02/19/02:20――蒼凰蓮華・今の在り方

 自分の脳、特に記憶領域が圧迫される感覚を文字列にしたのならば、それは持続的な頭痛などではなく、水風船の中身が今まさに許容量を超えようかとせんばかりの状況を見て、それが己の身にあるものだと置換した上で、痛覚に変換しなくては語れないものだ。

 つまるところ、文字にするのはひどく難しい。

 けれど、それをずっと表に出さない蒼凰そうおう蓮華れんかの精神力の方を評価すべきだろう。

 青色の中国服、頭についた髪飾りの一つは左手に握られており、先端はナイフになっている。隣を歩くのは赤色を基調とした巫女装束で腰に小太刀を一振り佩いた一ノ瀬いちのせ瀬菜せなだ。

 蓮華は法則を喰われて既に一時間以上をそのままで過ごしている。法式に頼らず、己のやり方で、未来という可能性を保持しつつ解析し、のんびり歩いているように見えて、かなり警戒していた。

 二人で歩き出してもう、三度の襲撃があった。数にすれば十二の妖魔を撃退したことになる。その際には瀬菜の――いや、一ノ瀬の小太刀術がかなり有効だったが、蓮華ももちろん討伐していた。

 今の蓮華は、一般人だ。魔力はあっても回路はない、魔術も使えない元魔法師。

 なんの特異性も持たず、経験だけ得ている蒼凰蓮華が――未来の保持など。

 馬鹿げている。

 ありえない。

 それこそ、本当の意味で、間違いなく、身を削っているだけだ。

 素知らぬ振りで。

 あたかもいつも通りに。

 瀬菜の期待に十割応える。

「――けどま、そろそろ限界よな」

「え?」

「悪い瀬菜、ちッと待ってくれよ――がッ」

 そんな蓮華だからこそ、己の限界も見えていた。そして、限界を超えて己が死ぬようなことは決してせず、ぎりぎりの境界線で引き留める。

 徹底した自己管理。法式の制御に通ずる、これもまた経験だ。

「――まったく、ちょっとだけよ」

 吐血し、涙のように血を流し、座り込んだ蓮華に対して瀬菜は。

 ただ背を向けて、吐息を一つ落とし周囲の警戒をする。

 心配などしない。

 慌てたりもしない。

 自分の旦那を誰よりも信頼しているのが、一ノ瀬瀬菜だ。若い頃は馬鹿をしたら叱ったりもしたけれど、同じように齢を重ねてきたのだ、わかっている。

 いや、そもそも蓮華が少し無理をしているのも見抜いていた。何より若さを残していた蓮華の印象が変わった直後から、それが何であれ、変わったのだなとは感じていて。

 黙っていた。

 言う必要はないと。

 蓮華がそれを言うまでを待っていた。

 そして、弱い蓮華は見ない。見たくないのではなく、見てやらないのだ。

「はあ……あーでも、まァ、間に合ったよ」

「そう?」

「おーゥ、ここまでこりゃ問題ねェよ。ああ疲れた、二度は御免だ」

「――二度はできねえだろ。一ノ瀬、休め。俺が代わる」

「ベル。なにあんた、暇なの」

「今んところはまだ暇だな」

「なんだ死に体、まだ動けるのかよ」

 片手を挙げながら近づいてきたベルは相変わらずの恰好で、煙草を蓮華に放りながら瀬菜と位置を代わった。とはいえ、この様子ではベルが周囲の妖魔は討伐してしまっただろうけれど。

