06/23/09:00――朝霧芽衣・野雨西の下見
ふいに、視線が足元から前へ、そして空へ向けられた。
そこから更に二歩、そこで足が止まる。
もちろん私は足元を見ながら歩いていたわけではなく、正面を見ていたのだから前から空へ視線を動かしたのだろうけれど、しかし、現実として前方とは広く、それなりに意識して視界を確保していた私も、やや前方の道路を見ていたのだから、延長としては足元と表現しても変わりはないだろう。
二つのケースをまとめてカートで引っ張っており、また今日はスーツ姿だ。スポーツタイプのサングラス、いわゆるアイウェアをつけているので、さすがに一旅行者として見られることはないだろうけれど、同僚には定評のある目付きの悪さは隠れているので、それほどの威圧感は与えないはずだ。
空を見て思うのは、今日は晴天なのだな、ということ。やや早い間隔で雲が流れているのは見てとれるが、陽が陰ることもなく、雨の気配も遠い。六月の下旬であることも加味して言えば、湿度がそれほど高くないため心地よい環境だ。もっとも、どのような環境だとて、私は長袖をチョイスするのだけれど。
視線を戻す動作と共に懐からカードを取り出す。事前に手渡されていたものだが、これは日本国内において、搭載AIによる自動運転のみの乗車を、単独で許可するための証明書になる。以前は運転免許証と呼ばれていたが、これは自動運転のみであり、単に免許証と呼ぶべきなのだろう。マニュアル運転とは違って安易に取得することが可能だ。年齢も十六歳で取得できる。もっとも、どうやら日本における自動車は、ハンドルやブレーキ、アクセルなどの存在がないものが大半らしいのだけれど。
とはいっても、ほとんど記憶はない。幼少の頃に見上げた空は、この場所よりもよっぽど高く綺麗だったし、空気も澄んでいた。一応は帰国になるのだろうけれど、ほとんど記憶にはなく、ここにくる前に調べた情報が主体だ。
「ふむ」
正面を見れば学校がある。今更確認するまでもない、ここは公立
左腕の時計を一瞥すれば、デジタル表記は九時を示していた。時計と呼ばれるものが使われなくなって久しい今日であっても、腕時計の重要性は身に染みている。こればかりは、それこそ商売道具の一つだ。
――しかし。
ここまでの経緯を思い出せば苦笑の一つも出る。どうして私がと文句を言うつもりは一切ないが、なにか裏があるのではと疑いたくもなる状況だ。探るのは後回しだが、少なくとも気は抜けない。
「おはようございます。朝霧芽衣さんですね?」
だからだ、校門のところに迎えがきているのをわかっていて、先に周囲を見て回った。気付かれている可能性は五分、いやそもそも隠す必要はない。一応、今しがた訪れたことを装いはするものの、重要な局面を想定しての布石とは、こういった細かい不信感の積み重ねでもある。
「おはよう。自分のことを知っておられるのか? 私が朝霧芽衣だ。時刻にはやや早いが、出迎えでありますか」
初老の男は、笑みを浮かべて右手を差し出した。私はそのまま、アイウェアを取ろうともせずに応じて握手をする。
「初めまして。当学校の校長をしております、大山といいます」
「校長殿でありましたか、失礼した。丁重な出迎えに感謝する」
「いいえ、さすがに朝霧さんの事情を鑑みれば、私が出るのが筋でしょうから」
「ふむ」
なるほど、どうやらある程度の情報は流れているらしい。――まあ、どれだけ隠し通せるかといった具合だろう。ある程度の情報開示をすれば、嘘も紛れやすく、納得させることはできる。それに加えて、芽衣にはそもそも、箝口令を貰っているわけではないのだ。
好きにしろと、言われている。
「個人的にアキラさんとの繋がりもありますが、深くは聞いておりません。不利益を被ることもありませんので」
「いや、私としても預かって戴けるだけで充分だ。今回は視察……いや、見学ということだが、校長殿の時間はよろしかったか」
「そうですね、途中で代わりますが、今は問題ありません。ようこそ、野雨西へ」
