05/09/10:40――鷺城鷺花・楽園を経由して

 九日、昼前にチョッパーへ乗り込んだ鷺花、刹那小夜、花ノ宮はなのみや紫陽花の三名は楽園へ向かっていた。かつて鷺花が乗ったことのあるCH57の輸送ヘリであるため内部はかなり広く作られているのだが、要望もあって彼女たちの既知感を一時的に解除――いや、誤魔化す術式を展開して五分後、既に二人は眠っていた。

 寝息を立てて、本格的に眠っているのである。

 ――信じられないわよ、まったく。

 たとえば軍人がそうであるように、過酷な条件下を常に生活としている者の多くが、安寧を知ることができず、睡眠における無防備さを自覚した途端にそれが行えなくなる。それは人が極度の緊張下で眠れないのと同じだ。

 中には精神的に壊れる者もいるけれど、大きく解決策は二つある。短期睡眠で熟睡と覚醒を繰り返すか、あらゆる状況下で起きられるよう浅い睡眠を摂取するか。あるいはその両方を活用する者もいる。

 けれど、二人が選んだのはどれでもない、単純に――寝ない、だ。

 眠らない。

 睡眠時における脳の休息や整理などを覚醒状態で常に行うことにより長期的ないし短期的な睡眠を必要とせず、疲労回復などを別の行為に転換することで、睡眠作業そのものを不必要とした――と、理屈ではそんな感じだろう。

 そして、二人はそれを実行している。

 けれどそれは眠れない、のとは違うのだ。彼女たちでも眠れることがある。それがどういう理由かは察するしかないが、少なくとも二人の友人である吹雪(ふぶき)快(かい)が傍に居て条件が揃う時点で、寝ることができるそうだ。

 吹雪を含めた三人の内、二人が揃えば眠れる。けれど小夜と紫陽花は既知感と呼ばれるものをお互いに得るため、この二人では現状で条件にならない――のだが。

 さて、現実としてここで眠っているのはどういう理由だろうか。

 術式で既知感は消している。一時的な措置であることは二人も承知しているし、そもそも鷺花は友人でもなんでもない。あえて危害を加えようなどとは思わないけれど、いわば部外者だ、どちらかといえば危険な部類に入るだろう。

 睡眠時における危険性は鷺花も熟知している。それはどちらかといえば、睡眠を摂取している相手に攻撃をする危険性の方であり、それを無防備だと捉えての危険性ではない。

 眠っている時こそ対策をして然るべきだ。そこに疑問を挟む余地はない。

 安心? まさか、そんなものがあるはずはない。ないが、たぶんこれを当事者に問うても答えなどないだろう。何しろ鷺花は同類ではないからだ。

 紫陽花は鷺花を膝枕に、小夜は対面で顔を背けるよう、シートに身を埋めている。これはこれで異様な光景だった。

 睡眠が必要ない。

 だからこれは、必要不必要の理由ではないのだ。それこそなんとなく、眠れそうだから寝てみた――それが正解なのかもしれない。運転席とは扉を隔てているため、操縦士が居ないものとして扱われているのも一つの理由だろうけれど。

