06/26/12:30――朝霧芽衣・発想の授業

 ようやく躰を起こせるまでに回復した私は、よく昨夜は単独で帰宅できたものだと自分を褒めながらも、真新しい制服を着て学校へ向かったのだが、昼休みも半ばという時間になってしまった。連絡の一つも入れれば良かったかもしれないなと、再び向かったのは職員室だ。

 入室許可を貰って入れば、やはり視線がこちらへ向く。軽く片手を挙げて挨拶として、隅の机を使っている担任のところへ。

「朝霧さん」

「ふむ……いや、食事内容についてはとやかく言うつもりはないが、野菜より肉が好きか担任殿」

「とやかく言ってますよう……」

「そうか。ともかくすまんな、遅刻したようだ。次からは連絡をすることにしよう」

「はい、そうしてください。なにかあったんですか?」

「一歩間違えれば死ぬような極限の状況を六時間も続ければ、疲労困憊で動けなくなる――いや犯罪は関係ない、そんな目で睨むな。それでもと言うのならば担任殿の連絡先を寄越せ。余所の仕事で登校できないようなら直通で連絡してやろう」

「うぬぬ……それは先生として、どうなんでしょう……」

「よく考えておけ。で、ここから説教の時間が始まるのか? それならばあとにしてくれ、担任殿の食事の時間がなくなる」

「お気遣いどーもです。――あ、そうです、朝霧さん。本当なら朝に聞こうと思っていたのですが」

「どうかしたのか? バストアップ体操よりも先に、身長を伸ばすことを考えた方が良いと思っているが……」

「そうじゃありませんっ!」

「ではなんだ。心当たりがありすぎて、絞りきれん」

「あのですね! 次の授業時間なのですが、ホームルームに当てられています」

「ふむ、続けろ」

「なんでそんなに態度が大きいんですかー」

「それは勘違いだ。いいか、よく聞け。――担任殿の態度が小さすぎるんだ」

「酷い言いぐさですね! まったくもう……話が進みませんよう。いいですかー、試験準備期間ということもあって、いつもなら各自の勉強時間に当てるわけです」

「ほかにやるべきことはないのか?」

「ありませんねー」

「と、この小さいのが言っているが?」

 周囲を見ると、視線を逸らされる。気を悪くしたかと思って視線を戻せば、弁当を食べながら、そこはかとなく哀愁があった。

「うちのクラスはですねー、面白くないことは徹底して、すぐに解決するんですよー。お蔭で先生の手間は減るんですが」

「なるほど、時間が余っているから有効に使うのは悪いことではない。それがどうかしたのか? 私の勉強を補助しようというのならば、丁重にお断り申し上げるが」

「いえいえ、逆です。朝霧さん、次の時間を使って授業を行ってみませんか?」

「二十秒くれ」

「え? あ、はい……あの、ええと、どうぞ?」

 腕を組んだ私は視線を外して、室内を見渡すようにしつつ、奥にある窓から見える外の風景で固定した。

 授業をしたことがあるかと問われれば、肯定だ。階級が上がってからは、訓練校での座学を教えたこともあるし、狙撃や格闘訓練にも教官として顔は出している。しかし、この場合は質が違うだろう。

 ――ふむ。

「一丁前に私を試そうというのか」

「え? あ、もういいんですかー? 試すかどうかはともかくも、興味はあります」

「いいだろう。記憶することを勉強することがイコールになっている諸君に、頭の使い方を教えてやるのも吝かではない。一単位となると九十分か、その程度で身に付くかどうかはともかくも、結果がどうであれ効果は出るはずだ。しかし、わかっているな? 担任殿が私を試すのならば、担任殿にも私の授業を受けてもらうことになるが」

「いいのですか?」

「好意的に受け止めるものだな。諸君も手すきなら参加しても構わんぞ、遠慮するな」

「――教科はどうなんだ?」

「馬鹿なことを言うな、そんなものはない。もっと基礎に位置するものだ。勉強の仕方、なんて呼ばれるものの下積みとして行われるべきものになる。前例があるかもしれんがな、今やっても無駄にはならん。逆に言えば、それだけ難易度の低いことをするだけだ」

