02/11/13:30――鷺城鷺花・成果

 屋敷に戻った鷺花が最初に行ったのは風呂に入ることだ。ここ一年、水浴びや簡単な選択などはしてきたがサバイバルであることに変わりはなく、適応できていたとはいえ、施設があるなら利用するに越したことはない。一時間ほどの入浴を済ませてさっぱりしたら、今まで使っていた着替えを処分して荷物を軽くし、エミリオンの部屋を訪ねた。

 窓際に腰掛けて瞳を閉じていた彼は、一年ぶりに見ると――なんだかひどく、老衰しているようにも思える。年齢だけならばまだ五十くらいなもののはずだが、ジニーと同様に、密度の濃い人生は往往にして短い。

「――戻ったのか鷺花」

 ゆっくりと開かれる目がこちらを確認し、組んでいた腕が解ける。ただいまと返すと何かに気付いたのか、エミリオンは苦笑して一本だけ立てた指を口元に軽く当てた。だから、肯定を示す。

 ――気付いたことを言うな、ね。

 この屋敷の中でも気付いている人間が少ないことを示している。当人がその気ならば、鷺花があれこれ口出しすべきことではない。

「成長したな」

「みたいよ、じーさん。私自身、変わったっていう自覚はなかったんだけど」

「以前よりも魔力の流れに無駄がない。どうだ、試したいと思えたことは消化できたか?」

「あはは、そう、九割がたは終わったよ。だから落ち着いたのかもしれないね。そうそう、それで三番目の所持者と戦闘訓練を続けてたの」

「どの程度使いこなしていた」

「そっちか。や、まあその通り、不具合なんて一切なかったよ。程度なら、私が見た限りでは最低ライン。ただ組み立てられて、ただ術式を喰ってるだけ――たかが一年でも、そっちの技術に関してはまるっきり進歩してなかったわ。まるで、無意識にそれを制してるみたいに」

「ふん? あれは一番馴染みやすいと思ったが……」

「そぉお?」

「前提条件が〝組み立て〟の術式だ。最初から適性があるのなら、己の手足の延長として扱うのに難しいことはないだろう。最初の半年くらいはナイフに引っ張られる可能性も考慮しているが、それも最初だけだ。もちろんナイフの限界で止まるか、あるいは自らの一部にナイフを置くか、そういった成長限度までは俺の範疇じゃない」

「なるほどね。――ねえじーさん、ちょっと訊きたい」

「なんだ?」

「変なことかもしれないけれど……たとえば、譲渡に際してナイフごと〝喰う〟可能性は?」

「少し待て、いや、考えを聞かせろ」

「前提となる許容量、適性なんかは除外したとして……いや、除外できない問題よね。そもそも三番目は〝組み立て〟の魔術回路そのもので、たぶん最初から組み立ての特性を持つ魔術師には受け入れられない。空白があってこその所持――になるでしょうね。けれど私が〝喰う〟と言った以上、それは半ば強制的に行われたものだと見る。真っ先に思いついたのは〝奪取ロバート〟の特性だけれど、あれは所持者の明確な定義が必要だし、喰い取ることはできない。あくまでも奪い、取得するだけのもの」

「――仮に、前所持者が現所持者から事前に〝奪った〟ものでしかなく、現所持者はただ〝取り戻した〟だけなら?」

「その手順は現実的に時間が足りない。それにナイフごとと言ったのを、こう言い換えてもいいのよ――前所持者ごと喰った、と」

「ああ、それなら俺の領域からはもうとっくに離れてるな」

 などと、エミリオンはあっさりと放棄した。相変わらず刃物に関してしか興味はないようだ。

「実際にそこまでの仕組みは、いや影響は三番目にはない。ただその性質上、譲渡に関しては特殊な形態をとる必要がある――とはいえ、その譲渡に関しても創造段階で俺が何かしら手を加えたわけでもないからな」

