08/13/11:00――北上響生・エイジェイの訓練
意識は、たった二つだけのことを確認していた。
俯瞰したのならば、
――その状況を、響生はさほど理解していない。視界が虚ろだろうが、躰が壊れかけだろうが、そんなものを意識しない。
ただ。
両手がナイフを握っていること。
自分が両足で立っていること。
たったそれだけで、ほかなど、どうでもよかった。
四十畳はあるだろう一室は、学園にある室内トレーニング用に当てられた場だ。中に物がないのは、レクリエーションなどを想定されて作られているからで、決して彼らのように、戦闘訓練をする場としての活用など考えられていない。
そう――彼ら。
うつ伏せになって躰を弛緩させるよう、気絶している小柄な少女はシシリッテ・ニィレ。ほんの二秒前に、
そして、ただ一人、響生だけが――動く。
前へ。
敵へ。
突破のための一歩を、踏み出す。
「ま、こんくらいにしとこうぜ」
出した瞬間、右手に一振りの剣を持っていた相手が、〝
ぐしゃりと、やや湿った音を立てて倒れた。
「ちょっと休んでろ」
その言葉はきっと、誰にも届かない。けれどエイジェイは一つだけある扉から外へ出て行ってしまった。
硬い――。
しばらくして、最初に気付いたのはシシリッテだった。額が当たる痛みに、ただ硬さだけを感じ、両手を使って躰を起こそうとするが、意識だけが空回りして、肩から先は微動だにしない。僅かに傾けた視界はぼんやりとしていて、焦点が合わず、そのことに危機感が浮かぶものの、飛び起きるだけの体力が残っていない。
だから、倒れているのが誰かなどわからず、そして、己もその倒れた一人であることへの認識すら、遅れていた。
ただ。
敗戦だと、思う。
焼夷弾の痕跡である、燻った火のような残り香があって、視界が陽炎のように揺らめく。鼻につくのは焼け焦げた匂いと、血の匂いと――死の匂い。音が聞こえないのは、聴覚がやられたからか。
また、また一人で生き残ったのかと思えば、悔しさで涙が出そうになる。ずるりと、躰を引きずるようにして動けば、激痛が走るけれど、奥歯を噛みしめて我慢する。大丈夫、痛いだけだ。自分はまだ生きている。
生きていると、そう自覚したら、ごつんと頭が壁に当たった。そう、壁がある。手で触れていたのは床だ、ここは戦場ではない――そこで。
ようやく、シシリは己の呼吸を意識した。目を閉じ、自分が意識的に行っている口での呼吸を認識し、どうしてこうなったのか、前後関係を結ぶ。
ここは戦場じゃないと、まず言い聞かせるところから始めれば、しかし、意識をすぐに取り戻した響生が、ごろりと仰向けになって、荒れた呼吸をしだし、その音に反応してシシリも目を開く。
生きている、そうだ。
誰も、死んではいない――あまりにもリアルな錯覚であり、そして、それは現実として錯覚でも何でもなく、相手が加減したからこそ出来上がったもので、戦場よりもひどい場だったとも、思う。
起きたか、なんてことをシシリの視線に気づいて思えた響生は、三度ほど横を向いて咳をする。横を向くといっても、首を動かしただけのことで、躰を動かすにはまだ時間が必要だ。その音に反応してか、ようやく暮葉も目を覚ましたようだった。
お互いに、言葉を投げる余裕がない。声を出そうと思えば、粘ついた何かが喉に張り付いていて、また咳き込みそうだ。加えて三人が三人とも、それこそ負け戦を現実にしたのだから、己の中で整理が必要にもなろう。
また――と、三度目にもなる響生は、思う。
また、届かなかったと。
突破できなかった。
小細工の必要がない、極限まで突き詰めた一点突破の技術は、そもそも、相手であるところのエイジェイが得意としているものだ。それを少しでも盗もうと、習得しようと、お前には合うだろうと言われれば、己のものにしたくもなる。だがそれでも、三度目の正直であったところで、突破できなかったからこそ、こうして自分は倒れているのだ。
けれどしかし、それ以上の思考が回らない。呼吸を正常に戻そうと意識しなくては、ぷつりと糸が切れたかのように、己という認識すら手離してしまいそうだ。
