第6話

 温もりの中で共にまどろみ、気が付けば日はとうに傾きそのかけらを残すのみとなっていた。窓の景色にそのことを確かめたリアは、規則正しく吐息を漏らす隼人へと視線を戻し、幸福感に唇をほころばせる。しかしそれを自覚したとたん罪悪感が腹の底から溢れ出し、嫌悪に肩が大きく跳ねた。眠りの深い所から戻ってきていたのだろう。ぼんやりと隼人が目を開けた。眠る前には顔の右半分を隠していた髪は重力に流れており、焦点の合わない両目と真正面から向き合う。

――嘘だ。その色を認めた己の両目を、リアはすぐさま否定した。

これは、暗がりが見せる錯覚、もしくは、寝ぼけた自分の勘違いなのだと、そう思いたかったのに。

「そんなにじっと見んな」

 掠れた声に、右目を覆う手のひらに、それが幻ではないと確信を得てしまう。

「隼人様」

 驚きに震える声は囁きのように潜められた。

「貴方様の瞳は、何色なのですか」

 にぃっと口角が上がる。それはけして楽し気ではなく、多分に諦めを表していた。ゆっくりと外された手のひらの向こう側には、黄色に光る満月。知らず、息を飲み込んでいた。

「右は黄色、左は緑のオッドアイ。普段は色付きのガラスレンズ入れて同じような色にしてるんだよ。視力も悪いしな」

 ウルフアイ。黄色の瞳は、森の民が多く持つ色合いだ。ザルド帝国と隣国との国境に挟まれた山間で、狼と共に生きる彼らを人々は恐れ、蔑み、異物として忌み嫌っていた。何より、かつてザルド王の首を刎ねた過去がある為にその確執は埋まることがない。

 黄色の瞳(ウルフアイ)は人と思うな、あれはただの獣だ。

 外から売られこの地へ来たリアでさえ、その言葉を知っているのだ。根底に刷り込まれた恨みは深い。

 そんな瞳を、片目とはいえ持って生まれた彼の歩みはそう楽なものではなかっただろう。ガラスレンズなどと便利なものは、ごく最近流通し始めたばかりなのだから。

「娼婦だった母親は元々森の民だった。どういった経緯で娼婦になったかは知らないが、一族にしては黄色味の薄い、明るい茶色の瞳を持っていたらしい。森へ帰りたいが口癖で、だから深緑の瞳を持った親父様と親密になって、俺が生まれた。気味の悪い、両目を持って」

 言葉を発せないでいるリアを置いていくように、隼人はとつとつと自身の話を始めた。笑みは諦めから自嘲へと変化する。

「明らかなウルフアイじゃ娼婦には出来ない。かといってウェル・ノルジアの店番にもなれない。だから父親は俺にデザインの基礎を叩き込んだ。極力誰とも会わずに、それでも自分の力で金を稼げる方法として」

「その才能を見出していたからではないのですか」

「父親との一番古い記憶が、ジュエリーを机の上に置いて、俺に鉛筆を持たせて、さぁこれを描いてごらんと言ってる声だ。好きだ嫌いだ、才能がどうこうという前にそれしか与えられてこなかったんだ。……だからこれを失ったらもう、俺には、何も残らない」

 隼人は話し続けた。

「でも、俺の片目が黄色だって分かったとたん、どんな依頼も吹き飛ぶんだよ。どんなに良い出来のデザイン画だって……ただのゴミになる。まぁ、そんな噂が広まらないように情報を駆使し始めたのが璃一で、今じゃ国内有数の情報屋だから。少しはこの目が役立ったってことなのかな」

 最後はおどけてみせた隼人の頭を、引き寄せ腕の中に閉じ込める。リア、と肌に直接響く声が心臓を震わせた。

「この国に生まれた人は皆、幸せなのだと思っていました。不幸や苦しみなんて、知らないと」

「そんな訳ないだろ。生きてりゃ、誰だって苦しい」

 当たり前だ。当たり前だが、自分の不幸で目の前に闇を作っていたこの瞳には、光しか見えなかったのだ。眩しさに目をそらし、己の闇に浸っていたに過ぎない。愚かだ。自身の愚かさに、怒りさえ覚えた。