「面白そうですねー。準備は必要ですか?」

「いや、なにもいらん。もうそれほど時間もないが、楽しみにしておけ。さて、もう構わないか? ああ、連絡先の交換がまだだったか」

「本気だったんですねー……」

 担任と番号を交換しておいた私は、そのまま教室へ。もちろんプライベイト用の携帯端末だ。こちらなら、いざとなれば捨てればいい。

 教室での出迎えは普通だった。気軽に、なにしてたんだ、などと問われるが、用事があったとだけ答えておく。そもそも、詳細な説明を求めているわけではないからだ。

「ほっとしたぜ」

「なんだ田宮、私を鷹丘なにがしと一緒にするな。で? 私のことはきちんと調べたんだろうな?」

「ノーコメント」

「ふむ。ラルに訊ねても嫌そうな顔をするだけだ、期待はするな」

「――……お前ね」

 鞄を置いて椅子に腰かけ、脚を組む。一連の流れだ。

「まあいいや。それよか、噂を耳にしたんだけど朝霧、お前今回の試験で普通学科のやつも受けるんだって?」

「なかなかに耳ざといではないか――隠してはいないが。確かにその通りだ」

「よし。おいなつ! 言質が取れたぜ、今回の試験はこいつで行こう!」

「なんだ、お前たちも受けようというのか?」

「おう、面白そうだって話をしててな。俺ら情報処理科は基本的に、普通科よりも五教科の授業レベルは落ちる。そんなのは周知の事実だ――が、それを受けて上位三位以内に入ったらどうよ? 面白くね?」

「ははは、普段の試験も加えれば結構な難易度だが、成功した時は誇らしいだろうな」

「だな。――ってことだお前ら! 今日中にツテを頼ってノートの写しの入手な! 俺はコネ使って生徒会に働きかけるから、夏と美香みかは景子ちゃんの説得と言いくるめを頼む」

 わかった、諒解、そんな短い言葉があちこちから飛ぶ。なんというか、素晴らしい連携だ。連帯感もある。

「ま、実際に当たろうが外れようが、景子ちゃんの印象は悪くなんねえだろ。一応それとなく、生徒会に頼んでみるけどな」

「そこまで考えてのことか。ちなみに、前回の試験でもこういった催しがあったのか?」

「おう。全員で平均点七十を目指そうって試みだったんだけどな、五教科中達成できたのが四教科だったって辺りが残念だ。今回はそのリベンジだぜ」

「動機付けは良いことだ。あまり手伝うことはできんだろうが、良い結果が出ることを期待している」

「さんきゅ――と、休みも終わりだな」

「うむ。楽しみにしておけ」

「は?」

 ひらひらと軽く手を振ってやると、しばらくして担任が顔を見せた。授業開始にぴったりというわけでもない。視線が合った私は、軽く頷いて鞄の中からルーズリーフの束を取り出す。たぶん必要ないだろうが、念のためと入れておいたものだ。準備とは、こういう時に役立つ。

「じゃあ授業を始めますよー。ええとですね、今回のホームルームですが、えーっと」

「む、ああ、そういえばその説明に関しての打ち合わせはしていなかったな」

「あ? なんだって朝霧」

「まあ聞け田宮。いや田宮以外もそうだが……担任殿の要請でな、これから九十分は私が教壇に立つことになった。何故私だという諸君の疑問は尤もだ――担任殿、これを配ってくれ。百枚あるから充分に足りる」

「はあい」

 教壇に立った私は、全員が注目しているのを確認して、頷く。

「なに、実に簡単なことだ。私はコロンビア大学で教育学を専攻していてな。証明書を見せろというのなら後日にしてくれ、面倒だ。共通言語イングリッシュが使えるなら、受付に連絡して訊ねろ。卒業者の中に私の名前もあるからな。それを担任殿に話したら、こうして授業をしろと言われた。どうだ、面倒な流れだろう」

