2039年
08/09/17:30――蒼凰蓮華・青色と武術家
「お前さん、ちったァ落ち着いたらどうだよゥ」
袴装束を着こなした老人を前に、まだ若い少年とも呼ぶべき彼はお茶を片手に苦笑した。老人の右側に置かれた刀が本物であることは疑う余地もなく、二人がいる場所が熱気の残る道場であり、いくら片手に茶を持ちながらの会話とはいえ、ほんの数分前まで相応しい何かが行われていたことは確かだ。
けれど、付き合いが長いためか、切り替えが上手いのか、二人の間には縁側で茶を飲む間柄のような雰囲気があり、闘争の余韻すらそこにはない。
ただ、不釣合いではあるだろう。それは服装に関することでもあるが、血縁関係はないものの――たとえば、孫と祖父の関係であったとしても、いや、そうは見えないのだからたとえ話にはならないか。
不釣合いでも。
「お前ェよ、俺が落ち着いてねェと言いたいのか?」
彼らの間柄は、少なくとも今は対等だった。
「あっちこっちをふらふらと、遊び歩いてるのは落ち着いてるたァ言えねェだろう」
「そりゃしょうがねェよ。腰を落ち着けちまっちゃァ経験も積めやしねェのよな、これが。俺ァお前ェの孫と同い年だぜ? 成長期じゃねェか。ここは存分に遊べと言うのが年輩の役目だろうがよ」
「帰る場所くれェは作っておけと言ってンだよゥ」
「あー、それを言われると痛いよなァ。だいたい帰る場所なんてのは、必要なのかよ?」
「……若ェなァ」
だから、若いンだよと言いながら少年は頭を掻き天井を仰ぐ。仕草のたびに金色の髪飾りがちりちりと高く美しい音を立てた。
「ああ、そういや
「そいつが誰かは知らねェが、人生でたどり着く先なんてのは、そう多くはねェって話だろうがよゥ」
「夢のねェ話だ。まァ俺がバイトしてる料亭の店主だよ。ここ三年くれェ厄介になってンのよな、これが」
「邪険にしてるわけじゃねェぞ? 帰る場所もなけりゃァ、足が地につかねェと言ってるンだ」
「わかってるよ」
だから少年は少年なりに、意識して歩く方向を決めてきた。周囲に流されることがあっても、それを自覚的に流れるようにしたし、あるいは逆らうこともあったけれど。
今もまだ、帰る場所はない。
「親が頓死しちまったからなァ。今は兄貴夫婦の世話ンなってッけどよ、甘えるのは性分じゃねェ。寝に戻るくれェはするけどてめェの巣かと問われりゃ、そうでもねェのよな」
「心配かけてちゃァ世話はねェぞ、お前さん」
「そりゃねェよ。兄貴だって仕事で家に戻らねェし、姉貴もあれで仕事を持ってッからよ。俺のやってることなんぞお見通し――ッてわけじゃねェけど、心配はしてねェって」
信頼されているのはわかっていて、もちろんそれなりに気遣いを受けているのも理解している。だからこそたまには顔を見せるが、必要以上に依存しない。されたくもない。
かといって何かを返せるほど、少年は己が成長していないことを知っている。まだ発展途上、経験値を溜めている最中で、自分ができることを探しているのだ。
――そんなふうに、自覚していて、それを打ち明けている。
小賢しいガキだなと自嘲も浮かべたくなるのは、今さらだ。
「隠れてるのかよゥ」
「そりゃお前ェ、それこそ俺の狙いだろうがよ。表立って動けば、それこそあっさりと封殺されちまう。お前ェ同様に、力を持つ人間は隠居に追いやられるのが日常じゃねェのかよ」
「違いねェ」
老人は豪快に笑う。彼もまた、そんな少年の生い立ちや狙いを知っているからこそ、こうして口を出したくなるのだ。
「それに――難しいよ。俺が帰る場所なんて、欲しい欲しくねェはべつにして、あるのかどうかもわかりゃしねェのよな、これが」
「欲しくはねェのかよゥ」
「わかんねェよ。だいたい、帰る場所には必要なモンがあるだろうがよ」
「ほう」
「ただ家を持つだけじゃ、単なる
そうだ。
帰る場所には。
「――そこには、誰かがいなくっちゃいけねェのよなァ。俺以外の誰かが、居てくれなくっちゃァ帰れねェよ」
「賢しいことを考えてやがるなァ」
「うるせェよ」
だが、老人にとっては考えていないのではなかった事実だけで充分だった。
「それでお前さん、今は何をしてるンだ」
「何って――雨の、なんだその曖昧な言葉は。まァ……そうよな、人を助けるッてことを知りてェと思って行動してるのは確かだぜ」
「手を貸すッてェ意味じゃァねェな?」
「おう。手助け――相手に求められたモンを返すなら、迷う必要はねェのよな」
「じゃァ何に迷うンだ」
「どこまで助けちまっていいモンかッて思うのよな」
助けることと守ることの境界線はひどく曖昧で。
どこを開始とするのかも、少年にとっては複雑な問題になる。