それでも、がちゃりと音がして扉が開けば、否応なく躰が反応を見せる。さすがに弾かれるようにして動くことはままならないので、緊張を保つくらいなものだったが、エイジェイの入室だと足元を見てわかれば、それも和らぐ。――和らぐだけで、なくなりはしないが。
それぞれの場所に水のボトルを二本ずつ置いたエイジェイが、さてと腕を組んだ。倒れている三人とは違い、躰が温まった程度の様子である。――化け物だ。
「まずは、聞こえてるか安堂」
「……あ、あ、聞こえて、る」
「〝
そんなところかと、エイジェイは煙草に火を点けた。
「シシリッテは、
それでと――最後に、響生へと視線を向ける。
「〝
反論はない――いや、そもそも、満足に言葉が出せない状況である。それを、だらしないと判断するエイジェイは、煙草一本を吸い終え、頭を掻いた。
「昼まで四十分、昼休みが終わるまでは貸し切りだ。文句があるなら後で言いに来い。それと七草を呼んでおく。掃除はしとけ。――以上だ、ご苦労さん」
ありがとうございました、と返せるだけの体力もなく、エイジェイが出て行ってからどれほどの時間が経過しただろうか。口を使ってボトルを開けた響生は、まず口の中を湿らせ、半分ほどを頭にかけ、残りの半分を強引に口の中に入れると、その半分を吐き出しながら咽て、ゆっくりと上半身を起こす。痛みを堪えるためか、しかめツラになってしまうのは、仕方のないことか。
呼吸が落ち着いてからも、すぐに動けないのが、限界まで引き出した代償だ。幾度か水を飲めば、喉の痛みが和らいでくるものの、通常通りとはいかない。
「――冗談じゃねえ」
一番最初にリタイアしたシシリッテが一番回復は早い、自明の理だ。体力的なものはともかくとして、呼吸における喉の痛みという点に関しては、間違いない。ずるずると、躰を壁に寄せ付けるようにして上体を起こした彼女は、天井を見上げるようにしてぼやく。
「戦場を幻視したぞ、おい。しかも敗戦だ……どうなってやがる。確かに、荒事がなくて腕が鈍りそうだから、たまにはあたしを呼べって言ったけどな、キタカミ、こいつはなんの冗談だ。敗戦の方がマシだぞ」
だらしない、とは思うが、シシリの口はほとんど開きっぱなしだ。顎を使って口を上下させることすら、辛い。
「まったくだ」
言って、暮葉は咳き込み、どうにか肩で口元を拭う。
「……冗談じゃ、ない。軍曹殿から、たるんでいると言われて来てみれば、三時間もぶっ通しで化け物の相手、だ」
だが、それでも。
「癪だけどな……キタカミが最後まで立ってて、あたしが先に終わっちまった現実が、悔しいの何のって、マジで訓練不足を考えたくなるぜ」
「は、はは、素直だ、な、
「うるせえよ」
がちゃりと扉が開いて、明らかに運動を目的としていない長いスカートの女性、七草ハコが、両手に荷物を一杯持って入ってきた。状況に対しては何も言わず、ゼリー飲料を軽く投げて渡し、響生のところへ行ったかと思うと、キャップを開け、それを響生の口に入れ、ゆっくりと片手で潰して強引に飲ます。強引――とはいえ、きちんと飲めるペースで配慮しているが。
「まずそれを飲みなさい。喉も楽になるし、身体活性もするから、身動きが早くできるようになるわ。治療はその後、ただし増血剤だけは先に飲むこと。――久しぶりね、トゥエルブ」
「よしてくれ、七草。俺は安堂だ」
「ああ、そうだったかしら、よく覚えてなかったから。どういう気まぐれで?」
言いながら、新しい水のボトルのキャップを開いておく。医療キットの中身から増血剤を響生の口に突っ込んでから、二人にも渡した。
「兎仔軍曹殿に逢って、叱責を食らってな。それ自体は俺の落ち度だったが、鈍ってるところを見抜かれて、響生と合流しろって言われたんだよ。そしたらこのざまだ」
「じゃあ仕方ないわね。シシリは自業自得。自分から火に入る夏の虫ってところでしょうしね」
「うるせえっての。先に内容を聞いておくべきだったと、後悔してる」