 小さな笑いが起こる。その程度の反応が一番楽だ。

「いいか? これから行う授業は、遊びだと思って対応しろ。目的は、お前たちの頭を柔らかくすることだ。普段はほぼ無意識だろうが、頭を使うということが実感できる。ああ、ゲストで教員が二名参加するようだ。聞こえているだろう? 後ろから入って、そうだな、後ろの物置の上でも机代わりにするんだな。担任殿は私の席でいい」

 残ったルーズリーフは私が受け取り、胸から万年筆を取り出す。

「担任殿、私の筆記用具は好きに使って構わんぞ」

「はい、どうもー」

「呑気な返答が聞けたところで、始めるか。まず配布したルーズリーフだが、手元を見て左側に綴じ側……穴の空いている方だ。左側だぞ。そして右上に、自分の名前を記しておけ」

 さて――黒板を有効に利用しつつか。デジタルじゃないだけ面倒もあるな。

「これからいくつかの問題を出すが、相談は避けろ。自分の成長を求めるならば、まずは自身に問いかけることが重要だからな。そしてこれから出す問題に、正解はない。お前たち個人がどのような答えを出そうとも、それらはすべて正解であり、すべて間違いだ。他人と比較することが、そもそもナンセンスだと考えろ。――といっても、それほど堅苦しいことはやらない」

 私の手元には紙を二枚。片方には彼らと同様に名前を書いておく。

「これから、お前たちの発想力と想像力を問う。死にもの狂いで頭を使って考えろ。では前提だ。ある人物がいたとしよう。ふむ、人物Aとこの授業中では呼称することにする。設問一、人物Aが右手で荷物を持った。その理由を書き出せ」

 一瞬、ぽかんと間が空く。即応したのが周囲の雰囲気を感じながら手を動かす担任であることを見抜きながら、私は黒板に①と書いてから問題を書いておいた。

「五分やる。目安は十個だ。以上でも以下でも構わんぞ。思いつくだけ、考えられる限り書き出せ」

 書き終えて振り向けば、ほぼ全員が手を動かしている。いい反応だと思いながら、私は名前のない紙の方に問題を書き残し、自分のものを進めた。この手の想像力は魔術にも通じるため、思考の柔軟性を得るための初歩として、私は師に引き取られてすぐの頃によくやっていた。

 答えはないのだ。なんだっていい。右利きだった、左手にはもう荷物があった、右側に置いてあった、そんな簡単なもので構わないのだ。

「――五分だ。多いか少ないかは、気にするな。次の問題に行くから、頭を切り替えろ。一応言っておくが、一行くらい空白は空けておけよ? 書いたものは、常に誰かに読んでもらうものだと認識するのは、悪いことじゃない。裏面の使用は許可しないから、文字の大きさにもこれから気を配れ。いいな? ――よし。設問二、人物Aの手が汚れて見えた。その理由を書き出せ。こちらも五分だ」

 参加した教員は女性と男性が一人ずつ。私に背を向ける格好でやっているが、年齢からくるものか、それとも積み重ねた経験か、あまり手が進んでいないようだ。

「やめろ。どうだ慣れてきただろう? 設問三、人物Aは長袖を着ていた。理由を挙げろ。五分だ。繰り返すが、十個は目安だからな。あるなら、あるだけ書くといい」

 この五分を短いと思うか、長いと思うかは個人差がある。けれどこれは、私が二十秒という思考の区切りを持つように、五分で頭を切り替える訓練にもなる――が、さすがにこの授業だけでは身に付かないだろうが。

「そこまでだ。もう余裕になってきた頃合いだろう? ははは、苦笑は聞かなかったことにしよう。設問四、人物Aは笑顔を浮かべていた。何故だ? これも五分だ」

 本来ならばこれを、十問ほど行うのだが、あとの時間を考え、初めてのことだというのも踏まえれば、このくらいが限界だろう。最初のうちは手が動いていたのに止まっている者もいれば、逆にあとの問いの方が早く書ける者もいる。これらはあとで、自分の弱点であることを認めさせれば、成長は可能だ。

