06/04/21:20――鏡華花・もう一度、向こう側
もう、鏡の向こう側を幻視などしない。
真正面から鏡を見ても恐れず、そして何よりも理解していた。幼少の頃から鏡を見せられなかったのは、きっと、今のように映される己の中にあるキョウを正しく認識するためだ。
鏡の前に立つ自分と、鏡の向こう側からこちらを見る自分。そして、己のキョウと鏡で合わさったもう一人の自分は、幻想ではなく確実にここにいる。微妙も絶妙も奇妙もなく、純然たる事実として三角関係の一図を認識し、ゆえに触れるのは鏡の表面ではなく、キョウと重ねあった一点だ。
こちら側と向こう側――彼岸と此岸。
否だ、向こう側は此岸になど繋がっていない。そもそも彼女は、此岸を体験したのだから、間違うはずがないだろう。
本物などない、とかつての己を否定する。
虚実などそこにはない。あるのは――本物と呼ばれる、本当の意味での現実だけだ。
だから。
「――だから、嬉しいって? そうじゃないよね」
感情はあまり関係がない。ただ、巻き込まれたのか己で進んだのかがかつてと違うだけだ。
破壊の音が近づいてくる。
本能が警告する絶対的な破壊――死が、今まさに爪を突き立てようと迫っている。
わかる。
わかった。
わかっている。
殺されれば、死ぬ。到達すれば死ぬ――そもそも、鏡華花には対抗策がないのだから。
「直感は、外れない。どうして?」
それは疑問を持つ余地さえ持たない、概念と呼ばれるものであると華花は知らない。だからその問いも戯れで、返答がないのを前提とし、だからこそ苦笑がもれる。
いや。
「ふふ……」
それは苦笑ではなく、微笑みだ。
足が竦んだのはかつてで、今はない。けれどそれは諦めなどではない――華花は、現状を受け入れ、直感を除いたところでこの結末を認めている。
そこに直感の後押しがある。
死は、怖い。それは誰かが言った交通事故のように、突然の死を華花は恐怖した。
何もないままに失われる命に、怖いと思えたのだ。それが己に降りかかればなおさら恐怖は倍加する。
けれど、でも。
それが己の足で踏み出した死地ならば、べつだ。
「覚悟なのかなあ……」
違うように思う。けれどアレのように、蒼凰蓮華のように何が違うかは説明できない。
何かがいた。そう、形容しがたい何かだ。
時折見えていた鏡に映し出される、決して見るべきではない見えないもの――それが実体化したような、曖昧な――奇妙なものがそこにいた。
獣なのだろうか。四足で大地を破壊しながらも存在するその姿は確かに獣なのだろう。彼女の背丈の三倍もある巨大さを度外視して、姿すら揺らぎ固定化されぬ曖昧さを除外したのならばきっと、それは獣なのだ。
けれど、かつてのものとは違う。
かつてのものは巨大な、身の丈に等しい爪を持っていたのにも関わらず、この獣は無数の牙を具現させている。
――爪型の妖魔の初撃を回避したんだ、見事なもんだぜ。
誰かの言葉を思い出し、ああと頷いた。曖昧なものが本体で、特性としてこれは牙をもっているのだ。人を食らうために、牙を具現させている――あるいはそれを、本質と呼べばいいのか。
「やっぱ、あたしには敵わないなあ」
「――何をしている」
――その声は、突風と共に耳に届いた。
冷たい風だ。季節に順じた気温とは違う、槍のように鋭く冷気をまとった風だ――けれど、でも。
でも彼は。
風と共に袴の裾が揺れ、小さな背中が彼女と獣との間を遮る――白い、澄んだ白色の袴装束の腰には二本の小太刀。まるで裾に描かれた奇妙な紋様のように、二振り。
引き抜かれた刀身の輝きの、なんと美しいことか。
その声色の、なんと鋭いことか。
存在の、なんて軽いことか。
舞うような動きに閃く銀光の眩しさに目を細めるほどに、その光景は幻想的でかつ現実味を強く主張してここに在る。
それは。
獣が死そのものだとしたら――彼は、生の体現者だった。
間違いない。
彼は今ここで生きていて、死に直面した華花を助けようとしてくれる。
あの時も、そうだったではないか。
それが生き様であったとしても、彼は、理不尽に死へ誘われる人間を見捨てなどしない。
ぱちんと響く鍔鳴りが一つ。二つの小太刀が同時に納められ彼が振り向くのとほぼ同時に、獣は音も立てずに霧散した。
あれだけ凶悪な死に対して行った行動の少なさと、その効果的なまでの態度が習慣と直結し、ああ彼は獣の敵だったのだと認識できる。
細い体躯に秘められた強さ、視線を合わせて来る誠実さ――その瞳から溢れる強烈な意志。
それと、呆れにも似た吐息――だから、思わず華花は顔をほころばせた。
「学習能力がないのか?」
「何をしているか、本当にわからない?」
問いに対して問いを返す、本来ならば避けて当然のことも、あえて華花は都鳥涼に対して使った。それは意地悪ではなく、ただ本題に入りたかっただけのことで――それと。
涼の気持ちを知りたかったから。
「悪いが俺は予想も予測もできるだけ口にしないよう心がけている」
「うん、それは知ってる……というか、なんとなく。まあ実際のところ、逢いにきたんだよ」
「こんな方法をとらずとも、他にあっただろう」
「初対面の状況を彷彿とさせられて、あの時と違うものが浮き彫りになると思わない?」
