05/24/14:30――鏡華花・喫茶店の少年

 背もたれに体重を預けながら店内を見渡すと、壁際の奥に当たる席に小学生らしき見た目の三人が何かを話している。見た目だけだ、雰囲気や気配が違うくらい華花にも直感でわかる――今までならば、いや今もだが、いるのはわかっても決して関わろうと思わない人種だ。

 カウンター席にはウエイトレスと会話をしている女性が一人。こちらはオフィスレディなのか、落ち着いたスーツを着ている。

 そして、つい先ほどまで瀬菜が座っていた位置に、少年はいた。

 ハーフパンツにパーカー、髪は短く切れ長の瞳は強い意思と共に睨むようこちらを見ていて、しかし口元の笑みが全体の雰囲気を後押しするよう柔らかくしている。

 彼は、少年だった。以上も以下もなく、そして華花もまた――少年だと思っている。

「決めたのかい?」

 少年の声に意識が向く。相変わらずの少年は、相変わらず言葉を重ねた。

「君にとっての決定は選び取るものかい? それともただ決めるだけだと考えているのかな。何事にも選択は必要だ、ゆえに発生するのを選択肢と呼ぶ。けれどね、この選択肢はあくまでも君が認識できるものでしかない。他者にとってはべつの道があるかもしれないね。いいかい? 選択をするとは、どういう行為かわかるかな」

「選んで決める、でしょう?」

「違うぜ、それは違うんだ。いや正しいよ、まったくその通りだと言わざるを得ない――選んで決めることだ、なるほど現実的だよ。君の行為には疑問を挟む余地がない、実に自然な行為だ――が、しかし、僕に言わせれば決めた一つ以外を捨てる行為にしか見えないぜ」

「でも二つは選べないよ」

「君は二つも選びたいのかい?」

「あたしの話じゃないでしょ」

「いいや、徹頭徹尾、一部始終、君の話だよ。間違いなくね。しかし、君がいくら望んだところで選択とは曰く、ただ一つを残して全ては捨てられるものだよ。どの契機、どのタイミングかはさておき、少なくとも君が右足を出したのならば左足を出すという選択は失われる。だからこそ問うたんだよ、君は二つも選びたかったのかと」

「今のあたしに不満はないよ」

「不満はなくても心残りや可能性を模索する行為が人には赦されているさ。もしこうだったら? 不満はない、しかしそれは満足とは別物だぜ。そして満ち足りるとは、足りなかった過去があってこその状況であり、そして次にはまた足りなくなる要素でもある。問いを返すぜ、君は選択に不満があるかい?」

「選び取ったものを後悔するなんてのは、選べなかった時だけだから」

「他を捨てたことを後悔しないのは、捨てなかった時だけかい? ――なるほどね、捨てたくないからこそ一つを胸に抱く、それもまた一つの行動原理かもしれないね。だったら君は、一体何を選んだんだろうね?」

「それは――」

「違うな、そうじゃない。僕は最初に問うたよ、君に、決めたのかい、とね」

「――うん、決めたよ」

「何をだい?」少年は苦笑にも似た笑みを浮かべる。「選び取ることを決めたのかい? 捨てることを決めたのかい。それとも、選択しようと決めたのかな? 踏み出すことは決定じゃないぜ、それは決定しようという意思の表れだ。では君は何を決めたんだろうか。感情から発生するものかい? それとも理屈で決めたんだろうか。そして、本当に決めてよかったのかい?」

 意地悪だと、華花は率直に思う。かつてここではないどこかで出逢った頃と同様に。

「四年前だ、僕はアレに対して問うた。選択すれば他を全て捨てることだと、君は一体何を決めたんだと――つまり、君に向けたようなものと同じようなものさ。アレは言ったよ、何を馬鹿なことを言ってるんだ――そんな顔をしてね」

 少年は言う。

「だから、どうしたんだ?」

「選択に正解なんてありゃしねェよ、最善も最悪も恣意が絡めばどうとでもならァな。選びてェなら選べよ、一つでも二つでも三つでも」

「一つしか選べない? だったら捨てた選択肢を寄せ集めて次の選択に持ってこいよ。選びたかった二つ目を、ただ一つとして選べばいい」

「決めるごとに責任は増える? そりゃそうだ、前を向いて歩くだけで責任なんてもんは増え続けるよ。けどな、俺は歩くたびに責任を果たしてる」

「背負い込めば潰れるだけよ。一度潰れりゃァ己の許容量もわかるよなァ。そして責任は積み重なるが、果たすもんだ。――てめェ、まさか決定に理由が必要だと思ってンのか?」

