--/--/--:--――円つみれ・コゲラ

 歩きながらも時折、背後を振り返るのは、もはや癖となっているのを、サミュエル・白井は自覚しながらも、あえて直そうとはしていない。一つは尾行確認の意味合いであり、もう一つの意味は迷わないようにするためだ。

 人の視界は当たり前だが前方を広く捉えている。けれど、移動する方向が逆になった時、その景色が違うものとして映りやすい。何しろ、その光景は逆側から見たものであり、いうなれば初めて見る景色だからだ。そのため、角を曲がる際などに振り返れば、同じ道を戻る時に間違えないでいられる。もちろん、覚えていればの話だが。

 既に覚えた道であってもやっていることに、はたと気づいたのならば、では今まではやっていたのだろうかと考えさせられる。おそらく、リック・ネイ・エンスと昔話をするついでに、過去を思いだしていたからだろうとは思われるものの、記憶としては定かなものがなく、癖ならばやっていたのかもしれないな、という程度のものだ。

 自分の過去を振り返ることは、なんというか改めてやってみれば、初めてのことだった。結論から言えば、だからどうしたと、そんな感想を抱かせるくらいに変わってはいなかったが、それでも懐かしいと思えたのならばそれは、変化だ。

 そんな変化を、漠然としたそれを感じた瞬間、一歩を踏み出した際に感じたブーツナイフが、奇妙な冷たさをもって音を立てる。途端にそれが〝邪魔〟と感じ、異物として排除したくなった。

 どちらの自分も己だと受け入れられるほど器用でもない。感覚を昔に戻せば当たり前になり、今に浸れば邪魔となるのならば、昔に戻したくもなる。

 ――スイッチでも作るんだろうな。

 一般的には、意識の切り替えで順応するのだろうけれど。

 どうにも白井にはその必要性というのが、よくわからない。順応できなければ、誤魔かさずに生きて行くしかないのだろうし、そうなったら、なった時に考えればいい。

 考える前に死んでも、それだけのことだ。

 いつものように――ではなく、以前のように、ノックもせず部室の扉を開くと、中には女性が三人いる。そこに関しては問題はなかったのだが。

「――珈琲!」

 いきなりつみれに言われた。

「…………」

「黙ってないで珈琲淹れて! 今すぐ!」

 心なしか怒っているように見える。

「……おい少尉殿」

「いいから動く!」

 なんなんだ、と思いながらも器具のある方へと近づいていくと、いつものように半分ほど珈琲が入っており、それを洗面台に流して捨てるのが一番最初の作業だ。

「おい、生理かつみれは。何があった」

「月のものがどうかは知らんが、いやなに、話の流れで誰が私の不味い珈琲を飲むかという話に繋がったのでな。逃げ場を封じていざ飲ませようという段階を経ようとしたところ、それを先読みしたつみれがいたく怒り出してな、どうにも手に負えんだろうと、その光景を予測した私が、さてどうしたものかと悩んでいたところに、ミュウがきたわけだ」

