05/22/17:50――鏡華花・鏡とキョウの迎合

 鏡の向こう側を幻視した。

 思い出の中の自分はじっと銅鏡を見つめている。まだ健在だった祖母は店主と会話をしながらこちらを見ていて、けれど華花はそれに気付かずただ、少し曇った銅鏡の表面を――その奥を、声をかけられて帰る時までずっと見ていた。

 何を思って見ていたのだろうか。

 鏡を前にして立つ自分と、鏡の向こう側からこちらを見る自分を、そんな光景を俯瞰するもう一人の自分を幻想して、微妙かつ絶妙な三角関係の一図を抱きながら、そっと手を伸ばして鏡と自分との接点を一つ取って。

 ――忘れ物があるぜ。

 そうだ。何かが欠落していると思う。何かが繋がらない、何かを忘れている。

 向こう側と、こちら側。

 彼岸と此岸。

 ――鏡界線の向こう側にある。

 分断された鏡界線に手を触れて、何故と思う。

 どうして、そんな大事なものを忘れてきてしまったのだろうかと。

 眼球によって取り込まれる世界はあまりにも欠損している。正しくは瞳から得られた情報が脳内に蓄積される段階に於いて、常識と呼ばれる一定の規則に取り込まれ是正されるため、其の常識と呼ばれるものが曖昧模糊とされる物だから。

 だから。

 ――取り戻してみろよ。

 自分の手で、それを行ってみせる。それができるのだと、見知らないのにどこか覚えのある少年は言ったのだから。

 でも、どうやって?

 否だ、そもそも考えること自体が間違いだ。最初から華花に物事を考える、などといった行為は無縁だった。だからいくら考えても答えに至るはずがない。

 行こう、と思う。

「行こう」

 口にしてみればわかる。そうだ、ただそれだけで良かった。考えるまでもない、やりたいことを口にして、それを行えば済む。

 そうして、今まで生きてきた。

 ――キョウの中に入るわけではありませんよ。

 厳しかった祖母は、かつてそんなふうに言った。

 どうして、そんなことを忘れていたのだろうか。

 ――鏡一族がキョウを見るのは、己のキョウを覗くため。幻視はあくまでも幻、現実はここに在るものでないものと心得なさい。

 ――現実とは視るものです。貴女の目を通して見えたものは現実になる。そして、その現実はキョウの向こう側でいつも行われているもの。そこにも日常はあります。

 ――ただし、境界線を越えてはなりません。踏み越えるのはとても危険です。けれど鏡界線は常に、己の中とキョウの表面にあります。向こう側へ行くことも、あるでしょう。

 ――華花、一度向こう側に行けば次も行けてしまいます。それは己の異常性を際立てるでしょう。独りのときに行うのはお止めなさい。信頼できる者がいる時に、貴女が決めたその時に、これらの言葉を思い出してくれれば幸いです。

 ――華花。

 ――……アンタは本当、考えることが苦手ねェ。いいサ、考えなくッてもすぐにわかるよ。ただねェ、嫌がるだろうねェあの人はサ。

 あの人とは、誰だっただろうか。いや――そもそも、本当にこんな会話をしたのだろうか。

 ――どっちだって同じだねェ。アンタ、取り戻すンだろう? けどねアンタ、それはもうアンタの内側にあるよ。深く考える必要なんかありゃしないサ。

 ――アンタにとってキョウは何だい?