「――……私は、自分の不幸に酔っていたんですね」

 思わず力のこもった腕から逃れようと隼人が身をよじる。慌てて腕を解くと、隼人はそのまま上体を起こして乱れた前髪をかき上げた。

「知らねぇよ。でも、そう簡単に流せる過去じゃなかったんだろ」

 口調とは裏腹に優しい声音だ。リアは隣へ同じように腰かけ、ゆるゆると首を左右に振った。

「話せばちっぽけな物語です。取るに足らない、道端の石ころのような」

「それでも俺は知りたい。それが、あんたの事ならば」

 誰にも、話すつもりなどなかった。そこは、どんなに親しくなった相手にも踏み込ませない不可侵領域であるから。けれどそれと同時に、それは身体を押しつぶそうとする大きな重しでもあった。誰かに話したい、けれど、話せない。そんな葛藤が、事故のような形とはいえ、相手の傷口を覗き見てしまったことで天秤を傾けさせていた。

「つまらないですよ?」

 なおも逡巡する心に、隼人は静かな声で許しを差し出す。

「いいから」

 その重そうな荷物を、俺にも寄越せ。言外にそう告げられた気がして、リアは心が震えるのを感じた。

「……分かりました。上手く話せませんが、ご容赦下さいね」

 そう前置きをしてから、リアはようやく話し始める。今もなお血を流し続ける傷を負った、その経緯を。


 親に売られた。口減らしだ。それを理解できる程度には、子どもではなかったのだろう。けれど大人でもなかった。商船で旅を続ける人買いにとって自分は、都合よく沸いてきた娯楽のためのおもちゃで、それに逆らうだけの力を持っていなかったのだから。

 慰み者。そんな言葉を知らずに、けれどそうとしか呼べないものに自分はなっていた。心はとうに死んでいて、浮かべる笑みはへらへらと薄っぺらい。それでも大きな体の下で可愛らしく喘いでいれば、それだけで彼らは満足だった。そしてそれだけが、自分を生かす手段だった。

 ある時、気まぐれに商品となった人々を見せられた。牢の中でみすぼらしく背中を丸めたそれらを、瞳は何の感慨もなく映し続ける。いくつの牢を覗いた後だっただろうか、そこに彼がいた。風景を映すのみだった両目が吸い寄せられるように、タケルは――当時はそう呼ばれていた――美しい銀を持った彼を見つけたのだ。

「あれ、すぐに売らないとダメなの」

 思った時には声が漏れていた。

「なんだ、欲しくなったのか」

 その時隣に居たのは、人買いの頭だったと記憶している。

「うん、あれ欲しい」

 だから細い指先で示した銀色は、彼の采配ひとつでどうとでもできたのだ。

「分かった」

 それでもこちらの願いを叶えてくれたのは気まぐれからだろう。男は牢を叩き銀色の注意を引き付けた。くすんだ世界の中で、菫の瞳が場違いに輝いている。

「お前、名前は」 

「ルドウィーク」

 カサカサの唇を開き、彼は小さな声で答えた。少し低い、自分と同じ大人でも子供でもない青年の声。それをもっと聞きたくて、一歩牢に近づいていた。

「ルドウィークね。出てこい、お前は今日からこいつのおもちゃだ」

 顰められた眉に、いつも通りへらへらと笑ってみせる。

「よろしくね、ルドウィーク」

 軋む音を響かせて歯車が狂い始めた。遠くに鳴るそれを、今は聞こえないふり。どうせ自分の人生など、とっくに狂っているのだから。

「あんた、何なんだよ」

 タケルに与えられた小さな自室へ閉じ込めるなり、ルドウィークは鋭い視線でこちらを睨みつけてきた。ここに居るということは、誰かしらに売られたからのはずだが、ずいぶんと好戦的で恐れの無い性格をしているらしい。

