06/23/14:30――朝霧芽衣・つれづれ寮

 日本における食糧事情は実に優秀であり、露店が並ぶことは珍しいものの、金さえ所持していれば気軽な食事も、あるいは割高な料理店であっても入ることができる。逆に言えば私のように、食事そのものを重要視しながらも、食品の選択に拘りを持たない人間にとっては、選択に迷うこともあるのだが、喫茶店と呼ばれるものは程度の差はあれ、内容そのものはどこでも似たようなものだ。

 そうして昼食をとった私は、再び歩いて目的地、つまりこれからの住居となる寮――つれづれ寮を目指していた。片手にはカート、片手には地図だ。途中、巡回中の警官に道を訊ねるなど、アリバイ作りというか、立場を演じるのに余念はない。そもそも地図はきちんと読めるし、方向感覚は良い方だ。その上、地図そのものを頭に入れているのだから、地図を片手にする必要も本来はないのだが。

 まだ何がどうなっているのかわからない以上、私はそれなりの警戒を胸に秘める。それは逆に、周囲を巻き込みたくない意味合いも強いのだけれど。

 自動運転システムを確立させたのは芹沢企業。利益を度外視し、ただ作りたい欲求を満たすためだけに作る技術者を揃えた大企業。好きなものを作らせ、それがたとえば自然環境に優しい――あるいは解決に向かうものならば、それこそ無料に限りなく近い値段で流通させる。エコ、などという言葉が流行っていた時代もあったが、今でこそ本来の意味で使われるよう芹沢が浸透させたものの、かつてはエコなどと呼ばれるものは商業戦略の口当たりがいい言葉でしかなかった。それも四十年以上前のことであるため、私は知識としてしか知らないが、少なくとも日本における車の動きというのは、一定化しているのだと実感できる。つまるところ、事故への警戒はほとんど必要ない、ということだ。

 しかし――データ上では、これは改ざんのない事実なのだけれど、私は六歳までこの土地で過ごしていたらしい。野雨市の病院で生まれ、住居もたぶん同じなのだろう。それでもやはり思い出すことはなにもないし、外観に覚えすらないのが実情だ。

 ふいに、足を止めて後ろを振り返る。

 道を覚えるために必要な動作だが、同時に尾行を確認することもできる。もっとも、実際に尾行されているのは目視確認よりも感覚に頼る部分が多いし、されているのがわかったら、私はこうして振り向かないので、やはり道を確認するためのものだ。

 地図を見て想定するのは、予備知識だ。右か左か迷った時に周辺地図が頭に入っていないのでは話にもならない。けれどその地図に頼り過ぎて目的地を目指せば、地雷を踏んで右半身を吹っ飛ばされることもあるのが現実だ。

 情報は、どんなものであっても、現地で仕入れるのが一番鮮度が高い。

 しかしまあ、私に現地での感想を求められても返答に困る。それが命じられたものならば自身の受けた感覚を諳んじてみせるが、故郷に戻ってきた気分はどうだと言われても感慨はない。

 ただ、私がここに居る。どう考えを巡らしても、それだけだ。

 つれづれ寮、と木の板に行書体で描かれた表札を発見した私は足を止める。大通りからは三本ほど中に入り、左右にそれぞれ一般家屋を挟んだ場所だ。三階建て、小さくはあるが表庭と裏庭とがあり、敷地面積だけを考えれば左右の家屋よりも広いだろう。また二階建ての家屋に挟まれているため、頭一つ高くなっている。屋上への出入りはどうなっているのかは疑問だが、白い布が風に煽られて見え隠れしているため、物干し竿が並んでいるのだと想像しておいた。

 スーツケースから一度手を離して腕時計に視線を落とせば、一四三○とある。仕事柄、世界各地に飛び回るためデジタル表示であり、タッチパネル形式でいくつかの機能が埋め込まれているものの、アラーム機能だけは一切ない。黒色で厚い無骨なデザインは女性に似合わないと評判だ。バックライトもついてはいるが、夜間に点しても目を凝らさねば見えないほどに暗い。