「そうなの?」

「俺は刃物が完成すりゃそれでいい。完成とは結論だ、そして結果だ」

「じゃ、極端なこと言えばだれが所持していても構わない?」

「ああ。もっとも魔術書と同じで所持者は限られる。人ごと喰った可能性があるかと問われれば、現実的にありえると俺は言う。それが奇跡的な状況下だったとしてもだ」

「そっか。ありがとじーさん」

「いや、いい。暇つぶしに多少は俺も頭を回しておこう。報告、ありがとう鷺花」

「ん。じゃ――また後で」

「おう」

 部屋を出て、すごいなと純粋に思った。それはエミリオンが最初から、本気で、不具合など発生するはずがないという確信を、己が創った刃物に対して抱いていたからだ。今の鷺花には、そこまでの自信を持つことはできない。

 朝霧との殺し合いの中でさえ、ただの一手でさえ、決定的なものを突き付けられなかった鷺花はまだ――未熟だ。

「鷺花、外へ」

「はあ? クソッタレ、強く言えば聞くような女に見えるわけ?」

「……強く言ってないし、別に断ってもいいけれど?」

「もちっと言い方があるんじゃないかって言ってんのよクソ師匠」

「内容をわかっている相手に説明するほど空しいものはない」

「はいはい……定型句テンプレートどうも」

 せっかく風呂に入ったのだけれど、予定通りのようだ。ため息を落としつつ外に出ると、そこに。

「あれ――レイン、きてたの。シンがいるのは当然だけれど」

「よお」

「タイミングをエルムに合わせられました。厳密には主人様なのでしょうけれど、私の好奇心を満たすためにはこの選択もまた、僥倖です。一年ぶりですねサギ」

「たった一年よ。ここじゃ昨日みたいなものじゃない」

「おいおい、そりゃ違うぜサギ。ガキの一年を見るのは俺も久しぶりだが、なかなかどうして、見た目だけじゃなく成長するじゃねえか」

「そうね。そして歳を重ねるごとに成長は遅遅としたものになって……」

「……」

「おい、おい待ってくれ、二人して残念そうな視線で俺を見るな。違う、そうじゃないんだ、いや違わんが」

「シンは変わりなさそうで安心したわ」

「ええ、変わらない辺りに同情もしますが」

「――で、師匠が結界の準備してるってことは、ここ一年の成果を見せろってことでしょ。相手は二人?」

「の、ようだな」

「おやサギ、不満でもあるのですか」

「いや、ここ一年同じ相手だったから、価値観が固まってなければいいんだけれどと、そんなことを思っただけよ」

 いつものように影の中から黒の戦闘衣を取り出して羽織る。流れ作業でベルトを腰と胸下で固定しようとしたが、ふと朝霧を相手にするわけじゃないと思い直して止めた。そもそもベルトを留めても裾はひらひらするし、今は内側に何かを仕込んでいるわけではない。