「転んだ子供に手を差し伸べるのは、自然な行為よな。もちろんてめェで立てと言って待つのも優しさだよ。けど助けろッて言われりゃ、迷うのよな、これが」
「ほう」
「俺ができることッてのは、存外に多いのよ。転んだのを起こすなんてのは簡単過ぎる、そのまま親元まで送ってやったっていい。いや論外だよな――俺なら、転ぶ可能性を除外してやることだッてできちまうよ」
それは、もちろん人が転ぶなどという領域ではない。
雨の日に傘を持ち歩くように、台風の前日に対策を練るように、少年はそれが唐突な通り雨であったとしても傘を差し出すことができてしまう。
「良いことじゃァねェのかよゥ」
「それでも俺の手はンなに広くねェのよ。全員を全員助けるなんて真似はどこぞの馬鹿だってできやしねェ。誰かを助けちまえば、誰かを切り捨てることになるのは自明の理だろうがよ。それに――立つのを待ってるなんてのができねェのは、俺が一番良く知ってる」
「優しさがねェのか」
「過保護なのよな、これが。どうしたって俺ァ――」
助けてしまう。
傷を負うことも必要だとわかっていても、転ぶ前に手を貸してしまう。
「……ま、迷って惑ってだ。そうは言っても誰かの意志を邪魔しねェと決意するくれェの心意気は持ってるのよな」
「過保護ッつーよりも身内に甘ェンだろう」
「おいおい、俺にゃァその身内ッてモンもねェのよ。あーでも確かにその辺りは問題よな」
「しかしお前さん、
「――犠牲かよ」
できるのかと問われると、クソッタレと言い返したくなるのが本音だ。けれど世界は、やはり全てを助けることなどできない。
「一人を助けりゃァ残りの十人が死ぬなんてのは、よく聞く話じゃねェか」
「……許容したくはねェよ。犠牲なんて言葉はクソッタレだ。けど――俺が俺であるために、言うぜ? だったら俺ァ一人を助けるよ」
大勢を取るわけではない。
その一人が身内ならば、迷わずにその一人を少年は助ける。
「けどな雨の、だから――俺は言うよ。てめェら、十人を揃えて各自で一人を助けろ」
「理想……否、そいつァ感情論か」
「割り切るさ。俺ァそう割り切る――感情的なのは理解してるし、承知の上だよ。だからこそ、だ」
机上ならば十人は死ぬ。けれど現実は違う。
だからそんな、一人を助けられる十人を集めるような可能性を――少年は、必ず、現実にしたいと強く思う。
「感情を殺してまで生きるなんてのは、死ぬのと同じじゃねェのかよ」
「お前さんにとっては、そうかもしれんな」
「ンだよ、含みがある言葉じゃねェか」
「お前さんが言っただろうがよゥ。今はまだ成長途中、発展途上、経験を積んでいる最中だ。ここで出ない結論を、知った素振りで口にすンのは、俺の流儀じゃァねェなァ」
「なんだ、雨のも知らねェのかよ」
「俺が至った結論なんぞ、お前さんには通用せん。俺の居合いがお前さんに届かんのと同じじゃねェのかよゥ」
「ははッ、違いねェ」
己の答えは、己で見つけるしかない。
あるいはそれこそ助けることの見極めになるのだとも老人は思ったが、余計なことだと判断して口にはしなかった。
「さて、お前さん。一つ頼みがある」
「待てよ。――いいか? 今の俺ァまだ一般人の範疇だ。余計なことを俺に伝えるンじゃねェよ?」
「難儀だなお前さんも……」
「うるせェよ。ンで? どうせ面倒ごとなんだろ」
「俺の頼み自体はそう難しいことじゃァねェ。八月十五日、ソウコシで起こることを見届けてくれりゃァ良い」
「見届け役かよ」
「手ェ出しても構わんぞ。俺ァ約によって干渉も立ち入りも禁じられてるからよゥ、この時期にゃ誰かをやって報告だけ受け取ってるンだ。まァあれだ、行くだけ行ってお前さん、何をやっても良いから――とりあえず行ッてくれ」
「あー……」
右目だけを閉じた少年は、髪の中に片手を入れて天井を仰ぐ。
「よォ雨の」
「何だ」
「てめェ、今日が何日か言ってみろよ」
「八月の、九日だな」
「……依頼ならもっと早く言えよ! これじゃァ手回しも満足にできやしねェ」
「じゃァ辞めるのかよゥ」
「そうは言ってねェよ。ッたく……確認するぜ? 表側の
「もちろんだ」
「だったらなお更だよ……まァ、いずれにせよ可能性の話よな」
目を開けた少年は、悪巧みをするかのよう嬉しそうな笑みを口元に浮かべる。
「いいぜ、引き受けたよ。ただし――俺が行く以上は、俺の仕切りだ。後になって文句を言うンなら、俺に依頼した自分に言えよ?」
「楽しそうだなァ」
「何事に対しても、素直なンだよ俺ァな」
茶を飲み干した少年は立ち上がり、さてと腰に手を当てた。
「ンじゃ、ちょっくら仕込みに走り回るか――」
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