「――止め。どうだ、もう二十分も経過したが、早いか? 遅いか? それもまた自分の感覚だ、五分という時間を覚えておくといい。では、それぞれ書いた答えの右上――まあ、右側ならどこでもいい。空白がある位置に、ペンの色を変えてそれぞれの設問番号を記せ。多少なら文字にかぶってもいいからな。更に十分時間をやる。それぞれの設問は黒板に記した、それを見ながら追加を許可する」

「あのう」

「なんだ担任殿、質問か? 問いを口にするくらいなら一つでも多く書けと言いたいくらいだが」

「じゃなくてですね、さっきから気になっていたんですが、黒板には共通言語で記してあるんですがー」

「む……? ああ、本当だな。読めないことはないだろう?」

 言われて気付いたが、手元の紙にはそれぞれ共通言語で記してあった。そういえば日本語で記すことは、ほとんどなかったな……。

「今更書き直せと言われても面倒だ。すまんな、私の落ち度だ」

 改めて考えなくても、設問くらい覚えていて当然だが、ちらちらと黒板で確認している生徒がいるあたり、まあ、仕方ないのかもしれないが……記憶力だけに特化すると、柔軟性を欠き、発想そのものを封じることになるため、脳の使わない部分が出てくるというが、なるほど、こんな状況を飲み込めば納得もできる。有用な人材とは、なにかに特化するよりもむしろ、いかに把握して学習するかに尽きると、そう思っているが……試験ばかりに目が行けば、そうもいかんか。

「十分だ。――傾注、一度手を止めて私を見ろ」

 全員の視線が集中するが、心地よさよりもむしろ、それぞれの視線の意味合いを探ってしまう辺りが、私の慣れなのかもしれん。悪い行為ではないだろうけれども。

「二択問題とは、往往にしてどちらかでなくてはならん。右か左か、前か後ろか。これを決定する時には、迷いと呼ばれるものが一番いかん。直感的にとは言うがな、そもそも直感とは今までの経験の積み重ねから導き出された結果だ。しかし、思考の過程そのものが早すぎて把握できないから、ぽつんと出てきた結果に対して猜疑的になることがある。違うかもしれないと、そう思うことこそが間違いだ。いいか? 迷いを捨てて、今から私の言う問いに対して即応しろ」

 再び全員の顔を見るように確認してから、言う。

「人物Aは男か女か、どちらだ。――これを設問五とする。一番下に記せ」

 ほう、本当に即応するか。迷った生徒がいないあたり、言葉を聞いて飲み込むだけの教育はできている、というわけか。もちろんこの場合、誇らしいのはむしろ私だろう。誰が命令したものかによって反応が変わるのは日常的であり、それは信頼の裏返しなのだから。もっとも、こういうふうに育てたのは、担任かもしれないが。

「書けたようだな。よろしい、では続けよう。今から適当な生徒と紙を交換しろ。面倒なら隣の席で構わん、誰でもいい――ああ、担任殿は私だ。教員はお互いに交換してくれ」

 私は教室の後ろまで移動して、担任と交換する。横書きの共通言語で記してあるが、語学を担当しているのならば読み解けて当然だろう。続きは日本語で構わないことを伝えると、私は担任殿の書いた紙を手にして教壇へ戻った。

「傾注だ。他者の内容が気になるだろうが、まずは私を見ろ。――よし。さっきも言ったかもしれんが、他人と比較してあれこれ考えるのはよせ。お前はお前だ、自分は自分でしかない。それを悔やむのは自由だが、誇るところではない。さて、紙を裏返せ諸君。今度は綴じ側、穴のある方が右側にくるようにしろ。上下を間違えると読みにくいからな、上と上を合わせるように。……いいな? 左上に自分の名前を記せ」

 さすがに今度は意識して日本語で記す。うむ、どうやらきちんと覚えているようだ。それほど難しい漢字でなければ使えるだろう。

「これからやることを言う。いいか? 五つの設問に対する答えが、裏面に書いてある。これは情報そのものだ。お前たちは他人の書いたその情報の中から、最低でも六つの情報を抜き取って、人物Aのプロフィールを作成してもらう。人物Aはどのような人間なのか、書いてある情報から組み立ててみろ。加えて状況……そうだな、簡単に言ってしまえば、人物Aはどのような人間で、だからこそ、今なにをしているのかを書け。今ある情報からの発展だ。想像から出た情報を構築して人物Aを完成させろ。二十分やろう、始めろ。なんなら、いくつかのパターンに別けて、何人かの構想を作っても構わんぞ」