 なんというか。

 まるで見ている映画が退屈だったから寝てしまった、みたいな光景で鷺花はどうすればいいかよくわからない。ここに集中できる映画みたいなものがあれば別なのだろうけれど。

「――んあ」

 三十分以上が過ぎた頃、寝返りを打つようにして仰向けになった小夜が声を発し、視線だけをこちらへと向けた。

「あー寝てたか。珍しいな、どれくらいだ?」

「三十分くらいよ」

「おー……紫陽花も寝てやがるか。珍しいもあるが久しぶりに寝たな。ん……」

 躰を起こしてすぐに煙草を口に。その時点で鷺花は視線を膝に落とし、ぐりぐりと紫陽花の頭を撫でた。

「はいはい、一緒に目が覚めたなら起きる」

「んーまだーもうちょいー」

「放っておけよ」

「私の膝使ってるし腰に手を回すし抱きつくし……」

「オレはこいつが寝てるの見たことねーからな。けどま、寝起きは似たようなもんだ」

「……? ああ、そう、セツの接近で目を覚ますわけか。そして今みたいに寝てる時はお互いに寝ると」

「ま、久しぶりだけどな。コイツと一緒ってんなら、どうだ、二十年ぶりくらいか?」

「しーらなーい」

「ったく……おう、そうだサギ、面倒事は片付けてきたのか?」

「ええ、ほどほどに。ただ雪人ゆきとさんが来てたから、私としてはもうちょっと日程をずらして欲しかったわよ」

「理解がある旦那なんだろ。いいじゃねーか」

「私がよくないのよ。最近はたまにしか顔を見せないんだもの」

「ま、それもそうか。あー、サギにとっちゃ楽園は久しぶりか?」

「そうでもないわよ? 二年か三年ぶりくらいだもの」

「そんなもんか。最近はどーも、えらく時間が経過しているような気がしてな……」

「密度が濃いから?」

「どーだか。ま、事件は多いわな。今回のことだって野雨からオレらを遠ざけるってのも一つの考えなんだろーし」

「その辺りも手は打って来たんでしょ」

「そりゃお前と同じだぜ」

 現役狩人と同列に語られても困るのだが。どちらかといえば、鷺花が野雨を離れる間に仕事が溜まらないように手配してきただけだ。

「あ、ちゃんと魔導書持ってきた?」

「おー、さすがに忘れてねーよ。読むか?」

「いい。読んだことあるから。教皇庁の管轄なのだけれど、ね」

「日本にゃ錠戒がねーから、こういうこともあるんだろ。ま、被害も出たがそれほどじゃねーし、一応は解決だ」

「祠堂みこ、ね。私は関わらないけれど……ああ、知ってるかもしれないけれど、きずな弧湖ここと月の頑固者……ええと、あれ、なんだったっけ」

「娘か? 無花果だろ」

「それそれ。店主にも聞いたんだけど、どうもね……苦手意識ってわけじゃないとは思うけれど。あの子と以前に繋がりがあったはずだから。さすがに事情がわかってまで手出しはしないと思うわよ」

「ま、咲真が関わってたから大丈夫だろ、その辺り。つーか、その繋がりで咲真もって感じだけどな」

「だんだんと複雑になってきてはいるけど、気付いてるんでしょ? 最近のあれ、縁の整理よ。ほら、野雨西で鷹丘少止がやったアレもそう」

「ビートのことより、お前にとっちゃアイギスだろ。朝霧芽衣めい、〈天の守りアイギス〉」

「やっぱり気付く、か」

「そりゃ当然だろ。縁の整理だ、そこに空白がありゃおのずと誰かが来るのを待ってる、なんてのがわかるぜ――と、いやまあ、蜘蛛の野郎が動いてたから聞いたんだけどな」

「知ってる。私が言ったわけじゃないのよ? たぶん蓮華さん辺りの手配だと思うんだけど」

「いやブルー……にも連絡は行ったと思うが、発端はアキラだぜ? ジニーとは昔馴染みだったし、放ってはおけねーんだろ」

「ああ、それで兎仔がRevia0Humレヴィアラブハムを持ってたのか。ふうん」

「調べろよ」

「え? だって芽衣のことを気にしたって仕方ないもの」

「馴染みなんだろ?」

「そうだけど――こら、匂いを嗅ぐな。どこの犬かあんたは」

「紫花と似た匂いがするんだもん」

「言い訳にもなってないわよ、それ……。ま、芽衣は心配いらないわ。こちら側に来なくても、ただそれだけじゃない。その可能性は低いけれどね。何しろ野雨に来るんだから。茅が戦場で逢ってるし、そっちとの縁が強いと思うわよ」