「ほう、サギの戦闘衣か」

「ん、ああ、そういえば見せるの初めてだっけか。恰好だけよ」

 実際には気休め程度でしかない――と思っているのだが、まだ戦闘も始まっていないのにレインもシンも真面目な表情で見ている。けれど鷺花はさして気にせず。

「師匠、その結界一人で持つの?」

「いざとなったら消失系を挟んで多重結界にするから問題はないよ。なにもジャックの専売特許じゃない」

「そういやキースレイおじさんいないの?」

「日本に行っているよ、二人でね。ジャックはすぐに別の仕事だけれど」

「じゃあマーリィに逢ってるのかな? 結界は師匠任せか……適当にやって後始末は嫌よ。シディに怒られるのはもうたくさん」

「やれやれ、僕の責任にされてはたまらないな」

「信頼はしてるけれど、信用はしてないわよ」

 遊び半分でやられてのとばっちりは御免だ。

「都鳥にでも助力を頼めれば別だけれどね――ま、たまには僕も労力を支払おう」

「都鳥は武術家だったはずではありませんか?」

「――鏡面結界の分野では魔術師と同じよ」

「おや、サギは知っていたのですか。エルムも結界の腕はなかなかのものでしょう、問題ないと思いますが」

「そうね。じゃあレインに、いざって時に師匠へ責任を押し付けてシディを納得できるだけの論理補強をお願い」

「諒解しました」

「諒解すんのかよお前は……まあいい。サギ、まずは俺とだ。やろうぜ」

「はいはい、拒否権がないのはわかってるわよ」

 ばさばさとコートの裾を揺らしながら結界の中に、シンは迂回するように逆側から内部へと入った。

「――鷺花」

 結界の準備を終えたエルムが小さく言う。

「殺さず終わらせろよ」

 はいはいわかってますとも。派手なことをすれば、結界がどうであれ後でシディに文句を言われる。かといって誰かを殺すほどの憎悪が、そんな状況が目の前にあるわけでもなし。

 己の技量と相手の技量を厳密に計算して、――後は落としどころまで持って行く。

「師匠」

 だから、小さく返した。

「観客は知らない振り?」

 クッ、とエルムが喉の奥で笑ったのを肯定として受け止めた鷺花は、あまり手の内を晒したくはないんだけれどと思いながら、ちらりとシンの様子を見つつコートのポケットに手を入れたまま周囲に術陣を展開した。

 八つの術陣はどれも同一の型。中央にある意図した空白へと違う文字が一つずつ埋め込まれていく。現役を退いて久しいとはいえ、相手は歴戦の槍使い。たかが十年しか生きていない鷺花が対抗するには――状況と、手段を利用して場を創り出すしかない。

 だが落ち着け鷺城鷺花。

 相手はあくまでも盤上の駒。

 上手く利用してやれば望み通りに動かすことも可能なはずだ。

 つまり、この場においても〝見〟が必要になる。

「――っと」

 続けて四つの術陣を展開しようとして、右手だけが外気に触れて髪へ。

 朝霧はどうにも攻撃が苦手らしく、防衛戦闘を基礎として戦闘を構築した。そのため、大抵の場合は鷺花の攻撃から戦闘が開始したため、それが癖になっているらしい。

 相手が接近戦闘を得意としているのならば。

 まずは相手の分野で行動を見たい。

 防衛ラインを設定し青薔薇に送る。自動戦闘はもう慣れたものだ。

 槍を構えたシンから放たれる強い気を受け流す。張りつめた空気に対抗してこちらも張りつめることは同調であり、同じ場に至ることになる――本来戦闘とはそういうものだが、鷺花はそれを受け流す。

 川が、岩を避けて流れるように、それはさほど難しいことではない。もちろん、流れの強さで岩ごと流されることもあるけれど。

「ふう」

 ――観客のことはとりあえず忘れよう。

 展開した術陣を消して――隠して――冷静に模索する。相手の鼓動、一挙一動、そこから派生するあらゆる行為に対して、自分がどうすべきか。

 踏み込みの意図、その鼻先を停止させるように槍の切っ先が術式に当たって行動が停止、わずかな波紋が空中に浮かぶ。

 だが二度目に、それは破られた。

 術式反応はなかった。ただ、手にした槍が変わっている。ほとんど動作もなく、槍だけが変化したように――否だ。

 変化ではない。

 ただの交換だ、と当たりをつける。

 ――槍は槍。

 そこに術式が組み込まれている様子はないけれど、明らかに違う何かが存在した。

 順次違う壁を与えていくとその交換は顕著になるものの、いつしかシンはこちらに向かってくることをやめたのか、迂回の動きを停止して禿頭に手を置くと、横目でこちらを視認した。