 管理人はいるだろうかと思いながらもスーツケースを再び手にとってインターホンを押すと、しばらくして人の気配と共に玄関が開いた。

「はい」

 出てきたのは丈の長いスカートに薄手のシャツという落ち着いた格好の女性で、こちらを見てからスーツケースに気付いて微笑みを浮かべる。ぎこちない、というほどではないが営業用のそれに似ているかもしれない。

 では対応する私の笑顔はどうなのだと云うと、これまた作り笑いと指摘されても仕方がないだろう。実際にその通りだし、私は笑顔が下手だと昔ならば師匠が、最近ならば訓練教官や同僚が証明してくれている。

 それでもと、私はアイウェアを鼻の頭へとずらして、目を見せる。驚きの気配があるけれど、それはともかくとして。

「この度、こちらで世話になることとなった朝霧だ。管理人はいるだろうか」

「――あ、はい。初めまして、寮生の四十物あいもの花刀かたなと云います。どうぞ中へ」

「失礼する」

 中へ入って玄関を閉め、スーツケースとキャリーバッグを隅に立てかけてすぐ、ああ土足のままではいけないんだったと気付いた。

六六むつれさん、朝霧さんがいらっしゃったから!」

 室内に向けて放たれる声を聞きながら靴を脱ぎ、差し出されたスリッパを借りる。視線は左右に、それから正面にある階段とその横の通路へと向ける。左側には三室、右手には扉が一つ、正面通路は右方向に直角であり正面は壁だ。

 案内されるままに正面通路、そこから右手へと曲がるとキッチンがあった。広いテーブルに椅子は八つ、更に右手はリビングとなっており、どうやら玄関口にあった右扉は直接リビングに繋がっているようである。またリビングのガラス戸は足元から天井まである広いタイプで、そこから中庭が見えた。いや、裏庭と表現すべきか。

「――いらっしゃい」

 キッチンの奥から顔を出したのは小柄な男性だ。表情は笑顔だが、元より糸目のようである。その柔和な気配とは違い、どこか物腰の重い経験を感じ取った私は、見た目よりも年齢的に上であることを理解した。

 初対面ならば、敬語を使うのは自然だろう。しかし私の敬語はやや特殊であるし、これからも付き合いがあるともなれば、面倒だ。自然体の方が楽だし、ボロが出にくい。

「朝霧芽衣だ、よろしく頼む」

都綴六六つつづりむつれだよ。あきらさんからは詳しく聞いている」

「詳しく――か」

 室内ということもあって、私はアイウェアを外して胸元に引っかける。

「どうやらここは随分と環境が良いらしい。望んだのはアキラか、それとも貴君か?」

「とりあえず、座ったらどうかな。なにを飲む?」

「喫茶店ならさっき寄ってきた。それでもというのならば、甘いものを」

「うん。花刀くんはどうする?」

「あ、ごめん私はまだちょっと……すみません朝霧さん、所用があって」

「構わないとも」

 またあとでと言葉を落として、彼女は戻っていく。すぐに階段を上がる足音が聞こえてきた。やや早めのペースだが……詮索には早いか。

 隣のダイニングキッチンに移動して、適当な椅子を引っ張って座る。自然と足を組んでしまったが、まあいいだろう。

「詳しく知っているということは、腹の探り合いは不要と捉えても構わんか?」

「そうだね、そうしてくれると助かるけれど、きっとそうはならない」

「ふむ。――その通りだ。何故ならば私のことを知っているとはいえ、私は貴君……六六のことを知らんからな」

「けれど、疲れるだろう? 仮住まいとはいえ、気の休まる場所にならないのは、僕の落ち度になりうる」

「さて、必要ならばいつまでもそうするとも。もっとも自分から荒事に首を突っ込みたいとは思わないがな。ここのところはよく誤解されるが」

「どうぞ」

「いただこう」

 差し出されたのは紅茶のようだった。砂糖とミルクも入っているのだろうそれを、まずは香りを確かめてから、小さく含んで検分しつつ飲み込む。毒入りの可能性を考慮した上での行動で、私にとっては条件反射の領域に入るほど当たり前のことだ。

