05/22/19:30――都鳥涼・私的な事情
鏡の表面を撫でればそこに境界線を意識できる。
彼岸と此岸の境界はひどく身近にあり、合わせ鏡によって境界が曖昧になるのと同様に、鏡がただそこに在るだけで意識は可能だ。
己の冷たい吐息が落ちるのを感じる。
――動揺しているのか、俺は。
瞳を開けば己のキョウと姿見が合わさる。だが都鳥涼の姿は――市立野雨西高等学校の鏡には映っていなかった。
思うのはやはり、だ。これで良いとも。
だが。
「良かねェだろ」
触れていた手が離れ、振り向けば階段の下からこちらを見る青色がいた。
「――蒼凰蓮華」
「言ったはずだよな――先がねェならまだしも、先を失くすことを俺は赦さねェッてよ」
一歩、一歩と蓮華は近づいてくる。涼がここに居るにはセキュリティの解除が前提だ、そして武術家である涼にそこまでの頭は回らないし、打つ手もない。けれどこの場には涼が先にきていた――これもまた、蓮華の策の内だ。
「俺らがこうしていられるのも、お互いにお互いの行く先を邪魔しねェ、他人を遮らねェ――酷く言えば、理解しながらも無関心でいられッからだ。わかるよな涼、――どうなんだ」
「……俺の、失敗は認めている。だが」
「だが、じゃねェよ」
やれやれと肩を竦めた蓮華は涼との高さを同じくし、けれど睨むよう顔を近づけると胸倉を掴んだ。
「良かれと思って、なんて前提が間違いだろうがよ。良し悪しの判断はてめェが勝手にして、押し付けるモンじゃねェだろ。違うか、俺の言っていることは間違ってるかよ都鳥涼」
声を荒げることはせず、ただし声色はトーンが少しだけ低い。更に周囲の気温は随分と下がっているように思う――けれど、蓮華の心情は激怒の赤だ。
「それが、てめェの身内であってもだ」
「――だが向こうは」
「説明する気はあるのか?」
吐息を落とすことで気持ちを整えた蓮華は手を離し、力を抜く。
「実家に戻って調べたンだろうよ。お前ェの情報、状況、身内である所以、そういったモンをきちんと話してどうするのかと問う気はあるのかよ」
「鏡華花、か」
足音が止まった。
先ほどまで蓮華がいた位置に、当人がいる。
「――はッ」蓮華は涼に背を向ける。「同様に、お前ェがどんな選択をして結果を出そうとも、干渉はしねェよ。好きにすりゃ――いいンじゃねェか?」
思ったよりも華花の到着が早いなと思いながらも、蓮華はすれ違いざまに華花の肩にぽんと手を置いて去った。それを視線で追い、見えなくなってから涼を見上げる。
――この人は風だ。
実体を持たない自然現象。それは木木が揺れることで明確になる。
「――すまない」
涼はまず、頭を下げた。
「都鳥流小太刀二刀術、都鳥涼が謝罪する。あまりにも浅慮な行為だった」
「――結果論だけど、今があるからいい。あたしは」
「鏡華花、こちらまでこい。視線を合わせて話をしたい」
礼儀正しいんだなと思いながらも、ゆっくりと踊り場まで移動する。静謐な夜の校舎にて、風を感じながら。
「大事ないのか?」
「あ、うん、大丈夫よ。心配かけたかな」
「俺の不手際だ。本来ならばここまで導くのも俺の役目だったが……蓮華に先手を打たれた。感謝はしているが」
「うん。でも――あたしと涼って、縁が合ったの?」
「今ではなく、そして俺と華花ではなく、――古くより都鳥と鏡の間には縁がある。何故か――それの確認を、今までしていた。遅れてしまったな……どうやら謝罪は尽きんらしい」
「謝罪はいらない。それよりもあたしは、あたしを取り巻く状況を知りたいから」
「ああ。話をしよう」
まずは対等になるために、その上で選択を得る。
「都鳥家は、いや、俺は――半人半妖だ」
「……?」
「華花も遭遇したような下位妖魔は実体が曖昧だ。その特性の一部、牙や爪などといった部分が具現している場合がほとんどだが――上位の妖魔になると人型を取る。人と変わらない姿を持つ――が、しかし、妖魔種はそもそも繁殖をしない」
「じゃあ増えないの?」
「否、妖魔は発生するものだ。増えはする――が、しかし人の繁殖とは違う上に、人とは交わらないのが基本だ。けれど都鳥だけは違う」
「あ……半人半妖ってことは、妖魔の血が混ざってる?」
「そうだ。もっとも妖魔に血は流れていないが」
そんな当然のことを問われることもなかったため、涼は苦笑を小さく零した。その時に肩の力が抜け、ああ緊張していたのかと気付いた。
「武術家の中でも都鳥が異端扱いされるのはその辺りが理由で――だからこそ、俺もまたその境界線で生きている。彼岸でも此岸でもない、その境界線だ」
それは、まるで鏡の中だなと華花は思う。あるいは鏡界線だ。
「故に都鳥は人と交われない」
「――? それは、つまり子孫を残せないってことよね」
「魔術師ほどではないが、武術家も子孫を、血を残すことにある程度の拘泥がある。鏡家は……都鳥のための家名、その一つだ」
「えっと……つまり」
「適合した娘ないし息子を都鳥に嫁がせ、子を作る。かつてはそうしたこともあったが、今では適合者の方が少なくなっているため、形骸化している。実際に仕組みを知っていたのも先代……みずさんと云ったか」
「あたしの祖母だね」
「全てを華花が伝えられなかったのも、形骸化しているのが理由だろう。既に必要はなくなったのだから」
「……? じゃあ涼は? 鏡家以外にもあるらしいけど」
「否」
呼吸を意識し、左手でキョウに触れながら言う――ああ、そういえば初めて口にする。自覚もあるし納得もしているが、それと他人に教えるのとは別物だ。蓮華などは既に知っているようだが、それでもやはり口にするのは違う。
声が震えぬよう腹に力を入れて、視線を合わせて伝えた。
「俺は都鳥家が天魔〝
「……そっか」
「だが俺は子孫を残すつもりがない」
「――それさ、聞きたかったんだ」
今だからこそ思う――いや、直感が戻って思い出した時からずっと問おうと思っていた。
「涼は、どうして成長を拒絶してるの?」
「……? そんなつもりはないが」
「じゃ、言い方変えるね。どうして――死の側から自分を見てるの?」
「――」
人は、その人生の七割以上は生から未来を見る。生きてきた過去から、あるいは生まれた場所から今までのことを考えて生きようとする。けれどやがて老いにより、先を短いと感じたのならば、――死の側から今を見るようになるものだ。
涼は。
己の死期を自覚して今を生きていると華花は感じた。
「それは涼が、半人半妖だから――その代償ってこと?」
「代償ではないが、認識としては間違っていない。陰陽の大極図を知っているか?」
「円に勾玉が二つ入ってるあれでしょ? 確か五角形になってて、五行も示しているとか」
「人は陰陽の二つを持って生きている。片方に傾倒することはあっても、大極は基本的に変化しない。たとえ落ち込み陰気が強くなったところで、楽しいことがあれば陽気に傾く。しかし、度が過ぎれば命を落とすだろう」
「うん。わかるけど……」
「俺の中に大極図はない。――似てはいるが、そのほとんどが黒色だ。つまり陰気が強すぎる」
「それは、半人半妖だから?」
「それも、理由の一つだろう。もっとも今の俺は安定している。だが……〝怯娘(きょうこ)〟」
二人しかいなかったはずの空間で第三者の名を涼は呼んだ。何がと問うまでもない、袴装束の裾を握る和装の少女が、涼の背中に隠れるよう華花を覗っている。
「妖魔と本質を同じくする、高位の天魔〝鏡娘〟の一我、怯娘だ。基本的には対妖魔戦闘などにおける補助を行う存在だが……」
「――妖魔が陰なら、天魔でも陰が強い」
「そういうことだ。本来、武術家が天魔を使役するのには二十歳前後を目安としている。肉体的成長よりもむしろ、精神的なものも加味した上で、経験が伴うのがその程度の年齢だ。しかし俺は最初から陰に傾いている」
