10/20/15:30――橘七・躊躇いと迷い
喫茶SnowLightの客層は三十代でも若い部類に入る。
巨大なスピーカーから流れる音楽を聞きながら、カウンターに背中を預けるようにしてリズムを刻んでいた
普段、つまり平日で最も忙しいのは十七時を過ぎた頃だ。これは客のほとんどが音楽を聴くために寄っており、そうなると必然的に時間に余裕を持てる仕事帰りになるからだ。多くは常連であり、やはり古い人間が多い。ラックに入った千枚近いディスクを七はまだ把握していないし、たぶんこれからもしないだろうけれど、どれも昭和の時代の古い音楽ばかりだ。
ちなみに持ち込みも可能であり、ただしほかの客からリクエストがない場合に限り、あるいはリクエストした客が許可を取れば、音楽を流すことができる。問題なのは接客に際して普段よりも大きい声を出さなくてはならず、その加減が難しいことくらいなもので、それほど音楽を嗜まない七にとっては、良い居場所になっている。
さて休日となると客層はともかくも、忙しい時間が増えるものだが、開店の九時から今まで、それほど客が来ていない。現状もテーブル席に三名ほどばらばらに座っているだけだ。
――たぶん、鷺ノ宮事件だよね。
鷺ノ宮の影響はどの企業にも痛手だったろう。そのため休日出勤をしているのだ。まだ二日、いや三日になるのか、ともかく初動が重要なはずだ――と、そこで七の思考は止まる。そもそも専門外のことであるし、今の七にとってはわからないことばかりで、考えても気落ちするだけのようで、疲れるのだ。
思ったより早く開店できそうだ、と店主の
「――機嫌が良さそうだね七くん」
「てんちょ」
カウンターの中からの声に振り向けば、珈琲が置かれる。一息つけ、とのことらしい。
「そうかなあ」
「それに、なかなか可愛らしい恰好じゃないか。俺はともかくも、もしかしたら知人でも気付かれないかもしれないね。常連さんがまだ来る時間帯ではないけれど、彼らも驚くかもしれないよ」
「これは
指先で前髪に触れるが、それ以上はしない。せっかく
「一緒に来た彼のことかな?」
「うん」
鷺ノ宮事件の日、意識を失った七は何がどうなったのかを知ることはできなかったが、極端に疲労していたのは覚えている。そのため次の日は学園にも顔を出さずにずっと陽炎の家でゆっくりしていたのだが、本当に疲労だけで体調は問題なく、翌日には普段通りに戻ったのだが、陽炎はひどく心配しており、余裕を持って学園は休むこととなり、そして休日に突入したのである。
元から行動的な七はアルバイトを理由にこうして外に出て来たのだが、陽炎は心配して一緒に来た。それでも、それ以上渋ることなく、少し用事があるからと終了時間を聞き、今日はたぶん遅く帰るからと一言おいてから行ってしまった。心配性だなと思うのは当然だが、それを嬉しく思っていることに七は気付いていない。
「メイク好きらしくって、毎日いじられるの」
「ふうん、良い腕だね。それよりも七くん、いい加減にステレオの操作を覚えないかな?」
「駄目?」
「駄目じゃあないけれど」
「手順が多いし、あんなにあるディスクとか覚えらんないよ。知ってる範囲ではちゃんとやってるよ?」
「まあ、いいのだけれどね。いつの間にか主体になっているけれど、ステレオは俺の趣味みたいなものだから」
「趣味が高じてって気もするけどなあ――お、あれ?」
「悩む前に、入り口をくぐるのはお客様だよ七くん」
「はあい。――いらっしゃいませ!」
入店した青色の派手な中国服を着て金色の髪飾りを頭の左右で揺らしている小柄な男性、
「――よォ七番目」
「ちょっと! 考えてたこと全部顔に出てるんだけど!」
「馬鹿、出してんだよ。いやマジで誰だコイツなんて思ったのも確かだぜ。――なんだァ、空いてるじゃねェかよ。休日だから一杯だけで済まそうと思ってたが、こりゃァ長居もできそうだな。おう一夜、ロイヤルミルクティだよ」
席に案内しようかとも思ったが、常連の中でも性質の悪いタイプだ。勝手に座席を決めるのはいつものことで、どうやら今日はカウンターのようである。
「蓮華先輩は出歩いていいわけ?」
