02/19/10:20――アクア・イギリスの避難場所

 テントが立ち並ぶ敷地内に、手を叩く音が小さく響く。まるでキャンプ地だと思われるそこは、楽園――つまり、エルムレス・エリュシオンの住む屋敷の庭だ。

 騒がしかったのにも関わらず、音に気付いて全員が黙ってこちらを見るのに、おお反応が良いなあ、などと思いつつも、小柄なシディは屋敷を背にして、ひらひらと手を振ってアピールする。自分が手入れをしている庭だが、三十以上のテント設営が可能であり、それだけの人数が集まって留まれるのだと、こうして現実を見るまでは半信半疑だったのだが、まだ余裕もあるくらいで、しかし彼らがいる以上は庭の手入れという仕事はお休みだなあと思いつつも、口を開く。

「はーい、だいたい集まったみたいだから、一応、ルール説明ね。えーっと……あれ? 前崎さんいないの?」

 こちらを見る視線の中に見知った顔がないので問うと、迷子の捜索に向かった、と誰かが言う。そうなんだ、と頷きながらも、面倒だなあとも思う。

「前崎さんなら、全部知ってるから楽だったのになあ……ま、いっか。いないんだからしょうがないよね。えっとね? 最初に言っておくけど、――そのへんの木とか破壊したら超叱るから」

「――シディ、私情が入っています」

 隣に立つガーネが僅かに目を細めて言うが、重要なんだから仕方ないとシディはそれをスルーする。

「でね? できることはやっていいけど、できないことはやらないでね」

 当たり前のことを言うが、しかし、さすがは音頤おとがい機関の魔術師たちだ。そこに含まれた意味合いが通じたのか、誰も反論はしない。数人がきょろきょろしているが、あれは誰かの弟子で、理解ができなかったのだろう。師匠が面倒を見ればいいかと、頷きを一つ。

「屋敷に入りたいなら許可を。その必要があるとも思えないけどね。あとは……なにかあったら順次言うよ。はい、次はガー姉ちゃんから」

「シディ、お客様の前です。きちんとなさい」

「きちんとしてるよ?」

「まったく……失礼、ご紹介に預かりましたガーネットと申します。一応こちらに一通りの調理器具を用意致しました。ご自由にお使い下さいませ。ないとは思いますが、火事などの災害に関しては自己責任にて償っていただくことになりますので、ご了承を。また必要でしたら、材料の提供さえしていただけるのならば、私が調理することもできますので、その際は気軽にお声をかけて下さいませ」

「姉ちゃんはきっちりし過ぎだと思うなあ」

「シディ」

「あーはいはい、続けて続けて」

「……。――では続けます。もし運動など、戦闘行為をしたい場合にも進言をお願い致します。またその際にご入り用でしたら、私がお相手させて戴きます。戦闘向きではありませんが」

「え? でも、アクア姉ちゃんや私より、ガー姉ちゃんのが向きだと思うよ?」

「シディ、余計なことを言わない」

「ちゃんと言っておいた方がいいよ? 姉ちゃん、旦那様の一番弟子なんだから」

 ざわりを波打つような警戒が発生した中、それはそうですがと、ガーネは頷きでそれを受け流す。

「侍女の本分は誰かの手伝いをすることです。そして、私の本領は料理を作り、振舞うこと。であれば、望んで戦闘など……ええ、運動不足以外には必要ありません」

「ああー……」

「シディ、なんですかその納得したような声は」

「最近、和菓子作りの味見が連続してるのもあって、ぽっちゃり系女子になったなあ、流行りなんだろうって、ウェルに言われたのまだ気にしてんの?」

「ウェル様の意識が世代遅れなのは理解しています――が、プライドの問題です」

 しかし、とガーネは視線を下げてシディを見る。

「フライパンの上に油として乗るのと、鍋の中に出汁として入るのは、どちらが良いですか、シディ」

「うえっ! どっちもヤだ! ごめん姉ちゃん、ごめん! 気にしてたと思ってなかったからつい!」

「結構、二度目はありません。――さて、少少脱線しましたが、以上になります。短い間となりますが、しばしの休暇を楽しんでいただければ幸いです」

「じゃ、しばらく私が残るね」

「ではそのように――シディ、あまり失礼をしないようになさい」

「うん」

 返事だけはいつも良いのだが、と思っても口にはしない。丁寧な一礼をしてから、屋敷の中に入ってくると、アクアはご苦労様ですと言って出迎えた。

「前崎様がいらっしゃらないのは残念でしたが、のちほど合流もするでしょう」

「はい」

「ウェル様が興味を示していたので、無茶をしないよう、見ていてくださいね」

「可能な限り配慮します」

 ガーネはそのままウェルの部屋へ行ったため、アクアは時間を意識しながらも二階、そのままぐるりと回り観覧席にまで行くと、そこには思った通り、エルムと陽ノ宮ひなたが並んで庭を見ていた。