 そうだ、そんな台詞をいつも訊かれていたように思う。

 ――いつか答えが出るといいねェ。

 うん、そうだね。

 奇妙な回想から抜け出た華花は、冷静に己の状態を把握する。視界に映るのは手にした鏡、そして鏡を持つ自分、そして鏡に映った己。

 全部が鏡だと、華花は思った。

「華花お嬢ちゃん」

「……あれ、けーおじさん。ん? んん?」

 無意識に左手が銅鏡の表面を撫でる。そうしながらも周囲を見渡し、ちょっと待ってと言いながら首をかしげ、前後関係を繋げるための整理を行う。

「おー、さっちゃんの実家ってここかあ」

「嬢ちゃん、あのね、鏡を手にしてもう結構な時間が経つんだよ。話しかけても反応しないし」

「あはは、うん、お騒がせ。ご無沙汰ですけーおじさん」

「ああ久しいね。――やれやれだ」

 少し渋い顔をした啓造は、参る話だなと言いながら顎を軽く撫でた。

「――あ、もしかしてお婆様に似てるとか思ってんでしょ。失礼な」

「みずさんには随分と世話になったからね。それにどうやら、キョウが鍵になっていたようだ。見てすぐに歯車が合っていないとはわかったが、自力で戻すとは思わなかったな」

「……そういえば戻ってるね」

「思い出したか」

「うん。あー気が重いなあ。ここ数日で随分と迷惑かけちゃった」

「お嬢ちゃんが悪い」

「んー、それはわかってるけど踏んだり蹴ったりじゃん。鏡の向こう側に紛れ込むなんて思ってもいなかったし」

「その辺りは想像するしかないね。少なくとも俺は起因を作るだけの役目だ。ただその銅鏡は嬉しがっているようだよ」

「へええ、けーおじさんってそんなことわかるんだ」

「これでも店主だ。その銅鏡は本来、水に沈めて使うものでね。良かったら帰りに持って行きなさい。それを彼女も望んでいる」

「それは後で。――さっちゃんどこ? あと水の人」

「上がりなさい。構わないよ」

「じゃ、お邪魔します」

 脱いだ靴を揃えてから母屋へと向かい、場違いにも思える水の気配を辿った先に彼らはいた。こちらを見た反応は違う――暁は笑い、咲真からはどこか警戒の気配が発せられている。

「よォ鏡の」

「あ……水じゃなくて雨だ。雨の人。さっちゃんもありがとね」

「咲真だ。感謝されるようなことをした覚えはないがね」

「そ? ま、べつにいいんだけど――あ、あたしにもお茶くれないかな?」

「……少し待っていろ」

「ありがと。――で雨の人、何笑ってんの」

「暁だ。雨天暁。いや、まさか自力で戻るたァ思ってなかったからなァ」

「うそ。だったらあんなこと、言わないでしょ」

「そりゃァ可能性の話だろ。だから、まァ可能性はあったッてことだ」

 蓮華みたいな物言いだなと気づき、苦笑が深くなる。暁では代理人にはなれないが。

「あー、もしかしてあかくん、説明できない?」

「おゥ、よくわかるじゃねェか」

「いやあ」

 照れるところではないし、褒めてもいないのだが、咲真は突っ込む気分を通り越して呆れながらお茶を差し出した。

「でさ、さっちゃんに確認しておきたいんだけど、だいたいの事情は知ってるんだよね?」

「大まかには、だがね。いい加減に咲真と呼びたまえ」

「うん。あのさ、わからないのはどうしてあたしが鏡の向こう側に紛れ込んだのかってことと――あの日、紛れ込んだあたしがこっちに戻された時に何をされたのかってことなんだよね。前者はあたしが鏡家の血筋だからで、後者は……えっと、彼は正常に戻そうとしてくれたんだね?」

「正常に戻す、とはまた奇妙な言い回しをするのだね」

「だって、そうでしょ? 元元が異常だったのを正常に戻されたらさ、そこに在る日常に戻れるはずがないじゃん。けど彼は、その場の判断であたしが異常になっちゃったと考えた。ついでに記憶も曖昧にしといたんでしょ……たぶん、あたしが怯えてたから」

「へェ、怯えてたのか?」

「あかくん、逢わなかったけどあの場にいたでしょ」

 疑問系にする必要はないそもそも華花は、直感で物事を判断しているのだ。故に、それが外れることはない。もっともその直感だとて、経験と感覚が入り混じって発生する結論だ、そこに曖昧なものは限りなく少ないのだが。