「一通りは説明するつもりだけど、まず最初になにか聞きたいことは?」

「寮生の名前を」

「うん」

 どこか嬉しそうに六六は頷く。どうやら私の問いを想定していたらしい。

「今は――先ほどの花刀くんに、橘九<《たちばなここの》姉さん。それと男性の転寝夢見うたたねゆめみくんの三人だ。だから芽衣くんは、四人目になるね」

「良い数字だ」

「事前調査で知っていたはずだろう?」

「私をなんだと思っているのか疑いたくなる台詞だな。安心しろ、もちろん全員初対面だとも」

「返答としては不適切だね。これを続ければ、君の情報収集能力そのものを言及することになるから、止めておこうか」

「ふむ、素晴らしい大人の配慮だとも。さて、案内は飲み干してからとしてだ、ここの規則はどうなっている? こう見えても私は、起床時間から就寝時間まで決定されていたとしても、文句は言わない女だと自負している」

「そこまで厳しいものはないよ。規則といっても、そうだな、まずは食事に関しては説明しておいた方がいいかもしれないね。契約書には目を?」

「ああ、一通り目を通している。聞いてくれ六六、あの馬鹿――いやアキラなんだが、学費は払ってやるが寮費は出さんと言いやがった。どういうわけかと問えばこうだ。お前が誰にぶっ放しても構わないが、その弾丸の費用を持つのは俺だ。しかし、お前が髪を洗うためのシャンプーを買って欲しいと言われても、孫娘を相手にするのならばともかく、可愛げのない部下のために買ってやろうとは決して思えん――と、こうだ。どう思う」

「それは比較対象が違うと言うべきかな? それとも、可愛げがないのは僕にも良くわかると同情すべきかな。休日は七時、十二時、十九時にここで食事を行う。何かリクエストがあれば、僕が作れる限りで出すし、それなりに栄養バランスも考えている。逆に言えば学業のある平日は、昼食以外は同様だ」

「ふむ……」

「なにか問題でも?」

「なに、今までの食生活とは違う点がいくつか見受けられたのでな。もっとも、日本の食品事情ではそんなものか。たとえば六六が用事で外出している時などは、各自調達になるのか?」

「そうなるね。もちろん、そのような伝言は残すよ。玄関にホワイトボードがあったのは気付いたかな」

「だからこそ、こうして話しているではないか。書置きを軽く残すのだろうな、と。わざわざ口頭で伝えるために誰かを探すような暇が、いつもあるとは限らん」

「話が早くて助かるよ。もしマグカップなど、専用のものが欲しいなら買ってくるといい」

「それほど長居をするとは思えんな。余計なものを持ち込もうとは思わない」

「命令がなければほかの住居を手配していると?」

「勘違いしているようだから言っておく。それは逆だ。住居が手配できれば命令には従わなかった――それが、現実だろう?」

「なるほど」

 六六は笑う。私の返答はお気に召したらしい。頭の回転が早いやつへの対処は実に簡単でいいな。

 お茶を飲み干してから、自然と立ち上がって案内を受ける。まずは一階の客間、それから六六の自室、リビング、浴室だ。

「浴室は、使用時間に決まりはないけれど、使用中の札を必ずつけるように」

「わかった。部屋にストリッパーを呼んだ時もかけておくことにしよう。非常口はあるか?」

「キッチンの奥に裏口が一つと、非常階段が建物の裏側に設置されているよ」

「ふむ。すまんな、性分だと思ってくれ」

「構わないよ。トラブルを持ち込むのじゃなければね」

「ストリッパーは構わないのか」

「次は上だ」

 なんだ詰まらん――呼ぶつもりはないが。

 一度玄関に戻り、階段へ。荷物はもちろん私が持つ。重量はそれなりにあるが、片手で充分だ。そのまま三階へ行く。

「見ての通り、二階と三階の構造は同じだ。二階左手、一番手前が夢見くんの部屋だ。右側から一号室、そして彼の部屋が六号室だ」

「表札はないようだな」

「基本的には使っていない。そういう趣味があるなら好きにして構わないよ。この三階は女性エリア、男性は基本的に立ち入らない。僕は例外だけれどね、部屋の中に立ち入ることは緊急時以外ではしないかな。基本的にはこのフロアの掃除だけだ。三○四が芽衣くんの部屋になる。花刀くんが三〇一、それから九姉さんが三○六だ」

