02/19/09:50――エンス・だから酒を飲むんだ

 リック・ネイ・エンスは実際のところ、口に出して言うこともなければ、誰かと気持ちを共有したいとも思わないけれど、妖魔という存在に関しては、嫌いではなかった。いや、好ましいとすら思えている。

 何しろ、人間と違って屍体が残らない。血の匂いも混ざらなければ、腐乱臭に顔を顰める必要すらないのだ。お蔭でこうして酒も美味しいままで飲める。

 日本で店を開いてから三年間で培った営業用の笑みを完全に捨て、正装を身動きがしやすいよう適当に着崩したエンスは、自分の店があった瓦礫の中、営業として仕入れていたベルギービールを呷っている。周囲にある空き瓶は、そろそろ二十になる頃合いか。

 エンスの過去を探っても、おそらく出てはこないだろうが、元を辿れば――南シナ海の海賊だ。

 当時はよく、頭領の世話になり、一時期は頭領の〝小刀こがたな〟とまで呼ばれていた。というのも、頭領がたまに海の上から陸へ出た時に、面倒があるとエンスに全部放り投げるのだ。酒場の諍いから本格的な闘争まで、前線でやらされた。海の上では相手の船を制圧するための先頭に立ったりと、接近戦闘の素質を持っていて、それを頭領に見抜かれたこともあるのだろうけれど。

 今は鈴ノ宮で厄介になっている、ジェイル・キーアとは同い年だ。そして、同じ船に乗っていた。――いや、艦か。何しろ彼ら海賊が所持していたのは、潜水艦だったのだから。

 ジェイルは頭領の息子だが、だからこそ、親しみは深い。ジェイルは狙撃、エンスが先陣、そういった組み合わせは当然のように行われていたし、お互いにお互いのできないことをやっている自覚もあったので、喧嘩こそしたけれど、根深い恨みを持ったことなどはない。

 そして、頭領が亡くなってから、ジェイルがその座に就き、しばらくして――海賊を辞めると言った時は、むしろエンスは賛同した。

 理由は、簡単だ。

 ――俺は親父にはなれん。

 同感だった。そして、頭領だからこそ海賊でいられたのだ。

 もちろんジェイルにも求心力はあったし、海賊として続けられるかと問われれば、肯定しただろう。素質もあり、誰もが頭領の後釜として認めていた。もちろん、エンスもだ。

 ジェイルにはジェイルのやり方がある。頭領になる必要もなければ、そもそも、なれやしない。

 その結果として陸に行くことを考えたのならば、若頭領としての判断ならば、それに頷くのが手下であったし、特に現状に不満を抱いていないエンスですら、じゃ、そうするかと、そう思えてしまったのである。

 そして――南シナ海の海賊を全滅させ、家である艦を自沈させて彼らは陸に上がった。

 最終的な生き残りは彼らを含めて七人。残り五人は各地で傭兵になったり、引退したりといろいろだ。エンスも裏側のやり方を知っていたため、バージニアに酒場を経営してみたのが最初で、あちこちで店をやりながら、最終的にはここ日本で、ベルギービールの店を開くこととなった。

 客筋も裏側の人間の方が多い。傷のある人間から、政治家、狩人など闇を知っているか、持っている人間――だからこそ、エンスは傍らでそれらの情報を選別し、売って金にもしていたし、そういう雰囲気に馴染んでいた。

 だから。

 現状では特に、困ったとは思わない。

 ただ――日常が、戦場になっただけだ。

「そして僕にはまだビールがある。飲み終えるまでは適当にしとこうか」

 陽も出て視界も利くようになった。瓦礫を不自然さがないように組み立てて、特定方向からの視線を遮断するようにも仕向け、死角も減らしてある。だからといって気を抜いているわけではないが――酒は命の水だ、一日中飲んだって、酔いが回る馬鹿は海賊などやってられない。

 船酔い、酒酔い、車酔い――とかく、酔いが付くものを否定しているのが海賊だ。いや、厳密にはエンスのいた海賊団だ。顔が赤くなるまでに半日、戦闘が始まれば一瞬にして赤みも消える。昔はそんな生活をよくしていた。