 おやと目を丸くすると、シンは口元を笑みの形にして。

「――来い、相棒」

「わお」

 青薔薇が最大警告を伝えて沈黙する。周囲に莫大な魔力反応――構成される術式は。

 鷺花が使う影、〝格納倉庫〟の応用術式。

 直後、結界の内部を埋め尽くす槍が具現した。

 厳密にはその数、千本。そのどれもが違う性質を持っている。曰く、その槍は岩を砕き、その槍は海を割り、その槍は風を貫き、その槍は敵を殺した。

 ただそれだけの槍たち。

 ただ、それだけのことを成し遂げた槍たち――千本が千本ともに、違う偉業を、否、偉業にはならないかもしれない、ただただ単純なことを成し遂げた槍。

「エルム」

「穂先は外部に向いていない、軋みは内部容量の増加で一時的なものだよ」

「そうではなく、今の鷺花にこの〝千本槍サウザンドデット〟が――」

「大きなお世話よ」

 鷺花は袖口から引き抜いたナイフをシンのうなじ付近に押し付けたまま、レインを睨んだ。左手がポケットから出て髪を肩の後ろへ流す。

「……参った。俺の負けだ」

「はいはい。じゃ、とっとと出てレインと交代」

 ぱきん、と硬いものが壊れる音と共にシンはようやく身動きできるようになった。攻撃の瞬間にこちらの身動きを封じた手段についてはわからないが、狙いとしてはかなり良い。何しろ古来より、攻撃時は防御が同時にできないものだから。

 それが主流だとわかっていても、防げなかったのはシンが劣っていたからだろう。それを認めるのはやぶさかではないが――。

 結界の外に出て千本槍を手元に戻すと、そこに。

 やや金属質の翼を背中に負い、白銀の甲冑を自己存在の境界線とし、両の手に刃物を持った異形が佇んでいた。

「〝影複具現魔術〟――ですか」

 ふらりと結界の内部に入ったレインが言う。それは魂魄の複写を前提とした偉業を製作する術式――ジェイ・アーク・キースレイの得意魔術の一つだ。

「なるほど、そもそもシンは視線誘導にて対象を補足の後、槍を放つ。いくら千本あろうとも、対象が魂魄の複写――つまり鷺花そのものならば手ごたえもある。けれどダメージはない。背後に回ったのは単純な〝置換〟術式でしょうね」

「……ま、ね。シンが単純で助かったわよ」

 おかげで仕込みの八割はまだ稼働していない。

「満足はしていないようですね」

「元現役の老兵を相手に?」

「――そうですか。それはそうと、私は二十日ほど前に、一つの名を戴きました」

「ん?」

「今の私はレイン・B・アンブレラ――雨と傘、そして境界線(ボーダーライン)として在る。わかりますか」

「そういうこと」

 その境界線を越える者と、越えられない者。

 世界に届く人間と、そうでない者。

 理を知る者と知らない者。

 セツも、ウィルも、エルムも、ベルも、そちら側にいる。

「つまり本気で来い、そういうことね?」

「ええ――」

「わかった」

 今まで朝霧とやってきたのは殺し合い、つまり戦闘訓練。今回はその成果を見せるための場ならば、余計なことは考えなくていい。

 ただ、成果を見せればいいだけのことだ。

 今の己ができる最大限を――。

 瞳を閉じて吐息を落とすのと同時に、大剣の拘束が弾き跳ぶ音が聞こえ、大剣が空気に触れて動き出す声色を感じながら顔を上げ、瞳を開く。

 強すぎる魔力に呼応するかのよう、その瞳は赤く――いや紅く、染まっていた。

(対象の保護を最優先設定)

(安全装置解除までコンマ八六秒)

 レインが踏み込みを行い、大剣を引き抜く動作と共に振りおろしを攻撃に代える。

(全術式の最大展開準備、終了まで十三秒)

 それを見据えたまま術式で迎え撃つ鷺花。受け止めるだけに構成したその術陣は、バターナイフのような速度で振り下ろされる大剣を間違いなく空中で停止させていた。

 その停止位置から膨大な術式反応。

(対象術式の範囲を設定、魔力の転換を完了)

(展開準備完了、安全装置解除終了、優先設定継続、――以降のすべてを両薔薇は放棄、全権を返上)