「どうだったのかね?」

「そりゃお前……爪型の妖魔の初撃を回避したんだ、見事なもんだぜ」

「あははは、直視したら足が竦んだけどね」

 笑いごとではない。

「あかくんは、ああいうことを日常にしてるんだね」

「妖魔の討伐か? まァ、俺ら武術家の仕事だしな」

「その辺りの仕組みについてご教授願いたいんだけど……さっちゃんは説明できる?」

「咲真だ。私もまた、その武術家の一人なのだがね。やれやれ訂正するのも面倒になったな」

「へえ、けーおじさんもか。ふうん」

「待てよ咲真、てめェ俺がその辺り説明できねェとか思ってンだろこの女。あァ?」

「違うのかね?」

「本業だぜ馬鹿野郎、たまには任せてみろッてンだ。……口添えはアリだよな?」

「最後の言葉がなければ良かったのだがね。構わんとも、やってみたまえ」

「よし。まァわかってる部分もあるだろうけど、武術家ッてのはだいたい扱う得物によって家名が違うンだよ」

「得物っていうと武器ね」

 適当に羅列するからなと前置きをした暁は、さてと呼吸を整える。定型句を話すだけならば澱む必要もない。説明できないのは、暁が考えによって導き出される答えだけだ。

「刀を扱う五木一透流、居合いの楠木くすのき、小太刀二刀の都鳥、長物のほむら、弓の十六夜、無手柔術の神鳳かみとり、扇の鉄扇。都鳥の分家に糸の久我山くがやま、裏糸の久々津くぐつ、小太刀一刀の一ノ瀬、針のひづめ。炎の分家に槍の朧月、中原なかはらの薙刀、都筑つづきの棍。以上を総じて武術纏連と云う」

「あかくんは?」

「その筆頭である雨天家は、頂点だよ。なァ」

「……癪な話だがね、槍で朧月を圧倒し、小太刀二刀で都鳥を凌駕する。雨天の者は、他の武術家を身内として捉え――その身内に対して、負けを許してはいないのだよ」

「じゃ、生き様だね。でもさっちゃんはちょっと気配が違うけど、それは個人的事情ってやつかな? ――で、妖魔の討伐をするためでもあるわけね」

「原則として、一般に害なす妖魔を排除するために各地に居を構えてンだぜ。やり方や技術はまァ、違うけどな」

「その討伐に、あたしってば巻き込まれたんだ」

「まず無事に安堵しとけよ」

「そりゃそうだけどさ……」

「鏡の、お前のキョウはどこにあるンだよ」

「あたしのキョウはここにあるじゃん」

 そうだ。

 華花のキョウは、二つの瞳に在る。

「今までが曇ってたんだけどね。だから、だいたいはわかってるんだ。うん……少なくとも、次にれんくんの顔を見る時は対応に困るくらい。あの子、ちょっと手が届かないもん。怖気が走るよ――あ、悪い意味じゃないよ? 感謝は適度に、恨みもあるし。いいように使ってくれちゃってまあ」

