睨むように見られて、二秒ほど視線を合わせてから僕は視線を僅かに逸らす。威圧感に負けたのではないが、どうとでも取れる反応になっただろう。たった二秒でも視線を合わせたのだから。

 それにしても、RPGみたいだ。最初に主人公の名前を決めて始めるタイプのもの。まったく――これは後で爆笑ものだな。

「住人番号は八○四になります。こちらの番号で呼ばれることは一般生活内ではほとんどありませんが、総合管理課が呼び出す際には固有名詞よりも番号で伝える場合もありますので、覚えておいてください。それとこちらの端末があなたの所持物になります。施設の生活必需品となりますので、失くさないように」

「はい」

 裏向きで手渡され、なんだろうと首を捻りながら見ると、きちんと八○四の刻印があった。つまりこれは、僕専用であって、他者の悪用を防ぐ意味合いがあるのだろう。

「しばらくの間は共同生活を送ってもらいます。同室になるのは男性で八○三、名前は直接確認してください。その方には説明責任があり、あなたの生活を補助する役割があります。これは強制ではなく同意であり、あなたが負い目を感じる必要はありません」

「ええと……その人に、詳しくここのことを訊けばいいんですね。共同生活は、どのくらいになりますか」

「あなた次第です。個人での生活が可能になった時点で、物件を利用可能な状況を整えたのならばいつでも一人暮らしもできます。しかし、焦る必要はありません。何かしらのトラブルが発生した場合は総合管理課が対処します」

「はあ……わかりました」

「では隣室にどうぞ。既に待ってもらっています」

「はい、では失礼します」

 そろそろ落ち着いてもいい頃合いだと思い、ぺこりと頭を下げる。だが身を細くして、すぐに手で示された隣室へ逃げるように移動する――が、扉を開く前に。

「一つ、よろしいですか」

「はい……?」

 びくりとして振り返ると、視線が合い、口を開きかけた彼女が逡巡するように一度口を噤み、そして。

「もしも、今後の生活で不具合が発生した場合、無理をせずに相談し、また管理課を頼ってください。その時には必ず、力になることを約束しましょう」

「はあ……ありがとうございます」

 約束する、ね。

 僕にとって契約や約束は重要な意味合いを持つのだが、それを滔滔とここで解く必要はないだろうし、あくまでもそれは僕が、僕自身に対して約する場合におけるので、今の言葉とは少し違うのだが、それでも。

 それでも僕は、約束などという言葉を軽く口にする相手を信用などしない。

 それよりも、なにを――逡巡した?

 いや、実際に僕はそのことについて当たりをつけているけれど、言い澱んでありきたりな台詞を選択したことは、踏み込むことを避けたのだろうけれど、相手が僕であるのならばそれは、きっと判断ミスだ。痛手となって返ってくる。

 伏見こゆき。

 甘く、また脆い人間だ。思い込み……いや、強い理由を言い訳にしなくては、そんな立場で動ける人間じゃあない。それが、現時点で僕が彼女に対して抱いた評価だ。

 ――とりあえずこの建物から出たいな。

 ここに来て初めて、前向きな感情でそう思った僕は、隣室への通路へと移動した。


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