「ああ、久我山のな。あれもぼちぼちってところか。ビートにはまだ届いてねーけど、二人揃えばそれなりだ。……こうしてみりゃ、野雨も厄介な場所だぜ」

「そうね。遠々路紗枝とは――あら、私より先だったかしら?」

「おー。あいつも真向からオレを否定したからな。良い度胸してるだろ」

「聞いてるわよ。私はただの茶飲み友達みたいなものだけれどね。この前、火丁あかりも一緒に飲んでたし。まあ大半は鷹丘少止たかおかあゆむの愚痴だったけど」

「四月の頭くらいだっけか? 四十物あいものの残党を処分したのは。確か紫陽花が動いてたよな」

「私は、えっと……どっかで潰しただけだしー。んんー」

 ようやく、紫陽花も膝から顔をどかして、大きく伸びを一つ。

「今はVV-iP学園にいるんだっけ、あっくん」

「在籍してるってだけだ。適当な仕事をオレが投げてるから退屈はしてねーだろ。オレとしちゃ楽だけどな」

「あ、そういえば夜笠やがさ夜重やえはどうしてんのよ、アレ」

紗枝さえがちゃんとお守してるぜ?」

「ああ、そう……礼儀を知らないようなら誰かに頼もうかな、とか思ってたんだけれど。私と顔を合わす段階で、もし面倒なことになってるなら、それなりに対処するつもりだから」

「その辺りは、まあたぶん、大丈夫だろうぜ……たぶんな」

「そうしてみるとウィルは野雨にいないわよね」

「んー? 紫花に逢いにくる時くらいなもんかなあ。ほら、せっちゃんいるし」

「野雨でやらかすわけにもいかねーからな」

「いいけど……この術式、常時展開しないといけないのよね」

「いいじゃねーか。そんくれーの余裕あんだろ」

「そりゃ特別疲労なんてしないけれどね。――あ、そろそろよ」

「おう」

「そだねえ」

 運転席側の扉をあけて言葉を幾度か交わし、ハッチを開く。移動中であるためかなりの風が抜けるが、さすがに錬度が高い操縦士だ、ヘリは安定したままである。

 幸運を、と声をかけられたので片手を上げ、視線を投げるとお前がやれと返される。なんで私が、と思いながらも二人を巻き込んでそのまま空間転移で直線距離三キロを移動した。

 転移が完了すると、途端に周囲の空気が変わる。

「相変わらず停滞してやがる」

「そだねえ」

 停止ではなく、緩やかな進行だ。それは、限りなく遅い故に停滞という。

「懐かしいかよ」

「うん? そうでもないわよ? 私にとっては当たり前の空気だもの――と、あら」

 到着するよりも早く、玄関の扉が内側から開いて侍女が顔を見せる。てっきりアクアだけかと思いきや、ガーネとシディも傍に控えていた。

「重役を迎えるんじゃないんだから……」

「いいじゃねーか。嬉しいだろ」

「にへへ……」

「いや紫陽花に言ったわけじゃねーよ」

「――おかえりなさいませ鷺花様、小夜様、紫陽花様」

 ああ日本語の発音が丁寧になったなと鷺花は思う。これも以前に日本に来た時に馴染んだからか。

「ただいま」

「つーかオレらもかよ」

「いいじゃん。やっほーガーネ。んふー」

「おーうシディこっちこい。んで、アクアは近づくな。てめーいろいろでけーんだよ」

「まったくこいつら」

 集団行動に向かない連中ばかりだ。

「ま、いいか。アクア、師匠はいる?」

「はい――」

 小夜はシディを連れて中へ。ガーネに抱き着いた紫陽花はやや困惑したガーネに引きずられて行ってしまった。

「今でしたらテラスの方にいらっしゃいます」

「……じゃ、先にそっちね。あとウェルはいる?」

「相変わらず部屋に」

 微笑んだアクアに連れられて二階、そこから迂回してテラス――三階に位置する場所まで歩くと、珍しく屋敷の中だというのに外行きの装束でエルムレス・エリュシオンは座っていた。