「よくわかってンじゃねェか」

 咲真よりも余程なと、続く言葉は放たれなかった。飲み込んだのではない、言えなかっただけだ。

 ――厄介だよなァ。

 考えによって到達する結論も、華花にとっては直感で理解してしまっている。暁は制約によって言えないことを、華花は直感だからこそ説明できないはずだ。

 似たもの同士、けれど感性が違う。その上で蓮華を見抜いた実力は本物だ。ゆえに、やはり、厄介なのだろう。

「だったら回りくどいことしてンじゃねェ。まずそいつを訊けよ鏡の、知りてェンだろ?」

「いやあ、そうだけど、数日分の情報整理も一応してたからね。――あかくん、あの人は誰。あたしを日常へと帰した風の人の名を教えて」

「聞いてどうするのかね?」

「逢いに行く。――訊きたいことがあるから」

「何故――」

「いいぜ」

 言葉を奪う。ここで追加の何故は、おそらく禁句に繋がるだろうから。

「咲真は何か用があるンだろ。どうせ俺も戻るんだ、付き添ってやるぜ」

「……ふむ。まあ構わんがね。私もすぐに戻るわけにはいかん……が、涼がどこにいるのかわかっているのかね」

「なんとかなるさ。だいたいな、考えてもみろよ咲真。あの蓮華がこのまま放置しとくと思うか?」

「ありえん話だな。見越した上に手を打っていると考えて間違いはあるまい。だが癪ではないかね? 蓮華の掌の上というのもな」

「べつに、適材適所だろ。――鏡の、あいつの名は都鳥りょうッてンだ。覚えておけ」

「忘れられないね。じゃ、行こっかあかくん。やっぱ徒歩?」

「その辺りの都合はつけるさ。――馳走になった。次にくる時は道場だな」

「やれやれ、変わらんな。かつてのよう私は相手ができんが……途中、忘れずに夕食をとって行きたまえ。暁はともかく、華花は慣れていまい」

「おゥ」

「んじゃ行こうかあかくん」

「――親父殿、二名様のお帰りだ」

 出る前に廊下へと向かって声を投げた咲真は、ではなと残して席を立つ。二人はすぐに店へと一旦戻った――が、そこに啓造はいない。どうしたのかと思いながらも雪駄を先に履いた暁は槍の包みを肩に立てかけて華花を待った。

「あ、ごめん」

「大事ねェよ」

 ただ、気付かないのだなと思っただけだ。カウンターに頬杖をつく、和装束の男がいる。風貌はよくわからないものの、印象としては古い時代の男性だ。

「おっけー。行こう。またこればいいし」

「そうか」

 先に出ようとする華花に続こうとして、しかし振り返ってその和装束の男――朧月家が奉る天魔第一位〈炎義えんぎ〉に対し、またくるとだけ一言伝えておいた。代代朧月家当主と刻を同じくして来た彼は、軽く片手を上げるに留める。