「もう学園は退いたのよな、これが」
「え? じゃ無職で何してんの?」
「無職だから出歩けるんだろうがよ。だいたい俺ァ服務中じゃねェンだし、勝手にするぜ。まあ今日は店の仕込みだけだからなァ」
「店、というとリリィ・エンかな蓮華君」
「おゥよ、さすがに貯蓄がいくらあっても収入がねェッてのも体面上な、
「楽な仕事はいいけど、そっかあ。先輩、退学しちゃったんだ」
「行きたくねェッてわけじゃねェけどよ、理由がなくなッちまったのよな。俺の真似はすんなよ? 不良になるぜ」
「頼まれたってしないけどさ」
「だいたい、先輩先輩言うけど、らしいことなんかしてやったことねェよな? まァ零番目に関しちゃそうでもねェけどよ」
「あ……先輩、姉さんってさ」
「無事だよ。分家も含めて全員生きてるし後遺症はねェ。確か零番目はベルが保護してるぜ。腕と足、腹部を痛めたらしいッてのは聞いてるよ。あの女、てめェの身に関しちゃすぐ隠しやがるから、ベルが匿ったンだろうぜ。優しいことじゃねェか」
「……そっか」
「それと
「――え? 一二三が? じゃあ
「なんだ、やっぱりその辺りの情報は握ってンのかよ」
「そりゃ本家だもん、いちおーね。でもそっか……そうなっちゃったか。一二三が落ち込んでないといいけど」
「そこらへんは
「なんでそこで咲真先輩が?」
「自分で確かめろ――いや、どうせ陽炎が情報持って来るだろうし、聞けばいいのよな。ははッ、あの馬鹿も丸くなっちまいやがって……ちとケツを蹴り飛ばしてやってもいいんだけどなァ」
「げ、なにそれ。やめてよう」
「あいつは隠し事が多すぎるンだよ。てめェを優先せずに、状況を認めて退きやがる。だったら誰かが腕を引っ張ったって、蹴り飛ばしたっていいじゃねェかよ」
「お待たせ、ロイヤルミルクティだ。それと七くん、お客様だよ」
「うおっと――あれ? いらっしゃいませ!」
相変わらず良い味だと言った蓮華は、ちらりと背後の入り口に視線を投げてから苦笑する。それを見た一夜がふと、中に戻る前に口を開く。
「――安心したかな?」
「いいや、違うよ。さてどうしたもんかと考えていたのよな、これが」
「そんなものかな」
いらっしゃいませ、の声に反応した
「おい梅沢! 突っ立ってねェでこっち来いよ!」
「ん、ああ、入り口で立ち止まっていては邪魔になるか……」
吐息を落とした和幸は、呼ばれるがままにカウンターへ行くが、一つ席を空けてから腰を下ろし、珈琲を頼む。頼んでから。
「――あんたは、俺を知っているのか?」
「山の……久我山のとは知り合いだよ」
「まぁたそういうこと……事実だけど。この人は先輩だよ」
「先輩?」
「蒼凰蓮華だ。お前のことは、ま、兄貴経由じゃないにせよ、聞いてる」
「――
「おう。まあそういう縁だ。鷺ノ宮事件の初見報告に意見したのは、お前だろ」
「待ってくれ。俺は意見したんじゃない、感想を求められたから、一個人の見解を述べただけだ。決して口出ししたわけじゃない」
「そうだったか? まァそれでも、良い指摘だったと思うよ。で? 何を聴く? リクエストは入ってねェみたいだ、鳴らしてやるぜ。何がいい? 頭に浮かんだのを言えよ」
「じゃあ……At The Village Vanguard Again」
「オーケイ、グレイト・ジャズトリオだ。良いナンバーを言いやがる」
「俺が最初に聴いた曲なんだ」
いいねえ、なんて言いながら蓮華が勝手に操作をする。
「というか、店員がやるものじゃないのか、橘」
「あたしやり方知らないし、覚える気もない」
「そんなんでいいのか……」
曲が鳴り出せば、聴き入る。位置はやや悪く、正面ではないが、配置が良いお蔭でそれほど偏って聞こえるようなことはなかった。
二曲目に移れば、やや肩の力が抜ける。
「ソリッドステイトでダブルウーファーか。確かあれはA級の120Wパワーアンプだろう? とてもじゃないが、俺には手が出せない代物だな。ただ、箱のサイズ自体はそれほど大きくないようだが――店主の趣味か?」
そうだよと、一夜は頷いて珈琲を出す。
「ジャズ喫茶ではなく、俺の趣味だ」