「必要なのは理由じゃねェよ、責任を果たせない状況に陥った時の覚悟だ。それを責任ッつーんだけどな。理由はただ付随するだけなのよな、これが」

 もの凄く誰だかわかったが、華花はあえて黙って聞いた。その上で少年は問う。

「いいかい? もったいぶってアレはそう言ったけれどね、結局のところそれらはアレの理由なんだよ。全てが、その説明の全てが選択することの理由なんだ。アレはだからこそ、どの選択に対しても同じ心意気で、同じ理由で選び取るだろうね。そして、捨てたのをかき集めてもう一度選択しようとすら、まあするんだろうぜ。けれど君は違う、そうだろう?」

「同じ人間なんていないじゃん」

「その通りだ。だからこそ僕は君に問うたんだぜ? 決めたのかい、とね」

「うん」

 華花は言う。

「あたしは涼のとこに行くよ」

「近く死ぬ相手に、一体何をするっていうのか訊きたいね。いや、それとも僕の知っている同じような人物のたとえでも知りたいかい? ならば僕は両手を上げて参ったと言うほかないね。彼女と僕の関係を話すと文字通り日が暮れてしまう。何度もね。それほどまでに……いや、やめておくよ。君の物語とは関係が、そうだね、まったくとは言わないけれど、ないに等しい」

「うん、そうだね。そこをどうしたいのか、あたしは考えてたんだ」

「では訊こうか。どうするんだい?」

「傍にいる。見届けて、それから――生きていた証を、もらうつもり」

「いいかい?」

「うん、これは私の意志でしかないよ」

「……やれやれ、まだ何を問うかを言っていないのに的確な返答ができる辺り、なるほどね、君は僕の好奇心を刺激してくれるよまったく。けれど君は、それを通すと云うんだね? 君は、彼の影響を後世に残すと」

「うん」

「いいのかい?」

 今度は返答がない。つまり、何を問われたのかがわからないのだろう。

 ゆえに少年は続ける。

「これまでの彼は今の己を終えるつもりだった。これからどう転ぶかは知らないけれど、後世に影響が残る時点においては、君は一人だ。いいかい? アレが言ったように責任は果たすものだ。そして負うものでもある。君がそれを負った時は二人だろう。けれど果たす時には一人になる――そういう可能性がないと、言い切れるかい?」

「一人じゃないよ」

「一人だね。誰だって、どこにいても、他人と居ても一人さ。そして、――独りでいることはできない。できる人間はいないんだよ、決して人は独りで生きていられない。だから」

 だから、本当の意味で孤独を生きられる者は、人ではなく――鬼、だ。

「君だってさっきの会話でわかっただろう? 彼女たちもまた、支えあうだなんて幻想に取り付かれてはいないんだ。ただ、一人と一人が二人になるのだと知っているだけだぜ。だから君は、ずっと一人だよ」

「じゃあ一人のあたしと約束でもしようか?」

「約束は、しない主義だ」

 言った少年は少し黙してから、昔を思い出して苦笑とともに首を振った。

「いや訂正しよう。僕は約束をするし、しているし、守っている。けれど僕は彼女以外との約束はしないと、一方的だったけれど彼女と約束してしまっていてね、だからこそ約束はしない――ああ」

 そうだとも。

 約束と呼ばれるものが、常に一方的だったとしても、だ。

 受け取らないし、渡そうとしない。

「約束は己の中で結ぶものだ。君がそうしたいのなら、口に出さずに勝手にすればいいさ。僕は、ああ、そうだね、僕の中の約束は彼女とのもので一杯だ。ほかの人と交わすものは何一つとして存在しないし、させないよ」

「それは、もういない人と?」

「はは、事前知識があるのかと褒めてやるべき状況だけれど、君の場合は察したに過ぎないね。だがその通りだ。彼女は、もう、いない。面倒ごとを僕に押し付けて先に退場してしまったよ。その退場は必然だった」