 だからこそ。

 三メートルの範囲、視界で捉えればやや右前方にどこからともなく飛来したナイフが一直線に突き立ったのを見て、意識が切り替わる。右手に酒瓶を持ちながらも、左手はのんびりと自然な動きで腰の裏に回り、僅かに視線をナイフから切るようにして酒を呷った。

 戦線に立ち、警戒するのは当然だが、エンスはそれを表に出さない。していることがわかれば、相手も警戒する。甘い相手だと、油断を誘った方が楽だ。

 そして、突き立ったナイフの柄尻に右足の裏を乗せるようにして、彼は出現した。

「――よっ」

 軽く片手を挙げた男、前崎あけびは、身軽な洋服姿で足元のナイフを引き抜くと、やっぱ邪魔だなと言いながら、肩に触れるほど長くなってしまった髪を、無造作にうなじの上くらいで切断した。

 野雨市内にあるデパートで音頤の店を出していた前崎も、今は営業用の顔を捨てている。

「って、おいエンス、お前なんだ、酒入れてんのかよ」

「僕の職業を忘れたんなら、手帳にきちんと書いておけ」

「へいへい。いやあ、きちんと移動できて助かった。妖魔に囲まれてたらどうしようって考えてたからな」

「転移系のナイフか?」

「すげー限定されるんだけどな、これ。一応、俺が所持者ってことで、仕組みとしちゃ近場で縁の合ってる誰かを、まあ選択してだな、ナイフを先に移動させて、所持者を呼ぶって形式になるのか」

「へえ……見りゃわかることを、よくもまあそうぺらぺらと」

「……お前ね。そろそろナイフから手ぇ離せよ、なんなんだ」

「ん? ああ、それもそうか」

 ――いいか。一度警戒したなら、必要ないと判断してからも解くな。

 そんな昔の教えが、今の今まで忘れていなかったなんて、どうかしてるとエンスは腰から手を外す。

「というか、よく気付いたな」

「あのな……これでも刃物を専門にしてるんだ、そんくれえわからねえと、まずいだろ」

「しかし、僕は確か、前崎に武装してるとこ見せたことなかったはずだな?」

「おう。まあ無事に楽しんでるようで何よりだ。――おい、酒くれよ」

「そのへんに転がってるのなら好きにしていい。地下の在庫はまだあるけどな」

「そりゃ豪勢なことで」

「飲みにきたのか?」

「うん? ……ま、似たようなもんだ」

 ならそっちに座れと、位置を指示する。なんでだと問われたため、都合が良いからと答えておく。

「都合ってな……俺のが安全位置じゃね?」

「わかるか」

「なんとなく。いやいいんだけどなー、それほど視界が狭まってるわけでもねえし。それに」

 前崎あけびは、どうしようもなく、作り手に熱心になり過ぎていた。サバイバルや戦闘などは、わからないことが多すぎる。

「大将みてえにはいかねえよ……」

「その大将ってのも、名前は聞いてるが本人は知らないし、そういう相手は話半分が妥当だろう」

「おいエンス。それ、鷺城鷺花の前で言えるか?」

「…………おっと、フランドルの在庫は残り二本で終いだな。まだとっとくか」

「話を逸らしやがった」

「メイならガキの頃から知ってるが、サギの名前を出すなら誤魔化すしかねえだろ。僕の経歴を見抜いた女だ。言っとくけど、あれは調べて洗ったってわけじゃねえからな」

「それマジか?」

「あのな、僕らは〝騙し〟を嫌う人種だ」

「そうなのか?」

「海賊の多くは違うけどな」

「――お、解禁か?」

「この状況で隠す意味はないだろう? そういえば、ジェイルはどうしてるか知ってるか」

「ん? 野郎なら、たぶん鈴ノ宮で防衛戦だぜ」

「……明るくなってきたし、差し入れ持ってくか。あとで」

「はは、そりゃいい。俺は運搬、手伝わねえけどな」

「職人に期待なんかしちゃいねえって。僕はともかく、そっちはどうなんだ? 背負うもんが多くて面倒だろう」

「面倒だと思ったこたねえよ。――あ、嘘、ごめん、今の嘘。面倒だと思っても、だからって手を抜いたことはねえってことだ」

「なんだ、前に飲んだ時は言いきったじゃないか。ええと……いつだったか忘れた」

「鷺城さんから仕事を請け負った時にな……俺の仕事、総括も含みだったから、連絡とかマジで面倒だと思った。初めてな」

「いい経験じゃないか」

 彼らの飲みとは、愚痴を言い合う席ではない。いつだとて酒を楽しむ場だ。つまり、仕事が佳境の時に気分転換で行うようなものではない。だから、仕事の話が出ても、あくまでも楽しみの一環でしかなかった。お互いに詳細を知っているわけではないのだ。