「随分と音に厚みがある。だが低音がやや伸びるな。曲によっては……そうだな、ジャズよりもフュージョン、たぶん、あれか。クルーのムーブ辺りだと微妙なラインだろう」
「あの辺りなら聞けるよ。そういうセッティングにしてあるからね」
「さすがだ。――そういえば、レコードはないんだな?」
「興味はあるけれど、俺はレコードを聴く世代よりも若いからね」
「おゥ、梅沢はどんなシステムで鳴らしてンだよ?」
「こことは違ってシングルの十五インチに二インチのドライバーを使っている」
家にあるシステムを詳しく話すと、蓮華は目を丸くしてから軽く身を乗り出した。
「マジかよ。そいつァかなり古いシステムじゃねェか」
「譲り受けたものだ。さすがにオーバーホールもしているから、少し音は変わっているな」
「おい、おいウメ、頼む。聞かせてくれよ――今すぐでもいい。マジで。ディスクなんかここにあるの持ってきゃいいし、あー、どうよ?」
「蓮華さんもやってるのか?」
「うちは今、スーパーウーファーを試そうかッてところだよ。時間が余ってるンで自作の管球アンプも試そうかッて思ってるよ。なァどうよ」
「俺は構わないが……」
「あ、待て。でもそうだな、あー忘れてた、いかん。俺も瀬菜に聞かなきゃな」
「なんだ?」
「いやいい、ちょっと待っててくれ。連絡する」
そう言って、席を外して一度外へ出てしまった。よくわからないがと、苦笑を滲ませて珈琲を飲めば、素直に美味しいと思えた。
「あはは、蓮華先輩の奥さんのこと」
「――はあ?」
「そんなに年齢が上なのか?」
「ううん、一個上なだけ。あたしらの感覚だと、まあ、そう珍しいことじゃないんだけどね」
「そんなものか……」
まあ他人事だ、いいのだろうと思っていると、どういうわけか紫月と一緒に戻ってきた。
「かずやん」
「早かったな、久我山」
「うん、待っとった? あー七やん、うちにも珈琲ちょうだい。あと卵サンド。店長、よろしゅうなあ」
「諒解だ。ちょっと待っていてくれ」
遠慮なく、紫月は隣に座った。七はその様子を、ちらりと一瞥するだけだ。
「ふう、いやまあ、なんとかなったな」
「なったのか?」
「おゥ、問題ねェよ。そういや山のは、梅沢ンところだっけか」
「そうよー、片付け中や」
「む……そういえば、そうだったな」
「片付け? なんだそりゃ、一緒の部屋で寝りゃいいだろうがよ」
「勘弁してくれ……。久我山も蓮華さんは知っているのか」
「そうじゃのう。そこそこの知り合いじゃけん、えろう世話にもなっちょる」
「なってねェだろうよ」
「そう思うてんのは先輩だけじゃき」
「だったら――ステレオ関連のもので、処分に困っているものがある。どうだろうか蓮華さん、良かったら引き取ってくれないか?」
「おいおい、いいのかよそりゃ。マジで? 俺嬉しいよ?」
「できれば使ってくれると助かる。手放すだけならともかくも、売るとなると、どうにも、引け目があってな。どうだろう、店長も一枚噛んでくれないか?」
「待て待て、俺が先だよ。俺、俺。一夜は後だ」
「ははは、俺の方は構わないよ。簡単なリストにしてくれれば、それに目を通すから。その上で、梅沢くんが通ってくれるのなら、より一層、嬉しいね」
「ありがとう」
なんとか片付けに目星がつきそうだった。
「そういえば橘はまだ陽炎のところだろう? そのメイク、まさか自分でやったとかいうオチじゃないよな」
「さすがに自分じゃやらないよ、面倒くさいし。実家炎上しちゃったから、まだ避難中かな」
「なんやのそれ、いつか戻るみたいな言い方じゃん。七やんとはしては、どうなんじゃ」
「あたし? うーん……ちょっとさ、なんか、陽炎の好意に甘えてるなあって、思う部分もあってさ……迷ってはいるんだよねえ」
「そりゃうちやって、かずやんの好意に甘えてんは承知してるがー。けど、どうなんかずやん、その辺り」
「なにがだ?」
「したら、うち甘えてるやん」
「そうか?」
「そうよー。住居勝手に奪って、かずやんまだソファで寝てるやんか。うちは一緒でええ言うちょるが。ほんでも、追い出すに追い出せん状況、それを理由に居座ってるうちって、卑怯じゃろ?」
「うわ、紫月そういうことストレートに聞いちゃうんだ」
「うーん……甘えている、か。俺の場合、久我山がいるだけで楽をしている部分もあるんだが……」
「ほんでも、そうじゃったとしても、やっぱ負い目があるんよ。まだ――ぜんぜん話してえんこともあるし」
「ああ、隠しごとか。俺はべつにないが、うーん……いいか?」
「うん、なんでもええよ」
「どんな理由があるにせよ、都合よく俺を利用してるとして、もしそうだとすりゃ俺だって揺らぐし、まあそれがわかった時点で――というか、久我山が出て行ったあとで多少は頭に来ることがあるかもしれん。まあそんなのは、これからの状況次第で、どうなるかもわからんが……」
それこそ、紫月がいることで助かっている現在で不満はないし、頭を抱えることはあっても出て行けと突っぱねるような理由はない。
だから、これは言っておくべきなのかもしれないと思い、珈琲を一口飲んでから、紫月と視線を合わせて言う。
「同じようにどんな理由があるにせよ、久我山、お前が居座っている現状を、卑怯であれ何であれ、俺は納得して迎え入れている。それは、これからどうであれ、何があったとしても、俺が迎え入れた事実は変わらないし、それは一つの責任だ。俺はそれを蔑ろにはしない。だから……あー上手く言えないが、ともかく、お前が甘えていると思っているなら、そりゃ俺も同じだ。出て行けと俺が言うならお前が納得した時だし、だから出て行くなら俺をちゃんと納得させろ。そういうことじゃないのか?」
「……」
「……――ん? おい久我山、どうした」
「あ、うん、ええと、……ありがと。思っとったよりも、ちゃんと考えてくれてたんやな。やからうちは、その、――じゃけん、七やんも心配することあらへんよって言いたかっただけなんやけど」
「梅沢って、そゆことちゃんと考えてるんだ……」
「おい橘、俺をなんだと思ってるんだ。だいたい同級生、同じ教室とはいえ、それほど接点がない人物を家に上げてるんだ、その時にいろいろと考えたし、ただ状況に流されるだけじゃなく、どうにかしようとは思ってる。当事者だしな、本当に嫌ならとっくに久我山が寝泊まりできるような場所を探してるところだ」
「紫月、愛されてるねえ」
「いやあ……」
「そういう感情とは別なんだがな」
「――今のところはッて付け加えるべきなのよな、これが。おい梅沢、俺はどっちかってェと瀬菜を引っ張ってるけどよ、女ッてのは野郎を引っ張るもんだぜ? いつの間にか引っ張り込まれるから注意しとけよ」
「そんなものなのか……」
「おゥよ。てめェの女の期待に十割応え続けるッてのも、難しいんだぜ? まァ普段は結構尻に敷かれてンだけどよ、とりあえず許可は得た。どうよ?」
「ああ、構わない。食料品の買い出しは今日でなくとも構わない――な?」
「問題ないべさ」
「決まりだよ。――にしても山の……悪かったな」
「ん、それはええねんけど、先輩が謝るんとちゃうじゃろ。兄貴は納得済みやったけん、なあ……」
「それでも、俺ァ――何もしてやれなかったよ」
「先輩やなくたって、何もできへんかったはずや。それでええ。けんども、あの子はどうなってん……?」
「おゥ、生きてるよ。まだ前へ進めてるかどうかは知らねェけど……知りたいか?」
「生きてるなら、それでええ。恨みも何もあらへんよ、安心したわ」
その会話がどういう内容なのか、和幸は突っ込もうとせず、聞いていない振りをするため音楽に耳を傾ける。おそらく和幸にはわからないような会話をしているのだ、ならばわざわざ聞き入る必要はない。
それもまた気遣いだが、どうやら二人もそれには気付いているようだった。
「むしろ先輩には感謝しとるがー。ありがとうなあ」
「よせよ、俺が貰っていい台詞じゃねェのよな」
「相変わらず難しい人だね、先輩って」
「うるせェよ」
物事を引きずらない蓮華であっても、その結果を蔑ろにするわけではない。そして、往往にしてそうしたものは、現在進行形で続いて行くものだから。
後を引く、などという言葉があるように。
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