「――その人は、死の側から今を見ていた?」

「むしろ己の死期を早める行為もしたさ。陳腐な物言いをすれば――彼女は世界を守ったんだよ。まあ厳密には、世界の終わりを先延ばしにした、かな。言うなれば今の時間もまた、彼女が作った時間だ。己の命を犠牲にして、と言うと語弊があるね。何しろ彼女は」

 己の命すらも、他人に譲渡したのだからと続けようとした少年は、奥の席に一瞥を投げて肩を竦めた。懐から取り出すのは風貌には似合わない煙草にオイルライターだ。

「いいかい? 君たちらしく言うのなら裏側、だ。裏社会で生きる人間の悉く……いや、そうじゃないな。一握りの、本当の意味での裏側を知っていて生きる者たちの全ては、常に死の側から今を見ている。君にとって、今日から続き明日があるだろう?」

「……うん、そうだね」

「けれど彼は、そうは言わなかったはずだぜ。そして、それは僕たちにとって当然のことだ」

 そうだ、涼は言ったはずだ。

「日常とは、昨日から続いた今日……?」

「それが意味するところはわかるだろう? 僕たちにとっては、昨日から続いた今日しかないんだ。今日を終えれば明日がくるなんて夢物語を僕たちは信じない。立って歩いている今があればいいし――それは、明日なんて約束されたものじゃないと云う意味だ」

「明日、死んでもおかしくはないってこと……?」

「まあ、そうかな、そういう受け取り方で間違いじゃないだろう。現実はもっと酷いけれどね。たとえばあっちにいる子供なんかは、五分後に自分が死んでも構わない生き方しかしていない。もっとも殺されて死ぬような連中じゃあないけれどね、こればかりは心構えの問題だ。死の側から見る、なんてのは有り触れている。そういう意味では君の選んだ彼なんかは、死期が明確じゃあないからね。いつか訪れる、それはそうだ誰だって同じだよ。交通事故は少なくなったけれど、通りものに当たるなんてのは日常茶飯事なんだからさ」

 むしろ。

「君がその視点から見ていない方が、僕たちからすれば苦笑ものだね。境界線を越えていないのなら、まずはそれを考えるべきだ。果たして踏み越えるべきかどうか、とね」

「境界線は越えない」

「越えられない、と言い換えるつもりはないのかい?」

「越える必要がないと言った方がよかったね」

「人の在り方もまた千差万別だ。君がそれを選ぶのならば、止める権利は誰も持たない。けれど考えた方が良いよ――五分後に死んでも構わない生き方には二種類ある。己が失っても己が居るのと同様の成果を、そうでなくとも後に継ぐ者がいる場合がひとつ。そしてもうひとつは、己が失われても変わらない状況を作ることだ。彼はどちらだろうか、そしてどちらでもない場合もある」

「諦観――」

「そう、諦めだ。それは放棄でもある――つまり、己が死んでも構わない。その後のことなど気にしない。先の話にもあったけれどね、満足さ。僕が言った二種類には、自己満足に似た確固たる意思が存在している。満足して、それを認め、五分後に死んでも構わないと云う――けれど、諦めは違う。どうともならないと嘆くだけの行為でしかない」

「それは」

「そして、だよ。諦観を抱いた人間を更正させることは労力を伴うし、合理的ではないね。なぜならば染み付いてしまっているからさ――諦めが、だ。往往にして諦観を抱く者は己で己を殺す。君もそこに気づいたんじゃないかい? だからこそ長生きしてる者は少ないんだけれどね。己を殺すのだから、他人に殺される可能性も引き寄せるのが世の常だから。ま、君の関心がある彼は立場上、こちら側とも云えないからね」

「じゃあどこにいるの?」

「言ったろう? 一人だよ。属することはないさ。立っている場所が違うだけだよ。どこかにはいるぜ、ただ僕たちの居場所とは違うってだけだ。そんな単純なことを問う前に、足元を見るべきだね」