「若様、先ほどからこちらにいらっしゃいますが、どうかされましたか?」

「うん? いや――集まっているなと、思ってね。彼らが全員、父さんの忘れ形見かと思えば、それなりに嬉しくなるじゃないか」

「――そうですね。私がこう言っては何ですが、意志は継がれているかと」

「うん、そうだね。全員足しても父さん一人には至らないのも事実だけれど」

「そもそも比較するもではないかと」

「その通りだよ、間違いない」

「しかし、よろしかったのですか?」

 傍に行き、視線を同じにするようテラスから庭を見たアクアは、珍しくひなたが起きている様子を確認しつつも口を開く。

「最初からこのような仕組みにしていたことは察しましたが、それは若様が現状を予測した上での判断でしょうけれど、一時的にせよ避難場所を提供したことに対して、不満ではなく、つまり――状況的に良いのだろうかと、そんな疑問なのですが」

「そうだね。赦されるか否か、その点を疑問視するのは当然だ。この場所は例外であって、あるいは異外と、そう呼ぶべきだろうからね。けれどそれを言うのならば音頤機関そのものが例外的でもあるし、そこのところを彼らはよく理解している。意志を継いでいるとは、そういう意味だよ。そして、僕に言わせれば、どこに居ても生き残るのならば、ここにいても構わないと、そんな理由付けが該当するわけだ」

「なるほど、そういうことでしたか」

「まあ……こんな機会も、たぶん今だけだからね。僕としても、仕込みの大半は終えて、今は小休止状態だから、こうしてひなたとのんびりできる」

「若様の手配は、的確ですね」

「褒め言葉として受け取っておくよ。そして、結果というものは、いつだってそこまでに積み重ねたものが左右するんだ。効率を考えず、無駄だと思えるものこそ重要と考える。実際に無駄になったものもあったけれどね、そこはそれだ」

「皆様の前に顔を出さないのですか?」

 テラスでは、こちらからは見えるが、あちらからは見えないようになっている。これは屋敷に作用している自動術式の一つで、内側を走っているため、外部から干渉するのは難しく、そもそも術式であることに気付く方が稀だ。

 そして、エルムならばこう言うだろう。気付いた人間に対して、隠すようなものなどないと。

「変に委縮されても困るし――アクア、父さんですら顔を見せていない相手に、僕が出て行くのはお門違いじゃないか?」

「ええ、そうですね。しかし、当面は私どもで対応しますが、いざという時はお願いします」

「もちろん、そうするよ。緊急事態には彼らを使うこともあるだろう、そういう時はきちんと指示を出すからそのつもりで――と、そういえばシンはどうしてる? 飛翔竜ワイバーンの捕獲ができなくて落ち込んでないといいけど」

「今は裂傷と火傷を治すため、己の中に埋没しています。曰く、――その方が恢復が早いとのことで」

「ははは、さすがに空中戦は無茶だったかな。アクアは怒ってる?」

「いえ――シン様の判断が甘かったかと」

「そう言ってくれると助かるね。でもまあ討伐はできたんだ、それなりに情報も仕入れたし、アレらが集う場所がココにはならないのは、明確だね。ただ確認をした限りで言えば――野雨は、厄介かもしれない」

「あちらでは、風の属性が強く反映されるがゆえに、飛翔竜など、風にまつわる者が集まりやすいと?」

「そういうことだ。妖魔の掃討も含めてだから、更に厄介だよ。日本人の多くは、そもそも戦い方を知らないから余計にね」

「どちらにも問題はありましょう。――ガーネのお腹の肉に関しましても」

「あれも不思議なものだなあ。君たちの基礎代謝は体格上推定できるし、基本的な最低限の運動は日日の労働そのもので消費可能なのに、それでいて過剰摂取なのかと問われれば、そもそも自制が強いガーネがすることもないだろうと、僕は思っていたんだけれど」