「――あ、師匠」

 続く攻撃をバックステップで回避し、一秒以下で三度も行われた追撃も躰の動きで回避しつつ、結界の隅、近くにいたエルムに呼びかける。

「どうかしたかな」

「師匠はレインと戦闘したことある?」

「ないよ」

「そう」

 ならば、仕方ないか――。

 指示を送っていなかった影複具現魔術を解除した鷺花は、両手をポケットに戻して。

「水は――ウェパード」

 それは単なる言葉。世界において意味のない、ただの仮名――だがそれは名だ。名であり鍵でもある。

 組み合わせた特定の術陣が一つの効果を発揮するための、キーワード。

 この段階になって、術陣はもう姿を見せない。

 ただ現象が、具現する。

「雷はビィフォード」

 結界の内部に発生した水は一秒足らずで内部を埋め尽くし、そこに雷が発生して荒れ狂う。それでもレインは防衛三割、攻撃七割の割合で動く――水など、邪魔にならないと言わんばかりに。

「風は、エイクネス。火はアブソリュート」

 水と火のせめぎ合いが始まった。灼熱と冷気が風によって入り交じり、邪険にするなと雷が吠える。

「地はウェドス」

 そして、喧しいと大地が唸りを上げて身じろぎする――。

「天をミカガミ、冥をジェイキル」

 結界の内部に、地水火風天冥雷が揃った。

 レインは既に防衛に回ってしまっている。いや、どうであれ全属性が一堂に介しながらも矛盾が発生せず、せめぎ合うこの状況下で平静にいられるはずがない。

 世界を構築する七則がここにあるのだ、この結界の中に小規模の世界が――否、世界そのものが凝縮されて存在していると言っても過言にはなるまい。

「あー……」

 参ったと、右手が髪を背中側へと払いのけ、視線は横のエルムへ。状況把握に努めつつも、動き回ることで致命傷を避けるレインは大剣を中心に術式も使ってはいるが、あくまでも小規模のものだ。ここで大規模術式を使おうと思っても、そもそも特定の属性が強くないがために、下手をすれば別の属性に喰われて術式そのものが発生しない。それは属性起因型の大剣の弱点とも言えよう。

 よく動いている。防御に回っているのも、攻撃へと転化するタイミングを狙っているからだ。

「おっと」

 対解術式――術式に対して解体を行う式の展開を確認し、その効果を見るがやはり意味がない。水が減れば火が、火が強まれば風が補助し、それを土が喰らう。助けるように天が創造を行えば、水が勢いを取り戻すくらいに冥属性が創造を終わりへと導き、雷が荒れる。

「師匠」

「ん?」

 この状況下、驚いている人間はいない――呆れている者はいるが。

 ただし、エルムは苦笑していた。

「あのさ……いいの?」

「僕も今迷ってる最中だ。ちなみにコレは、どの程度の範囲が?」

「山一つぶんくらいの範囲までしか試したことないわよ。面積だと……五キロ範囲くらい?」

「なるほど。彼女を――朝霧芽衣を相手に?」

「三番目も持ってたし、今ほど慎重でなかったのは確かよ。山を壊すのは禁じられていたから、ある意味で結界内部、今回と同様とも言えるけれど――お」

 空間転移術式を使って立ち止まったレインがこちらを視認する。ちなみに鷺花は、そもそもこの荒れ狂った状況そのものを、現状での結界外部と同様に捉えているため、被害は一切ない。

 そもそも――。

「いいのね?」

「こちらも強制除去の準備を進めておくよ」

 ――これは攻撃のためのものではない。

「……右よ」

 声に反応してか、いや、レインが反応してからそれは出現した。

 バックステップしたレインがいた場所の空間がごっそりと喰われて消える。それは三秒ほど、怖がるようにあらゆる属性が近づかなかったが、安全だと理解した後に再び埋まる。特定範囲内の強制分解術式――あるいは、空間を喰らうモノ。