「何って?」

 仮面の如く貼りついた笑顔のまま問いを返した。いびつなその表情に、彼の眉間のしわは余計深まり、半歩距離を取られる。

「俺はまた売られるんだろ。なのに、突然、あんたのおもちゃだとか言われて……俺を、どうするつもりなんだよ」

 早口にまくしたてた問いかけの数々に、タケルは表情を変えず納得して頷いた。恐れが無いのではない。怯えているからこその好戦的な態度なのだ。それに気が付けば、その姿は微かに覚えている故郷で出会ったノラ猫を彷彿させた。確か猫は、上から見下ろしてはいけないと聞いたことがある。

 タケルはベッドに腰を掛けることで姿勢を低くし、ルドウィークを見上げる体勢をとった。

「どうもしないよ。僕が気に入ったから手元に置いてるだけ」

 全身の毛を逆立てたままのルドウィークは、視線をさらに尖らせ質問を重ねた。

「じゃあ、あんたは、何なの」

「僕? 商品以上商人未満、の慰み者かなぁ」

「は?」

 会話が途切れさせる空白を少し、そして再開。

「誰の」

「彼らの」

「あんた、女なのか」

「男だよ」

「だったら、おかしいだろ」

「さぁ。良く分かんない。でも、女の人だといろいろ考えなきゃいけないけど、男なら考えなくて済むから楽ってこの前言ってたかな」

 再びの絶句。言葉を失った彼は何度も口を開閉させ、紫の瞳でタケルの頭からつま先までを何度も往復した。

「……俺も、そうなるのか」

 ようやく呟いた一言に、タケルはキャラキャラと高い笑声を浴びせる。

「君が気持ちよくなりたいなら、いつでもそうしてあげるよ。でも、あの時はただ本当に欲しかっただけだから、ここに居てくれれば、今はそれでいいかな」 

 威嚇が止んだ。視線からも鋭さを消しさり、代わりに困惑の色を宿らせる。そんな様子の彼に、安心させるように笑いかけたつもりだが、やはりへらへらと薄っぺらい笑みしか浮かべられなかった。

「ルド、僕のおもちゃになってよ」

 縋りついたのはたぶんきっと、自分の方だった。

 それから幾日かが過ぎていった。相変わらずタケルは呼ばれれば船員たちを慰める、そんな日々を送っていた。心を錆びつかせ崩壊へ導くだけの行為の連続だったが、自室に戻ればただ隣に居てくれる存在がいる。そのわずかな変化が、彼の壊れた心を少しずつ修復していった。

「ただいま、ルド」

「お帰り」

 そしてルドウィークも監禁されているとはいえ、穏やかな日々を過ごすうちにタケルに心を開くようになっていた。

「今日はねぇ、すごかったんだよ」

 弱いスプリングが悲鳴を上げるほどに勢いよくベッドへ飛び乗る。眉を下げて笑い、ルドウィークは片手を上げてタケルの会話を制した。

「いや、その話はいいから。聞きたくない」

「なら外の話を聞かせてよ」

「お前、そればっかりだよな」

「だってもう、あんまり覚えてないから」

「そういうこと、笑って言うな」

 困った顔つきで優しく頭を撫でられた。その手のひらがむず痒くて、つい頬が緩んでしまう。それを見たルドウィークは驚いたように目を丸くさせ、次いで嬉しそうに目を細めた。

「何?」

「そうやって、いつでも笑っていられればいいのになって」

 さて、自分は今どんな顔をしているのだろう。分からないが、彼の願いが叶わないことは分かった。自分が心を取り戻せる場所は、この狭い部屋の中にしかもうないのだ。

「君の隣じゃなきゃ、笑えないよ」

「何だよそれ」

 二人だけの世界だった。お互いだけが頼りの小さな世界がそこには生まれていた。

縋りついたのはタケルだったが、しがみついたのはきっとルドウィークの方だった。そうしなければ彼は、水も食べ物も得ることが出来なかったのだ。それでもタケルの境遇を知ってしまえば、胸に抱くのは自身を閉じ込めた憎しみではなく、憐れな者に対する慈愛の心。それに、時折タケルが持ち帰る匂い立つ色を混ぜれば簡単に、別の愛情と区別がつかなくなってしまう。