「新しい領域に足を踏み込むならば、相応の代償も必要かと」

「アクアは味見に付き合わなかったのかな?」

「――若様」

 にっこり笑顔を向けると、エルムは視線を逸らしてひらひらと手を振った。

「違うんだ」

「それは私が太っていると、そう解釈しても構いませんね?」

「だから違うんだ、早とちりだよそれは。たまには和菓子が食べたいと注文を出したのは、ひなただしね。余計なことを言ったウェルが悪い」

「お屋敷に住む男性陣は、余計なひと言が多いかと」

「はは、確かにその通りだ。それよりアクア、試験的に導入した風呂場の泡入れの術式だけれど、不具合は今のところないみたいだね?」

「若様、入浴時には確認をお願いしますと、私は伝えておいたはずですが」

「うん、この前気付いてみたけれど、僕がやるのはあくまでも解析であって、確認じゃあないんだよ。だから不具合が出た時に、その被害を最小限に抑えるために手は出すけれど、あれはアクアが作ったものなんだから、アクアが確認しなきゃね」

「私にも限度があります」

「もちろん、わかっているさ。そして不具合が出た時というのは、アクアの限度を超えた時だ。その時は僕がきちんと手出しをするよ。けれどあれは、なんていうか、まあどうせ鷺花のお節介だとは思うんだけれど、その辺りは内緒なのかな?」

「ええ、ガーネとシディには」

「だからシディは、最近どうも風呂場に行って術式の解析に余念がないようだけれど、あれは興味本位で首を突っ込んで、まだまだ足元が見えてない。まあ有限である時間も、僕たちにとっては酷く長いものだ、それもいいか」

「では、私は足元が見えていると?」

「屋敷が建つ場所は、地面そのものだ。アクアが足元を見ていなかったら、僕たちはとっくにこの場所から追い出されて放浪しているよ」

「――ありがとうございます」

 屋敷の管理そのものを、屋敷を存続させることを任されているアクアにとって、それは最上級の褒め言葉だ。きちんと顔を合わせ、深くお辞儀をする。

「しかし、まだ半日ですか」

「そうだね、まだ一日も半分しか経過していない。最初の一時間を思えば、今の一時間の方がよっぽど楽だろうけれど、しかし、たったこれだけの時間であっても、それを利用して順応できなければ、淘汰はまだまだ続くだろうね。それもまた必要なんだろうけど、容赦を知らないからなあ」

「安寧を望むには短い時間です」

「そうかな? うん、どうだろうね。今までを積み重ねてきた連中――僕も含めてね、そういう連中はきっと、もう安寧の時間だよ。結果は出た、あとは若い世代がどうにかすることだ。それを理解できない人もいるだろうけど、知ったことじゃない。助けられることは望まないけれど、望んで助けようともしないのが僕たちだ」

「しかし、それは若様たちの流儀でしょう」

「そうだね。きっとそれは、まだ主流なはずだよ。それから先は、知らないけど」

「では、それはまだ、先なのですね?」

「僕の見立てを聞きたいのかな」

「いえ――本日がそうではないのだと、確認できたので、それ以上は問いません」

「ははは、いくら僕でも術式稼働時には、事前勧告するよ」

「言質も取れたようならば、とても幸いです」

「やれやれ、信用がないなあ。あ、そういえばフォセとスティークが戻ってたっけ。どうしてる?」

「ご自分のお部屋で寛いでいらっしゃると思いますが……」

「一応、様子見だけ頼むよ。彼らには今まで随分と働いてもらったから、逆に落ち着いて過ごす生き方を忘れていそうで厄介だ。まあ、――僕はともかく、アクアは赦さないだろうけど」

「きちんとお約束を守れる方ならば、私としては赦すも赦さないもありません」

「……アクア」

「はい、なんでしょう若奥様」

「よろしくなの」

「承りました」

「……なんで、ひなたの言うことはちゃんと聞くのかなあ」

「余計なひと言がないからですよ、若様。それでは失礼します」

「うん――あ、一応二十時間後には規定範囲内から人間だけどこかに転送する予定だから、こちらには被害がないけれど、段取りとして頭に入れておくといいよ」

「わかりました」

 一礼をしてから、その場で背中を向けるのではなく、直進する形で逆側の通路から再びエントランスにまで戻る。二階は基本的に身内の部屋、そして階下が客室だ――といっても、ここに部屋を持てる人は身内なのだけれど、やはりエルムやひなた、侍女たちやエミリオン、そして鷺城鷺花などは二階に部屋を持っている。