「妖魔……じゃない、天魔との相性が良いってことかな」
「良すぎるくらいだ。……俺はこのまま鍛錬を続ける。だが陰ノ行を習得できまい」
「できない?」
「そうだ。俺たちの扱う強化を主とした術式は、陽ノ行と陰ノ行に大きく分類される。文字通りの陰陽だが、俺はあまりにも陰に傾きすぎているため、陰ノ行を習得すれば間違いなく堕ちるだろう」
「それがわかってて、なんで回避しないわけ?」
「回避? 馬鹿な、ありえんな。……知ったようなことを言うな」
ああ、確かにその通りだろう。今のは己の失言だったと華花は反省する――が、しかし、どうしてか頭にきた。
「知ったようなこと? そ、悪かったよ。うんごめん。あたしは涼のことなんて知らないもんね――でもさ」
踏み込み、武術家の涼からすれば避ける価値にも値しない、けれど華花は右手で涼の胸を押した。
「知りたいから話せって言ってんの! 知るわけないじゃん、理解なんてできるほど会話もしてないんだから当たり前でしょ!? 応えてよ――どうして、回避しないの?」
強くはなかった。確かにそれは避ける価値にも値しない、涼にとっては攻撃としても見えない力だ――が、しかし。
確実に、涼の心を刺激した。
「……すまん」
先ほどとは少しだけ違う謝罪が落ちる。何がと問われればきっと、気持ちの在りようなのだろう。
「今のは俺の八つ当たりだ。……俺は武術家だ、その道を選んだ。その先に陰ノ行の習得があるのなら、俺はそれに挑む。それをやらないなど、そもそも俺の中の選択にない」
「……そっか。でもさ、あたしには諦めているように見えるんだけど」
「そうか。――そうだな。華花、俺は諦めているか?」
「悟っているのとは違うよ。うん、あたしはそう見える。なんていうか……いつか知らないけどさ、死を受け入れてる。挑戦してない、抗ってないよ」
「――鏡華花、これは忠告だ。俺に関わるな」
「いつか必ずいなくなるから? そんなの誰だって同じよ。それが決まっていようが、決まってなくても、いつか人は死ぬ」
「立つ鳥、あとを濁さず」
「あは、それは都鳥ゆえに?」
「そうだ。俺は、俺がいた形跡を残すつもりはない。人と交わらぬようにしているのも――」
「それさ」笑いもせずに華花は問う。「れんくん……蓮華や暁、咲真に、えっと忍にも面と向かって言える?」
「それこそ必要がない。連中は俺が居なくなっても同様に道を歩むだろう。俺たちの間柄に依存はなく、信頼や信用もないものと思っている」
「……」
「強制はしない。先ほど蓮華に怒られたばかりだ……他人の道を遮るな、とな。だが俺個人としては、鏡華花、お前は元の日常に戻れ。昨日から続いた今日へ――ここは」
「ここが、そうだよ」
否、これこそが日常の延長であり、ここ数日が間違っていたのだ。ゆえに今の日常を華花は手放そうと思わない。
「あたしの日常は今、ここにあるから」
「……夜を一人で出歩く恐怖をお前は知らないだろう?」
「知らないよ。でも、涼は言うんだね? 出歩くなと、そう忠告するんだ」
「俺がいる時はまだいい。今も誰か同行者がいるのならばともかく、一人でなど危険だ」
「じゃあ涼が居る時はいいんだね?」
返答はない。それは逡巡を含んだ、答えられない類の問いだったのだろう。急いても仕方ないと華花は呼吸を一度、そして鏡を見た。
そこに涼は映っておらず、無論のこと怯娘も見えず、己がただ映っている。
「この学校の姿見ってさ、日中は全部にある――らしいの」
「らしい、とは? 生徒なのだろう?」
「うん。だけど、あたしには見えなかった。いや見たくなかったのかな……なんだか気持ちが悪くて。でもね、三枚だけは視ることができたの」
「ほう……さすが、と云うと失礼か。実際にこの学校には三枚しか鏡がない」
「でも枠はあるんだよね」