 タイムラグはなかった。その術式は鷺花からは随分と離れた位置に出現し、その瞬間に効力を発揮している。

 この空間は。

 ――ただ、鷺花の魔術が最大効力を発揮できるように整えられた〝場所フィールド〟でしかない。

 現在、鷺花が使える術式はリスト作成しているものが八万二千三百十三。そこから派生するものも含めれば更に増えるが、およそ一戦闘で使える術式はざっと四万程度でしかない。それ以上使えば魔力の枯渇を呼応させ鷺花自身が生死をさまようことになる。

 四万――半分以下。

 その選択が致命的な可能性もある。

 しかも今回は集積陣を稼働して自己魔力の補填を行うわけにもいかない。となれば更に数は半減……いや、せいぜいが一万と少しか。

 さあ――まずは圧倒しよう。ただただ数の暴力で。

「戦術思考、三八から二一六へ。青薔薇、情報取得。経験積んで」

 一挙一動。

 僅かな揺らめきすら見逃さず、けれど動かずに己の術式が一斉にレインを追いつめる様子をただただ観察した。

「――サギ」

 その声は、エルムのものではなく。

 隣に出現して煙草を口にしたのは、セツだった。――観客だ。

「一人目の観客は顔を見せた、と。……なによ」

「レインの足元付近に展開してるお前の術式、ありゃなんだ」

 この状況で何も変わらないのかと顔を向けると、瞳の奥に何かが見てとれてぞくりと右肩付近に悪寒が走る。自然体ではいるが今のセツは、何かが違った。

 ――でも、右肩?

 左側にセツがいるけれど、位置関係だけとは思えない。熟慮は必要だろうけれど。

「あれは最終弁よ。一応、私が〝無茶〟をやらかす時に発動――」

「アレを使ったことがあんのか、てめーは」

「そりゃまあ、使ったわよ」

 いわゆる完全防御を前提とした術式だが、逆に隔離の意味合いも持っている。

「面倒なモンを起こしやがって……」

「……? なんか機嫌悪いわね」

「クソッタレが近くにいるからな。サギあいつ殺せよ」

「嫌よ。誰よ。自分でやって」

「それができりゃ苦労してねーんだよ。いや、アレを使えばどうにかなるか? いや発動までのタイムラグがあるから無理か」

「コンマ二秒よ?」

「コンマ○二秒なら、ぎりぎりってところだ。それに布陣する暇なんてねーよ」

 オレに対してもなと、あっさりとセツは切り捨てた。

「初見ならともかくもな」

「……隠してたのに」

「いや上手い隠し方だぜ? ただ、隠すって意図が見えてるからオレらにゃ無駄だ」

「無駄ね」

「ただ厄介だな……お前、思考を手放してるだろ」

「え? うん、特定の既存パターンを実行させてるだけ。この辺りはじー……エミリオンの創造術式を派生させている感じね」

「ああ、最初に構築しておいて後は実行するだけってやつか。根元を断とうにも届かねーってのが問題だな」

 そう、こうした場合の脱出法は術者である鷺花を狙うことだが、それができないようにしている。もちろん時折、ふと空白を見せて逃走経路があるように見せかけ、そこに罠を張ることも忘れていない。

「――あ、三桁突入した。レイン、持つかな」

「百台になると何が変わ……ああわかった。死ねクソッタレ、面倒だボケ」

「口が悪いわね……」

 先ほどは術式が組み合わさって攻撃をしていたが、今は地形そのものが変化して立体的な攻撃を仕掛けている。レインの周囲に水が集まり風が吹けば一気に温度が下がり、火は鷺花の周囲でわが身を守ろうと強める。コキュートスに近づこうとしたのならば、大地が氷を割って火が一気に押し寄せた。その合間にも細かい術式が点在してレインの行動を一気に狭めていく。

