16 お姉様の匂い……

 風呂から出た俺はワンピース状の寝間着に着替え、部屋に一つだけあったベッドへとその身を倒す。

 うつ伏せに倒れたことで身体の下で胸がひしゃげ不思議な感じがするが、気にするゆとりはない。


「ふわふわだぁ……」


 風呂の中でのスライムとの攻防に長旅の疲れ、慣れない給仕仕事と心身共に疲弊しきっていた俺は、久しぶり――って訳でもないけど、ベッドの包み込むようなふわふわで柔らかい感触に身を委ねてしまう。

 思考はすっかりと蕩け落ち、

「あらあら、お姉様。御髪おぐしを乾かしますから起きて下さいませ」

「むりー」

 何を言われようが動く気力も無い。


 そんな俺に観念したのか、うつ伏せに枕に顔を埋めている俺に姫さんが何かの魔法を使い始めた。

「温熱微風」

 ドライヤーの如く暖められた風が髪に注がれ、その心地よさに眠気が一段と増していき、


「zzz……ZZZ…………」


 自分の身体が眠っていくのが解った。

 その後も周りで何やらガサゴソしているが、思考することを止めた俺にはどーでもいいことだった。


    ・

    ・

    ・


 ちゅん、ちゅん――

 遠くから聞こえてくる雀のような鳴き声に、俺の意識は再起動を始めた。

 見慣れぬ天井に悩むこと暫し。

「えぇっと、確か昨日は……」

 何とか辿り着けた温泉町ネス。そこで俺は鉄の髭亭へと連れて来られ、何やかんやの末に住み込みでウエイトレスをすることになった。

 そして自分の特異性を知り、それが封じられると言う――

「姫さんの部屋に泊まったんだったな」

 何とか状況をまとめることには成功した。


 しかし、一度も起きることなく完全に熟睡していたとは……相当に疲れていたんだな。

 事実、今も一晩寝たとはいえ、

「身体が重いし」

 必要以上に身体が重たかった。特に、胸の辺りが――


「!?」


 ハッとして掛け布団をどければ、俺の身体を抱きしめ胸に頬ずりしている姫さんの姿があった――

「――って、何してるんだよ!? 姫さん!!」

 逃げようと身動ぐも、背中に回された姫さんの腕は固く外れない。

 それでも、俺が動いたことで目が覚めたのか、姫さんの瞼が半分だけ開いた。もっとも、その向こうに見える瞳はまだ完全に覚めていないのか、焦点が定まっていない感じだ。

「姫さん、起きたなら離してくれよ!」

「ムニャムニャ、お姉様だぁ……」

「ちょ、ちょっと、姫さん! 起きろってば!!」

 寝ぼけ眼で俺の顔と胸を確認すると、再び胸に顔を埋めてくる姫さん。正直重いし暑いんだけど、


「……私のお姉様が帰ってきたんだぁ。お姉様の匂いがする」


 涙混じりにそんな言葉を呟かれれば、何も言えなくなる。

 どうしたものかと悩みつつ、頭を撫でてやればにへらと嬉しそうに笑ってくれる姫さんだった。


 中学生くらいの妹がいればこんな感じなのかな――と考えてみたりもするんだけど、生まれ変わる前の俺は男だし目付きが極悪ともなれば、兄妹の仲も最悪だったんだろうな。

「はぁ……くだらん妄想か」

 馬鹿らしいことを考えたと一笑に伏しつつも、姫さんの体温を感じている内に俺は再び睡魔に襲われてきた――


「――って、寝たら駄目じゃんか!」


 危うく二度寝しかけた意識を再浮上させることに。

 今の俺は鉄の髭亭に雇われてる身分だ。朝は朝食の支度があるから早めに起きるようにと、昨晩言われていた。

 時計が無いから時刻が解らないんだけど、さすがに起きないと不味い時間帯だと思う。

 少しだけ本気で抜け出そうともがけば、固かった姫さんの拘束はあっさりと外れた。

 若干拍子抜けする意外さだったんだけど……俺がベッドから抜け出ると、抱き枕を探す素振りをみせる姫さんがいた。


 俺の代わりに使っていた枕を抱かせれば、

「お姉様の匂い……消えた」

 そんなことを呟きだした。

「匂いって言われてもな……」

 風呂上がりな状態で一晩寝た程度では、枕に匂いが付くはずはないか。

 しかもこの身体、汗とかあまりかかないんだよな。

 クンクンと自分の身体を嗅いでみるが、臭くはないしどちらかと言えば石けんの良い匂いがする。寝間着として着ていたワンピースを脱いで嗅いでみるも、やはり大差無い。


 どうしようかと思考を巡らせつつ辺りを見渡せば、俺の荷物一式が部屋の片隅に転がっていた。

 その中から旅で着ていた服を手に取る。鼻に近付けて匂いを嗅げば、枕よりかは匂いが感じられた。