正門から足を踏み入れる。どうやら職員用の駐車場になっているらしく、足元はアスファルト。中央付近には大きな楠の木が一本植えられており、外観そのものは悪くない。右手には体育館らしき建造物と、校舎へと続く渡り廊下。そちら側には行かず、真正面にある大きな客人用の出入り口へ案内され、私はそこでスリッパに変えることになる。ブーツなのでやや面倒だが、それもここの流儀となれば従わざるを得ない。ただし、手荷物だけは自分で運ぶ。
「基本的には、週で確定されたスケジュールの通り、それぞれの教室にて一律の授業を受けることになります。朝霧さんは三学年十二組、情報処理科への編入になりますね」
「一通りは聞いている。私自身、一般的な学校での授業というものは想像の域を出ないものだが、順応することに対しては疑問を抱いておりません。危惧があるとするのならば、やはり学校側の対応だろうか」
「不信感がありますか?」
「いや――感謝はしているし、不信感そのものはない。ただ先述の通り、私にとっては未経験の領域になる。となれば、むしろ私の方が校長殿を含んだ学校側に、迷惑をかけるのではないかと」
「人物考課表を拝見させていただきましたが、きちんと筋を通される方だとお見受けしています。であれば、迷惑をかけられても、対処できます」
「なるほど」
「それに――前例がありますから」
「ふむ」
私の同僚、ないし私の仕事関係では、そもそも東洋人が珍しい。国籍などお構いなしに仕事があったので、その中に紛れることはあっても、知り合う人間は珍しかったのだが、前例ともなればその中の誰かが、ここに居る可能性があるわけだ。
可能性? ――はは、笑える話だ。いくら情報として与えられなくても、現場の情報は自分で調べる。それが私のやり方だ。
「職員室に案内しても面白みはないでしょう。いかがいたしますか?」
「確かに、彼らとの付き合いは今後ありうる可能性になりますが、顔見せの挨拶に向かったところでいらぬ不信感を植え付けるだけだろう。私は授業と呼ばれるものに興味があるのだが、校舎の案内のような形で見せてもらうことは可能でありますか」
「もちろん構いません。防音ではないので言葉は届くでしょうけれど」
「それは問題ない。そうだな……であれば、三学年の普通学科を見たい。構造上、十一組の商業科と、十二組の情報処理科は建物が別だったはずだ。さすがに、編入があることを知られるのは構わないが、こうして事前に見学していたことが、現状で証拠を掴まされるのは避けたいところであります」
「なるほど、朝霧さんにも事情がありそうだ。そうしましょう」
事情というより、あまり確定情報を作りたくないだけだ。それが、くだらない事情であればあるほど好ましい。木を隠すのならば木の中に。私という存在を確定させるのは、私ではなく他者だ。それをある程度であっても操作しようと考えたのならば、こうした積み重ねが必要になる。
もちろん、生徒だけではなく――この大山校長にも、それは該当するが。
ちなみにアキラというのは、いわゆる私の上司になる。ここへ通うことを手配した人間だ。どういった繋がりがあるかは知らないが……これも、警戒する要因の一つである。
もっとも、この大山校長はそこまで見抜いていて、黙っている。見通した上での判断だ、単なる椅子を温めるだけの人間ではない。
「ちなみに、私が視察することを教員には?」
「事前に軽く伝えてありますので、問題はありませんよ」
通路を歩いているとプレートが見える。職員室、校長室などといったものが並んでいたが、やがてクラスごとの表記が見えた。どうやら三学年は一階に位置しているらしい。その際に、事前に確認していたとはいえ、ほぼ無意識に私は非常階段の位置を確認する。天井の高さ、窓から見える範囲、更には緊急警報器や一定間隔で配置された消火用スプリンクラーなど。そして最後に、ちょうど右手側に位置する教室の内部だ。
「三十人前後か。校長殿、十二クラスあって基本人数はここを参照しても構わないだろうか」
「はい、そうなります。多くても三十五人ですね。授業時間は九十分を一単位としています。いかがでしょう」
