05/06/23:50――鷺城鷺花・夜の空、紅月

 ――このところ、よくこうして空を見上げる。

 夜の冷えた空気はこの時期、まだ熱気を伴っていてもおかしくはないのにも関わらず、夜間外出禁止時刻である二十三時を越え、今は既に日付も変わっている時間。ともすれば己と闇との境界が曖昧になって道を外れることにもなりそうな空間の中、それを否定する月光が鷺城さぎしろ鷺花さぎかの横顔を夜に浮かばせていた。

 遠く、半月で黄色の輝きを見せる真月ではない。

 近く、今も地表に触れそうなほど巨大な紅月が、雲の下より顔をのぞかせて空を、そして空を見る人間を圧迫している。

 口から洩れる吐息は白色ではないかと錯覚するほどに冷たさを実感する。肌を刺す空気を心地よいと思えるほどには鷺花も甘くはなっていないが、これから夏が近づくというのに、――張りつめた空気がそれを許さない。もちろん、人の活動時間から随分と経過しているのも実際だろうけれど、それ以上にだ。

 かつては、紅月の存在も隠れてはいた。何かしらの事件があり、それが世界に与える影響が強ければ強いほど、紅月は姿を見せていたが、今ではこうして夜間になると大抵は浮かび存在を誇張している。まだ夜間に外出できない、しない一般人には噂程度のもので実感は薄いだろうけれど、鷺花たちにとっては当然のことだ。

 当然――に、なってしまった。

 それに対しての感想は。

「思ったよりも早かったわよね……」

 こうなることをまるで見透かしていたように、現実としては単に予想していたが故に、鷺花にとってはその程度のことでしかなく、これから先に起こることも予想することができる。

 月にはいつだとて魔力がある。これは人を狂わすものであり、獣族にとっては象徴であり力の源だが――紅月の魔力は、文字通りの魔力波動(シグナル)だ。

 云うなれば世界が持つ魔力。法式を、術式を動かすための原動力。自然界に発生している魔力とは別物で、敵意こそないけれど悪影響を与えかねないもの。

 ――それでも。

 鷺花が思うのは。

 ――綺麗なのよね。

 ただ、そんな単純な感想でしかない。

「こんなところでボケっとしてっと、殺されるぜ」

 声と共に隣に並ぶシルエットは、一瞬だけ火によって顔を浮かばせる。次いで火種を僅かに揺らし、煙を口から吐き出した。

「ま、野雨じゃそう物騒でもねーし、お前を殺せるやつは限られるけどな」

 何が面白いのか、少女は笑う。大通りの中央、普段ならば車が走っている場所なのだからその忠告は間違っていないし、そもそも禁止されている外出をしているのだから殺されても文句は言えない。

 出歩けるのは許可のある狩人と、――殺されることを覚悟した人間だけだ。

「まだ夜は冷える。コートでも着たらどうだ?」

「知ってて言わないのよ。――コートは私の戦闘衣だもの。寒くても、ね」

「おいおい、まずは久しぶり、じゃねーのかよ」

「まったく久しくもないわよ。それで?」

「変わらねーな。そうやって本題を先に済ませようってスタンスは」

「あんたが来る時は大抵面倒事があるでしょうに。定期連絡なら電話回線を通すし――まさか、ただすれ違いに見つけただけってことはないでしょう? そういう場合なら、回避するだろうしね」

「たまにゃオレの流儀にも付き合えよ――」

 そうして、少女もまた空を見上げた。

「遅かったなあ」

「そう?」

 鷺花の言葉を聞いていたわけではないだろう。けれど彼女、刹那せつな小夜さよは逆の台詞を口にした。

「オレが初めてコイツを視認したのは――あの日か。二○一一年だから、ざっと五十年前。今の姿よりも、もちっとガキだったけどな」

「私は近づかないようにしているけれど、蒼の草原の特異性はそこまで影響を及ぼすの?」

「オレらにとっちゃ、こっちのがおかしいぜ。いやまあ効果っつーか、法則そのものがねじ曲がってんだよ。両足で歩いているのと同じ動作なのに片足しかねーとか、壁を地面としか扱えねーとか、言っちまえば異形だな」

「じゃあセツみたいなのは、まともな方?」

「おー、オレや七八ななやもそうだけどな、あっちで生活していた時は体内時間そのものが狂ってたんだよ。お前ら流なら、肉体時間の遅延ってやつだ」

「意味の取り合いか……消失と形成の繰り返しね。特性を囲ったのは良い判断だとは思うけれど、壊す時は注意が必要ね」

「ま、今の鷺花なら問題ねーだろうけど、近づかねーってのは正解だ」

「じゃあ当時はそこで見たのね」

「おー、その時はまだ真月よりちょい大きいくらいなもんだったぜ」

「いつかは地表に落ちるって?」

「どうだ」

「どちらかといえば、落ちる前に壊れると思うけれど……最近、魔術師としての覚醒が一般になりつつあるのも、これの影響でしょうし」

「ここんとこ毎日だよな」

「――いつか、二十三時を割るわよ」

「ま、その予想はとっくにわかってたことだけど、まったく初代の識鬼者コンダクトには呆れるぜ。狩人法の施行は二○一一年、東京事変があった頃からそう時間は経過しなかっただろ? その時点から、時刻は二十三時で切ってやがったんだからな」