 足元ねえと、頬杖をついた華花は少年のペースから一旦退き、会話に系統していた疑問を切り離す。

「……あれ? あのさ、あたしが決めることってそんなに重要なの?」

「それは彼にとってかい? 君にとってかな。それとも物語にとってかい?」

「えーっと、うんそうだね、君にとってだね」

「僕にとって? どうでもいいよ。心底から、君が決めようが決めまいが、その決定がどんなものだろうか僕はどうでもいいし、それこそ関係ないさ。それを言うなら、僕に関係するものの方が今は少ない。特に人に関する部分で、僕は徹底的に影響を受けないよう心がけているからだ」

「じゃ、なんであたしと? 確か……あたしが涼と出会って曖昧になるのを前後にして話をしたよね。ここを根城にしてるのは初めて知ったけど」

「それもさっき言ったはずだぜ、君は僕の好奇心を刺激してくれる、と。僕が君とこうして会話を楽しんでいるのは、ただその一点があるからだ。つまり、興味を持っている。君の選択に、いや、君の往く道にだ。そして――いいかい? だからこそ、君への興味を失った時に僕はあっさりと君の前から消えてなくなるだろう。いつか逢えるなどと思わないほどに、悉く関係を断ち切るぜ」

「できるの?」

「できないと思う理由が知りたいね」

「縁を切っても、縒りを戻すなんて言葉があるように、一度できた縁は繋がりやすいから」

「けれど、それはできない理由には足りないぜ。その前提があるのなら、切れた縁が繋がらない道理が存在すると考えた場合の否定材料にはなりえない。だからこそ断言しておこうか? 僕もまた昨日から続いた今日を生きる側に限りなく近しい存在だ、明日のことなんてわからな……いや、明日のことなど知ったことではない。その上で返答を聞こう、君は果たして、僕と会話をすることが重要なのかい?」

「そっちから話を振っておいてそれ?」

「問いをしたのは君だぜ」

「そっちからじゃん」

「どっちからでも同じさ。君は僕に対して、何故己と問うたんだ。それと同様の問いを僕が返したのにも関わらず、そこに答えがないだなんて云うのかい?」

「面白いとは思うよ」

「とは、思うのかい? そこはかとなく取り繕った言葉に聞こえるぜ」

「取り繕ったの。だって君、もの凄く意地悪じゃん」

 どこかで笑い声が上がった。音楽の隙間を縫うようにして発生したそれが、どこからのものか華花はわからない。ただ直感は、この店にいるほとんどが笑ったのだと教えてくれた。

「あれ、もしかしてあたしを笑ったの?」

「さてね。お互いに、かもしれないぜ。少なくとも僕は笑わなかったし、君も笑わなかった。そうだろう?」

 けれどその顔に呆れにも似た、拗ねた表情が浮かんでいるのは、気のせいではあるまい。

「意地が悪い、ね。僕に対する評価としては聞きなれているけれど、大半は笑う。まあ連中と同じさ。ただ僕は、どうしたって笑えないんだ。いや僕たちは、か――これが仮初であることを自覚している。けれど、……いや、関係のない話だな。それで? 君はいつまでそこに座っているんだい?」

「君こそ、いつまで座ってるつもりかな」

「ふうん――僕が席を立てば、君は席を立つのかい?」

「あたしが席を立ったら君はどうするの?」

「つまり、僕の動向が気になるってわけか」

「じゃあ、あたしの動向を気にしてるんだ」

「最初からそう言っているはずだぜ」

「……あー、あたし、べつに言ってなかったっけ」

 手法を真似たが、年季が違うと証明された。問いに対する問いは可能だったが、肯定に対する肯定ができない。

「責任は果たすよ」

 立ち上がった華花は言い、だからと続ける。

「だから、果たせないようなら――忘れているようなら、容赦なく取り立てにきてくれるとありがたいね」

「約束はしないと、そう言ったはずだぜ。けれど今の言葉はここにいる誰かも聞いているさ。僕が、ではなく誰かがきっと取り立てに行くだろう。あるいはその役目は、縁を合わせたアレが既に責任として負っているかもしれないけれどね」

「――え?」

「いいかい? 他人を責任を奪うことはできない、これも一つの真理だ。君は君のまま足を踏み出せばいいさ。そうすれば僕の好奇心もそれなりに満ちるだろうし、ね。まあ、そうだね、行ってくるといい。その」

 煙草を消し、口元を笑みに浮かべて少年は言う。

「行けばいい。その鏡界線の向こう側に、ね」


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