 だから恋に落ちたのは、必然だったのかもしれない。

 歯車は回る。いびつな歯を交えながら、運命は回る。日に日に大きくなる軋む音。聞こえないふりも、もうすぐ出来なくなるだろう。それでもまだ見ないふり。恋は盲目、なんて嘯いて。

 好きなのかもしれない、と言ったのはどちらだっただろうか。ルドウィークを閉じ込めた日からどれほどの時間が経ったのかも分からなくなった頃だった。――元より時間感覚のない生活をしていた為、経過時間を把握しようとする方が愚かだとも言える――タケルはその日初めて、口づけは幸福感を得るものだということを知った。そして体を繋げるという行為もまた、それ以上に幸せな気持ちにさせるものだったのだ。知らなかった、知らなかった、知らなかった。そして、知らなければ良かった。

 タケルは船員たちとの行為を苦痛に感じるようになってしまったのだ。今まで通り可愛らしく喘ぐことも、彼らを満足させることもできない。そうなれば相手は機嫌を損ね、憂さ晴らしに暴力を振るった。身体(外側)の痛みと心(内側)からの痛みに、頭がおかしくなりそうだ。へらり。残ったのは、薄っぺらい笑顔だけ。

「なぁタケル、一緒に逃げないか」

 終焉の呪文は苦し気に、薄い唇から放たれた。

「ニゲル?」

 言葉の意味が分からない。ニゲルとは、逃げる事を言っているだろうか。しかしどこから逃げるんだ? ぼんやりとした頭は確かな思考が出来ずにふわふわと漂っていた。

「そう。次の港に着いたら一緒に逃げ出そう。ここから、この船から逃げよう」

 タケル。呼ばれた名前に菫色を見た。強い、強い光を宿したそれがざわめき続ける事で現実から逃げていた思考を黙らせる。静まり返ったその場で声をあげたのはただ一人。

 彼を失いたくない。その一言のみ。そうなれば、彼の言葉に返す答えは決まっていた。

「僕、早く走れるかな?」

 歯車は回る。噛み合わない歯をそのままに狂い壊れゆくその音は、もうハッキリとこの耳に届いていた。見ないふりはもう出来そうにない。ようやく開けた瞼の向こうでは、ひとつの世界を動かし続けていた歯車が最後の時を迎えていた。

 そして新たな歯車が動き始める、ひとつ物語の終焉へと。

 二人の逃亡劇は、長くは続かなかった。元々逃げ切る自身も計画も無かったのだから仕方がない。しかしそうなれば、彼らは裏切り者として自分たちを売りさばくはずだと思っていたのだ。だが捕まった二人に待っていたのは、豪雨のような暴力の嵐だった。彼らも商人だ。これから売る商品を手ずから傷つけることはしないはずである。つまりそれは、彼らに二人を売る意志のない証だった。

 なぜなら二人はもう商品ではなく、彼らのおもちゃだから。そして、いらなくなったおもちゃは、ゴミにして捨てられる運命しか持ち得ない。廃棄処理をするための黒光りした鉄の塊が、男の手の中で出番を待っていた。

「まさか、逃げ出そうとするとは思わなかったな」

 船の中にある一番大きな牢の中。両手首を鎖で戒められた状態で船員たちに蹴り、殴られ床に伏していたタケルを彼らの頭が胸倉を掴んで持ち上げた。目の前いっぱいに広がる冷たい笑みはここ最近で見慣れたものだ。経験則からくる怯えに、タケルは身を強張らせた。

「俺が、無理やり連れだしたんだ」

 必死の形相で、血で赤に染まった唇が叫ぶ。美しかった銀色も今は無残に乱れ、世界に紛れてくすんでいた。

「嫌がるそいつを、俺が無理やり引っ張っていったんだ。だから、そいつは悪くない」

「いいや、悪い」

 間髪入れずにルドウィークの言葉を否定した男は、タケルへと視線を戻し同意を求めるように、なぁ、と笑った。タケルは、答えることができない。ただ震え、男の次の言葉を待っていた。

「あいつがお前に惚れなきゃ、一緒に逃げるなんて発想は浮かばないだろ? だったら誑かしたお前も悪い」

 男の細い指先が頬を撫でる。触れた先から血の気が引いてゆく感覚がさらに身体を震わせた。どうして忘れていたのだろう。彼らに逆らってはいけない、そう骨身に染みるほどに教えられてきたというのに。