「技術向上を図ってくれた鷺城さんには感謝しかないけどな。ま、こっちの撤収に関しては滞りねえよ。今のところ欠落も出てねえし、俺もこうして酒を飲むくらいの余裕がある。あ、弟子連中も含めてな。今回は緊急撤退の良い経験になったろ」

「世界各地に散らばっているんだろう、よくわかるもんだな」

「音頤(おとがい)にゃ、そういう繋がりもある。連絡手段も移動手段もきちんと用意してるさ。ただ、どうであれ戦場の中だ、潜り抜けられるかどうかは、個人の技量次第ってところもあるな。それに、世界各地に〝安全地帯〟はある」

 なにもここに限った話じゃないんだぜと言いながら、前崎は軽く一瓶を空けてしまった。

「どこも似たようなものか?」

「おう。日本は妖魔だが――つーか、面倒だから俺らは全部ひっくるめて妖魔って呼んでるけどな。屍喰鬼グールやら不死者レイスやら」

「昔は海にもいたもんだ。――ジェイルは、その御大みたいなのと遭遇しかけたって話だけどな」

「へえ……そりゃ難儀だな。けどま、こっから先は海には入れねえよ。海での術式使用が不可能になるって話だからな」

「陸地に上がった海賊だ、俺はジェイルほど海が恋しくはないね」

「そんなもんかねえ――おっと、オルヴァルだ。いいね。しかしなんでドイツビールじゃなく、ベルギービールなんだ?」

「前に逢った時に聞けよ」

「聞き忘れてたんだよ」

「自転車好きだから――といっても、陸地に上がってからの趣味だな」

「乗るのか?」

「たまにな。ひづめ花楓かえでとはよくツーリングする」

「そりゃ知らなかったな」

「話すようなことでもねえだろう。お前と僕はこうして酒を飲めばいい、違うか?」

「いや、いいんだけどな……つーか、エンスってそれなりに危険人物なんだな」

「僕はそれなりに上手くやってる。それに今となっては、ただの一人だ。役にも立たん」

「役に立つかどうかを決めるのは、いつだって、てめえ以外の人間だろ。使われるかどうかが本人次第ってな」

「ははは、さすがだな鍛冶屋、含蓄のある言葉じゃないか」

「そりゃ実際に経験が――おい、エンス、だから」

 ナイフを握るんじゃねえと、警戒の意味を込めて立ち上がった前崎は、そのまま背後に退こうとするのだが、その前に後ろから肩を掴まれ、重心を動かされてしりもちをつく結果となった。

 下が平地だったのは幸いだが、そうした当人は肩を掴んだまま、よおと軽い声を出す。

「エンスの仕事が正解だ、寝ぼけてんのは母親だけにしとけ前崎」

「――兎仔とこか、驚かすなよ。寿命が縮まったらどうしてくれるんだ」

「良い医者を紹介してやる」

「……なにか用事か?」

「おー、さっきまで刹那と過ごしてたんだけどな、そういや音頤どーしてんだと思って足を運んだらなんだ、偉そうにエンスのところで酒を飲んでやがって」

「心配してくれてんのか?」

「は? あたしが前崎を? 知らねーよ。エンスの心配はしてたけどな」

「僕の、じゃなく、僕の酒の心配だろう」

「違いねーだろ」

「なんだっていいけどな……前崎もお前も暇なのか」

「だから、俺はそうでもねえって」

「あたしの仕事は明日以降になりそうだな。かといって野雨から出ることはできねーし、こうして酒を飲むくらいがせいぜいだ。つーか、エンスは鈴ノ宮行けよ。なにこんなところで油売ってんだ」