 妖魔も天魔も、基本的には印象で捉え、存在そのものを本質とする。故にその曖昧さは当然のことで――そして、だからこそ一般人の目には捉えられない。

「どしたの?」

「べつに。ただまァ、お前の行く先に興味はあるぜ。とりあえず徒歩な」

「うん」

 並んで歩くのには違和感がある。陽の当たる場所を歩いている華花とは違い、暁は陰に住んでいるのだから、そもそも並べない。

「鏡の。お前のソレ、言って良いことかどうかもわかるのか?」

「華花でいいのに……まあさっきのとか、なんとなくだよ。黙っといた方がいいのかなって思ったことは、いつも言わないから」

「直感か」

「うん、――昔にそう言われたことがある」

「へえ……誰に」

「誰だろ。直感が秀でている――結構だ。しかし直感に従う肉体がなければ、その意味は喪失する……なんて感じで言われたんだけど」

「秀でている、ねえ」

 そんな言葉で表現できるほど、甘いものではない。あるいは本質を見抜く能力に限りなく近いではないだろうか。

 だが、それだけではやはり駄目だ。わかっていても活用できて立ち回りができなければ、それはただの技能に過ぎない。

 ――だから、蓮華もこいつ単体で巻き込まなかったンだろうなァ。

 否だ。蓮華はそもそも、単一の人物だけの物語を作ることなどできない。

「あかくん。その涼って人も、さっちゃんも、れんくんも――友達なんだよね」

「まァ、他人に説明する時はそうしてる。そこに忍も含めてな」

「忍……って、もしかしてVV-iP学園の理事長さん?」

「――因縁がな、いろいろあるンだよ。まァ蓮華ッて因子があればこそ集まったンだろうぜ。……そっか。お前のことも、俺らの身内に関連したことッてことか」

「でもなんか、友達って関係じゃないと思うなあ」

「不安か? べつにどうってことはねェって。まァ蓮華は涼が嫌いだから、逆にお前は大丈夫だと思うが」

「へ? 嫌いなの?」

「言葉が悪ィか。んー嫌いッつーか……赦せねェのか? ンな感じだが、蓮華の野郎は誰に対しても同じ感じもあるしなァ」

「そっかな。というか、不安とかじゃなくあかくんたちって日頃から顔合わせないでしょ」

「そりゃそうだ。俺の場合は同業ッてこともあるから涼だろうな。にしたッて月に二度か三度だぜ――お、そこ左な」

「わかった。……そんなんでよく友達でいられるなあと、あたしは思うよ」

「そうか? 別に、便宜上そう呼んでるだけで、何がどうッてわけでもねェだろ。次、左……ッと、俺が前に立つか」

「信頼も信用もしてないように見えるからさ」

「してねェよ? 他人を信じられるような世界じゃねェし、だからどうしたッて話だろそれ。こっちだ」

「信じてないの?」

「どうだろうな。少なくとも、蓮華は俺らを信用してるンじゃねェか? そんな感じは――こっちな」

「……ね、ぐるぐる回ってるよ?」

「そうだな。んー、ちと重いがこれ、持てるか」

「あ、うん……うわ重っ。よく平然と持てるなあ」

「こっち。――さてと、あんま惑うなよ。面倒が増えッから」

「あのさあ、いくらあたしでも直感で全部わかるわけじゃないかんね?」

「んじゃァ鏡の、俺を信用できるか?」

「今ってことなら、もうしてるよ」

「なら少しの間そうしとけ。後はこっちでやッから他は気にしなくていいぜ」

「何するの?」

「彼岸入り」

 次の角を曲がった直後、周囲には暗闇しかなかった。

「――え!?」

「先導するからついてこいよ」

「いや、ちょっと、え!? 理解超えてるんだけど!?」

 とはいえ、暁には説明ができない。

 この技術を何と捉えるかは雨天であっても難しいが、それでも技術という領域からは逸脱しない。

 四辻を使って異界、死の後の世界と呼ばれるそこへ足を踏み入れ、時間ではなく距離を得る。現実との整合性を保つため、短い距離の移動であっても相応の時間を経過した状態で至るのだが――無論、一歩間違えれば戻れぬし帰れない。いや、生きることすら喪失するだろう。

 妖魔が発生する場所とも云われている。

 混沌と、そう表現するに相応しい場所。

 ――ここは彼岸だ。とっくに境界線は通り越していた。

「幸運だと思っとけッて。雨天しか使えねェ移動方法だぜ?」

「いや! ものすっごく嫌な感じしかしないから!」

 この場には上下の感覚がなく、左右も曖昧だ。一歩目から三半規管が異常を訴え、二歩目には既に視覚情報が容量を超え、肉体が異変して吐気を催すほどである。それでも手にした槍に守られているため、暁が受けている異常よりも少ないだろうが――。

「うるせェな、俺の裾でも掴んでろ」

「う、うん、うん。うわあ、何これ。うわあ」

「何に見える?」

「何にって、これ、どこの異界? 彼岸なの?」

「そう言ったぜ」

 そういえば誰かと一緒に彼岸を歩くのは初めてだなと暁は思う。姿を晦まして移動する時には使うが、許可が出たのは元服を迎えてからだ。この技術を知った時は、クソ爺めいつも痕跡を残さないと思ったらこれ使ってやがったのか、などと思ったものだ――と。

「おゥ、到着だぜ」

「へ?」

 足元に青色の術式紋様がそれぞれ一つずつ、その中に沈む――奇妙な感覚に瞳を瞑れば、華花は暗闇の中で両足をつく感触と、ほのかな風。

 ――ああ、境界線を越えた。

 目を開けば古風な日本家屋のある庭に立っていた。趣のある庭だ。離れのように見えるのは道場で、芝こそないが砂利が敷き詰められており大き目の石が通路になっている。小さな池の付近にはせんだんの木が植えられていて。

 雨だ、と思った。

 今も空から降っている雨と同じ性質のものがここにはある。

「ここ、あかくんの家でしょ」

 ほうと吐息して気を落ち着かせながら問うと、しかし暁は虚空を睨むようにして停止していた。こちらの声も届いていないようだ。

 実際、暁にその声は聞こえていなかった。

 ――なんだァ。

 無意識に槍を受け取りながら、視線は母屋へと向かい、横目で道場へと動いた。

 ――五月雨さみだれが抜かれてる……?