 差別することをアクアは嫌うが、区別することは好ましく思っている。それはアクアの魔術特性である〝形型クリート〟の影響でもあるが、区切りは必要なことだ。なにしろそれが判断基準にもなるのだから。

 ノックを四度。声をかけようと思って口を開いた直後、音が発せられるよりも早く中から扉が開いた。顔を見せたのは長身で細身、一見すれば男と見紛うような顔をしている女性、スティーク・ゲヘント・レルドだ。

「よ、アクアじゃん。どした、様子見か?」

 一瞬の戸惑いがある。果たしてなんだろうかと疑問を浮かべつつも、口を開いた。

「ええ――お邪魔でしたか?」

 ちなみにここはフォセ・ティセ・ティセンの部屋だ。見れば小柄なフランス人の当人は、床に座って己の得物の手入れを行っている。

「アクア、そう、邪魔なのね、それ、つまりスティが、邪魔」

「おいおい、そう言わないのよ。いいじゃない、久しぶりにこうして顔を合わせたんだから。それにほら、私は手を出してないし」

「……いい。入ってアクア」

「では失礼します」

 順番としては――シンやウェルよりも、二人は遅くこの屋敷にきた。実年齢としても、せいぜい百年は生きているかどうか、といったところだろう。年齢に関してはあまり気にしないアクアだが、やはり屋敷にいる時間、つまり自分と接している時間が長いか短いかは、一つの基準にはなっていた。

 フォセのことは知っている。手入れをしているのはハサミで、いわゆる手芸などで使うところの裁ちばさみを、単純に大きくしただけのものだ。といってもレインが大剣を背負うよう、このハサミも長さが一六〇センチと、フォセの背丈よりも大きい。これが彼女の得物だ。

 過去を辿れば、ウェルと同じく教皇庁魔術省に居た。断罪の刃として、前線に立つこともあった彼女はしかし、己の特性――つまり、肉体の時間経過の遅延に気付くと、教会を抜け、そこから魔術師協会へ身分を偽って入り込み、前線からは退いて受付業務を専門にしていた。

 そして、ジェイ・アーク・キースレイが教皇庁から、クイーン・レッドハートが魔術師協会から抜けた頃と時期を同じくして、この屋敷にくることとなったわけだが、受付業務で鈍った躰を元に戻したいという要望もあり、エルムの指示のもと、世界各地を歩き回りながらその得物を振り回していたのだ。

 ちなみにこのハサミの銘はシザーネイル。

「旦那様の作品、でしたね。フォセ様、整備はどなたが?」

「うん、一番最近のだと、サギね、そう、前崎はまだ。でも、できるようになってもらわないと、なんだ、困るっていうか」

 最低限の整備はしてるけどと、砥石で刃の表面を撫でながら、彼女は言った。

「まったく、協会の受付をしてる頃は、もうちっと愛想が良かったはずじゃんか。どうしてこうなっちまったかね」

「あれは仕事。今は、いわゆるプライベイト。それに、スティに愛想良くしても、まあ、仕方ないし」

「なんだい、仕方ないってのは。必要ないとか、面倒とかならともかく、仕方ないってのは理由になるの、あんた」

「気遣い。たぶん、そんな感じ」

「やれやれ……手入れの最中にツラ出した私も悪かったわね、そこんとこはわかってるよ」

「では手入れが終わりましたら、紅茶でも淹れます」

「うん、いいね、それは、うん、いい」

「珈琲はないのか?」

「ありますが、鷺花様ほど上手には淹れられません。それでも構いませんでしたか?」

「はは、サギの珈琲は確かに、美味しいけどね、構わないわよ。あれはなにか混ぜてるんじゃないかって疑ったこともあったねえ」

「サギはブレンドが、うん、上手だから」

「さすがにそこまでの技術は真似できませんが、しかし、スティーク様は珈琲がお好みなのですか?」

「ん? 私はその時の気分さ。サバイバルは慣れてる」

「……あの、失礼ですが、スティーク様の経歴……過去、でしょうか。私はそちら、あまり聞き及んでないのですが、よろしければ教えていただけますか?」

「うん? それはまたなんで」

「はい、その方が親身になれるかと」

「なるほどねえ。いや経歴って言っても大したもんじゃあないのよ。私は――」

「――狂狼きょうろう

「あんたは古い名前を知ってるのねえ。私より歳食ってんじゃないの?」

「うるさい、ばぁか」

「はははは。ま、私はねアクア、いわゆる傭兵、軍人と、そっちの世界に深く関わって生きてきたのよ。特に前線ね。だからジェイを配備させたのも、私の小細工で、だからサギや――もっと言えば、セツやウィル、メイもね、知ってる。あいつらがどうかは知らないけれど」