「後悔? ――それこそ、冗談でしょう。仮にもランクA狩人の〝炎神〟とやり合えて、ダメージどころか状況そのものすら
「知ってんのか、ハコ」
「今回は辞退したけれど、この馬鹿と一緒に、最初の一回はやったのよ。どちらかと言えば、私の場合は実力云云は別にして、向きじゃないと、少なくとも響生と一緒に見てはやれないと、そう言われたの」
完全に制御された状況。戦場とはかけ離れ、訓練というには何かが違っていて。
「ましてや、追い込まれるわけでもなし。それでいて〝全開〟を否応なく発揮させられる――となれば、それこそエイジェイが相手でもなければ難しいのよ。いや、あの人だからこそなのか……少なくとも、兎仔軍曹殿や朝霧中尉殿とは、違うわよね」
同じ、出し切ったとはいえ、状況は違う。違うが、どちらが良いかと問われれば、今回じゃない方を選ぶのだろうけれど。
「……おー、ハコ、さんきゅ」
「もう?」
「このジェル、やっぱり喉によく利くわー。ったく、文句がだらだらと長いぜ、お前ら。俺なんか、助言に加えてミソッカスみてえに言われたんだ。酷い扱いだぜ、まったく」
三本目になる追加のスポーツドリンクを、それぞれのところに置いたハコは、医療キットの中身を見てから、ため息を一つ。
「足りなさそうだから、医務室に行ってくるわ。それとも、大学校舎で活躍中の医学志望者を集めてきた方がいいかしら?」
「軍医を呼べよ、ハコ」
「医者は自分で選びたいな」
「冗談に対して、真面目に対応すんなよ、お前ら。悪いなハコ、頼んだ」
「はいはい」
大きく息を吸って吐けば、内臓に痛みがある。エイジェイによって傷つけられたのではない、なんて現実を飲み込むのは、三度目になる響生にとっては、そう難しいことではない。限界ぎりぎりまで使えば、そういうこともある。
「全力で戦うなんてのは、当たり前のことだ」
まるで自分に言い聞かせるよう、暮葉が口を開く。
「だが、全力を振り絞って、最後の最後まで出すなんてことは、現実的にありえない。戦闘の終わりは、必ずその途中で訪れる。下手をすれば最初で終わりだ。弾丸一発で人は死ぬし、戦闘とは殺し殺されだ。それが訓練なら? ――同じことだろう。軍部での訓練は技術向上のため、生き残るため、役に立つため、そういった理由が大前提であり、全開でやることはない。それは追い詰められて出さざるを得ない状況ですら――あるいは、違うものなんだろう」
「まったくもってその通りだ。いいねえ、アンドゥ、そういやお前はそういうヤツだった。状況の理解にはお前がいると楽だってのを思い出したぞ」
「言ってろ。それと発音は、安堂だ。覚えろよ、ジンジャーと呼ばれたくなかったらな。指先一つどころか、口を開くのすら痛みを伴う躰の使い方なんてのは、――誘導されたにせよ、珍しいどころの体験じゃない。加えて、最後の指摘も、しばらく考える必要はあるが、的確だ」
「あれが五神の一人……ってか。体力や戦闘技術、思考に至るまでばらばらの三人を、同一条件にするって、どんな化け物だよ、おい」
「追い詰められたのではなく、上手く引き出されたんだろうな。最初の一度と言ったが、響生は何度目だ」
「今日で三度目だな。次がありゃ良いんだがと、いつも思う」
「マゾかよ、てめえ」
「……なるほどな。響生にとって〝戦闘〟が、これか。普段は基礎訓練、そしてほとんどが思考に傾倒し、考えについてくる躰を作る――か?」
「おう。エイジェイも、そういうふうに訓練をつけてくれてるからな。そいつは、経験したお前らも、よくわかっただろ」
「ま、得物をぶん回す機会なんぞ、そうそうねえしな、こっちは。いざ仕事って時に、無様を晒すような真似は御免だから、維持はしてるが、それも半信半疑になっちまった……落ち込むぞ、こいつは」
「笑うしかないな」
ボトルを持って口に運ぶだけでも一苦労、その腕がぷるぷると震えていれば、笑うしかないのだ。けれど、笑って済ますわけにもいかない。
「結局、エイジェイが使ったのは剣と、炎系列の簡単な術式って見解でいいのか、アンドウ」
