08/29/13:30――鈴白あやめ・客分も登山
その気配を真っ先に感じ取ったのは鈴白あやめだった。
普段から前崎鬼灯と共にあり、それでいて己を主張しないあやめは基本的に周囲の状況を読み取ることに長けている。特に幼少の頃の失敗――あるいは暴走――から、他者を傷つけることに敏感になり、傷つけることはしてもそれを無自覚で行うことを忌避しているくらいだ。
逆に、身動きしやすく、夏場だというのに長袖長ズボンを着た三人の中で唯一の男性である鬼灯は、深く狭い視界を保ちやすい。そのことに当人が自覚的である以上、それを直すのは難しいものだ。
「――そろそろ休憩にしましょう」
最後の一人、
「む……そうか。旗姫、休もう。焦る行軍ではない」
「は、はい、ありがとうございます」
「水は一気に飲むな。少しずつだ」
言いながら、鬼灯がこちらに視線を投げる。休憩を指示した意図は旗姫が疲労しているのを見たためか、それともほかに何かあるのかという疑問が同居したその視線に対してあやめは頷き、やや左方向に躰ごと向かった。
「誰ですか?」
誰何に対して三秒、すぐにESPを使って気配を探ろうと思ったが、それを寸前で留めるようにして木の上から彼女は降りる。足音を強く立てて存在を誇張した上で、意味ありげに口元で笑みを作った挙句、腕を組み。
「気付くのが遅いな」
などと、朝霧芽衣は言った。
「かれこれ五分も追跡していたが? まあいい。そちらの陽ノ宮旗姫とは、初対面のようなものか。朝霧だ」
「は、はい、お見知りおきを」
「さてと、場所が欲しいと鈴ノ宮に打診したそうだが、鬼灯の手配か?」
「ああ。師匠もいなくなって、ESPを試す場が必要だった。できれば継続的な場が欲しかったが、現状ではここが良いと紹介されてな。責任者は朝霧なのか」
「そうだ。四人ほど訓練を見ている。お前たちの知っている人間だと……田宮がいるな。いや構わん、こちらにも連絡はきていて、私は承諾した。しかし、まともに行軍――ではない、登山するつもりなのか?」
「一応な。旗姫には無理があると思っていたが、本人が承諾したのだから俺が口を挟む問題ではない。まあ最悪、
「ふむ。私の預かりで構わんか?」
「すまんな、世話になる」
軽く頭を下げた鬼灯が腰を下ろすのを見て、話しの区切りだと思ったあやめが口を開く。
「ところで、あちらはどのような行軍を?」
「ESPと術式を封じた、一般的な登山訓練だ。初回だけあって荷物も与えてはいない――たまに狙撃するが」
「狙撃……」
「そう睨むな、スパイスのようなものだ。緊張感を与えてやれば身が引き締まる。条件は似たようなものにするが、準備は私がしておこう。時に、野生動物を食すのに宗教上の問題はあるか?」
「ありません」
「ないだろう、そんなもの。生理的に受け付けるかどうかはわからないが」
「どんな形状だろうと腹に入れてしまえば同じだろう、その辺りの我儘を聞くつもりはないから、必要なら覚悟しておけ。こちらは数日を目安にしているが、そちらはどうだ」
「まだ決めてはいません。今回は旗姫の安定を目的としています」
「ふむ、なるほどな」
「――待て、今なにを納得した」
「わからなければ、それでいい。ともかくだ、説明されたとは思うが、鈴ノ宮に所属している実務部隊が遊び半分で使っている山だ、大した危険性はない。連中ならともかくも、お前たちは危険だと思ったら迷わずESPを使うことだ。私が面倒なので先に忠告していくが、気負う必要はないが甘くは見るなよ」
「忠告は感謝しておきます」
「一応、責任者だからな。ついでだが、山頂のベースまで把握できているか?」
「問題ありません、知覚範囲内です」
「では、十六時を目安に行動してくれ。あまりにも遅いようならもう一度顔を出す」
それだけ言い残した朝霧はあっさりを身を翻し、下山方向へ走って消えた。ほんの数秒のできごとで、疑問を追加する時間は与えられなかったが、そもそも何かを問おうとは思っていなかったあやめは、僅かに肩を落とすよう木の根元に腰を下ろした。
ふいに、顔を上げる。ESPの感知だ。
「――鬼灯?」
「確認だ……が、不要だったな。朝霧は確かに去った後だ。あやめ、あれは朝霧芽衣で間違いないだろう。俺の記録の中にある姿とも合致している。しかし――随分と雰囲気が変わった。これに間違いはないか?」
「はい。私も同じ感覚を抱きました」
「あの、朝霧様はどのようなお方なのですか?」
「俺の知っている限りならば、元軍属の狩人だ。〈
「印象ではなく感覚としては、開放的になったかと」
「柔らかくなったのとは違うのか?」