 顔を直接合わせて会話はしていない、とのことだが、たぶん再び逢うことがあれば、名前の挙がった連中ならば、ああお前かと、頷くだろうことが予想できた。彼女たちは、そういう人物だ。

「だから鈴ノ宮にいる小僧どもはね、ほとんど知ってるし、私が手配したやつらが大半ってところかね」

「その、失礼ながら狂狼というのは?」

「ああ、そりゃ私に対する呼称さ。戦場には教皇庁も協会もなく、魔術も呪術も言術も一緒なの。私はいろんな戦場に顔を出して、勧誘やら誘導やら、それこそなんでもやった。ツラを覚えられるヘマは、あまりしなかったけれどね。古い連中は、狂った狼だって言うのさ」

「違うよね、それ、本当はほかの理由があるって、うん、ウェルが言ってたし」

「あの野郎……」

 虚空を見据えて目を細めるスティークに対し、物怖じせず、入り口の横に直立したままのアクアは微笑む。

「――では、のちほどウェル様に打診いたしましょう。ええ大丈夫です、あの方の会話誘導はもう慣れましたので」

「アクア、やるなあ……」

「大した話じゃあないんだよ。ただ、私のミスで、人狼族に尻を追われたから、半殺しにしちまったってだけでね。そしたら連中、なかなか根性あるじゃないか。更に追ってきたんで返り討ちにしてたら――それを見てたどっかの馬鹿が、つけたんだよ」

 狂った狼。

 群れから除外された一匹。

 そして。

「狼狂いの女――ってことね」

「褒め言葉にはなりませんね」

「今はもう、そんなこともないのよ? どちらかといえば混血種とは良い関係を築いてるし。顔が広くなったせいで、どちらかといえば兵士よりも交渉役……ああ、ま、火種や火消しなんて呼ばれてる連中の立ち位置に近いか」

「なるほど、それで若様がごく自然に軍部との繋がりを持ち、深くまで立ち入って手配が可能だったのは、スティーク様と知り合っていたからなのですね。接触時期も逆算できました、ありがとうございます」

「優秀ねえ」

「若様への理解は、未だに及ばないので、一つずつクリアしていくしかありません」

「……ん。アクア、お茶」

「はい、少少お時間戴きます」

 フォセはハサミを閉じ、厚めの皮鞘へ押し込み、壁に立てかけて頷く。取っ手の部分も大きく、頭どころかフォセの体格だと頭から入れて足から出ることが可能なくらいのサイズだ。重量はある程度、内部の術式で軽減してあるらしいけれど。

「――ああ、なるほど。違和感があったのでなにかと思ったのですが、お屋敷で共通言語イングリッシュを使うのは、随分と久しぶりでした」

「へえ、そうなのかい?」

「はい。ご存じかどうか知りませんが、鷺花様がいらっしゃってからは、お屋敷での会話をすべて日本語にしておりまして、鷺花様が出て行かれてからも、変える必要はないだろう、と」

「ああ、うん、それでシディが、なんか、変な顔してたんだ……」

「そういえば前に顔を出した時もそうだったような――」

「脳の退化」

「うるさいよフォセ、あんたは私を老人にしたいみたいだね。つまり鷺花の教育の一環ってわけね。そっちのがいいかしら」

「そうですね――当時、若様と旦那様がそう判断されたものですから、今のところは」

 じゃあそうしようかと、流暢な日本語を使う。そだねと頷くフォセも、妙なアクセントにはならない。生活上、必要だから覚えたものでも、彼女たちのように長生きをしていれば、馴染んでしまうのだ。

「ところで、フォセ様」

「うん?」

「シザーネイルは旦那様の作品であることは知っていますが」

「うん、くれた時、いたね」

「しかし、どのような作品なのか詳細を知らないのですが、教えていただけますか?」

「勤勉だねえ」

「めんど……」

「いえ――私としましては、どちらでも構わないのですが」

 しかしと、アクアは紅茶をフォセへ渡し、やや遅れて珈琲をスティークに渡してから、失礼しますと頭を下げ、自分の紅茶を手にする。こうした場においては、自分だけが飲まないと、逆に会話が進みにくいことを知っているからこその動きだ。侍女としての立場は理解しつつ、それに順ずるものの、会話とは可能な限り対等でなくては、問いが発生しなくなる。返答もまた然りだ。