「参ったな――わかっちゃいたけどよ、お前ェの接近に気づきもしねェ」

「それが当然だ。一ノ瀬、迎えがすぐ来る。以降、ブルーに単独行動はさせるな。これ以上頭を使うようだと日常生活に影響をきたす」

「あら、そうなの蓮華」

「クソッ、余計なことを言いやがって……気を利かせるンなら黙ってろッてんだよ」

「無理に話すな」

「無理じゃねェよ、そンくれェの余力はちゃんと残してある。今は詰め込んだ可能性を上手く削除してるところだよ」

「相変わらず器用ね」

「まあ埋まっちまってるぶんを消すだけだしよ」

「――間違って記憶容量ごと消すな。二度と記憶できなくなる」

「壊死はさせねェよ。実感がこもってンなァ、それも試し済みッてことかよ」

「無駄口が多いな」

「うるせェよ。……気が抜けちまったかなァ」

「暁と切れたことを引きずってるのね」

「あァ、どうやらそうらしい。情けねェよなァ……頼ってたこたァねェのによ」

「……馬鹿ね」

 すまねェなと、笑いながら隣にしゃがんだ瀬菜の頭を軽く撫でた。

「忍はどうしてる」

「強行軍の最中だ。陽ノ宮ようのみや旗姫ききと、前崎まえざき鬼灯ほおずき鈴白すずしろあやめが道を作ってる」

「何人逝った」

「まだ少ない。祠堂しどうみこと、後は俺らを誘った連中だ」

「……そうかよ」

「余計なことに気を回すな」

「うるせェ、ことが終わったらそうするよ。今はまだいろいろと考えなくッちゃならねェのよな、これが」

「面倒なことだ」

 ようやく、少しだけベル――花ノ宮はなのみや鈴蘭すずらんは笑った。

 蓮華も煙草を吸う余裕が出たらしく、火を点ける。けれどまだ立ち上がるのは辛そうだ。

「おいベル、やるんだよな?」

「ああ、この期を逃せば次はない。俺にとって、現状じゃ次なんてもんは何もねえか」

「そうだったよな。お前ェは、随分と前に終わっちまってる」

「残せるぶんだけ、小夜さよにやるさ」

「そン時は――中継するぜ?」

「お前はできないな」

「鷺花に頼むよ。こんな俺でいいかどうかは知らねェけど、頭くらい下げてやるぜ」

「まあ……いいけどな、まだ先の話だ」

「嫌味じゃねェかよ」

「そんなつもりはなかったが、先の話をタブーにしたってしょうがない」

「おゥ、悪ィ。さすがに〝経験〟だけは消えねェからよ、なんとか状況は抜けてみせるぜ。瀬菜、ある程度フォロー頼むよ」

「いつもしてることよ」

「頭が上がらないな」

「うるせェよ。……で、何しに来たンだ? まさか、借りを返しにとか言うンじゃねェよなァ」

「貸し借りをする間柄じゃないから、そうは言わない。さっきまで海に居たから、その帰りに――まあ、ついでか」

「海竜王がきてたか。対応は熟だよな」

 まったく、そんな気配にすら気づかないほどに、蓮華は無理をしていたのだ。そう考えれば苦笑しか出ない。

「あれ以外に対応できる人間はいない」

「だろうよ。ま、終わったンならそれでいいか。ついででも、助かったよ。さすがに誰が迎えに来るか――までは、まァ、領域を超えるところだったからよ」

「だろうと思って正式な迎えは俺が手配しておいた」

「なんだかんだで、気遣いができる子よね、ベルは」

「それ褒めてるか?」

「褒めてるわよ」

「ああそう……ありがとさん。俺にとってはこんなもの、余興の一つとしか思ってないが」

「前座かよ」

「そんなものだ。だから、まあ仕方ないとはいえ、ほかの連中も一緒ってのが不満でもあるぜ」

「ほか? あー、あれかよ。ほかの後継者も一緒にか?」

「ああ。フェイもコンシスも継ぐ、と言いだした。アブはいねえみたいだけどな」

「足手まといかよ。おゥベル、訊くぜ? 足手まといは誰だ」

「フェイとコンシス、マーデに佐々咲七八。マーデの馬鹿女は、どうすっか知らねェけど」

「つまり、小夜はもちろんのこと紫陽花と潦兎仔は問題ねェッてかよ」

「ない」

「じゃァ見せてやれよ。きっちり――あァ? 待てお前、イヅナはどうしたよ」

「ん……ああ、そうか。忘れてた。あいつ間違いなく来るか」

「鷹丘少止あゆむにゃ教えてねェンだろうけどよ」

「……連絡しておく。戦線に加わるかどうかはともかく、鷹丘少止に見せろと。どうせなら連れて参加すりゃいいってな」

「最期だッて言えば簡単に巻き込めるぜ」

「俺もそうするつもりだ」

「まったく、男はこれだから……」

 悪い顔をしている二人を見て、瀬菜は吐息。だが、そういうのも悪くはない。

「ベル、聞かせろ。荷物、どうすんだよ」

「小夜にやる」

「目もかよ」

「これもだ。移植手順はもうウェルに聞いてある」

「エミリオンを見送った日にか、周到なことじゃねェかよ、お前ェらしい」

「ついで、で済ますのが楽だからな」

 今こうしているのも、それだと。

「相変わらず過ぎて、笑ッちまうよ。なんかあるか?」

「それは俺の台詞だろう。何かいるか」

「いらねェよ」

「だったら俺も、ねえと答える。そうだろう」

「わかってても問わずにはいられねェンだよ」

 次はもうないのだ。決別はいつだとて急で、必ず水面下で準備されているから。

「楽しかったよベル」

「世話にはなったな――いや、お互い様か。じゃあなブルー、それと一ノ瀬も。迎えがきた、見つかる前に俺は退散する」

「――きちんと果たしなさい」

「ありがとさん。ブルー、一ノ瀬を手放すなよ。いい女だ」

「あら、私が手放さないわよ」

「良好だ」

 小さく笑ったベルは、そのまま消えるように移動してしまった。背を向けることも、歩くこともしない。まるで会話していたことが嘘のように――存在の痕跡を消して、去る。

 しょうがねェよなァと言いながら蓮華は手近な瓦礫を支えに立ち上がろうとし、瀬菜がそれを横から僅かに支える。支えるが、決して背負おうとはしないのだ。それがお互いの関係だったから。