「逆です――いえ、硬くはなっていません。ただ私が探った感覚では、むしろ両手を開いてどうぞ中へと、誘っているようでもあります」
「――踏み込んだのか?」
「いいえ」
そんなこと、できるはずがない。
いや――できなかった。
そこまで踏み込めなかったのだ。怖くて。
恐ろしくて、探れなかった。一歩でも踏み入れば、途端に周囲を包囲されて逃げ場がないような気がしたから。
気のせい、ではないだろう。それだけの恐ろしさがあった。
「賢明だな」
言いながら、安堵の気配がある。その気持ちをいつも抱いているのはあやめの方なので、忘れるなと言いたかったが堪えた。我慢は得意だ。
「田宮様もいらっしゃるのですね」
「ん――ああ、そのようだ。あやめは気付いていただろう」
「はい。田宮のESP波は覚えていますから」
「本格的な行軍……というのも、想像がつきませんが、どのようなものでしょう?」
「そうだな、条件を厳しくしただけで、登山そのものに変化はないだろう。まず地図を持たず、術式やESPが禁止されているのならば全体把握もできないまま、コンパス一つで山頂を目指す、といったところか。隊列を組み、トラブルを避け、刻限以内に到着する……が、あるいは荷重を課しているのかもしれない。あとは妨害として朝霧が狙撃をするそうだが」
「その場合、ある程度の方向はわかるものの、山頂へ至る道まではわからないのですね?」
「いくつか方法はあるが、基本的にはそうだ。特にこうした山は視界が開けない、周囲の確認は難しいだろう。旗姫の場合はまず体力をつけてからだな」
「……はい」
「それと、登山は基本的に直線ルートを選択しない方がいい。連中のような行軍ならともかくも、距離は伸びるが迂回して、傾斜に対して直線を描かないように移動する。いわゆる蛇行だな。ただ今回は好きにしていい。無理だと判断したらテレポで山頂まで跳ぶからな」
「はい、それは前提としてきちんと理解しています」
「なに、この山は電波も良好だ。遭難して死ぬことはまずない」
言いながら携帯端末を取り出した鬼灯は、タッチパネルを叩き始める。いつもの情報収集だ。
「あやめ様は、あまりお疲れの様子は見られませんが……」
「はい。体力面もESPには直結しますので、精神面と同様にある程度は鍛えています。それにESPで基礎体力を向上させれば、瞬発力も持続力も上がりますから」
「朝霧がいるようなら、俺も一手指南して欲しいものだが」
「……そうですね。けれどその前に、今回の目的は旗姫のESP制御です。それを忘れないように」
「わかっている。そして、それは旗姫だけでなく俺にも必要なことだ」
「はい。――では、そろそろ向いましょうか」
「では行こう。先導は旗姫、先ほどの通りだ」
「わかりました。ところでお二人は、こうした登山経験もあるのですか?」
「ああ、俺たちの師匠の実家が山の入り口付近にあってな。裏山が近く、雑木林になっていてよく放り込まれた。雑草が胸の付近まであったものだ。虫と爬虫類の危険性についても実地で学んだな」
「あまり良い思い出ではありませんが、知識を経験に変えられた貴重な日だと覚えています」
「何かコツのようなものがあれば、と思ったのですが」
「それこそ経験しかない。あるとすればそれは、この山がどのような山なのかを、初見で見抜けるだけの知識と手段を持っていた場合か。ともかく俺たちのような凡庸な人間は、次に来る時に注意すべきことを、確認しながら覚えていくしかない」
「わかりました」
しかし、この調子では頂上に到着した頃には疲労困憊で訓練どころではないだろうなとあやめは思う。どのみち数日は消費するつもりでいるので問題はないが。
旗姫は素直だ。過ぎるくらいでもある。
だからこそ楽しんでしまえばいいとも思うのだけれど、それを口にするのは野暮だろう。あやめとしては、基本的に第三者の立ち位置で見守る形がいつもの場所だ。
鬼灯はどうなのだろう。
問うたことはない。けれど、少なくとも面倒だとは思っていないだろうし――かといって、あやめとの付き合い方ともまた違っている。
どうなのだろうか。
自分は、鬼灯の態度を気にしているのか?
自問に対する自答はない。どちらでも構わないと思っているのも事実であるし、どちらかに傾くのも、たぶん悪くないと思っている。
――しかし。
危惧があるとすれば。
それとなく知り合いに頼んで旗姫の両親関連を調べても、何もかも一切、手がかり一つすら掴めないのは、果たしてどういうことなのだろうか。
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