「しかし、確実にガーネは詳細を知りたがるでしょうし、場合によってはシディも一緒になって直接解析に乗り出しますが」

「うげ……なんか、うん、成長してる?」

「成長というより、好奇心を隠さなくなったというか……そうね。どちらかと言えば、魔術に対する意識が強くなって、流されにくくなったのかしら。アクアはどう見ているの」

「そうですね――理解を深めようと、その思いが行動に移るようになったかと。それが魔術であったのは鷺花様の影響ですね。そして、旦那様を失ったことでの、後悔が、そうさせるのでしょう」

「そうだね。別れは慣れてるし、わかっていたつもりでも――さすがの私も、エミリオンのことは堪えたよ」

「ええ……別れは、いつかくることがわかっていて、それを迎えるために悔いのないよう心掛けても、別れを前にして、もっと、そんな望みが浮かんでしまうものです」

「アクア、だいじょぶ?」

「ええ――私は、いらっしゃった鷺花様に、弱いところを受け止めていただきましたから」

「そ。えとね、基本的に内臓術式は軽量化、だけ。術式的な武装じゃない、うん、ないから」

「そうでしたか。旦那様の初期作品にはそういったものも多く見受けられましたが、確か中期に作成されたもとかと。珍しいですね」

「うん。私が注文したから」

「ではフォセ様の魔術特性に準拠した形ですね。では、それ以上問わないようにはしますが……しかしお二人とも、お屋敷を離れて長かったようですが、鷺花様とは接触なされましたか?」

「したよ」

「うん、なんか、あれだ、きてた」

「やはり、そうでしたか」

「あれはどうやったら、あんなになるんだ? 厄介な育ち方をしたじゃないか」

「そうでしょうか?」

「手に負えないね、あの子は。フォセは――なんだ、その苦虫を噛み潰したような顔は。砂糖入れなね」

「紅茶じゃなく」

「わかってるわよ。サギは容赦を知らないからね……」

「ん……鷺花様は、優しいですよ?」

「おいおいアクア、なによそれ。そうは思えなかったけど」

「そうですねえ……いえ、鷺花様のことを私が知ったように話すのは憚れますが、面倒を嫌っているような部分もありますが、言えばきちんとやっていただけますし」

「……あの子が厳しいの、うん、もしかして、私たちだけ?」

「期待値の裏返しだと思います」

「それがどうかしたのか?」

「ああ、いえ、サギ様のことだからご挨拶に伺ったかと思ってはいましたが、一応確認をしておきたかったので」

「あれ、なんか、アクアさ、うん、サギに甘くない?」

「あ、はい。それは間違いなく」

 頷き、認める。

「幼少の頃から、私どもも一緒に育つことができましたので、年長者としては甘くなってしまいます」

 ガーネはどうか知らないが、少なくともシディは鷺花と一緒に遊んでいたような感覚だ。アクアにとっては妹が一人増えたような、けれどきちんと対等に見られる他人が傍にいるような、なかなかに複雑な感情もあるけれど、確かなことは、鷺花が身内であり、そして家族であることだ。

 だからこそ、心配もするのだけれど。

「しっかし、エルムはどうするつもりなのよ」

「あ、それは、気になる。うん」

「それは若様に直接どうぞ」

「いやあいつ答えないでしょ」

「迂遠な話術は苦手」

 確かに、時にはけむに巻くような話術を使うエルムだが、話したくないことは話さないだけの、当たり前のことだ。

「なるほど」

 つまるところ、彼女らは。

「どうやら付き合う時間が足りないようですね。しばらく屋敷に留まって、休暇を過ごしたらいかがですか? 今ならばお客様もたくさんいますし、腹部の肉を気にしているガーネならば、運動をしようと誘えば喜んで同伴しますから」

「退屈とは無縁か――いいね、この屋敷は」

「ありがとうございます」

 それもまた、屋敷を管理しているアクアにとっては、褒め言葉だ。

「さて、もうそろそろ昼食の時間になりますが、遅れないようお願いします。ガーネも久しぶりに人数が増えたと、喜んでいると思いますので」

「あい」

「楽しみにしてるよ」

 ――さて。

 アクアもまた、これから楽しい時間が訪れることを考えながら、いつものように過ごそう。まだまだ、この屋敷には人が増えるはずなのだから。


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