「それでか……いい加減、元凶を作るのを止めないのか」

「私に珈琲を飲むなと、そう言いたいのか? ミュウの作り置きなど、すぐなくなってしまう。となれば、専属のメイドでも侍らせなくてはいかん――うむ」

「い・や・だ」

「反応が早いなレン……私を落ち込ませて楽しいのか?」

「うん、楽しいケド」

「どうでもいいが俺を巻き込むな――……ん? そういえば、お前の名前は聞いていたか?」

「さあ、知らないケド」

「そうか。どうも俺は、人の名前を覚えるのが苦手らしい。聞いていたのなら、悪かったと思っただけだ」

「そ? あたしのことは覚えてたじゃない」

「順番が逆だ」

「――ああ、そっか。ミルエナから名前を先に聞いて、覚えてから直接顔を見せにきたんだっけ。でも、そんなに覚えが悪かったかな?」

「一度定着した名を、変えようとすることをしないだけだ。実際、ガーヴの名前も、憶えていなかったからな」

「だってさ、連理先輩」

「んじゃ、連理さんと呼べ」

「諒解だ、連理さん。敬意を払うかどうかは別だが」

「敬意も払いなさいよ」

「つみれ、俺の代わりにやっといてくれ」

「えー……ミルエナに頼みなよ」

「少尉殿、お前の双肩にすべてがかかっている。面倒な相手は全員頼んだ」

「それは承諾しかねるが、レンのことなら任せるがいい」

「――ババァは黙ってろ」

 連理がその一言を放つと、ミルエナはうつ伏せに倒れたかと思うと、窓の方を見て動かなくなった。

「先輩もきっついなあ」

「うっさいんだもん」

「連理さんは、なにをしにきたんだ」

「私? そりゃマルヒトの監視。ついでに、あんたらが面倒を起こさないか見てるんだケドね」

「監視? この女と、俺らを? ――随分と無駄なことをするもんだ」

「……やっぱ、ミュウもそう思う?」

「少なくとも合理的じゃない。俺に言わせれば、それに従ってる連理さんも連理さんだが、指示したヤツの本意がわからねえな」

「へえ……ちゃんと考えてるんだ?」

「自分が絡むことなら、ある程度は思考を巡らす。自ら死地に赴くほど馬鹿じゃない。言わなかったか、俺はバカンスのつもりで学園に通っている」

「そりゃそっか、ミュウだって警戒はするか。それも処世術?」

「いや……一人になってから覚えたことだ。俺は存外に、一人でいた時間が短い」

 面倒だがと、付け加えておく。どうせなら、その辺りはつみれにやってもらいたい気分だ。

「ミュウ、少し変わった?」

「俺が? いや、変わっていないのを確認しただけだ。言っただろう、バカンスの最中だ。仕事のことはあまり考えないようにする」

「今までは考えたんだ」

「俺の生活は、学園か寝るか仕事だったからな。否応なく、意識はしていた。特に、少尉殿に声をかけられてからは。それも落ち着いてきた、と捉えてくれ」

「ふうん? 親父さんとは話せたみたいだね」

「つみれと同じで、まずは珈琲を淹れろと言われたが――できたぞ、飲め。連理さんもいるだろう?」

「え? ああ、うん……砂糖とミルクが欲しいんだケド、ないよね」

「ないな。ミルクを温める機材もない」

「へ――温めるものなの、あれ」

「珈琲が温くなるだろう……猫舌ならばともかくも、ミルクを入れるなら、適温にするのが一般的だ。必要なら、次から買ってきて置いておくんだな」

「……私がここに居座ること前提みたいな物言い、止めて欲しいんだケド」

「それもそうか」

「ミュウは、居座ってるって自覚ある?」

「バカンスに行っても、酒場の場所は覚えておいて、足を運ぶものだ。面倒さえなければ居心地は悪くない」

 言いながら、白井は指定席に腰を下ろす。どういうわけか、ネクタイを軽くゆるめて、上から二つほどのボタンを外した。

「着崩すんだ」

「こんなところで着飾っても仕方ない。外に出るような面倒は御免だと、態度で示しているんだが」

「わかりにくいし」

「そういえば、考えていることが瞳に出にくくてわかりにくいと、よく言われた」

「他人から言われたこと、よく覚えてる?」

「断片的だ。それでも、他人の評価の方が覚えている気がする。命令の内容や、雑談の類はほとんど記憶していない。もっとも、俺はそこのババァほど長生きはしてないが」

「にゃはは、そりゃそーだ。――でも、昔に戻らなくてもいいから、維持だけじゃなく、成長はした方がいいかもね?」

「なんだ……つみれまでそれを言うか」

