03/28/00:30――鷹丘少止・橘の九番目
行動の痕跡を残したくないのならば、どうすればいいのか。一番簡単なのは、自分で消せるところに痕跡を残すことである。
たとえば――二階から飛び降りて夜間の外出をする際には、自分の部屋の窓、その桟を足場にして、裏庭ではなく塀か、塀の外の道路に直接飛び降りる。身体制御ができれば無傷で三メートルの落下くらいは楽なものだし、アスファルトはそう簡単に壊れないし、足跡も残らない。帰宅時も同様の経路をたどったのならば、最後に窓の桟を拭いておけばいい。
誰かに発見されるような下手は打たない。少止にとっては難易度F指定の行動だ、最低ランクである。もっとも、だからといって油断はしていないし――寮の主である
ただの、仕事だ。
夜の帳は闇と共に静寂を下ろす。
人の数だけ発生していた鼓動は感じず、まるで世界そのものが停止してしまったかのような錯覚に陥る程の夜の気配に、空想の中ですら無を奇想させられるのであれば、外に一歩でも踏み出した者ならばその無を感じ、そこに〝ない〟からこそ――静謐と、そう表現する言葉を胸の内に浮かべるだろう。
けれど、そこに鼓動はある。規則的に波打つ心の臓は己の存在を確かめる最も近しい現実として、此処に在るのだ。けれど唯一と、そう呼ぶにまでは至らず、其れは無二であり常とする。
ただし、ないものも多くあった。
それは無愛想であり、無言であり、可能な限りの無音であり、しかし態度そのものは無遠慮だ。無勢であることは明らかであり、無人であることを承知の上で夜の街を、その闇の濃い部分を渡るように移動している。
機敏な動作だ。そこには停滞が含まれず、躊躇もない。一貫した目的があり、それを達成するために意欲的でかつ、また失敗はないという自信さえも見て取れる足取りだ。しかし、そこには僅かな挑発的な態度も隠れている。ただし油断はなかった。
見つかるはずがない、という自信。見つけてみろという挑戦。そして隠れようとする動作。ちぐはぐに思える歩みは意志によって統一され、アスファルトの大地を足音もなく、しかし叩く。
矛盾と、そう呼ばれるものは人としての存在が既に証明している。
夜風が耳元を通り過ぎた。
三月も終わりの頃合であるにも関わらず、この地域では日常のように吹き抜ける冬の北西の風が今日は穏やかだ。明日は雨だろうかと頭の隅で考えながらも、空気の冷たさが更なる鋭利さを思考に届かせ、逆に躰は引き締まり、凝固せぬよう意識して力を抜いている。
だが風は危険だ。それが自然なものであればこそ、不自然な――人の動きによって発生した空気の動きを隠す。故に警戒と注意が必要だが、不用意にその二つを行えば己の存在を周囲に知らしめることにもなる。
バランスが重要だと思う。そして、そのバランスは瀕死になった回数以上に教え込まれている。過信はしないが、今は違和感も人の気配もない事実だけを胸に秘めて納得させておいた。
足を止める。アスファルトを叩き、背筋を伸ばして両足を揃えて止め、視線は上へ。
そこにはビルがある。いや、周囲にはビルしかない。どれもこれも敷地の少なさから領域を上空まで貪り乱立した企業ビル。おおよそ三十階ほどの群れの中、しかし視線は建造物ではなく空へ向けられていた。
そこに、紅色の月がある。紅月だ。
そして真月がある。黄色の、月が。
二つは並んではいない。手の届かぬ、冷たい空気の中にはっきりと遠くに浮かぶ真月の姿は比較として小さく、そして紅月は今にも地表に落ちそうなほどに巨大で、周囲に落ちるビルの影から見たのならば、世界は。
世界は紅色に染まっていた。
狂気を誘う色だと思う。慣れてしまった色だが、それでも忌避を連想させずにはいられない紅色だ――ならば、その世界で生きる己は狂気であり忌避の対象なのだろうか。
くだらない感傷だと切り捨て、手近なビルの入り口に近づき、取り出したのは携帯端末だ。コードを引き伸ばして玄関の機械、そのメンテナンス用ハッチを開けてコネクタを押し込み数秒、無音で開いた玄関の自動ドアに身を滑り込ませる動作と共にコードを引き抜いた。
巻き仕掛けのコードが収納されるとほぼ同時に、やはり無音でドアは閉まる。けれど視線は前へ、当たり前の現象を当然だと受け止めるのは必要だが、気配で確認できたのならば視覚で認知する必要はないと判断した。
人工的な建造物の内部は、空気が滞っている。
ほうと吐息した己を未熟だと思うが、内部に這入った時点で気にしても無駄だ。先に誰かが忍び込んでいたとしたのならば、他人が身動きして空気を動かした痕跡を発見するのは実に簡単なことで、だからこそ発見されることを前提として、こちらも発見するつもりで警戒する。それが潜入における行動の一つであると経験が既に実行していた。