 相変わらず、白い。それはただ白く。

 潔白には程遠く、明白など脱ぎ捨て、空白など持たず、けれど黒髪が黒白を示し、純白にしてはあまりにも瞳が紅色に染まり過ぎ――その空気はまさに、白白しく。

「戻ったようだね鷺花。久しぶり」

「本当にまったく……まあいいけれどね。好き勝手私を使ってくれたことへの文句は、いつかじっくり返すから」

 影から取り出した黒い板の通信機を投げ渡し、対面に腰を下ろす。アクアは紅茶の準備を始めたようだ。

「完成したみたいだね」

「見ての通りよ。残り九個、私の好きにするけれど」

「構わないよ、僕が絡んでるわけじゃないからね」

「で、余所行きの服なのはどっちの理由で?」

「ああ、これからだよ、これから。僕は日本に行くんだ。おっと、ひなたと一緒にね」

「……旗姫ききのこと?」

「それもある。さすがに僕たちの娘だからね、捨ておくわけにはいかない。この辺りで縁を繋いでおかないと――ね」

「ま、駒みたいに扱うんじゃなけりゃそれでいいし、口出しもしないわよ」

「愛着も愛情もあるからね。かといって独り立ちにはまだ早い」

「だから口出しはしないってば。だいたい、どうして私を呼んだのよ」

「ここ最近、鷺花がまともに術式を行使していないと聞いていたからね。隠居生活にはまだ早い、なんて気遣いだよ」

「大きなお世話よ。実戦の感覚は衰えてないわ」

「じゃあ本音で言おう。僕の代わりは君にしかできない、そうだろう?」

「……遺憾よね」

「代わりとはいえ、僕の意志まで尊重しなくたっていいさ。明日から三日間、つまり十二日までに、魔術師協会と教皇庁を壊滅させてくれ。手段は君たち三人に任せる」

「本部を、ではないのね?」

「それも含めて壊滅だ」

「必要なし、か。順序は協会から先でいいのよね?」

「構わないよ。強行軍になるけれど、君たち三人ならそう苦労もしないだろう」

「まあ――ね」

「鷺花からあの二人には伝えておいてくれ。上空を旋回中のヘリに乗るから、ひなたを起こして行くよ。何かあったら連絡を入れればいい」

「その必要もないでしょうけれどね」

「重畳だ。よろしく頼むよ。アクア、屋敷の管理はいつも通り一任する」

「はい若様、いってらっしゃいませ」

 忙しないわよねえと、苦笑交じりに遠ざかる背中に放ちながらアクアの紅茶を受け取る。

「あ、二人ぶんいれた? ならアクアも座って飲んでよ。一杯くらい付き合ってくれてもいいでしょ」

「では失礼します」

 本来はエルムの紅茶を手にしたアクアが対面に腰を下ろし、微笑む。

「やはり鷺花様はこうしてお屋敷にいらっしゃる方が私としましては、こう、安心しますね。おかえりなさい鷺花様」

「あーうん、ただいま。こんな面倒な仕事を振られるとは思ってなかったけどね。あ、私の部屋ってまだある?」

「当たり前です。きちんと手入れしてありますので使えますよ」

「ありがと。明日には出発だけどね。こっちはど? アクア自身には問題ない?」

「そう……ですね。庭が壊れることもなくシディの愚痴はなくなりましたし、ウェル様にも慣れたのかガーネの愚痴も減りました。私としましても、特に何かあったわけではありませんが……」

「そう?」

「けれど、鷺花様の珈琲が飲みたいかと」

「ああ、うん。わかった。そうする。私もアクアの紅茶を飲むと、戻ってきたなって感じがするし」

「それよりも鷺花様の方はどうですか?」

「私? うーん、野雨は今までと違って実力行使とかはないんだけど、だから別の意味で気を遣う場所かな。同級生とかはほとんど知らないけれどね」

「大勢の中に馴染むのは疲れる、ですか?」

「それ、誰か言ってた?」

「ええ、以前に若様が」

「師匠と一緒にされるとなんかこう、癪よね……でも、だいたい私の肉体も停滞したかな。最近は特にそれを実感してるから」

「停滞には個人差がありますが、私にはまだ歳相応に見えますよ」

「それ、いつから?」

「そう返されますと、困ります。成熟している――と感じたのは、もっと以前のことですから」

「外見より内部の成長のが早かったからね、しょうがないけどさ」

「――あ! アクア姉ちゃんずるい! あたし、あたしも休憩する!」

 ふらふらと歩いてきたシディがこちらに近寄ってくる。相変わらずのようで何よりだ。

「シディ、声を上げないこと。侍女たるもの、いかなる時も相手を気遣いなさいと言ったでしょう」

「えー? 鷺花が相手ならいいじゃん。あ、どう? 発音上手くなったっしょ。覚えたんだー」

「まったくこの子は……」

「あはは、いいのいいの。セツはどうしたの?」

「今は旦那様のところ」

「そう」

 胸の裡に飛来するのはやはり――だ。もちろん鷺花も後でするつもりだが、後回しにしたのもたぶん正解で、小夜だけでなく紫陽花もまた挨拶があるのだろう。

「なんでセツってあんなべたべたすんのかなあ……」

「べたべたしてるのはウィルの方でしょ。セツはそうでもないと思うけれど」

「思わない。――あれ? アクア姉ちゃん、もう行く?」

「ええ、ガーネの手伝いに。夕食の時間も近いですから。鷺花様、そういうわけで失礼致します。シディのお相手、よろしくお願いしますね」

「ん、わかった。また後でね」

「姉ちゃん、片付けやっとくから置いてっていいよ」

 交代とばかりに紅茶を手にしてシディが座るが、小柄なため別人だとわかっていても違和感が少しある。同じ作りでもこうまで違うのかと魔術的な思考を行いつつ、ごそごそとポケットを探ってシディが取り出した飴を一つ貰った。

「最近はねー、ちょっと仕事が少なくて暇なんだ。ガー姉ちゃんも、人が少ないから料理の腕が存分に振るえないって言ってた」

「そう。今日も?」

「今日は鷺花とセツとウィルに、旦那様とウェル――だけかなあ」

「あら、シンとキースレイおじさん、おばさんも?」

「うん。三人はロシアの言術げんじゅつ研究所に顔を出してる。研究を停止する交渉だって言ってた。続けても組織じゃないし、いいんだって若様は言ってたけどね」

「そうよねえ……あ、うちの地下書庫、面積拡大した?」

「したした。若様がずばばっと。〝格納倉庫アーカイブ〟の応用だって言ってたけど、ぜんぜんわかんなかった」

「理屈としては整理整頓と同じよ? 空間ごと圧縮してスペースを多く取ろうとしているのね。紙媒体をデジタイズして物理的な容量を減らすのとそう変わらない」

「あ、若様と同じこと言ってる」

「ふぬぅ……!」

 紅茶を噴出しそうになったが我慢した。そうだ我慢だ、冷静になれ。たまたまだ、アクアも言っていた気もするけれど、たまたまなんだ。

「理屈はわかるけど、それを術式にすると難しくって」

「そ、そう? 適性がなくても論理構築くらい可能だと思うけれど……そうねえ。最近はどの辺りを調べてるの?」

「最近は術陣関係かなあ。あ、儀式陣じゃなくね?」

「なんでまたそんな非効率な……」

「えー、鷺花の影響じゃん」

「だろうとは思ったけど、実際に使ってみて何だけれど、効率は悪いのよ? ただ私の場合は手数がそもそも多いから、術陣として待機させておいて稼働時間を短縮する、なんて意味合いも付属させているし、何よりも基礎として確立させてるから使い続けられるわけで、シディはそもそも〝偽装具現フェイク〟が得意なんでしょ?」

「そーだけどさあ」

 偽装具現とは魔術の本質そのものである、本来あるものを別の形で創り上げる、といった術式を指す。たとえばハサミを術式で創るのに空気を圧縮したり、靴を創るのに土を形成したりと、汎用性は高いが、あくまでも前提となる何かが必要だ。

 戦闘には向かない――と一蹴してしまうのは避けるが、そもそも創る以上は使わなくてはならないのだ。極論を言ってしまえば、ハサミを創るくらいなら最初から大きいハサミを所持していた方が良いのである。

「新しいものを見ると学習したくなるじゃんか」

「うん、それは向上心だからいいものよね。――あれ? ここの地下書庫の出入りって」

「あたしはほらー、出入りできるけど勝手に読めないから」

「ああ、そうか。まあそうよね、私だって勝手に読めるようになったのは後の方だし……それで、術陣はどの程度活用できそ?」

「鷺花みたく、すぐ実用できるわけじゃないから。というか、何だろう鷺花って。すごい速度で覚えたよねえ」

「そ? 私はシディみたいにほかの仕事があるわけじゃなかったもの」

「むう……今はとりあえず、得意な術式を術陣にするっていう」

「二度手間じゃない」

「そうなんだよねえ。なんで鷺花は二度手間じゃないのかがわかんない」

 なんでだろと、紅茶から離した手をぴんと立て、くるりと回転させると術陣の構造が展開する。もちろん目視可能な展開式だ。

「……ここって術式オーケイだっけ?」

「術式じゃないし、ぎりぎりおっけ。……だと思う、たぶん」

「――シディ」

「うわお! ……って、あーびっくり。ガー姉ちゃん」

「ぎりぎり駄目です」

「ええー」

「どうしたのガーネ」

「見回り、でしょうか……?」

「うん? 夕食の準備じゃなかったの? アクアはそう言っていたけれど」

「はい、そうです。夕食の準備をしていましたところ、アクア姉さんが来て……」

「そうね、さっき行った」

「本日は鷺花様がいらっしゃったので、――どきなさい私が食事を作ります、と」

 どういう理屈だそれは。

「つまり暇になったんだ」

「そうなります。……どうしましょう?」

「や、私に言われたって……あー、ほら、紅茶持ってこっちおいで」

「はあ……では失礼致します」

「さてと。んー、他人の術陣を見るのも久しぶりね。とはいえ、いくらシディでも直接介入するのはなあ――仕方ない、ヒントだけよ?」

「ああ、若様と同じ台詞ですね、鷺花様」

「んがっ――」

 何故だろうか。その理由が解明すればきっと重なることはないだろうけれど、そのためにはまだ実践情報が足りない。つまり、これから何度も似たような言葉を放つことになる。それに耐えられるかどうか。

「――ぐ、げふん、げふん。とりあえず、シディはその術陣がどういう効果かちゃんと把握してるわよね?」

「そりゃもちろん」

「んーっと、あー……よし、うん、とりあえず、私が行使を前提にして同一効果の術陣を使用したとすると、こうなるのね」

「ちょ、ちょっと待って、記録、記録! いい鷺花、そのまんまで! すぐ戻るから!」

「あ、こらシディ走らな――……まったく、困ったものです」

「あはは、三女はねえ、どっちかなんだけど。――あれ、ガーネも興味ある?」

「シディほどではありませんが」

 切れ長の、一見すれば冷たくも見える瞳だが、そこに好奇心が浮かんでいることを見抜く。鷺花もそれなりの付き合いがあるので、そのくらいはわかった。

「ガーネは見慣れてるでしょ? 意味合いは違うけどじーさんの一番弟子だし」

「それはそうですが、昔の話です。鷺花様のものは私の術陣とはずいぶん違いますから新鮮ですね。さすがに記録はできませんが」

「あ、触れるわよ?」

「では失礼します。……これはシディの、空気ハサミですか?」

「そう思った根拠はなに?」

「中央の、その周囲の文字円に凝縮が見てとれたもので、先ほどの会話から想定してみました。鷺花様は円を基本としているのですね」

「そう。循環の意味合いもあるけれど、呪術を知ってからは特にこの傾向が強くって」

「なるほど。しかし、解析が難しいですね。先ほど見せていたシディの術陣はある程度見知ったものですので、とっかかりと申しましょうか、そうしたものがあるのですが」

「あっさりと解析されたら立つ瀬がないわよ」

「――お待たせっ。記録っ、ちょっと鷺花、記録ちょうだい!」

「ん? なに、洋紙? これじゃ立体としては保存できないんだけど、それでいい?」

「いいから、うん、というかこれしかないし……」

「連立、連立、ここで否定、逆接合、複合、接合……」

「わあ、珍しい。ガー姉ちゃんが真剣に没頭してる」

「複合、逆接、連立、連立、逆接、連立、ここでまた否定……」

「でもまず、構成している本質じゃなく接続系からアプローチするのはいいことよ。まずはわかるところから――はい、複写終了」

「あんがと鷺花」

「ガーネの術式は見たことないの?」

「あるよー。あるけど、鷺花が来てからはずーっとない。隠してるわけじゃなくて、使う機会がないんだもん。しょうがないよね」

「そんな機会があった方が困るわよ……」

「え? でも最初の方は結構あったよ。あたしも庭の手入れが大変でさあ。アクア姉ちゃん、広域殲滅型だし」

「そうか、設立当初はまだ……なるほどね。じーさんも現役だったろうし、そりゃ大変だ」

「あの、鷺花様。中央の空白は、実行のための鍵ですか?」

「ううん、違う。そこは汎用性」

「汎用性、ですか」

「実演しないとわからないだろうけど、ここじゃ使えないし。まあ見た目だけでもわかるか――こうやって中央に意味文字を組み込むと」

 掌に浮かばせた紋様のような文字を放り投げると中央に収まり、ぱしんと張りつめるように術陣の内容が変化した。

「基本骨子はそのままに別の術陣に変更が可能なのよ。だから汎用性」

「――」

「ねえ、これ、どういう術式になったの?」

「空間転移よ。さっき来る時に使ったから、選択肢の中から引き抜いただけ」

 指先で術陣の縁に触れて一回転させ、元に戻す――と。

「あれ? ウェル? なに、食事以外で部屋から出てくるなんて珍しいじゃない」

「いや……ああ、ふむ、こういうこともある。なにか、そう、ふむ……そうかそうか、与太話の類ではなく術陣を基礎に置いた論理を確立させたか、うむ、やはり間近で見るとこの汎用性にはいささか――ん? なんだこれは、随分と難しく単純だな」

 どういう理由なのか、無精ひげに寝癖までついた男は甚平を着たまま近づくと、鷺花の隣に腰を下ろして脚を組み、懐から煙草を取り出して口に咥える。その間にガーネが立ち上がり、新しい紅茶の用意を始めた。

「ウェル、難しく単純ってどういう意味? 簡単じゃないの?」

「シディ、これを俯瞰で見た場合に受け取れる情報は単一の術式そのものだよ。僕が言っているのはこれを細分化した際に発見できる、組み込まれた情報の質と量に関してのことだ。――なんだ鷺花、僕はちゃんと起きている。起きていて、没頭していない。珍しそうな顔をするな。実際に珍し……くは、ないな?」

「珍しいです」

「そうか、そうか……ガーネが言うならその通りなんだろう。訂正しよう鷺花、こうしている僕は珍しいようだ」

「うん知ってる」

「なに……? まさか僕の知らないところで、周知の事実だというのか?」

「うん」

「そだよね」

「残念ながら事実です」

「なるほどな……僕の知覚範囲も狭いと証明されているのか。うむ、よくわかった。たまには基礎訓練を行うのも悪くはない」

「……そういうことではありません」

「違うのか? うん、まあいい。よしとしよう。ああ――数日ぶりの煙草は美味いな」

「数ヶ月ぶりの間違いです」

「ん? そうなのか? ガーネが言うならその通りなんだろう」

 さっきも同じ台詞を口にしていたが、たぶん自覚はない。信頼というよりはむしろ、経験だろうけれど。

「どうもいかんな、時間感覚だけはどうしようもない。知らない内に鷺花がでかくなったのも、まったく驚きだよ。はははははは」

「笑いながら人の頭叩かないでよ……」

「すまん、すまん。だが止まらない時間は既に時間ではない。必然的な事象に驚くような心情を僕がまだ所持していたことを喜ばしく思おう。しかし――」

 それにしてもと、浮いていた術陣に指を触れ、ゆっくりと外周を撫でる。

「展開式の基本は変えていないのだね」

 たったそれだけの動作で術陣は消えた。鷺花が消したのではない。

「そりゃシディとガーネに見せるためだもの」

「うん? ――すまんガーネ、シディ、つい消してしまったが問題はなかったか? さすがに今のを完全復元ともなると数日かかるが」

「いえ、構いません。良い刺激をいただきました。ありがとうございます鷺花様」

「うんうん。いちおー複写してもらったしね」

「複写? ああ、なんだ、洋紙か。これでは三次元方向の重複系、多重構造は記録できんな。まあできたとしても、僕じゃあまだわからん領域か……」

「え? ウェルでもわかんないことあんの?」

「何を言ってるんだシディ、当然だろう。僕を鷺花やエルムと同じにするな。次元が違う。それは知識や経験、考え方などではなく単純に、常識そのものの違いだ。爬虫類や昆虫類に、それぞれ違う常識があるように、だよ」

「言ってることは正しいけど、それも変な括りじゃない」

「しかし現実に即しているだろう?」

「まあ、そうね。それがわかっていて近づこうとしない、登ろうとしない馬鹿が多くて困るってこと」

「ああ、そういえば槍を見ていると――以前に聞いたな」

「五年前です」

「そうか、そうか。五年前か。で、どうなんだ。面白いか鷺花」

「最近になってようやく、面白さを感じたわよ。育ててた子が一人前になると、やっぱり嬉しいものねえ」

「なんだ――鷺花が一人前と認めるのが、たかが五年で出たか」

「槍に選抜されたんだもの、もともと素質はあったのよ」

「だったら遅いくらいじゃないか」

「その通り。遅いのよねえ……あれだけ見てやったのに、しかもまだ一人だけ。今なら自動操作の影複具現シャドリニティを対一で打破できるくらいに……なってればいいけど」

「試してないのか」

「私が術式を最大限発揮できる場所に心当たりある?」

「…………ないな」

「でしょう」

「まったく刹那といい花ノ宮といい難儀なことだな」

「ん? もう二人と逢った?」

「ああ、先ほど逢った。そのついでに鷺花が来ているのを知ったからな、こうしてきてみたわけだがなるほど、良い収穫があったよ」

「え、なに?」

「言っただろう。育てた子が一人前になると嬉しいものだ」

「あー……そういや、ウェルにも結構世話になってたもんね」

「あたしもしたじゃん」

「こらシディ、侍女が誇るものではありません」

「そういえばシディは僕のところに来ないな」

「だっていっつも本読んでるじゃんか」

「それはそうだが……話しかけられればきちんと答えているだろう。なあガーネ」

「そうですねウェル様。けれど訂正してください、いえ、言い直しを。話しかければ答えている、と」

「む……シディ、僕は話しかけられれば答えている」

「うん……それは知ってるけど」

「だから相談くらいならば受けつけているし、答えるよ」

 それはそうなのだが。

 集中している時のウェルは完璧に自分の世界に没頭しているため、外からの干渉が酷くおざなりだ。それを自覚していないのが、まったくもって残念である。


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