「そりゃまあ、いろいろとその方が良さそうだから。悪いこともあるけどね」

「……考慮はしておく」

「ん。あー、やっぱミュウの珈琲は美味しいや。ね、連理先輩」

「そ? 私、あんまり珈琲は飲まないから。多いのは緑茶なんだケド」

「和食、多いの?」

「うちじゃ和食か中華……だケド、父さんの中華は本格的だから、たまに」

「やっぱ連理先輩は作らないんだ……」

「うん? 客の茶うけくらいは作るケド、それも和菓子ばっかだし」

「え、それができるなら、食事もできるじゃん」

「なんであんな面倒なもの、作らないといけないのよ……」

「どっちも同じくらい面倒じゃない?」

「うちの家訓は、食べたいものがあったら自分で作れ、だから」

「だから和菓子って……太るよ」

「うっさい」

「――食事で思い出したが」

 会話の終わりを見計らって、白井は言葉を挟む。思い出したというのも本当だが、食事で連想したのはいささか物騒だろう。

「ガーヴがここに来ていたそうだな。さっき、表で逢った」

「がーぶ? 誰それ。知らないんだケド」

「兎仔さんのこと」

「ああ……なんでそんな名前なわけ?」

「戦場ではそう呼ばれていたから、俺にはそれが馴染んでいる。聴いた話では、今の戦地でも実しやかに言われてるらしいな。ガーヴに気をつけろ、G・Bに遭わないことを祈れ――つまり、警戒を怠らず、予想が外れることを念頭にしろといった、一種の通過儀礼のようなものだ」

「昔は」

 頬杖をついたミルエナがこちらを見て、口元に小さく笑みを浮かべた。

JAKSジークスに気をつけろ――と、そう言ったものだがな。怖さで言えば、ジークスの方が格段に上だが、いかんせん連中は複数人だ。ガーヴが出てくる前に、連中の舞台は解散してしまった。もっと言えば、ジークスの前は〝狂狼〟に気取られるな、だ。どれもこれも、傭兵や海賊の口癖だな」

「記録には――ない、かな。すぐには見つからないだけかも」

「軍部関連で検索してみるといい」

「軍……? あ、米軍関連リストかな。その辺りはまだ未読部分が多くて、検索はかけらんない」

「ならば、覚えておくといい。――さて」

 全員揃ったから、本題を話そうと、身を起こしたミルエナは、珈琲を飲んで美味いともらしてから、それぞれを見た。

「改めて、どうだつみれ。どのような活動にするかはまだ決まっていないが、私が立ち上げる部活動への入部を、するつもりはないか?」

「――いいよ。ミルエナがどうであれ、あたしはあたしの理由で賛成」

「うむ。群れで動くことのデメリットはあるが、繋がりが在ることそのものにメリットはある。いささか目立つことを引き換えに、一時の快楽と後ろ盾も得られるだろう。何よりも、経験が積みやすい。そうだな?」

「うん、まあ、そうだけど……言い当てられると微妙な気分になる」

「経験は任せておけ。遊び場を用意するのは、それなりに得意だからな」

「なら……俺も賛成だ」

 詰まらなそうに、白井は言う。

「お前の言う遊び場がどうであれ、何かの理由があって俺を呼んだんだろう。この部屋にも馴染んできたところだ。面倒は御免だが、今のところは前向きでいる」

 入ったら抜けられない団ではない。それを前提としての返答に対し、ミルエナは一つ頷いた。

「さて――レン、どうだ。こうして確約をとった以上、賭けは私の勝ちだ」

「あーはいはい、とりあえず名前だけは貸してあげるケド、部活動申請には顧問が必要でしょーが。どうすんの」

「うん? ああ、なんだそんなことか。それならば問題はない、一番最初に決まったのが、何しろ顧問だからな。私がなんの許可もなく、この部室を占拠しているとでも思っていたのか?」

「そう思うのは当然だと思うケド」

「うん」

「同感だな」

「私を何だと思っているか、よくわかる反応だな……」

「で、誰に頼んだの? どっかの研究員?」

「いや――〝炎神〟エイジェイだ。まあいくつかの取引をしてな……もちろん、学園長と理事長に話は通してあるとも」

「……手回しの良いことだ」

 思考能力はともかくも、手の打ち方が厄介だ。知ってはいたが、やはり先に逃げ場を封じるタイプだろう。無駄になってもいいから先手を打つタイプだ。

「エイジェイさんかあ」

「基本的に手出しはしないとの約束も取り付けてある。それこそ名前だけだ。――さて、快諾が得られたところで、名前をどうするかが問題だ。どうする……そうだな、つみれはどうだ」