 夫を立てる――とは、少し違うのだけれど。

 あくまでも手を貸すだけだ。

「さんきゅ。悪ィな、待たせちまッて」

「いいのよ」

「おゥ、これからは――ようやく、お互いに支え合えるよ」

「馬鹿ね、いつもそうだったわよ」

「あァ、そうだよなァ。ッと、落ち着きはしたが半日はかかりそうだよ」

「そちらは任せるけれど」

 右手が腰の裏に回り、小太刀を半分ほど引き抜く。刃が上になっているため、上から逆手で握って抜く形になるのだが、そのまま振ると峰で当たることになる。この奇妙な形こそ、一ノ瀬流小太刀一刀術の神髄でもあり面白いところなのだが。

「――お待たせしました」

「あら、迎えだったのね」

「だな。やれやれ……誰が来るのかもわからねェとなりゃ、俺もかなり面倒になっちまったぜ、なァ瀬菜」

「それが当たり前なのよ」

「蓮華さん、歩けますか」

「おゥひづめの――花楓かえで、歩くだけなら問題はねェよ。向かう先は山の旅館か?」

「ええ、行きましょう」

 先頭に花楓が立ち、その裏を二人が並んで歩く。支えるのではなく、ただ手を繋いで。

「あークソ、面倒だな。花楓、誰がいる?」

 以前の蓮華ならそんなことは簡単に察することができたし、確信も得られた。けれど現状ではそれこそ〝予想〟の範囲から逃れられず、こうして問うて確認するしかない。

「私が一人ですよ」

「悪ィ、そっちの意味は後で訊くつもりだったよ」

「あ……いえ、失礼しました。久我山夫妻、中原夫妻と、なごみがいます」

「へェ、原のがいるのかよ。で、任せてきたわけだ」

「私が居れば、私が前へ出ます。けれど、出るのが私ならば、役目も私のものですから。今は陽炎さんと紫月さんに場を任せてあります」

「……まずいわね」

「あァ、笑うしかねェよなァ」

「――?」

「いやわからねェよな。花楓は全盛期の山のと原のを知らねェンだから。結構厄介なんだぜ? どっちもどっちでな」

「学生の頃は酷かったものね」

「酷いッつーか、のらりくらりとしてたもんなァ」

「どういうことです? 問題がある、という感じではないようですが」

「気まぐれよ」

「おゥそれ、しっくりくる。知らねェだろうけどな、あいつら学生の時、あー原のな。陽炎はとりあえず、原の師範に一番近かったのよな、これが。つーか、鷺ノ宮事件後だっけか?」

「そうよ――中原の師範を打倒したの」

「は……?」

「それまで薙刀なんて握ってる素振りすら見せてねェ野郎がだ。まァ俺は知ってたンだけどよ、電子戦もそこそこやるし、身を引いたなんて冗談交じりに言ってやがったッけなァ」

「それ以降も、ほとんど薙刀を持たないのに、持つと結構やるのよね」

「暁でさえ手を焼いてたもんなァ。挑まれりゃ対応するが、得物の選択に困るッてよ。それよか山のだ、紫月な。あっちのが厄介だ」

「そうよね。同じ頃、もう既に雨天に師事してたものね」

「都鳥の大将が匙を投げたんだよ、あれ。糸だけならもう教えるこたァねェッてよ、俺にも愚痴ッてたぜ」

「陽炎とは逆の意味で面倒よね。何しろ、――片時も糸を手放さない」

「その二人に任せてきたンだろ? 今頃、暴れてるよきっと、なァ」

「……初めて、聞きました。いえ、もちろん、相当なモノだとは感じていましたが」

「七がサボるわけよね」

「それもあるンだよなァ。ま、あいつに関しては陽炎の判断だろ」

「――楽しみね蓮華」

「おゥ、連中とはしばらく逢ってねェからよ、昔話に花を咲かせてェもんだ。だから、頼むぜ花楓。きっちり俺らを送ってくれよ」

「はい、それが私たちの世代が担うべきものですから。今までのように、あなた方に負わせるようでは――私の先がなくなってしまう」

「わかってンじゃねェかよ」

「しかし、現実として、私だけでは背負えないものばかりです。時間があるようでしたら、未熟な私が先に行くための助言など、ご指南下さい」

「思ったままやればいいのよ。あなたにはなごみがいるのでしょう?」

 それだけで十分だろう。

 瀬菜に蓮華がいたように。

 蓮華に瀬菜がいるように。

 そうやって人は生きられるのだから。


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