 それらをワンピースに突っ込み丸め、枕の代わりに姫さんの鼻先に置くと、

「お姉様の匂いだぁ」

 満足そうに顔を埋めては寝入っていく。

 そしてそんな姫さんを残し、制服姿に着替えた俺は部屋を後にするのだった。


 早朝の酒場に顔を出すと、既にマスターが朝食の準備を始めていた。

「おはようございます」

「おう。サツキ、お前さんは掃除をしてくれや」

 こちらを振り返ることなく、肩越しにカウンターに置かれた掃除道具一式を指差すマスター。命じられるままに俺は、モップで床を拭きだした。

「おふぁよぅ、サツキ」

 掃除しているとドーマさんが奥からからやってきた。

 出勤前に朝食を取りに来たと言う。


「昨日はちゃんと寝られたかい?」

「あっ、はい。色々と大変だったけど、朝までぐっすり」

 風呂での出来事を思いだしては、少しだけ渋い顔で答える。

「姫姉は?」

「姫さんなら、俺のダミーを抱きしめて部屋で熟睡中」

「ダミー?」

 俺の言い回しの意味が掴めず、怪訝そうに眉を潜めるドーマさんだった。


 掃除を続けながら、朝起きたら姫さんに抱きしめられ、匂いを嗅がれていたことを話す。

「ふーん。あたしも小さい頃、姫姉に抱きつかれて大変だったんだよ。振り解こうと思っても全然離してくれなくて、苦労したのを覚えているよ」

 同病相憐れむ――ってな訳でも無いんだけど、俺の心労を理解してくれるようだ。


 しかし、小さい頃の姫さんか……

 そんな子に抱きつかれるなんて愛らしくもほほえましそうな気もするけど、当時から怪力だったりするのかな?

「でも、良く抜け出せたね。結構大変だったでしょ?」

「少し手こずりましたけど、簡単に抜け出せましたよ。どっちかと言えば、その後の方が問題だった気が……」

 自分の身代わりを用意するのが大変だった。


「姫から抜け出せただと?」

「!?」

 いきなり背後から声を掛けられ、俺の身体は大きく跳ねた。

「マスター、驚かせないで下さいよ」

 そこに居たのは、フライパンを手にしたマスターだった。筋骨隆々ながらも小柄なドワーフだけあって、声が下から響いてくるのでびびった。

「お前――」


「ドア、ドーちゃん! お姉様が、お姉様がいないの!?」


 けたたましい声を上げて姫さんが奥の階段から駆け下りてきた。その姿は俺が着ていたのと同じワンピース状の寝間着のままだ。腕には俺の服を突っ込んでまとめたダミーが抱かれていた。

「落ち着いて姫姉。サツキならそこにいるから」

「お姉様!?」

 俺の方へと振り向いた姫さんの瞳がキュピーンと光ったように見えた。

「お姉様ぁ――!!」

 獲物に跳びかかる猫科の生き物が如く、俊敏な動きで一足飛びに向かってくる姫さん。その鋭いまでのタックルに迫られ、

「あぶな!?」

 つい、紙一重で避けてしまった。


 ドギャン!


 ターゲットを失った姫さんはその勢いを殺しきれず、激しくも思いっ切り鼻から柱の一つにぶつかっていた。

 それはもう、宿全体が揺れそうなほどの強さで。

「だ、大丈夫か?」

 起き上がらない姫さんに声を掛ければ、鼻血混じりの恨めしそうな顔で睨み返された。

「えぇっと、姫さん?」

「酷い! 酷いですわ!! 酷すぎますわ、お姉様! 勝手に居なくなるなんて!!」

 若干理不尽な避難を受ける。

「そんなこと言われても仕事だし……」

「お、ね、え、さ、ま――」

 姫さんはゆらりと立ち上がると、にたりと笑っては俺へとターゲットを定めてきた。

 再び飛びつかんとばかりに、脚のバネを活かすべく腰を落とす姫さん。膝の関節が伸びきる寸前――


「わぷっ!?」


 いきなり顔前に布巾を投げ付けられ、その初動が止められる形に。

「何をしますの、ドア!」

「鼻血を拭け、鼻血を。それと着替えてこい。もう、飯の時間だ。寝間着姿を宿泊客に見られるぞ」

「あうぅ」

 自分の姿を思いだしたのか、顔を真っ赤に染め上げる姫さん。何故かジト目で俺を睨み付けてくる。

「お姉様、逃げないで下さいませ。絶対に、絶対に、絶対に、ぜーったい! 逃げないで下さいませ」

 激しくも強く念を押しては、上の部屋へと戻っていった。

 しかし、

「逃げるも何も……俺、この格好で店から出る気は無いんだけどな」

 さすがにウエイトレスの格好で屋外を出歩く勇気は無かった。

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