「……橘一族の関係者は大変だな。外から見ていて違和感があるのは実感していないか?」

「もう慣れたよ」

 彼らは名に数字を持つ。橘一族は昔、暗殺代行業を生業としており、その噂は国内に限らずに出回っていた。本家は一桁、分家はそれ以外。年齢に関わらず、分家は本家を立てる。

 聞いた話では、今はもうそうした仕事をしていないようだけれど、昔ながらの習慣とも言えよう。ただし、だからといって技術まで廃れたとは思っていないが。

「部屋の鍵は?」

「室内AIは全室一括管理になってるよ。電子錠はないから、基本的には自己管理になるね。もちろん、内部からも鍵は落とせる」

「ふむ。忘れていたが、玄関の鍵は?」

「あちらは電子錠だよ。暗証コードと指紋認証で開くようにしてある。教えておこうか?」

「登録はまだ必要ない。いらんところで記録を残しても面白くはないからな。状況が落ち着いたら、改めて打診することにしよう」

「それはまた好感が持てる言葉だね」

 鍵を手渡される。簡単に複製できそうなもので、小さなプレートがついているだけの簡単なものだ。

「寮を出る際には返せばいいか?」

「帰ってくるつもりがない時にはね。じゃ、僕は下にいるから」

「ああ、助かった」

 見送りもせず、私は三○四号室の扉を開いて中に入った。

 かび臭さや埃臭さは一切なく、けれど新築のような香りがあるわけでもない。調度品はベッドにパイプのテーブル、キャスターがついた椅子。窓はスライドさせるタイプのものがあり、ブラインドは上がっているが見える景色は平凡で、二百ヤード内にここより高い建物はなく、西側にあるというのも私にとってはありがたい。ラベンダーの香りはテーブルの上に置いてある芳香剤だろう。

 中央付近に手荷物を置いた私はまず隣接した台所を見て、棚をいくつか開けて調理器具を確認しておく。フライパンや鍋などに埃は積もっていないし、調味料の類はないし冷蔵庫の中も空ではあるものの、電気はきちんと通っているのでこれから使用するのならば問題はない。同様に洗面所も不具合がある様子はなかった。

 すぐに戻った私は鍵をテーブルに置き、ベッドに腰掛けて苦笑する。

 こんなに柔らかいベッドは随分と久しぶりだ。個人的にはもっと弾力性がなく硬いベッドの方が慣れており、下手をすれば柔らかすぎて眠れないかもしれない――いや。

 そもそも、熟睡できる方が珍しいのだけれど。

「――さて」

 荷物に手を伸ばし、ゴム紐を外す。それから片方のスーツケースをベッドの上に置いて、まずは鍵だ。懐に入っていた財布、手が切れそうな札の間から鍵を取り出す――が、これだけでは意味がない。まったくもって面倒なのだが、これも機密保持の一種であり、私というよりも私が所属している組織の通例だ。

 鍵で開けるとダイヤルが出てくる。デジタルではなく、アナクロなそれだ。金庫にでもついていそうなそれを回して六ケタの数値を入力すると、かちりと音がして、べつの鍵穴が側面に姿を見せる。そこに二つ目の鍵を入れれば、ようやく解除だ。

 なにが面倒かというと、この作業を怠って銃弾でも詰めてやれば、あっさりと内部で爆発して所持品が粉粉、というオチが待っているのである。――まあ、灰になっていると表現すべきなんだろうが。

 中に入っている書類に目を通す。そこには私の簡単な経歴が書かれている――が、用意されたものであって事実ではなく、またこれを貫かねばならない命令を受けているわけでもない。どちらにせよ朝霧芽衣の名は本名であるが、戸籍には天野さちで登録してあるし、私の経歴を調べようとして、調べられる人間には隠す必要もないと考えている。

 ただ――やはり、こうした生活に身を投じるのは初めてのことで、どうしたものかと悩んでしまう。これが仕事ならば、良いのだが。

「とりあえずは、情報を集めるのが先決か」

 私は、基本的に流れているものに乗るタイプだ。けれど、私という個人を変えるつもりは一切ない。それが吉とでるか凶とでるかも、これから先のことになる。


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