03/27/08:00――鷹丘少止・寮の中へ
とりとめのない思考というのは、暇つぶしに丁度良い。ことそれが日常の中であったのならば、変に考える必要性もなく、気楽にやっていける。
スラックスのポケットから懐中時計を取り出してみれば十時を過ぎた頃合だった。
きちきちと音を立てて秒針を動かす手巻きの時計は黒の盤面に金色の針、縁も金色で作られたもので、彼――鷹丘少止が愛用している時計でもある。もちろん一学生が持つものであるためそれほど高価なものではなく、日本円にして六万円ほどの代物だ。
携帯端末が普及した昨今では時計を所持する者が少なくなっている。少止は腕時計、つまり時計を腕に巻くことに対して僅かながらの嫌悪があるため、故の懐中時計なのだが、おそらく時計と同機能を持つ携帯端末があるのにも関わらず、そのたった一部の機能しか果たさない腕時計を所持する行為に理解が及ばないのだろう。もっとも、機能そのものに着目したのならば、その時には腕時計もするのだけれど。
雨が降れば傘を手にする。しかし車の中で傘をさす必要はない。
つまりはそういうことなのだろうと、少止は及ばずながらも理解しようとはするが、残念なことこの上ないと判断するしかない。腕時計にせよ懐中時計にせよ、趣があって良いと思うのだが、それもまた個人の感情であり感傷でしかないのかもしれない。
ただ時計屋は、どうだろうか。腕時計はある種のステータスと考える者は高価な代物に手を出すので、昔と比較したところでさほど売り上げが落ちることはないだろうが、それでも出し入れの煩わしさや仕事時における確認で安価なものも必要なのか。いやしかし、今時のオフィスならば壁掛け時計くらい存在するし端末を利用する仕事ならば端末の表示時計を一瞥すれば済む。
己の時間を刻む――そうした意味で時計を所持する人間は少ない。そして、クォーツは己が死した後でも電池が切れるまで稼動してしまうからと、手を伸ばさない人種の方が珍しいのだろう。なくても構わないが、あれば便利。その程度の考えならば確かに、高価である必要は――。
ないのだろうか、あるのだろうか。
どっちでもいいかと、少止はキャリーバッグの小さなポケットからバインダーを取り出す。その間に足は止まっており、バインダーに挟まっている書類に目を落とした。
「……」
手渡された日に二時間半ほど費やして凝視したので今更だが、蛇とミミズがゴカイを求めに浜辺へ赴く抽象画がそこにはあり、つまりこれが地図であると認識するのに少止は時間を費やしたのだが、気を抜くともう一時間くらいは思考に没頭したくなるので注意が必要だ。
しかし、地図の作成はこうまでも末期的なのにも関わらず、文字だけは実に達筆であることが救いなのかもしれない。紙の端、つまり左上には楷書体で〝つれづれ寮〟とあり、これは少止が赴く場所でありこれからの住居となる場所の名だ。
珍しいものだと、改めて感情を苦笑に乗せた。
アパートと寮の違いは、その共同生活性にあるだろう。個人部屋は与えられるものの、食事や風呂などといった生活は共同になるのが寮であり、一つの家として機能するのがアパートだ。そして珍しいのは、学校などが抱える寮ではなく、あくまでも個人が所有し経営する寮は、調べた限りではこの近辺にはつれづれ寮しか存在しなかった。
実際、このご時勢に共同生活など好んでする者はよほどの物好きだ。
正式な、書店で販売されている住宅地図を図書館にて閲覧したところ、場所としてはここ愛知県野雨市のやや西側付近にある。立地条件としては住宅街から少し離れた田舎であり、商店街までは少し遠く、野雨市の象徴とされる巨大な学園、VV-iP学園には徒歩で四十分程度という位置にある。また駅までは徒歩十五分、それなのに田舎なのがおかしいのかもしれないが。
もっとも周囲に家がないわけではない。特に古くからある民家が多いらしく、ご老人たちの住居であることは事前調査しておいた。もっとも、少止にしてみればだからどうしたの一言に尽きるのだが。
地図をめくるともう一枚の紙が姿を見せる。それは履歴書に似た、住民票と一緒に寮側へ提出した書類であり、顔写真こそないものの私の詳細が記されている。これは提出したもののコピーで、慎重さが行動を起こした結果だ。