 雨天にはその筋では名のある得物が多くある。その中でも暁が好む居合刀〝五月雨〟はある人物が打った、暁だけの得物だ。それは暁以外に心を赦さず抜くことはできない。

 だが、一人だけ暁以外に抜ける男がいる。

 雨天家を出たのにも関わらず、雨天を名乗ることを赦された唯一の人物、それは。

「お、戻ったのか」

 道場から顔を出した男は五月雨を片手に声を放つ。ラフな洋服であるため、あまりにも似合ってはいないがしかし――彼は、雨天あきらは。

「親父……!?」

 思わず気を張り、しかし肩から力を抜く。

「てめェ、六年もどこほっつき歩いて――」

「おいおい暁、客の前でなんだそれは」

「馬鹿野郎、何故いるか答えろ」

「おお、爺さんが戻らない限界が今日だって云うからな。五月雨、見たぞ」

「――」

 得物も持たない雨天を、静は認めていない。限定的に赦されるのは、己の死に直面した場合と相手が武術家であり得物を破壊された場合だけだ。

 だが、師範である雨天静は当然のように例外であり――そしてまた、彬も同様だ。

 何故か。

 今世に於いて唯一、雨天しずかを打倒し尽くした男だからだ。同時に七代目を拒絶した人物でもある。もっとも今は刀工じみたことをしているようだが。

「九尾の影響が残ってたぞ? まあそこまでの手入れは難しいか。ん、いらっしゃい――と俺が言うのも変か。鏡の小娘、どうかしたのか?」

「あ――」

 たったあれだけの移動であったのにも関わらず既に陽は落ちているのは何故かと、そんな疑問が己へと向かった言葉で吹き飛んだ。

 忘れていた。いや、今も思い出せたわけではない――ただ、理解する。

「昔、あたしに……」

 直感が秀でているならばこそ躰を鍛えろと、そう助言した人物だ。

「――あかくんの、親父さん?」

「ふうん、良い育ち方とは言えないな。みずさんも匙を投げたなら、どうしようもないか」

「親父、話を混ぜるンじゃねェ」

 暁の視線は母屋へ、その中に在る気配を窺っている。

「――ふん。あっちは後だ暁、まずは小娘の用件を終わらせろ。休む時間はなしだ、所定の場所へ向かえ。そこにブルーが待ってる」

「てめェ……!」

「逃げはせん。ただ今日中に戻ってこいよ。明日の陽が出る前には行かないと面倒な爺さんに見つかるからな」

 問い質したいことは山ほどある。彬の六年よりも暁の六年の方が長く、また密度も濃い。出て行ったことに対しての文句はない、ないが――しかし。

 それでも、今は華花を優先すべきだと大きく呼吸を一度してから意識を切り替えた。

「――悪ィ。忙しねェが行くぜ鏡の」

「あ、うん、いいの?」

「ああ。――おい親父、いいか? 約は違えンなよ」

「お前さんとの約を破った覚えはないな。それとくれぐれも遅れるなよ? そうすると、べつの約を破ることになりかねない」

「……五月雨、持っとけ。このまま行く」

「おう。行ってこい」

 これもまた、蓮華の掌の上かと暁は視線を落としながらも華花を誘う。だが、間違いなく断言できることが一つだけあった。

 ――つまり、こっからはべつの物語ッてことだ。

 改めて蓮華の手練を間近にして、暁はぼんやりとだが理解できる。

 曰く、蓮華の策は少なくとも暁には結果が出るまで知覚できるものではない――と。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る