「だから、そんな行動をとらせたお前が責任を持ってこの事は処理しなきゃいけない。分かるな」

 分からない。頭の隅で上がった叫び声は小さく、彼らに調教された身体は従順に頷き返していた。

「タケル!」

「少し黙っていろ。おい、そこに繋いでおけ。お前も、こっちだ」

 笑みを消し去った男は手荒にタケルを立たせ、両手を上げるようにして壁に繋がれたルドウィークの前へと運んだ。向かい合った彼の目に浮かぶ怒りの炎が、後ろに立つ男へ向けられたものだと理解しながらも、自分を責めているようで呼吸が苦しくなる。

「ルド、ウィーク」

 すぐ近くにいるはずなのに、彼の表情が滲んで分からなくなった。今では耳元で囁く男の声だけがハッキリと輪郭を保っている。

「ほら、ちゃんと握って」

 後ろから抱きしめるようにして、男がタケルに拳銃を持たせる。嫌だと叫ぶのは心だけで、身体は男の言葉に従順だ。両手を包み込まれたまま、照準は二つの紫の間に向けられた。

「大丈夫、この距離なら、外れない」

 ひゅーひゅーと鳴っている細い呼吸音がうるさい。世界は相変わらずぼやけ、脳は心臓の鼓動に揺さぶられてもう役立たずだ。自分が今どこで何をしようとしているのかさえ分からない。

「タケル」

 その声は、震えていなかった。やさしく響くそれを鼓膜は優先的に拾い上げ、脳に焼き付けてゆく。

「お願いだ、タケル。忘れないで――」

 乾いた破裂音が鼓膜を切り裂いた。歪んだ世界はその瞬間朱に染まり、鉄の匂いが充満する。

「え――」

 遠くに聞こえた自分の声。手首にはまった鎖の立てる高い音を聞いたのを最後に、タケルの意識は闇に呑まれた。

 その後の顛末は、リアとなりだいぶ落ち着いた頃に聞いたものである。

元より、リアの乗っていた商船は悪い噂の絶えない船であった。その為、入国を許可したケイヤ側は事の真相を探ろうと彼らの船を警戒し、巡回を行っていたそうだ。そこに聞こえてきた銃声。気にしていなければ勘違いかと思うような微かな音を根拠に、ケイヤはすぐさま監査を強行した。結果商人たちは、船に詰まれていた荷物全てを剥奪され、あまつさえケイヤへの入国を永劫禁止されたという。

「正直、ここへ売られてしばらくの間の記憶はありません。ある日突然、リアという名前に反応して目を覚ましたら、ここに居たという感覚でした」

 俯いたままに話していた頭を、温かな腕が包み込んだ。微かに心臓の音が聞こえる。

「どこがちっぽけだ、馬鹿」

 小さく隼人がつぶやいた。

「この国に売られた娼婦は皆同じようなものですよ。誰しもが、思い出したくもない過去を持っているものです」

「だからって、お前の傷が無くなるわけでも、癒えるわけでもないだろ。……ごめんな。嫌な事話させて、悪かった」

「謝らないでください。私が、話したかったのですから」

 そうかと呟いた彼が優しく頭をなでる。あやすようなその仕草に、リアはようやく自分が泣いていることを知った。

 どうすれば止まるのだろうかと考えるも、蓋の開いた記憶の本流が彼の姿を映し出す所為で何も考えられない。時系列もなく映し出される姿は、やがて夢の彼へと姿を変えた。ひたと、紫の瞳が蝶を刺す。

「ルドウィーク……」

 それは、罪の名前だった。



男に足を広げることが自分を生かすための唯一の手段。それは、あの頃から何も変わっていなかった。隼人が描くことしか出来ないように、自分もこれしか生きる術を知らないのだ。

それでも、あぁ、空は青い。あの頃には感じることの出来なかった自由がここにはあった。

「機嫌が良さそうだね」

 ベッドの淵に腰を掛けていたリアは、後ろで横たわる男に声をかけられぼんやりと思考していた意識を彼へと戻した。情事の後のまま衣服をまとっていない身体は、まだ色を滲ませ男を妖艶とさせていた。

「えぇ。あなた様の隣にいて機嫌が悪くなるはずがありませんから」

身体を捻って顔を近づけ囁く。綺麗で鋭い刃物のような彼は、その言葉に喉の奥で笑った。

「うまい口だな。でも、あなた様じゃなくて名前で呼んでくれると嬉しいな」

「申し訳ございません、衛士那様」

 くつくつと笑い続ける衛士那は、口元とは反対に冷たい視線を投げて寄越す。

「ねぇ、やっぱあいつも上手いの」

 口元同様、口調は明るく、その温度差が彼を歪に見せた。

「あいつとはどなた様のことでしょうか」

「ウェルノの隼人のこと」

 その問いかけにリアはようやく、彼が先日隼人に声を掛けていた人物であることを思い出した。あの時も仲が良いとは思えない応答をしていたが、こうして比較に出してくるということは、やはり友好的な関係性ではないのだろう。そこまで考えて、リアは娼婦として身に着けた笑みを唇に乗せ質問をあやふやにかき混ぜた。

「衛士那様、今は私と二人きりなのですよ。他の方の話など、聞きたくもありません」

 伸ばされた手に抗うことなく捕まり、口づけを交わす。熱を灯さないそれは長く続くことなくそっと離された。至近距離で見つめるヘーゼルの瞳が鮮やかにリアを映しこむ。

「本当に、君は美しいな。惚れるのもよく分かる」

「衛士那様のように美しい方に褒めていただけるなんて、光栄です」

「美しいものは褒めるとさらに美しくなるものなんだ。人でも物でもね」

「では私も、もっと美しくなってしまいますね」

 軽やかに笑った衛士那が再び言葉を紡ぐ前に、部屋のベルが二度鳴った。終了時間が迫っていることの合図だ。

「もうそんな時間か。リア、この後予定は」

「申し訳ございません。次の予約が入っておりますので」

 延長を申し入れてくれようとしたのだろう衛士那は、頭を下げるリアにあっさりと身を引いた。

「そう。なら仕方がないね。また会いに来るよ」

「ありがとうございます。お手伝い致しましょうか」

 短く肯定を返した衛士那に近づき、身なりを整える彼に手を貸す。肌触りの良いワイシャツが情事の後を覆い隠し、彼に清廉な印象を抱かせた。リアが前のボタンをはめている間に衛士那は装飾品で手元を彩る。その中のひとつ、右手の薬指に通された指輪に目を惹かれた。思い浮かんだのは、今この場にいない彼の顔。

「ホント、気に入らないねぇ」

 気を取られていたのはほんの数舜だったはずだが、衛士那はそれを見逃さなかった。指の裏でリアの頬を撫で注意を引く。

「君の心まで全部欲しくなるよ」

「今は全て、あなた様のものでございます」

「あの扉を出るまでのほんの少しの間だけ、だろう」

「そんなほんのひと時の夢を、買いにいらしたのでしょう」

 問いかけに、問いかけで返したリアの態度に衛士那は気を悪くすることなく喉の奥で笑った。

「また来るよ」

「えぇ、楽しみにお待ちしております」

「隼人にもよろしく言っておいてよ。この後会うんだろう」

 ヒヤリと言葉の刃が首筋に当てられる。どうして、知っている? 僅かに動揺した心を覆い隠し、間が空く前に答えを紡いだ。

「怒りますよ?」

 気づいただろうか。スッと目を細めて笑った彼は、悪かったと言葉を残して部屋を出ていった。

 おかしな客だ。彼に抱く感情はそれに尽きる。この部屋に来てから、ヘーゼルの瞳が映していたのは、ほとんどリア越しに見た隼人の姿だったはずだ。なのに時折、ひたと真っすぐに見つめては戸惑うように視線をぶらす。こちらを見ているのか、見ていないのか。中途半端な心持ちのままリアもまた次の約束の為に部屋を出たのだった。

 身なりを整えるだけの間を空け、先ほどとはまた別の部屋へと足を運ぶ。扉を少し開けただけで中から聞こえてきた筆記音に、ため息とも苦笑ともとれる吐息が漏れた。

「お待たせいたしました、隼人様。またお仕事ですか」

「そのうち使えそうなのが浮かんだから描いてる。ちょっと待ってろ」

 顔も上げない彼の姿に対してリアはもう諦めしか覚えない。彼に描くなと言うことは呼吸をするなと同意語なのかもしれないと思い始めているほどだ。

「手元を覗いてもかまいませんか」

「好きにしててくれ」

 本当に話を聞いているのかも怪しいが、一応は許可を得たリアは遠慮なくその手元を覗き込んだ。あぁ、すごい、美しいな。白と黒とでしか描かれていないデザイン画だったが、それでも心を動かす何かがそこにはすでに宿っていた。

「欲しいか?」

 余りにじっと眺めていたのだろう。おかしいと口元を歪めた隼人が緑の瞳を上げていた。その両目の色が左右で微妙に違うことが今なら分かる。

「今日は、ガラスレンズをされているのですね」

 訊かれた問いを忘れ、リアはそう問いかけていた。彼の口の端がすっと下がり、視線を斜め下へ逸らされる。

「外に出るときは、大概そうしているよ。この前は眠るつもりだったから外したんだ。そうしないと起きたときに痛いから」

「私にも見られたくありませんでしたか」

 問いを重ねると彼はあからさまに眉をしかめ機嫌の悪さを伺わせた。

「色の意味を知らなくても、左右で色の違う瞳は醜いだろ。醜いものをわざわざ晒したいとは普通思わない」

「でしたら」

 あの日自分は、彼の告白を受けて過去を話す決意をした。では彼は? 自らの弱みを晒さまいと常に警戒しているはずの彼が何故、あの日は隙を見せたのだろう。あの日隼人が帰ってから幾度となく頭をよぎり、聞くべきか聞かざるべきか悩んでいた問いが、彼を前にした今、ためらいもなく口から放たれていた。

「でしたら私を遠ざければ良かったはずです。自ら懐に招き入れたのは、なぜですか」

 眉間のしわが深まる。しかしそれは機嫌を損ねた故ではなく、問いかけに対しての答えを探して頭を悩ませているが故のものに変わっていた。

「……あんたが、欲しかったから。眠すぎて頭回ってなかったのもあるけど、あんたになら見られてもいいと思ってた、気がする」

「気がする、ですか」

「後付けで今考えたんだ。曖昧にもなる。でも」

 天井を彷徨っていた天然の、それから人工のエメラルドが黒曜石を捕らえた。その深い緑色に、呑み込まれてしまいそうだ。

「あんたに見られたくなかったことと、あんたになら見られていいと思ったこと、それからあんたが欲しいと思ったことは全部、同じ理由だよ」

「それは、どんな……」

「勘違いじゃなければ、あんたが俺に対して抱えてる感情と同じものだと思ってる」

「私は」

 今度はこちらが口ごもる番だった。動揺に唇が震え、声は喉の奥に引っかかり掠れた声しか出てこない。耳の奥で、心臓が鳴っている。

「私は、勘違いにするつもりです」

「どうして」

 いつの間にか質問者と回答者が入れ替わっていた。緑の瞳に絡まった視線をなんとか解き、もう合わせまいと頭ごと俯かせる。右手首に感じる重さもまた、勘違いだと笑えればいいのに。ふるえるそれを左手で強く握った。

「彼を、忘れたくないのです」

「だったら忘れなきゃいい」

 言葉尻にかぶせて言い募る隼人に、首を振って否定をする。身体の奥が切り裂かれているようだ。痛くて堪らない。

「あなた様といると、幸せに溺れて忘れてしまいそうになるんです。彼のことも、自分が、人殺しだということも」

「違う――」

「いいえ、引き金を引いたのは、私でした」

 続けれれる言葉を待たずに強く否定をした。誰がなんと言おうとその事実は変わらないのだ。

「でもそれは、あんたの意志じゃなかった」

「それでも! あの日私が彼を求めなければ、彼は今も生きていたかもしれないのですよ! 私の気まぐれで死なせてしまった彼を忘れて一人のうのうと生き延びているばかりか、あまつさえ彼を忘れて幸せになることなんて、出来るはずがありません! そんなこと、彼が許してくれるはずがない」