やや丸い、我ながら整っていないなと思える癖字で名前が記してある。年齢、性別、本住所、連絡先番号、特技、趣味、所持資格、性癖、弱点。ちなみに最後の二つは空白で提出したが――ともかく。
名は鷹丘少止、十七歳高校三学年、性別は男。特技は己の秀でているもののこと、趣味は自身が好み継続している行為など、といった説明を記してるこの人大丈夫だろうか。
「――」
顔を上げると、通行人が見えた。さすがに通勤時間ではないため人は少ないが人通りはある。あまり没頭しているのも不審に思われるかと、視線の合った相手には軽く会釈をしておきバインダーをしまう。そしてキャリーを手に持ち歩き出した。
実物は見たことがないのだけれど、おそらくこの道をまっすぐ行けば到着するだろう。
鷹丘少止はこれまで愛知県風狭市に居を構えて――アパートだが――いた。両親に関しては複雑な事情があるので割愛するが、ともかく事情があってここ野雨市に転居しなくてはならず、また野雨西高に転入手続きが出来たため、結果としてこの寮を選択した。
寮の管理人と知人であったと、その理由が一番強いように思う。好奇心や環境などはそこに追随する形であり、本命ではない。元より今までの生活に拘泥する性質はなく後悔もないが、新しい生活には馴染むまでが難しいのだと知っているからこそ躊躇が生まれる。
きっと少止は臆病なのだ。新しい場所で一歩を踏み出すのに、やはり恐れを抱いているのだろうと思う。だからこそ寮の管理人が知人であることは強く背中を押した――と、表向きの理由はこの程度で良い。
三月二十七日、空を見上げればわかる晴天だ。しかし北西の風がやや強く、少止はコートの襟を片手で締めるようにして歩く。突風が時折吹き抜けた時には眼鏡の縁を軽く押して位置を戻し、吐息。髪を五分刈りにしてからは、やはり頭部の冷たさが堪える。帽子を好まないのも悪いが、かといって伸ばす気にはなれなかった。
ただ、風狭も顕著ではあったが、
「冬の北西が強いな……」
もう冬も佳境、そろそろ暖かくなっても良いだろうと期待を抱く頃合――つまり春だ。寒気がまだ到来するものの春らしい行事も多くある。少止にとって身近なそれは新学期の始まりであり、これは一つの起点にもなるだろう。
と、しばらく歩いていると右手に寮らしい建物が見えた。敷地は比較的広く、庭つきの三階建て。紹介された時に見た資料の写真と同一なので間違いないだろう。簡素だが木造でしっかり造られている。
確か寮生は――二人、だったか。少止を含めれば三人で、管理人がいるから四人になる。まだ空き部屋がありそうだなと、四という数字は安定しないなと思いながらも、ふと視線を戻した先に彼女がいた。
どういう女性なのかは知らないが、間違いなく寮の敷地の中から外側へと出て来るように箒を使って掃除をしている。故に関係者だろうと考えた少止の判断はおそらく間違ってはいまい。
「こんにちは」
会釈と共に言葉を放つと、おやと気付いたように女性は顔を上げた。ジーンズにセーターというこの時期らしい格好でストールを肩にかけている。背の丈は私よりも低いが、おそらく平均的な丈だろうと判断。こちらを視認し、笑顔を作り、
「はい、こんにちは」
それが作った笑顔であることを承知しつつも、通り過ぎようとしていた足を止める。少止の顔はどうも厳つく見え、特に五分刈りがまたいけなかったらしく初見では話しかけにくいらしいことを自覚しているため、可能な限り柔和な気配と笑顔を保ちながら、
「あの」
問いながら顔は表札へ向け、女性がそれに気付いたのを確認しつつ空を仰ぐように寮の建物を見上げた。視線は戻さず、そのままの体勢で言葉を続ける。
「ここはつれづれ寮と云うのですね」
一拍、あえて返答可能な間を作りながらもそれを制するよう続けた。
「――由来は、やはり徒然草に関係が?」
視線をゆっくりと戻すと、肯定のための短い言葉を封じられた女性はタイミングを逸した口を半開けの状態で停止し、数瞬だけ止まった呼吸を再開させるよう微笑んでから。
「いえ、この寮の管理人さんの名前に由来すると聞いています」
「なるほど、私の考えが少し短絡的でしたね」