「場そのものを利用してる割にゃ、一手の打ち方が厭らしいなてめーは」

「通用するなら助かるわよ」

「の割にゃ詰まらなそうだ」

「……ま、朝霧にしか通用しないんじゃ話にならないけれど、それはそれで発展できるってことでしょ? さっきから、あれこれ是正はしてるけどね――ちょっと止めてよ」

「わかるか」

「術式の準備動作。常時展開型だったとしても流れが変わるものでしょ。なんでセツとやらなくっちゃいけないのよ……これ、一年の成果確認なのよね」

「オレとじゃ不服か?」

「明日動けなくなったら面倒じゃないの」

「けど、てめーの全力はレインじゃ引出せねーよ」

「いや、だから……ん? セツ、私とじゃないけどちょっと試して欲しいことがあるんだけど、いい?」

「あ? そりゃ……あー、レインじゃ駄目なのかよ」

「や、だからフォローをね」

「……しょうがねえな。こうして出てきちまった以上は、断りきれねえか」

「あんがと。――師匠、結界の範囲広げて。屋敷全体、構造物は除外して天井も高くよ。それと〝目隠しハーミット〟は万全に。まさかできないなんて言わないわよね?」

 大きく吐息を落としたエルムは、時間を少し貰うよと言って術式を展開した。初めて、明確な指向性を持って行われるエルムの魔術を間近で見た鷺花だったが、その強さには苦虫を噛み潰したような気分になる。

 何がどう、ではない。

 なにもかもが圧倒的過ぎて届かないと心が折れそうになる――。

 経験がそうさせているのか、それとも根本的に違うのか。しかし、初めてというのはどうだろう。一応は師匠の癖に。

「レイン、ちと休憩しろ」

 セツの声に気付いて状況を停止させた鷺花は、険しい表情のレインを見る。機械の躰を持っているため疲労は見てとれないし息があがっているわけではないが……。

「それと準備、しとけ。サギが試したいってな、オレもやる」

「……なるほど、そうですか」

 手を振ってセツが離れるのとほぼ同時に結界が壊れ、途端に拡大したような錯覚が訪れる。だが、結界の質が変わっただけだ。

「ちょっと師匠、時間停止系の術式でしょこれ」

「厳密には遅延だ。――僕や鷺花と同様に」

「それまだ実感ないけどね……」

「あまり物騒なことをするんじゃないよ。僕にも限界はある」

「ふうん?」

 その限界を引出してみたい、とも思ったが――思うだけ。さすがに実行はできない。

 それよりも、だ。

「青薔薇、起動」

(システムチェック、オールクリア)

「黒薔薇、未試行リストの二番目と三番目の準備――と、七割まで」

(未試行リスト二番、三番を準備。並列思考開始)

「私も参加しよっかなあ……」

「ちょっとウィル、空から降りてきて背後に出現した上で私の上にのしかか――ちょっ、重いっての! でっかいの二つも抱えやがってこんにゃろ」

「んー?」

 振りほどくと、欠伸を噛み殺しそうな退屈な顔をして、ジャケットを羽織った花ノ宮紫陽花を見て。

「――ふうん」

「その反応、兄さんに逢った?」

「まあね。似てるってのは褒め言葉?」

「どーかなあ。せっちゃんとは喧嘩ばっかだけどねえ」

「本気で参加するんだ……いいけどさ」

 ほかに観客の気配はない。少なくとも鷺花が察知可能な範囲では、だけれど。

「じゃ、せっちゃん殺しちゃってね?」

「あんたら……なに、どういう事情よ。お互いにそう思ってんなら、勝手に殺し合ってなさい」

「それができれば苦労しないんだけどねえ……ほんで、ぎっちゃんどうすんの」

「試すから、適当に――あ、基本的に私はなんもしない予定だから、こっち封殺すんのは最後ね?」

「ほいほーい」

「準備はこの程度でいいだろう。というか、この程度にして欲しいね」

「師匠……できれば、止めないで」

「――試したいのか?」

「まあね。今の私の容量で可能かどうか……たぶん、面倒が起きるだろうけど試しておきたい。コレはたぶん戦闘向きじゃないけれど、ん……直感も含め、きっと必要になる〝技術〟だから」