「三枚しかなければ、何故と思う。そして、その意図を読み取るのは容易い――が、しかし全てに設置されていれば意図は隠れる。自然現象ではない、これは呪術が含まれている……そうだな、この枠は思念の収集装置のようなものだ」
「思念っていうと、人の?」
「そうだ。枠を見た時、人はそこに在ったはずの何かを夢想する。現実に三枚だけはキョウがあるのだから、ここにもキョウがあって当然だと考えるのは流れとしておかしくはない。そうした意識が多く集まれば、現実に影響を及ぼしてしまう。これは魔術的な観点からの物言いになるがな」
「ふうん……これさ、けーおじさ――えっと朧夜堂? にある品物に似た感じがする」
「知っているのか。実際にこれは朧月の骨董品だろう。術式を組み立てたのが誰なのかまでは至っていないが――」
――キョウの様子を見てこい。
涼は師範にそう言われてここにきた。そのキョウが、鏡家の者を示唆していたと気付いたのは蓮華が姿を見せてからのことだ。
不意打ち同然だが、涼は良い機会だと思って言葉を連ねている。
――俺もまた蓮華の掌の上だった、ということか。
今まで姿すら見えなかった友人に対しては苦笑するしかない。関係者である涼を核心へと送り込むために、おそらく今まで何かしらの手を打ってきたのであろう。
「でもさ、鏡が割れてるって話題が生徒の間で出てるみたいなことを耳にしたんだけど」
「そうだな……このキョウも、役目を終えようとしている」
「役目?」
「三枚のキョウはそれぞれコの字に設置された校舎の先端に一つずつ、中央に一枚。その方向には何がある?」
「あっちかあ」
そこに実物があるのだから、その方向だと躰の向きを変えた華花は階段を見上げる。しかし背丈の関係もあり、階段上の廊下にある窓からは曇った空しか見えない――いや、夜なのだから雲もよく見えないのだが、雨が降っているのはわかった。
「蒼狐市の中心方向だよね」
「――そうだ」
これはもう終わった物語の残滓。半年と少し前までは機能していた、反射のための装置だ。
「かつての蒼狐市は安定していなかったため、妖魔が外に漏れる危険性があった」
まだ蒼狐市のどこかに、草去更と呼ばれる異質な場所があった時――そこに在る妖魔の棲家、シ森がまだ四つだった頃。
四、という安定しない数字に対する保険として、これはあった。
「この学校全体を一つの術式として、蒼狐市から外に漏れる妖魔を抑える役目があった。ここは蒼狐市と野雨市の境界線――いや、少し蒼狐市寄りになるか。いわば砦の役目だろう……が、しかし、ある件をきっかけに蒼狐市は安定した。役目を終えた機能は停止するのではなく――」
「ああ、壊れるんだ」
「設立当初より長く機能していた。このキョウも人の手に壊されるよりも、己で砕け散ることを望むだろう……そのために、枠だけしかないはずのキョウもまた、人の意識を拒絶して割れる」
「うん、そっか。……でも、キョウって呼ぶんだね」
「鏡では――お前と混合されてしまうからな」
「それは配慮?」
「風習と、習慣だ」
ふっと小さく微笑みを落とした涼は、瞑目してから華花の隣を過ぎて階段を降りようと足を踏み出す。
「今ここで、どうするとは問わない。俺が俺でいるように、華花は己の道を往けばいい。今日は家まで送ろう。道中に他愛ない話だけならば付き合ってもいい」
ありがとうと言いながら華花は横に並ぼうとして、しかし何かに気付いて問うた。
「ね、ねえ……まさか、彼岸に入ったりしないよね?」
「――ああ、後で暁にはよく言い聞かせておこう。だが安心しろ、俺はそこまでの技量を持っていないし、あれは雨天だけが扱えるものだ。一般人に限りなく近い華花を巻き込んだ礼はさせる。約束しよう」
頭痛でもしたのか、涼は額に片手を当てて嘆息した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます