10/20/14:30――久我山紫月・降ってわいた遺産

 ――誰だ。いや、誰だっていい。聞け。俺は言うべきだ。

 ――すまない。成ってしまった俺は終わる。崖から落ちるように。

 ――それでも、俺は悔やんだ。だからお前は悔やむな。

 ――じゃあな。

 ――放り投げて、身近にいなくて、悪かった。

 そう、一言一句間違いなく、電話越しに聞いた兄の声を、久我山紫月くがやましづきは覚えている。

 実際、兄と一緒に暮らしていた時期は短い。いや、人生の長さを考えれば短くはないのだけれど、中学に上がる頃には既に兄は一人暮らしであったし、紫月は紫月で、母親に連れられて日本各地を出歩いていた。その頃にだって、兄は親戚に預けられることが多く、あまり移動などを好まない人なのかな、くらいは思っていたが――つまるところ、接点は少なく、けれど血の繋がりはあったのだ。

 どういう事情でそうなってしまったのかは、わからない。それはきっと、わからないままで良いのだと思う。けれど、現実として彼はいなくなってしまった。母親がいないのならば、つまり、紫月は一人になってしまったのである。その上、朧月咲真おぼろづきさくまから、家を出るように言われれば――どうしたものかと、頭を悩ますはめにもなる。

 彼女自身は悪意の欠片もなく、ただ、身を案じてのことだったのだろう。そもそも咲真の侍女めいたことをしていたのだって、生活費を稼ぐ手立ての一つというか、同居人としての据わりが良かっただけのこと。望んでやってはいたけれど、強要はされなかったけれど――ああ、こうしてその立場がなくなれば、思いのほか自分は、料理なり掃除なりを好きでやっていたんだなと思い知らされる。

 だから悩む。

 これから、どうしたものかと――いや、厳密には。

 どうしたら、これから和幸と一緒に、歩いて行けるのだろうかと。

「たいぎぃのう……」

 そもそも紫月は、あまり考え込むような性質ではない。感覚任せ、感情任せ、そういうふうに生きてきた。いわば流されるように――だけれど、そこに苦労がなかったわけではない。

 今も、そうである。

 そんなことを考えながら歩いていると、目的地に着く前に、アイウェアをした長身の女性、朧月咲真が逆側から歩いてきていた。黒色のスーツ、ともすれば男性にも見えそうないでたちだが、れっきとした女性であることなど、紫月が見間違えるはずがない。

「ふむ」

「挨拶もそこそこに、なんじゃー、腕なんぞ組みおってからに」

「いや、そう言われてみれば紫月の私服を見るなど、随分と久しいと感じていたところだとも。しかしいかんな、こうして私がわざわざ距離を縮めたことに対しての感謝と、賞賛がまだないが?」

 相変わらずだ。変わらない。それもそうだろう、まだ数日である。

「ほんで、なんか用あるんじゃろ?」

「うむ。案内してやろう、ついてくるがいい。なに、車を出しても構わなかったのだが、いかんせん、それではあまりにも早い到着になってしまうのでな」

「ふうん?」

 それならばそれで良いと、二人は並んで歩く。かつてのように、やや後ろを歩かないのは、大して意識をしていないからだ。

「もう落ち着いとるんけ?」

「こちらならば、落ち着いているというよりもむしろ、お互いの溝を埋めるべく会話を重ねているところだ。生活が落ち着くのはもう少し先だろう――何しろ、違う人間が一緒に生活をしようというのだから、波乱があって当然だ。棲み分けもある」

「当然じゃのう」

「しかし、お前がいなくなってからというものの、お茶一つ淹れられん私は、情けないと落ち込んだものだ」

「ほんじゃ、今はどうしとんの」

「覚えながら、基本的には一二三ひふみに任せている。――だが、覚えておけ紫月、私はこんなところで終わる女ではない。一日三食、きっちり作れるようになるとも。ははは、その時は悔しがるといい」

「や、ようやっちょると褒めるがー」

 事実、これまで料理なんてものに手を伸ばそうとしていなかったのだから、できるようになったのなら褒めるべきだろう。それもそうか、なんて納得している咲真も咲真だが。

「仕事はどうしちょるん?」

「気になるかね。いやなに、情報屋の真似事もそう必要のないことがわかったのでね、私は再び槍を握り、今は調整中といったところだ。存外、躰がついて来ない――なんてことは、ないのだな」

「そらそうやろ。置いただけで捨てちょらんきに」

「そんなものかね? いや、親父殿にはどやされたものだが?」

「や、そりゃそうじゃろうけんども……なんぞ、ええのん?」

「うむ。一二三も私は槍を持っていた方が良いと言うし、情報屋なんて肩書も、これはあの〈鷹の目イーグルアイ〉の下請けに過ぎん。御大と話はしたがね、それほど私の役目もあるまい。そういうお前こそどうなのだ、紫月。仕事でも見つけたかね? そちらの生活は安泰かね?」

「……わかんねーべさ。まんだ、なんとも言えんがー。いろいろと悩んじょる」

「ほう……悩むか。らしくないとは言わんとも、結構ではないか。梅沢何某なにがしとはそう繋がりもないが、相談は受け付けるとも。――受け付けるだけ、だがね」

「ええねんけど」

「しかし――問わないのかね、紫月」

「なんじゃらほい」

「桔梗のことだとも。お前の兄のことだ。問わないのかね? 私は答えよう、確かにこの私が看取ったと」

「へえ、そうじゃったんけ」

「反応が薄いな」

「文句は山ほどあるねんな、言いたいこともあるけんども――それ、全部兄貴に向かってじゃ。おらん相手にはもう向けられへん。ただなあ、あんまし知らんけっじょも、風華ふうかさんは大変じゃったろうなあ……」

 そう、文句はある。というか、紫月は怒っている。いろいろなことを、面倒なので口にする前に殴るだろうけれども、しかし、その相手がいない。母親と同じだ。好きにやって、勝手に消えて。だから、それこそが。

「寂しさなんかねえ……」

「……ふむ。であるのならば、お前はそれなりに、まっとうな人間だったということかもしれんな。む? 予報では晴れだったが、雲が出てきたな」

「雨雲や。どうせ、雨のがやってんじゃろ」

「ははは! 暁にも困ったものだ! ――ヤツの選択も、私には口を挟む権利はないがな」

「ええねんけど……したっけ、どこ向かっちょるん?」

「お前の兄、久我山桔梗が確保していた土地だ。いわば遺産とも言えよう――その譲渡を、私が請け負ってな。もっとも厳密には、私がお前を束縛した報酬と、凪ノ宮風華なぎのみやふうかの手切れ金も含まれる。無論、受け取り手は紫月だとも」

「――は? なんじゃい、そりゃ」

「いわゆる様式美と呼ばれる類のものだ。拒否はせんだろうな?」

「はあ……」

 急に言われても困る。というか、むしろ直感的に思えたのは。

「押し付けられたんとちゃうんか、それ」

「そうとも言うがね」

「なんだかなあ……」

 雨が降り出すよりも前に、野雨の外れに位置する海の近く、その山に案内され、あまり手入れもされていない山道を上っていけば、そこには開けた土地があった。ぱっと見ても、雑草が生えてはいるものの、なかなかの広さがある。

「広いのう」

「うむ、なかなか良い物件だろう。この場所は先代の久我山、つまりお前の母親が所持していた土地でもある。それを桔梗が継いだ、というわけだな。どうかね?」

「どうって、なにがじゃ」

「さすがに自宅を建築するには広すぎるとは思わんかね?」

「……何が言いたいんか、ようわからん。回りくどいぞん」

「実はこの場所、どうやら源泉があるらしい」

「ほ? そうなんけ?」

「うむ、うちの炎義えんぎが言っていたから間違いあるまい。掘るには場所を特定する必要もあるが――どうだ紫月、暇なのだろう。ここで温泉宿でも経営してみないかね?」

「ほないこと急に言うたって……」

「やる気があるならば、手配をすると言っているのだ。つまり私は温泉に入り放題になるという夢のような資格が得られると思うのだが、どうかね」

 それが目的か、と思う反面で、そういう理屈なら紫月も動きやすいだろうとの配慮がわかる。わかるくらいには、長い付き合いだ。

「先に言っておくが、建設それ自体に付随する金銭に関しては、一切気にしなくて構わない。私の蓄えではなく、お前に継がれたものを使えば何とかなる。もちろん、私自身が投資する可能性もあるが、その際はきちんと嘘なく伝えよう。場所が場所だ、客筋は選ぶ必要もあるかもしれないが――その辺りは、うむ、お前に一任したいところだが、おそらく、そうもいかんだろうな……」

「つまり、面倒な連中の宿にしちゃれ言うこっちゃろ」

「お前が拒絶しない限りは、だろうがな。資金が余るようならお前の手元に戻そう。だが、そんなものがなくとも、当面の経営に投資できるだけの金を、お前は持っているだろう。それを眠らせたままというのも、詰まらん」

「答えは早い内が良いじゃろ? しゃんねえべ、帰ってかずやんと相談してからにするけん、ええのん?」

「良かろう」

「したっけなあ、建物の図面とかも引かにゃならんのじゃろ、これ……ほいで従業員の手配なんかも。うちがどこまで、やってええもんじゃ」

「なんだ、思ったよりも前向きに検討しつつあるようだな?」

「うちが暇なんは確かじゃけんのう。したっけ、うちの手料理振る舞う場ぁとちゃうねんな。そこも含め、なかなか面白そうじゃろ。うちも――まあ、雨の御大に大小判貰ちょるさかい」

「――なに? 初耳だぞ!」

「言うちょらんかったけんのう」

「貴様、あろうことか私よりも強いという証明を持っているようなものではないかね? どうなんだその辺り、どうにも劣等感が浮かぶのだが……?」

「そら槍置いとった咲真と一緒じゃあ、うちも浮かばれんきに」

 それもそうだがと、腕を組む咲真はしかし、いささか不満げだった。

「納得はせんが、まあ良い。しかし、そうだな……どこまで手を入れたいかにもよるが、紫月は図面など引いたことはあるまい」

「そりゃ門外漢じゃきに」

「であれば、幾人かを紹介するのが筋だが……よし、手順を追おう」

 言って、携帯端末を取り出した咲真は、いくつかの操作を行うと、すぐに紫月は自分の端末に着信を受け、取り出して確認した。

「送っておいたのは登記されているデータだ、参考にするといい。仮に着手するようであれば、私に一報を入れたのち、鈴ノ宮に顔を出したまえ」

「清音さんところけ」

「うむ。厳密には清音に渡してある部分なのでね」

「はあ……よいよ、たいぎいのう。たこってけーとも言わんども」

「こら、ネイティブになるな。わからん」

「あーすまんのう。ともかく、ようけ考えてすぐ答え出すきに」

「前向きに検討したまえ。この土地を遊ばせておくのも忍びない。なあに、経営が面倒になったのならば、愛の巣にしてしまえば良いだろう」

「それも含みで考えておくさー」

「それでいい。さて、早いが戻ろうか、紫月。これから予定はあるのかね?」

「うちはかずやんと合流するきに。一緒するべ?」

「いや、私は私でほかに予定があるのでな」

 だとすれば、紫月をここへ案内するためだけに出てきたようなものだ。それは実際、この偉そうな女としては珍しくもないことで。

 それを知るだけの付き合いはあったんだなあと、紫月は思う。

 まったく。

 何も知らなかった兄とは、大違いだ。


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