失笑を零すと、女性は慌てたように竹箒を己の身に立てかけて両手を胸元で小さく振った。その動作は否定の意だと思いながらも、やはり言葉が放たれる瞬間を見計らって先に。
「――やるべきことがなく手持ち無沙汰な様子を、あるいはその管理人さんが持っていたからこそ、連想されたものだと思ったのですが」
やはり言葉を奪われたように硬直した女性は、それを肯定であると示した。だが続く表情は疑念、つまり同一の状況を繰り返した少止に対する警戒だ。少止は無論のこと微笑を深くして柔和な印象を変えないが、こうした場合は却って疑念を増長させるだけなのだが――さて。
「失礼、不躾でしたね」
一礼して無礼を詫びる。相手の返答を制したことではなく、初対面の状態で妙な問いを投げかけたことに対してだ。そしてもう一度だけ寮を見上げて目を細め、微笑を僅かに消して眉尻を下げた。どうしたものかと――まあ表現したわけだが、内心で思わなかったわけではない。
決して、断じて少止は女性を騙しているわけではないし、詐欺を働こうとしているわけではない。ただ会話の順番を変えることで相手の反応を見ているだけのことで、嘘を吐いているわけでもない。そうだとも。これは詭弁でも言い訳でもない純然たる事実なのである。
ただ、まあ、――癖のようなものだ。
「不躾ついでに申し訳ないのですが、ここから駅に向かうための、最短経路を教えてはいただけませんか?」
「――あ、はい」
視線を戻すと疑念を浮かべていた女性が、しかし失礼だと思い直したようで作った笑顔を取り戻した。少止はスーツケースではなくキャリーバッグ、つまり旅行者を示すような荷物を持っているため、セールスマンではないと判断したのだろうか。こちらもコートの下はスーツなので誤解を招いたかもしれない。
――あえて解かずとも良い、誤解である。
「最短ではバスを経由するものが」
あるのだがどうするかと問いたかったのだろうが、その言葉は途中で音によって停止させられた。
見て正面、女性が背を向けていた玄関の扉が開き、妙に可愛らしいエプロンをつけた小柄な男性が顔を出したからだ。表情は笑顔だが、単に糸目なだけである。故にそれが笑みを表現しておらず、疑念に首を傾げるのを少止は見た。
「あれ、玄関前の道路で一体何をしているのかな?」
やはり、一拍。女性の言葉を奪うように。
「こちらの女性に駅までの最短経路をご教授願っているところですよ」
言うと納得ではなく苦笑にも似た笑みが浮かんだ。
「そんな話は中に入ってからにしたらどうかな」
「そうかもしれませんね」
「え? ――え?」
失礼と、少止は前置しておくことを忘れず、最初に宣言すべきだったはずの言葉をようやく口にすることにした。
「この度、入寮することになった者です。よろしくお願いします」
「はあ……、……?」
会釈を一つ、横を通り過ぎて玄関へ。
「いらっしゃい、少止くん」
「やあ、こんにちは
「そうだね。しかし、あれはなんだい?」
「親睦を深める前の軽いジャブだよ。それよか、俺の部屋はどこ?」
「二○二だよ」
「諒解だよ。挨拶はいつ? というか、住人は少なかったっけ」
「まあね。火丁くんが起きるまでには、まだ二時間も必要だよ」
「わかった」
「詳細の説明は?」
「教えたていでいい。ディティールにまでこだわると、落とし穴が大きくなるって話、知らなかったっけ?」
小さな笑い声を聞きながら、後ろ手で投げられた鍵を受け取り、二階へ。右の中央の部屋へ入ってすぐ、バッグをベッドの上に放り投げた。
――韜晦もほどほどに、だ。
性格を変え、雰囲気を変え、周囲に溶け込むようにして馴染むのは少止の生活だ。それ自体を苦に思ったことなどない。今もそう、労力を支払って珈琲を飲むような馬鹿ではないくらい、自然なことだ。
コートを脱いで、それもベッドへ。ぐるりと見渡して――部屋を偽装するかどうか、五秒ほど考えてから、放置の方向にしておく。スーツの上着も脱ぎ、ネクタイはそのままで、吐息を一つ落とした少止は、すぐに部屋を出て階下へ向かった。どうやら彼女は、まだ、庭の掃除をしているらしい。
「六六さん、俺、紅茶をくれないかな」
「ん? なんだい、すぐ降りてきたんだ」
「やることもないし。ここじゃ作業は役割分担?」
「いや、僕がほとんどやるよ。今は休み期間だから、彼女たちも手伝ってくれる」
「へえ――じゃ、このまま続けるけど」
ちらりとダイニングのテーブルを見て、使用頻度が低い椅子を引っ張って座る。特に文句は言われなかった。
「言い忘れてたことがあったんだよ」
「うん?」
「
「うん、もちろんだ。
「こっちに移動させる手配をしておくから、頼むよ」
「……うん? 僕としては構わないけれど、事情は?」
「市井に紛れるのにも限界がある――ってところかな。もちろん、俺のことはオフレコで、適当に。気付くかもしれないけどなあ、あいつの場合」
「わかった。実際に話がきたら、そうするよ。断る理由はないからね」
「そんくらいでいいよ。さてと、起こすか」
「ははは、起きるかな?」
「賭けるか? 起きなかったら二百ドル」
「気軽に賭ける値段じゃないよ……」
そうでもないんだけどなあ、なんて気軽に言いながら、背もたれに肘を乗せるようにした恰好で携帯端末に触れる。こうした〝演技〟は、あまり深く考えない方がいい。印象というのは、他人が勝手に決めるものだからだ。外面と内面を変えるなんてこと、人ならば誰だってやっている。逆に、意外性のない同一の姿なんてものは、違和の塊でしかない。
「……ああ、賭けるなら、何コールで出るか、の方が良かったかも」
「ははは、そうだね」
番号は教えていないし、寝ていれば余計に取るのが面倒になるだろうが、無視して鳴らし続ければ、六六が紅茶を置くタイミングで、繋がった。
「――起きろ火丁。ダイニングまで来い。いいか? 起きろ、ダイニングまで来い」
返事は聞かず、ポケットへ戻す。それから紅茶を飲んだ。
「お、美味いね。紅茶は久しぶりだよ」
「普段は?」
「珈琲がほとんど。最近は特にね。っと、もう一つあった。次の入寮は予定通り?」
「うん、明日になるね。この件は二人にも話してあるよ――誰が、どうといった話はいつも通り、一切していないけれど」
「相変わらずだね。おっと」
どたばたと慌ただしく階段を駆け下りる音が聞こえて、肩を竦める。六六もまた、よくあることだと苦笑していた。
そうして。
勢いよく飛び込んできたのは、寝間着にしている襦袢姿の少女。
「――兄ちゃん!」
「お前なあ、着替えてから来いよ」
「え、うそ、なに、あれ? 夢?」
「寝ぼけてるのはお前だけだ」
倒れるように抱きついてきたので、そのまま受け止めてやれば、そのまま動かなくなる。髪くらい梳かせよ、なんてことを思うが、口にはしなかった。
「久しぶりだな。俺はちょっと仕事があって、こっちに来ただけだ。といっても、部屋はここに取ったから、しばらくはいるよ」
「……へんなくちょう」
「俺のか? はは、これも〝仕事〟だ」
「そっか」
そうかと、火丁は受け入れる。昔からそうだ。仕事という単語は、それだけの強制力があるし――都合良くその言葉を、少止が使わないことも知っている。
「逃げないから、とりあえず着替えて、髪を梳いて、顔を洗ってこい。朝飯もまだなんだろ? ほら」
「んー」
「行ってこい」
「……わかった」
名残惜しそうに躰を離すと、どういうわけか両手を腰に当て、うむと力強く頷いた火丁は、来た時とは比べ物にならないほどゆっくりと、階段を上っていく。
変わらないようで、ちゃんと変わっている。良いのか悪いのかは、さておきだ。
「妹想いだね、少止くんは」
「だったら、年単位で逢わないような無精者にはならないよ――ああ、お疲れ様です」
「あ……その、どうも」
「先ほどは失礼しました。私は――」
「少止くん」
「っと、失敬、そうだった。あまり堅苦しいのも、馴染まないか」
一度立ち上がった少止は、玄関から戻った彼女の前にまで移動する。といっても、隣のリビングだけれど。
「俺は鷹丘少止。今日からここで厄介になる、火丁の兄だよ。よろしく」
「あ――はい。私は
握手を一度、最初の挨拶などそのくらいでいい。
上手くやるのも、下手を打つのも、あとは少止の行動次第だ。
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