十一じゅういち紳宮しんぐうの配置、その他もろもろ……エミリオンから話は聞いてるわよ。名無しの少女、初代の識鬼者。先見がある――というか、それだけなら別にいいのだけれど」

「よくはねーけどな。むしろ、先見よりも、その時点で現状になるよう仕組んだっつーか、型にはめたっつーか……」

「彼女がいたからこそ、私だってわかるのよ。仕組みの根本さえ知っていれば後の派生を辿るのは楽だもの」

「その根本に至るのも、そう簡単じゃねーけどな……」

「〝世界の意志プログラムコード〟――か。これが大きく介入したのは何度かあるけれど、今回は大げさになりそうね」

「今回は、か。サギ、正直に言え。どれくらい持つ」

「一年」

「そんくれーだよなあ。つーかここんとこ、本気でお前が動いてくれりゃ楽なのにと思うことが結構あるんだぜ」

「魔術書や魔導書が絡んだ件でしょ? 助言というか、ちゃんと問いには答えるじゃない」

 ここにきて野雨のざめにおける鷺花のスタンスは徹底している。巻き込まれないように、傍観者に徹することができるよう、――鷺花は常にそちら側の情報を遮断していた。

 知らないでいることは致命的でありながらも、知らないからこそ巻き込まれる心配もなく、情報は後になって結果だけ知らされるような仕組みは、だからこそ彼女に言わせれば面倒が多くて困るのだろうけれど。

「確かにここのところ頻発しているみたいだけれど、それでもセツは関わり過ぎだと思うわよ」

「オレじゃ見ざる聞かざるってわけにゃいかねーんだよ。実際にコトが起きてもそりゃ同じだ。何しろオレの感知範囲は野雨市全体に広がっちまってる。否応なく感付くぜ」

「立場が違うんだもの、仕方ないでしょうに」

「そりゃそーだけどな。以前言ってたろ――なるほど、こうなってみりゃ確かにサギが言う通り、同世代連中の錬度が低いってのが頭痛の種だぜ。ったく、物語を引き起こす方向に回るどころか無様に巻き込まれやがって……」

「はいはい、その愚痴は当人に向かって言ってちょうだい」

「言えるかよんなこと。いや、そういやお前はずけずけ言ってたっけな」

「育ててもいい相手にはそうしてるってだけよ。本当ならそんなこと、言われるまでもなく気付いていなきゃいけないことで――まあ、成長してて現状があるんでしょうし、諦めるしか」

 ないだろう、と続けた鷺花はようやく視線を隣へと向け、腰に手を当てた。

「それよりも、本題よ」

「わかった、わかった……三日後、楽園へ行く。お前も来い」

「五月九日? 早いわね」

「そりゃオレの台詞だ。人夢はかないの魔導書が起こした一件あっただろ?」

「ああ、聞きに来たわよね。解決したの?」

「さっきな」

「――さっき? 本当に性急ね。どう落としたのよ」

「オレは何もしてねーよ。いつもそうだ、オレの物語じゃねーしな。使用者は記憶を失って終わり、本はまだオレが保管してっけど、エルムにでも預けるつもりだ。挑んだ野郎は形而界にお引越し」

「へえ……適性があるなんて珍しい。祠堂しどうみこ、だったかしら。五木いつき神社と縁のある……ま、どうだっていいか。で、楽園ってことは師匠絡みよね?」

「大義名分はエルムの招致で間違いねーよ」

「それで私と、ね」

「――ん? いや、オレとお前と、紫陽花あじさいだ」

「はあ? なにそれ、馬鹿じゃないの?」

「オレに言うなよ……」

「そうじゃなくて、そんな見え透いた目論見に乗るあんたに言ったのよ」

「わかってんだろ?」

「――ああもう、わかってるわよ。足はどうするの?」

「ソプラノ」

「ああそう。わかった、三日後に鈴ノ宮すずのみや邸ね。ちょっと残ってる仕事を片付けておくわ」

「オレも似たようなもんだ。じゃ、伝えたからな」

「なに、もう行くの?」

「オレはお前と違って、後に本題を持ってくるんだよ。じゃーな」

 ま、その辺りは性格だから仕方ないと、空間転移をした彼女を見送り、吐息を落としてやはり空を見上げる。

 ――この紅月は。

 果たして、イギリスでも浮かんでいるのだろうか。


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