「その通りだが、危険だろう。その辺りは俺が伝えたはずだが、伝えきれていなかったか」
「ううん、伝わってたよ。でも――涼がいるのに、危険なんてないよ?」
「俺が間に合わなかったらどうする」
「間に合うと思っていたし、間に合った。それでもって仮定で言うなら、べつにそれで構わなかったよ。――あたしが踏み出した先に死があるのなら、仕方ないじゃん」
「己の命を、仕方ないで諦め――……すまん」
失言だったと、肩から力を抜いた涼は頭を軽く下げる。それはまるで項垂れるようでもあった。
「いいよ。あたしもま、いろいろ考えて納得したから」
「……そうか」
「あれ、残念そう」
「俺は――……いや」
「言ってよ、いいから。聞きたい」
頭を振ってやめようとしたが、しかし涼は思い直したように視線を一度下に向け、華花を見た。
目が合う。
綺麗な瞳――いや、キョウだと思う。
「俺も、考えた。その上で華花、お前には――納得など、してもらいたくはなかった。聞き流してくれ、これは俺の希望でしかない」
「――」
気づいていない。
涼はまだ、わかっていない。
けれどそれは華花の肯定であり、決して否定ではなかった。
「ごめんって言うと、変かな」
「ああ、謝罪は俺がすべきだろう」
「いらないよ。でもね、納得はしたけど――あたしはね? あたしは、涼が居たことを忘れないよ。少なくともれんくんやあかくん、さっちゃんは忘れないと思う」
「俺が何も残さなくても、か?」
「もう残ってるよ。影響と、縁が残ってる。いつか居なくなるってわかっていても――人はさ、今を生きてるんだから。でもね、だからあたしも、涼の生きていた証を残そうかなって決めたんだ」
「……? どういう意味だ」
「そのままの意味。あたしは鏡家で、ちゃんと特性を持ってるんでしょ? 昔の風習なんて関係なく、あたしは涼に惚れようと思う」
「……考え直した方がいい」
「うん、何度も考え直した上での結果だよ? これから先なにが起きるのかなんて知らないし、知りたくない。でも何が起きても、あたしは涼の近くにいようって決めたんだ。どうしてって、それをあたしが望むからだね」
だから。
右手を出す。
「都鳥涼、あたしは貴方が好きです。幸せも愛も別にいらないから傍にいさせて下さい」
「……」
涼はその右手を見て、それから華花を見て、腕を組む。
「今ここでその返答はできない。俺はまだ未熟だ」
「いいよ。未熟でいい。今の涼を好きになったから、いつかの涼も好きになれるに決まってる。というかあたしがそう決めた」
「揺るがないのか」
「そりゃもう、今までずっとぐらぐら揺れてたもん」
けれど、それでも涼は。
「俺は、ここで返答できない。――だがそれでも」
それでも死に対して半ば諦めた己の傍にいようとするのならば。
「それでも良ければ少し、俺に付き合ってみてくれ。……華花のような跳ね返りを放置しておくのも、どうやら俺の心配事を増やすだけになりそうだ」
涼は、その右手を取った。
「存外に強引だな」
「や、だって強引じゃないと涼は頷かないでしょ?」
「まだ頷いてはいない。それに、師範にも話を通さなければな……」
「あ、未熟ってそゆことも含まれるんだ」
「当然だ。俺はまだ師事している身だからな。実家は三重の射手市だ」
「いつ戻る?」
「俺の予定に合わせるのか?」
「とりあえずは、そうかな。でもずっと合わせるつもりはないし、正直なところ妖魔はもう懲りた。二度とこんなことはしません」
「そうしてくれ。俺を胃潰瘍にしたくなければなお更だ」
「ストレスに弱そうには見えないなあ」
「……まあ、内臓も鍛えてはいるが、心労はなかなか厄介でな」
それもそうかと華花は笑う。
「そうだな、まだ夕刻だから実家に戻ろう。なに、公共交通機関のある場所だ、いつでも帰れるから安心しろ」
「ううん、もう帰らない。ここへはくるだけ――あたしの帰る場所は涼のとこって決めたから」
「――ふむ、決めごとばかりだな」
「意識できるかどうかはべつにして、人はいつも決めてばかりだよ」
「……雰囲気が少し、変わったか? いや待て、何故腕に抱きつく。やめろ、人に触れられるのには慣れていない」
「いろいろあったからね。これから慣れていこう」
まずは涼とであった後のことから話そうと思う。あちらこちらに振り回されてたどり着いた今までの経路を。
きっと涼は渋面し、華花を取り巻く状況にどうしようもなく肩を落とすだろうけれど、それはそれで楽しみだ。
華花はまだ一人だ。いや、ずっと一人かもしれない。そして涼もまた、一人だろう。
けれど一人ずつじゃないと、思う。
今だけは二人だ。
昨日から続いた今日が二人ならば、今この時は間違いなく二人で居られている――ならば。
この優しい風に乗って届いた甘い香りに、今は酔ってもいいだろう。
「ね、涼は今どんな気持ち?」
「不安だ。己の居場所に他人が這入りこんできたのだから」
「へえ、それは嬉しいね」
「そうなのか?」
「うん。だって少なくとも、不安って気持ちはあたしへ向けられたものだからね」
梅雨明けはまだ遠く。
こうして一つの物語は始まろうとしていた。
多くの物語を生み出しながら。
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