「と、言われてもな……私の目にはいささか、異様な光景に見える。失礼な話かもしれないが、ほぼ全員が同じ姿勢で話を聞くことを強制され、やっていることも似たようなものだ。個人の特性に合わせて受けているとは到底思えんし、そこまでのフォローができているとも思えない」
「辛辣な言葉です」
「なにも教員側に落ち度がある、と言っているわけではない。この状況をおかしいと、疑問を抱かずに現状に甘んじる側にも原因はあるのでしょう。しかし、それが郷だと言うのならば従うほか、ありません。納得はしませんが、理解はできる。ただ……」
「なんでしょう。構いません、おっしゃってください」
「不躾な質問にもなってしまうが、お言葉に甘えさせていただこう。板書をここから見る限り、あれは意味のある行為なのでありますか? テキスト……教科書と同じことを板書しても、仕方がないと思うのだが、これは国外暮らしが長かった私だから思うことなのだろうか」
「板書をノートに書き写す行為が、記憶するための補助にはならないと?」
「ふむ。であれば、教員が教壇に立つのはよそ見をしないための存在でしかないと、そう聞こえてしまうのでありますが」
「これは手厳しい」
最初から店一番の美女をステージに上がらせておけば、視線が逸れることもないだろうに、と思ったが、さすがにそれは校長を相手に言ってはまずい。そのくらいの常識はわきまえている。
「何が必要だと思われますか?」
「それこそ、私には難しい問題になるだろうが、どうだろう。少なくとも教える側が未熟であっても、教わる側が意欲的ならばどうとでもなるのでは、ないだろうか。あまり参考にしないでくれ、馬鹿だ間抜けだと頭を叩かれる理不尽を日常にしていた私だ」
「それもまた、教育には必要なのかもしれませんね。授業内容に関してはいかがですか」
「今行われているのは数学のようだな。事前に受け取っていたテキストを一通り読んではみたが、内容レベルは私が何をどう、と言える立場にはありません。ただ問題はないでしょう」
「いらぬ心配でしたか」
「気遣いには感謝しよう」
防音ではないためか、こちらに室内からの視線がくる。注目されることには慣れているし、視線があることを実感できるのならば不愉快とも思わない。ただし、見世物になるつもりはなかった。
「校長殿」
「ええ、では行きましょう」
それぞれ教員が違い、教えている内容も違う。つまり担当があるのだなと思いながら、各教室を眺めながら廊下を歩き、今度は階段で上へ。
「これからの案内は、生徒会に所属している方へお願いしています」
「生徒会?」
「ええ、いわゆる生徒代表組織でしょうか。学校運営上、各教室における代表、それらを統括する生徒代表を選出することで、業務の分割を行っています」
「ふむ。教員側の強制力はどの程度、機能しているのでありますか?」
「そうですね……業務内容にもよりますが、生徒会と教員はほぼ対等です」
「組織と言ったな」
「ええ。代表となる生徒会長に加え、書記、会計、補佐の四名になります」
「差し支えなければ業務内容と、生徒会に加入する利点などを教えていただけるか」
「細かくは多くありますが、多くは学校運営に際した実務です」
「ふむ。生徒のことを同じ生徒が決定することで、距離感を誤魔化す一手にも思えるが……あるいは必要な措置でしょう。上官からの言葉よりも、同僚の叱責の方が心には響く」
「今日の案内を買って出てくれたのは、会計の方です。お一人で待っていただいていますので」
「そこまでの気遣いは必要なかったが、感謝しよう」
階段を上がり、五階まで。窓から見える景色がやや開けたため、僅かに目を細める。
「校長殿、屋上への出入りは可能なのか?」
「基本的には、封鎖しています」
「なるほど」
不可能ではないが、それは表向き許可していない――ということか。
「こちらが生徒会室です」
校長に続いて、私も足を踏み入れる。その中に、高校生としてはかなり小柄な女性が背筋を正した直立で、待っていた。
懐かしい姿に苦笑を禁じ得ない。だがそれ以上に、警戒も浮かぶ。
一体、私の上司は何を考えて、私にこのような立場を与えたのだろうか――。
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