「いいよ、最大限のバックアップは僕がしよう」

「お願い――します」

「恐ろしいね、随分と殊勝じゃないか」

「あんたにも師匠らしいことをしてもらおうってんだから、弟子らしくしてみただけよ。さてと」

 三人に一瞥を投げてから深呼吸を一度。

(青薔薇:実行中の全権を鷺に譲渡)

 ――さてと、試してみようか。

 内部で構成していた術式が魔力と一緒にどろりと流れ落ちるような――七割から僅かに前へ進んだ準備に、まず反応したのはセツだ。

「距離をとる」

 その声はレインへ向けたもので、空間転移でかなり大きく距離をとった。そして、ほぼ同時にエルムが背後に、屋敷へと声を上げる。

「ガーネはウェルを呼べ! シディはひなたを起こして連れてこい! アクア、己の役目を意識して屋敷を管理だ!」

 判断は鷺花を阻害するものではなく、むしろフォローに回る側だ。助かると思う反面、初めて外世界に影響を見せただけで見抜いた上での判断には、嫉妬ものである。

 八割を超えた段階で、魔力の流出が本格化した。湯船に溜まった水が栓を抜いたがために、どんどん減って行く感じで、速度もかなり早い。九割になると、おいおいこれ以上減ったら自然回復が一日じゃ間に合わないんじゃね? とか心配になるほどで――そうして。

 その術式は完成する。

「――」

 脚から力が抜けて膝が曲がって地面に座り込んでしまう。額から流れる汗は決して暑さからのものではなく、高鳴る鼓動が必死に体温を繋ぎ止めようとしているのがわかっているのに、何よりも恐ろしいのは息が上がっていないことだ。むしろ呼吸困難一歩手前である。

 ――その日。

 世界中に存在している活火山の活動が一時的に停止したのは後で知ることだ。

「く……」

 ずるずると躰を引きずるように移動する先は屋敷の傍――邪魔にならない場所へと思いながらも、その動きは遅遅としたもので、手を差し伸べる人間はいない。

 それは。

 ――竜だった。

 機動性は低いだろうと想像できる短足に、丸みを帯びたような動体。首も短く、背中に生えた翼も躰を飛ばすには不十分なほど小さい。

 だがその足は、指先の爪一つが鷺花の倍ほどの大きさがあって。

 太く、躰の半分ほどまである長さの尾は屋敷を迂回するように在り。

 最大の熱気をその身に滾らせて、レインたちへ向けて空気を震わす咆哮を向けた。

 影複具現魔術の応用でもあるこれは、おそらく現実的には困難であり、論理的に可能であっても実践できる者などいないと、そう言われる類のものだ。

 竜の形にしたのは、幻想種を――神話などをベースにして単に鷺花が想像したものでしかなく、またこの竜は。

 ただただ世界に存在する火気を集めたモノでしかない。

 この停滞を強め、停止にすら思えるエルムの結界の中で、その火は生きている。

「――ウェル! 結界ごと四次元方向へ〝移植〟するのを手伝え! ひなたは停滞の強化をするんだ!」

 成功はした――が、かなり状況に左右される。己の場を形成し、世界に干渉して集めなくてはならないこと。呪術を利用することで干渉領域を広げること――これは実際、かつて実家で百眼の力を借りた行為の上位技術だ。

 もはや、これは攻撃のためのものではない。

 均衡を崩す、世界への敵対行為に近い。

 すぐに周囲の景色が消え、屋敷だけが残った。仮想空間にでもしたのか、それとも完全なブラインドを下げたのか。

 火竜――鷺花に言わせればアブソリュート、火の具現に意識はない。かといって鷺花との繋がりも薄い。ただ火の属性を集めただけ、とでも言えばいいのか、もちろん消すことは可能だけれど、おそらく鷺花の意識がある限りは消さないだろう。

 雨天の血を持つ鷺花にとって、水の方が相性は良い。それでも火を選んだのは、相性が悪そうなものでも可能なのかどうかを確かめたかったからで、それは成功した。

 後は。

 敵意を突きつけられた三人がどう対処するか、だ。


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