 とはいえ、彼らに可能なのはせいぜい、今言ったように情報をいくつかピックアップして、それに合った職業や性格、そこから考えられる状況くらいが関の山だ。それはそれで構わないのだが――。

 さてと、私は担任の書いた情報を見て、二十秒の思考を得る。一つ目は情報を六つ以上抜き出した人物像、そして二つ目は、本来の意味での構想を書いた。顔を上げれば、担任殿と視線が合う。

 なるほど、理解できたか。

「今はまだ十分だ。どうやら全員、それなりに手が動いているようなので、一つ教えてやろう。なあに、聞き流しても問題はない。余裕があるなら聞いておいて損はないが。先ほど、即応しろと言って、お前たちは男女を即座に書いた。それが意味するところはなにか? 少なくともこの答えに、担任殿はたどり着いたようだな。いいか? お前たちは五つの設問に対して、頭を悩ませて書き出したが、そこには人物Aを想像した上で書いたはずだ」

 これは実に、当たり前のことである。

「手だけで存在する人間はいない。右手と言ったら、腕まで想像する。服を着ているのなら躰はあるし、笑顔と言ったからには顔があるだろう。つまりお前たちのほとんどは、設問に答えるに当たって、人物Aそのものを想像していた。ごくごく、これは自然の発想だ。つまり――今与えている課題、その本来の意味合いはな、紙を交換した相手の、情報を出した相手が、どのような人物を想像していたのかを探るところにある。いわばこれは情報整理と同じだ。どんな人物なのかと想像をめぐらすのは当然として、そこに自分の発想ではなく、こいつはどんな人物を想定して情報を出したのかを考えてみろ」

 それだけで、書き手の性格すら読み取ることもできる。あるいは思考回路そのものの想定も可能だ。私ならばまず、教育する前段階として行うだろうし、やられた本人にとっても、頭の柔らかさを養える。

「二十分――時間だ」

 三度ほど手を叩いての合図。全員がこちらを向くのを待ってから、頷いた。

「ご苦労、これで一通りは終わりだ。肩の力を抜いて構わんぞ。……ふむ、六十分ほど使用したな。とりあえず今から二十分ほどは自由に意見交換をしても構わんが、はしゃいで大声は出すな。それと、これ以降、紙に何かを記すことは私が許さん。あとで回収するからそのつもりでいろ。なあに、成績などいちいちつけんし、後日には誰でも見られるように手配するとも。わかったのならば、紙を本人に返せ」

 ざわりと空気が揺れ、各各が肩の力を抜いて席を立った。私も手元にある紙と、使わなかったルーズリーフの束を持って担任のところへ行く。

「面白い返答はしていないが、目を通しておくといい」

「どうもー」

「いや座っていて構わん。落ち着いて読め」

 立ち上がろうとした担任を制した私は、鞄の中から使っていない――というか、セットで買っておいたファイルを取り出し、問題を記しておいた紙を綴じておく。あとで回収したものも、これに入れておけば問題ないだろう。

「ふむ。どうだ担任殿」

「朝霧さんは性格が悪いですねー」

「よく言われるが、そう思うか?」

「はい。だって朝霧さんの回答はすべて、共通しない人物像を想定した上で書き出したものだと思いましたから」

「その通りだ――が、私はそうではなく、今の授業内容についての問いだったんだがな」

「あ、はい、そちらは充分に有用でした。本当ならこういう授業をやるべきなんですよねー。記憶するだけではなく、試験に役立つのではない、フレキシブルな思考から、柔軟性を育み、結果として頭の使い方を自覚することで、記憶そのものも上手くできます。それに、これを続ければ、記憶の仕方を自分なりに覚えることもできるんじゃないですかー?」

「そこまで理解できたのは、教育者ならではだろう」

「うーん、先生は分析しただけで、方法を知っていたわけではありませんから」

「だからといって落ち込む必要はないし、方法はこれだけではない。ただ、短時間でとなれば、こうした手段でどうだろうと私が考えた結果だ。私だとて初めて行った内容だからな、正しさを求められても困る」

「朝霧」

「どうした、数学教員殿」

「……白石だ。最初、五分の区切りをつけたな。俺はこれを短いと考える。何故だ?」

「長いか、短いかが問題ではない。本来は、一定の結論を出すまでに、どの程度の時間で許容するのかを測るもので、集中力の持続がどこまで持つかを自覚させるところにある。言うまでもないが、集中力は時間の経過と共に右肩下がりになるだろう?」

「それはそうだが……」

「白石殿は、短いと感じた五分で、いくつの結論が出せた」

「設問への答えならば、平均して六つだ」

「これも、大いか少ないかが問題になるわけではない。六つとすれば、一つに対してざっと四十秒もあれば出ると仮定できる。つまりだ、これはやや極論になるが、白石殿にとっては一つの問題に対して、一つの結論を出すのに、四十秒以上は考えても無駄になる場合が多いと、考えられる。これを、四十秒で出ないのなら考えるだけ無駄と捉えるか、あるいは四十秒で結論を出さなくてはいけないと捉えるかは、白石殿の性格や、経験に委ねられるだろう。あとは、そこからの発展だ」

「発展となると、たとえばなにがだ」

「たとえば、四十秒で覚えたものが、一時間後に実際に使えるかどうかを試す。これは記憶の領分だな。もっと簡単に、四十秒で記憶しておいて、それを思い出すのに何秒かかるかを計測してもいい」

「なるほどな。そうか、俺たちが個人に合わせるのではなく、俺たちが与えた情報を個人が処理できるように育てる、か……」

「うむ、命題だがな。そう仕向けるのも、教育者の仕事でもある。こと日本の教育課程においては難しい」

「ありがとう、よくわかった」

「それならば私の授業も報われたというものだ」

「朝霧さんにとっては、二十秒なんですねー」

「ん? ああ、思考時間はそう決めている。もっとも私の場合は、結論を出すための場合でも、結論を出してからどうするかを考える場合でも、二十秒にしているが」

 いうなれば、結論がどうというより、集中して思考する時間になるのだが。

「田宮、どうだ。感想を聞かせろ」

「おーう、いや、なんつーか、マジ疲れた。頭が痛いってことはねえけど、かなり考えさせられたぜ……浮かばないのなんのってな。けど面白いぜ、これ。他人のを見ると参考になるっつーか、新しい発想が浮かんでくるし、今ならもっと書けるのにって思うくらいだ」

「ふむ。鉄は熱いうちに叩け――だ。諸君! 先ほどの紙に記すことは禁じたが、諸君が用意した紙になにを書こうが自由だ。そこは好きにして構わんぞ」

「ありがてえ。特に最初の設問がなあ……」

 周囲の声を聞けば、自分がどんな人物を想定していたのかを言い合ったり、こういう可能性もあるんじゃないかと発想を会話によって膨らませている。こういう光景は彼らが意欲的になっている証拠でもあり、なかなかに嬉しいものだ。

「楽しそうですねー」

「私がか? それとも連中がか? いいか、そもそも勉強が嫌いな連中は多いが、あれらが嫌いなのは勉強ではなく退屈だ。役に立つかどうかもわからんことを、頭ごなしにやれと言われて、ただ記憶するためだけに授業を受け、それを確かめる試験がある――このシステムに取り込まれれば、なんでだと叫びたくもなろう。つまりだ、次から教員陣の授業の難易度は上がることになる。せいぜい退屈だと言われんよう頭を使うことだな。ははは」

「その通りですけど、難しいですよねー。先生が楽しみだと思う部分が、生徒たちにとっても同様だと嬉しいのですが、そうでもないですし」

「基礎ができていれば、楽しみを見つけ出す方法も考えるんだが、そうもいかんからな。紙は回収して、担任殿に渡すが、放課後まで待て。先に読むのは授業を行った私だ」

「はい、それでいいですよー」

「む、いや待て。明日まで待てば、私がデジタイズしておくが?」

「へ?」

「どうせ連中も読みたいだろう。コピーを取るだけでもいいが……」

「そうですね……朝霧さんの授業ですし、お任せします」

「ならば担任殿も明日まで待て。仮に時間が足りなかったとしても、三つばかりコピーで予備を作っておこう。――さて、そろそろか。諸君! そろそろ二十分になる。用紙を回収するから教壇にまで持ってこい。雑談は終わりだ、席につけ」

 教壇に戻った私は用紙を集める。いちいち数える必要はなかったので、整えてファイリングしておく。一番上に設問を記した紙を挟み、顔を上げた。全員が席についてはいるが、やや落ち着いてはいない。まあそんなものか。

「改めて説明だけしておこう。まず五つの設問で発想力そのものを試した。何故こんなことをと、最初は思ったかもしれん。だが覚えておけ、その〝何故〟は今回の機会がなかったら発生しなかったものだ。物事には疑問を抱く。そして、想像して考える。頭を使うにも切欠が必要だ。そして後半に行ったのは、出された情報から何かを見抜くための思考だ。知っているかもしれんが、学園には真理学科なるものが存在する。これは本質を掴むための思考そのもので、今回行ったのはその初歩、ということになるのだろう」

 鷺城が所属しているのは知っているが、彼女にとっては不要というか、それこそ得意とする分野だろうに……。

「実際に効果を期待したいのならば、一ヶ月くらいは今のような些細な疑問からの発想を、気付いたらやり続けるといい。少なくとも視野は広がる。たとえば退屈と思えるほかの授業の最中であっても、教員が何を教えようとしているのかを見抜くことも可能だ。しかし、実は少し視点を変えるだけで、この方法は実に困難な、いわば壁にぶつかることにもなるのだが……ふむ。田宮、手を挙げろ」

「は? お、おーう。なんだよ」

「よろしい。もう下ろして構わんぞ。さて、全員見たな? 田宮は今、右手を挙げたわけだが、その理由について五個出せと言うまでもなく、さっきの今だ、多くの人間が思考したことだろう。それは問題ではない。――田宮、どうして右手を挙げた?」

「俺? いや……なんでって、癖? 思わず、言われたから、こう……?」

「ふむ。癖と言ったな。だがお前は右利きだろう」

「だよ。だから右じゃねえか」

「しかし授業中、基本的に右手にはペンを持っているはずだ。思い出してみろ、授業中に手を挙げる時は、大抵の場合において、左じゃないか?」

「そりゃ……ああ、そうだよ」

「だとして、お前は今、癖と言ったがそれは違うように考えられるが、だったらほかにどんな理由がある?」

「……いや、しかし、あー……でも、うーん」

「私の求めた反応で助かるな。これで明確な理由を五つも六つも挙げられたら困っていたところだ。さて、困難な壁と言ったのがこれだ。いいか? 仮定の人物Aであっても、他人の行動であっても、いくつかの想像を出すことができる。だがな、それを自分の行動にあてはめた途端に、何もでなくなる場合が多い。さて、それは何故だ?」

 小さく、私は笑って軽く手を振る。

「自身の行動を把握する必要はない。行動そのものにすべて、理由があるとは限らない。だが、そこに仕組みは必ず存在している。それらを感じ取った人間は、その理由に正解を求めがちだ。正解は一つしかないと錯覚してしまう。他人ならばともかくも、自分となれば尚更だ。他人の行動を推察するのはもちろん、それだけで効果はあるが、もしも気になったら、己の行動に疑問を抱け。客観視してもいいが……自分で、自分のことを考えろ。答えを出すことよりも、考えることが重要だと覚えておくといい」

 そうすればいずれ、その答えも出るだろうから。

「さて、少し時間は余ったが、私の講義はここで終了とする。回収した用紙は、後日なんらかの形で全員が目を通せるようにするから安心しろ。――以上だ、ご苦労だったな」

 ありがとうございましたと、ばらばらと声が上がり、私は担任と場所を交代する。その際に教室後方に位置していた教員二人からも用紙を回収しておく。今日は残り一単位、その間にすべて目を通せればいいが。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る