「死んだ奴は許しちゃくれねぇよ、一生な」

 傷だらけの心臓に大きな杭が撃ち込まれた。深々と刺さり血を流すことも出来ず、激痛だけを全身に巡らせるその杭を服の上から握りしめる。呼吸はさらに短くなり苦しさに背中が波打つ。真っ白に煙ってゆく感覚が、背中をさする温かな手のひらを感じ取った。

「落ち着けリア。俺も言い方が悪かった。大丈夫、ちゃんと息吸って、リア」

 耳元で囁かれる名前に身体から力が抜けてゆく。抱きしめられた身体はそのまま彼に寄りかかり、涙の溢れる目元を肩に押し付けた。次第に呼吸は落ち着きをみせ、脳を覆っていた煙もまたゆるやかに晴れていった。そうして落ち着いたのを見計らい隼人は穏やかな声でリアを諭し始める。

「リア、いいか。死んだ奴は生きてる奴を許してはくれない。そのかわりに、罰することも出来ないんだ。だからあんたのその罪は、あんた自身が許してあげなきゃ誰も許しちゃくれないものなんだ。わかるな」

 額を押し付けるように頷くことで答える。

「だったらもう許してやってくれないか。もうこんなに苦しんだんだ。見てるこっちが辛くなるほど、あんたは苦しんできたんだ」

「けれど、彼に言われたのです。忘れないでと。だから」

「大丈夫。あんたは愛した奴を忘れるような薄情な人間じゃない。それに、たぶんその言葉はあんたを苦しめる為に言ったんじゃないはずだよ。……これは、俺ならこう言ってたてだけの話だけど」

 仮定の話をすることにためらいを覚えるのか、隼人は語尾を濁し言葉を途切れさせた。

「俺だったらたぶん『忘れないで、あんたが殺したんじゃない』って、続けてたよ。きっと」

 そんなもの、ただの都合の良い妄想だ。そう、切り捨てることは出来なかった。瞼の裏に浮かぶ記憶の中の彼は、涙の幕の向こうで確かに笑っていたのだから。

「それでもあんたが自分は人殺しだって言うなら、俺はそれごとあんたを愛してやるよ。全部愛して、全部許してやるから」

「綺麗なセリフですね」

「酷い言い草だなぁ、おい」

 笑いに揺れる胸の音が直接骨を伝い耳に響いた。こうして彼に身を預けている時点で、もう言い訳など出来るはずがなかった。今更勘違いにも出来ない想いがまた涙腺を緩ませる。誰かを好きになることは、どうしていつも苦しいのだろうか。とめどなく湧き上がる、苦しくて切なくて甘い感情。それが今満杯になり、溢れだす。

「怖いんです。また失ってしまうのではと思うと、怖くて仕方がないのです。それにやはり、人殺しが幸せになってもいいものかとも思っております。けれどそれでもやっぱりあなた様のことが好きで、もう頭がおかしくなりそうです」

 自嘲に歪んだ口元のまま、リアは隼人から身体を離しもう一度緑と視線を絡ませた。次から次へと溢れだす涙は、彼への想いそのものだ。

「本当に、私の全てを愛してくれるのですか。こんな血で汚れた手を掴んでくださるのですか? 私は、あなた様を愛して、良いのですか」

 音を伴わない笑い声が短く聞こえた。今彼がどんな表情をしているのかは分からないが、涙を拭うために何度も頬に触れる細い指先はただただ優しい。

「あんた、存外めんどくさいんだな」

「え?」

 思いもしなかったセリフに思わず声が漏れた。それにまた、くすくすと甘く笑った隼人は、もういいよ、と諦めのセリフを吐いた。

「もういいよ、リア」

 何がもういいのだろうか。問いかけは口づけに塞がれ、尋ねることが出来なかった。閉じた瞼に涙が零れ落ち、再び開けた瞳は声音そのままに優しく笑う彼を映した。

「あんたもう、黙って俺に愛されとけ」

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