非常階段に向かうはずの足はエレベータへ。時間外に侵入したのだから当然のようにビル全体の電源は落ちていて動かないが、再び携帯端末のコードを接続して操作をすると、扉が開く。中に入って二十二階のボタンと認証番号を押してやり、欠伸を一つ噛み殺す。
個室は危険だ。もしもエレベータが途中で止まったのならば脱出手段は限られる。逆に稼働中のエレベータ内部に誰かが這入り、こちらに危害を加える意志を持っていたのならば、ある程度の対応は可能だろうが明らかにアドバンテージは敵にあるだろう。
だから、緊張がある。そして望みも。
何事もなく到着の音色が響き、開いた扉からすぐに出ると、片手だけを内部に残して操作をし、背後で閉まった扉に一瞥を投げることもやはりなく足を進める。視線は各部屋のプレートと窓側から見える街の景色へ向かっていた。
一望できる夜の世界に人工的な灯りは一切なく、紅色と黒とで一種の調和を保たせている。やはり静謐だなと思い、――あまりにも不自然だと決定した。
足を止めたのは〝経理・第三会計〟のプレートが掲げられた部屋であり、目的地だ。既に入り口は開かれており、事務机が並ぶ室内を見渡した後、僅かなパーティションで区切られたテーブルに近づく。
隠れるようにではなく、入り口が見える位置で止まり、再び携帯端末を取り出して――小さく、吐息。時間をかけるべきではないなと思いながらも、己が急いていないのだと自覚してしまう。
焦る必要はない、だが状況的に急ぐ必要はあるはずだ。余裕はあっても慢心があってはいけない。
コードを接続して据置端末を起動させる。ディスプレイが点灯し移り変わる画面が安定した後、懐から薄手の手袋を取り出して両手にはめてキーボードを叩く。操作の時間は長い、目的のものを探しているのか、あるいは発見できていて絞り込んでいるのか。
やがて操作も終わり、電源を落としてから手袋を外し、最後に携帯端末を腰右にあるポーチに入れてボタンによる封をした。
「――終わった?」
誰もいなかったはずの空間に、女性の声が響き渡る――否、それは上部から落ちるように発せられた。
だから仰ぐ、否、振り返る。
おそらく主任のものだろう大きな机に腰掛け、足を組んだ女性が微笑みの気配と共に視線を投げている。紅月に照らされた彼女は紅色で、しかしその瞳は光を反射するのではなく暗闇の中で紅色に輝いていた。
その輝きは、殺意となって突き刺さる。
餌が、喰いついた。
母親の趣味であるチャイナドレス。遺伝なのか、そこそこ背丈も高い――暗殺代行者の橘の姓を持つ、女。
どうやら〝無事〟に、少止の痕跡を追ってこれたらしいことに、内心では軽い安堵。そこまでわからない間抜けなら、もっと苦労していた。
「え、まだなの?」
「……」
この、誘い出されたこともわかっていない間抜けな女がねえ、などと思いながら、来た道を戻る。ただし、帰りは非常階段からだ。この女に合わせてやるには、それくらいが丁度良い。事前に警戒レベルを落としておいたのも、たぶん気付いていないだろう。なんだか無駄骨のような気がしなくもないが、間抜けが相手ならそのくらいだ。
「え、え? ちょっ、ちょっと!」
しかし、これで仕事も終わりかと思えば気楽なものだ。縁も切れてさっぱりする。少止にとっては、その程度の相手でしかない。
外に出ても、相変わらず後ろをついてくる。僅かな殺意は、子供が構って欲しいと駄駄をこねるのと同じことで、気にならない。そもそも少止の生き方の中で、殺意を見せる相手など、怖くはないのだと経験している。本当に怖いのは、殺意も悦楽もなく、ただ、殺せる人間だ。戦場の中の兵士の方が、よっぽど怖い。自分が生きるために引き金を引く連中は、殺意よりも第一に保身だからだ。
しばらく歩いたが、ぴたりと足を止めて煙草に火を点けた。
――相変わらず、野雨の夜は、寒いし、冷えている。夏場でも同じだ。
人の動きが、本当に、ない。
雑味がなく、純度が高い。だからこそ――怖い。
「ねえってば」
「――うるさいね、お前は。俺に何の用だよ」
その雰囲気は、寮で見せたものと変わらない。というか、こちらを先に作っていて彼女に見せていたからこそ、少止はこの〝顔〟を使うことにしたのだ。
彼女。
橘
間抜けな女、だ。
「いや……えーっと、仕事だったのよね? ね?」
「……」
遊びたい、というのはわかるが、付き合ってやる気がまったくない。なんにせよ、依頼通り九をここへ連れて来て、明日には寮へと勝手に乱入――と本人は思っている――してくるのだから、これ以上は関わりなど持たなくても良いのだ。
そんな理由もない。
「少止? えーっと、話くらいして欲しいんだけど」
たとえば。
どんな戦場よりも危険極まる静寂を落としたこの、野雨の夜において、他の都市でやっているのと同じことをした間抜けな女が一人いたとしよう。おそらくと前置する必要もなく、粛清対象になる。さて、そうなった時に少止に降りかかる問題はあるか?
――否だ。その先に死が待っていたとしても、少止には何の感慨もわかない。正直にどうでもいい。ただ、橘九という女の立場からして、少止が何かしらの手を下す可能性はないだろう。
つまり。
「……俺には関係のない話か」
「え、なんのこと?」
赤の他人だ。これからの動向を探る必要すらないような相手。
「言いたくはないけど」
「な、なによ」
「俺よりよっぽど間抜けだなと思って」
「――は?」
「あたしのこと」
背後から放たれた声に、驚いて跳んで逃げようとするのを、あっさりと制御し、あろうことか地面に転がしながらも、決して簡単には逃げられない組み方を、両足を使って完成させる。流れるような動きだ。
「時間通りだねえ」
「……」
「ちょ、え、あれ!? 七姉さん! なんでここにいんの!?」
「うーるーさーい」
顎を軽く蹴って脳震盪を発生させながら、二本ほどの針を刺して催眠作用を誘発させる。それから橘
ため息が一つ――ただそれだけで、少止は、雰囲気を変えた。
「お? 相変わらず凄いねえ、少止は。うちの娘にも、そのくらいの度量があればなあ」
「あんたの娘は、鷺城が面倒を見てるだろうが」
「そうだけど、少止は?」
「私は鷺城鷺花に指南された覚えはない」
ちなみに、零と七が姉妹であり、九は零の娘になる。いわゆる、おばさんに当たる人物だ。ここで確保しておくよう、先に少止が頼んでおいたのである。せめて、野雨の事情くらいは叩き込んでおけ、と。
「あたしは足洗ってるし、よく知らないけど、順調?」
「それなりにな。零番目はどうした」
「あー、姉さんはいつも通り、どこにいるかもわかんない。九はねえ、まあ夜に出歩くなってことくらいは教えておくけど」
「今更、あんたの〝技術〟を教え込んでも、覚えられねえよ」
「……少止ってさあ」
「なんだ? 事情通だと思ったのなら間違いだ」
「いいけどさ。でも、さすがに放っておけないし……こんなんでも、橘なんだもんね」
「廃業してから長いのに、大変そうだな。――私には関係ないが」
「というか、なんで少止にくっついてきたの、この子」
「私は何もしていない。軽く手合せはしたがな」
「どうだった?」
「それは本人に聞けよ、七番目。それとも、好奇心で私とやるか?」
視線が交差する。気持ちの乗らないそれを受け止めた七は、しばらくして苦笑した。
「だーかーら、引退してるんだってば」
「言ってろ」
「明日にはリリースしとくね」
「勝手にしてくれ。ストーカー被害を出さなかっただけ、有難いと思ってくれればいい」
「はいはい。連絡、あんがとね」
「あんた以外に連絡先がなかっただけさ」
「可愛くない子だなあ……」
「……、同じ台詞を刹那の前で言えたら、その時は連絡をくれ」
「訂正。――嫌な子だね」
「ほっとけ」
誘導はここまでで終わり。明日に逢ったところで、そこはそれ、今以上の面倒はない。ただ――。
そうだ、少止は考えておかなくてはならない。
今の仕事の〝障害〟になった場合、どうするかを、だ。
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