「どうって、あたしより前に、ミルエナはどうなの?」

「私か? ……駄目だな、〝かっこう〟しか思いつかん」

「それミルエナの古巣じゃん」

「かっこう……ふん、なるほどな」

「やっぱミュウも知ってた?」

「耳にしていた程度だ。それでも、あの軍部は解体されたはずだ。流用するのは避けた方がいい」

「どーでもいいケドね、私は」

「あ、そういえばこの前、アカゲラを見つけたんだ。写真撮ろうかなーって思ったら、逃げられたんだけど、珍しいよね」

「そうだな。コゲラは見かけるが」

「え、なに、ミュウもそういうの、気にしてるわけ?」

「つみれは俺を何だと思ってんだ……自然の中にいたら、その音が危険か否かを知る技術も必要だ。動物に関する知識は持っておいて損はない。サバイバルでの危険回避から、食料調達まで役立つ」

「ああ、そういう理由……」

「これも、一人で生きるために覚えたものだな……ふん。殺すことは多くの人に教えられたが、生き残ることは自分で調べたものばかりだ」

 それを、懐かしみと共に感じるのならば、悪くはないかと、小さく苦笑を落とすと、妙に驚いたような気配があって、顔を上げる。

「――なんだ、どうした」

「いや、だって、あんたが笑ったとこ、初めて見たんだケド」

「うむ、私も初見だったので驚いてな」

「そうか。それは良かったな」

「あたしは何度か見てるけどねー」

「意識したことはない。だいたい、つみれはどこか嬉しそうに見えるが?」

「うん。ミュウって笑うと可愛いから」

「――は?」

 なんだそれは。それこそ初めて聞いた。

「その見解の是非はともかく、コゲラというのはいいな。アカゲラほどの稀少性はなく、小型だ。となると……うむ、生態調査部とでもしておこう。鳥だけでなく、人の生態を調べるというのも、なるほど、一興ではないか。ここまでは思いつきで言ったがどうだ?」

「……好きにしろ」

「それでいいんじゃない?」

「思いつきなんだが……まあいいか。確かここの棚に……うむ、あったな。筆跡を誤魔かすことはできんので、代筆を頼もう」

「じゃあミュウね」

「俺か。まあいいが……生態調査部、通称はコゲラ。あとは部員名か」

「まずは私だ。ミルエナ・キサラギ」

「なんだ、少尉殿と書いてはいけないのか」

「エイジェイに面倒を押し付けられるのは御免だ。ミュウとは違って、通称だからな」

 なるほどと言いながら、サミュエル・白井の名前を続ける。

「円つみれ――って、漢字は言わなくても知ってたっけ。ミュウって、格好良い字を書くんだね。楷書みたいだ」

「こっちに来てから、マニュアル片手に覚えたものだ。個性がないとよく言われる。それで連理さん、あんたの字は?」

「常用外の蒼に、鳳凰の雌のほうでソウオウ、連なる理で連理」

「……ああ、連理草の連理か。よくわかった」

「知ってるんじゃないの?」

「――氷点下の連理草、という名はどこかで聞いた覚えがあるが」

「だったら知ってるじゃない」

「知っているのはそれだけだ。当人を前に、名前の確認をする機会はそうないと思うが。それに思い出したのはさっきだからな」

「あっそ。どうでもいいんだケドね」

「書けた」

「では、エイジェイへの提出を頼む」

「……諒解だクソッタレ。俺を小間使いと勘違いしているようなら、とっとと薬を抜くんだな。なんなら、便所から逃げられないよう手錠で結ぶのを手伝ってやってもいい」

「それはともかくも、これで行動拠点は決まったね。んじゃ、あたしもがんばって、役立てるようにしなきゃね」

「ほう……自覚があるのか」

「うん。今のままじゃ、ミルエナだって似たようなことできるはずだし。トラブルが舞い込んできたら、後手に回ることになりそう。ってことで、今日はこれで帰るね。連理先輩はどーする?」

「ん、じゃあ一緒に帰ろうか。途中までだケド」

「俺も提出だけ先に済ますか……おい、少尉殿」

「なんだ?」

「これで終いじゃない。どうするのか、考えておけよ」

「ミュウは考えてくれないのか?」

「俺が?」

 それこそ、性質の悪い冗談だ。笑えもしない。

「――現場の駒に、考えさせたら部隊は壊滅する。そのくらいのことを知らんお前じゃないだろうが」

 面倒だから、という理由ではないけれど。

 それでもまだ、自分で考えて行動を起こすのに、誰かが一緒になった時点で、白井は考えることを放棄する。

 今は、まだ、それで困ってはいない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る