「酒を持ったまま行けば、僕が飲めないからな」

 そうして、ようやく、エンスはナイフから手を離す。兎仔はそれをわかっていたけれど、さして気にしてはいなかった。

「学園、どうなってんだ? 兎仔なら知ってるだろ」

「んー、まあ今んとこ生き残ってるぞ。どのみち切りはねーからなあ。心配なら見に行けばいいだろ」

「馬鹿言うな、死地に赴くほど馬鹿じゃねえし。こっちは基本、バックアップだけだしな。それにレィルは、学園にいるわけじゃねえんだろ?」

「あたしの耳にゃ入ってきてねーな。野雨にいないんじゃね? あいつ、結構身動きできる位置にいるから」

「立場か。面倒なもんだなあ、僕はそういうのに縛られるのは御免だ」

「縛られちゃいねーよ、いいように使ってただけだ。それにこっから先、立場もクソもねーぞ。好き勝手できる」

「どうだかな。しかし潦、緊張感もなく、こうしてだらだらとしてていいのか」

「そりゃあたしの話しか? それともてめーか?」

「僕の話をしているつもりだ」

「この状況下で生き残れるんなら、何をしてたって同じだぞ。緊張すんのも、危機感に煽られんのも、てめーの好きにしろってことだ」

「どこも同じ、か。淘汰の末に均衡があると?」

「馬鹿、――均衡なんてもんは作るもんだろ。そのためにコイツらは動いてんだぞ」

「ま、そんな大層なもんじゃねえけどな。俺ら音頤は、あくまでも商人だ。技術を絶やさないようにして、ついでに客も選ぶ」

「商人の立場として、現状はどう見ているんだ?」

「おいおいエンス、お前だってそうだろ」

「僕のは趣味だ、今後ともやりたいと思うほどじゃない。潦が言った通り、どうやら今後は立場を隠す必要もなさそうだからな」

「そうかよ、だったらうちの客になって欲しいもんだ。――ま、商人の立場から意見すりゃ、今まで築いてきたモンが無くなるってのは、ちょいと残念ではあるな。何しろ技術に関しては、時間ってのが重要になる」

「だったら継承すりゃいいだろ」

「音頤は技術継承のための弟子を推奨していたはずだな」

「一応それ、内部機密なんだけどな……」

「そうなのか?」

「技術を盗みにこられても困るから。それとお前ら、よく聞け。俺はまだ二十五だ。つまり若い。伸び白もある。弟子をとるのはまだ先の話だクソッタレ」

「小物が言いそうな台詞だな。くだばるなよ前崎」

「おい!」

「つまりなんだー? あれか? だからレィルの装備が未熟ですって認めてんのか、伸び白がある若い野郎が」

「う、うるせえな……そりゃレィルの武器が刃物である以上は俺の領分だ。そこんとこを責められりゃ、俺はその通りですとしか言えねえだろ」

「難儀だな前崎、まあ飲め。――隠し在庫はやらん」

「もう飲んでる」

「つーか、そもそも、なんだって前崎がこんなところで酒飲んでんだ? そっち、一段落したら集合場所で鎮静を待つんだろ。なんか問題でもあったのかよ」

「あー……問題なんだけどなー、それほど緊急事態でもねえっていうか」

 そもそも、火急の用件ならばこんなところで酒など飲まない。もっとも、夜間に移動することの危険性を考えたのならば、こうして陽が出て妖魔の活動がそれなりに沈静化する頃合いを見測るための時間稼ぎならば、酒を飲むくらいのことは平気だが、そういう意図があったにせよ、そういうわけでもなく。

 かといって陽が出たところで、沈静化したとしても、開放された妖魔の高揚が途切れることはないだろうし、発見されれば人を喰おうと動くのは必然的ではあるのだが――五匹以上に囲まれれば緊急避難もするが、生き残るだけなら問題ないと自負している。

 そうだ。つまり、あけびにとってはそれほど問題ではない。

「あのさ」

 身内の問題なのだ、それは。

 だから問うのは恥ずかしい――が、まあいいかと思って、口を開いた。

「仁の馬鹿、知らね? いねえんだけど」


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