「そんなところだな。体術はもちろんだが……多かったのは蹴りだろう。大半の攻撃はそれを食らった。しかし――」
そう、けれど、でも。
「――どうにも、俺には〝避けていた〟という感覚が、ない。避けられたと思ったことは何度かあったが、どちらかと言えばあれは、それ以前の問題というか……」
「ああ? そう……だったか?」
「当たらない、が正解だよ、安堂。あの人にとっちゃ、俺らの攻撃意図そのものが遊びみたいなもんだ。意図せずともしなくとも、攻撃そのものの流れを既に読まれてる。最終的に蹴られて間合いを外されるのなら、それは、カウンターに向かっていった結果っつーか、あれだ、自分から木に当たって跳ね返されているようなもんだ」
踏み込んだ位置にはもういない。いたとしても、最大効力が発揮されるタイミングは最初から外されている。細かい修正をして攻撃しようにも、修正そのものすら把握されているのだから、〝攻撃〟が元より成り立たないにも関わらず、こちらとしては、攻撃したのに空振りをした、みたいな認識しかないのだ。
言うなれば。
突破するための何かが、最初から存在しなかったようなもの。
「きっと――相手にされてないってのは、こういうことを言うんだろうと、俺は初回で思ったね。んで、どうやりゃ相手にされるかってのを試行錯誤して、これが三度目だ。エイジェイが言った通り、馬鹿が一人、間抜けを晒してるってわけさ。屈辱だろ? 軍じゃ味わうことのない苦みだ。んで、そこから俺が得たものは、きっと兎仔軍曹殿や朝霧中尉殿は、こうならないだろうって確信だ」
「あたしらみてえにはならない? つまり、相手になる――ってことかよ」
「相手にするのか、相手になるのか……部下としては、後者であって欲しいと願うが、俺はそれほど知っているわけではないからな」
「言うねえ、安堂。お前だってお二人に訓練を見てもらったことがあるだろ」
「ああ。軍曹殿は、戦地で教わったことの方が多いが」
「マジかよ、てめー、恵まれてんなあ……」
手を握って開く。痛みは伴うが、脱力が解けて躰が動くようになってきた。ならばと、響生はゆっくりと躰を動かしながら、できる範囲でのストレッチを始める。
「っ……、お前らもやっといた方がいいぜ。躰の熱が完全に引くと、固まっちまって、後を引く」
「なんだ響生、失敗談か?」
「初回の時は酷かったもんだ。明日は何もできないと思って、無理をしてでも食料は買っておけ。あれだ、できれば今飲んだみたいなゼリーのやつな。はっきり言っておくが、個人差はあれど、今の痛みなんてのは明日に来るだろう痛みに比べれば、随分と楽なもんだ」
嫌そうに顔をしかめた暮葉とは違い、シシリはあんぐりと口を開けて硬直した。
「俺の場合、痛みを堪えて動けるようになった――ってのが、もう夜だったからなあ。いわゆる筋肉痛ってのは、明後日にくる。その頃になりゃもう天国さ。ようやくまともに動けると、涙ながらに感謝したくらいだぜ」
だから、逆に言えば。
「こういう戦い方ってのは、絶対にするなってことなんだろうさ。いや、逆に一日限りとわかっているのなら、いいのかもしれねえけど、望んでやりたくはないな」
「……一人暮らしが、こんなところで悔やまれるとはな」
「はは、女でも呼んでみりゃいいだろ。あたしは同居してる相手に頼むし」
「俺なんか、ハコに頼むと後が怖いから、そうそう頼みごともできやしないってのに」
なんて言っていると、両手に着替えを抱え、追加の医療キットを持って、ハコが戻ってきた。
「はい馬鹿ども、治療の時間よ。食事の追加はないから、昼休み終わる前に、とっとと最低限の治療をするわよ」
「へーい」
返事をしながら、置いてあった自分のナイフを一度握り、鞘へ戻す。
しっくり馴染むはずの海兵隊のナイフが、どこか違和感を誘うようになったのは、一体、いつからだろうか――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます