第4話

 男娼などをしていると、男性にも好みを持つようになる。別に女性客が来ない訳ではないので、もちろん女の人も大好きだ。ちなみに、胸はあった方が嬉しい。手に余れば最高だ。……ではなくて、男性の好み。男性は細身が好きだ。だから、目の前にある細い腰を襲いたくて仕方がない。

 そんな無防備な姿を晒す隼斗は、ベッドにうつ伏せに沈みぐったりとしている。その横に腰掛け、柔らかな髪を梳きながらリアは尋ねた。

「隼斗さま、今日はいかがなさいましたか?」

「ん、ちょっと疲れた」

 喋る為にだろう、隼人は仰向けに態勢を変えた。動きに合わせて顔にかかった前髪を、指先でどける。薄い金色の紗幕の向こう、瞑ったままの瞼の下には濃い隈がべったりと張り付いていた。昨日は自分の感情に振り回され見逃してしまっていたが、一週間前に見た時よりは確実に濃くなっている。

「また、お仕事ですか」

「しご……まぁ仕事か」

 薄く瞼を開けた隼人は言いよどみ、右肩のあたりをシャツの上からひっかいた。その姿になんとなくではあるが察しがつく。仕事の依頼かなにかで娼婦のもとへゆき、その場でついでとばかりに食われたのだろう。見えないだけで、この布一枚隔てた先の肌には情事の跡が散らばっているのだ。少し、胸が焦がれた。

「それは大変でしたね。またここで休んでいかれますか」

「いや、遠慮する。仕事を追加されたばかりなのに、続きで出てこられちゃ敵わないからな」

「出てくる?」

「夢の話。真っ黒い蝶が、時々出てくるんだよ。今眠ると、出てくる気がするから」

 黒蝶。夢うつつで呟かれた言葉が、今度は確かな音で唱えられた。不思議だ。今までどんな客を相手にしても開くことのなかった蓋が、彼の無意識の言動に何度も揺り動かされている。それこそ出てこられちゃ敵わないものばかりをしまっている箱だ。今は開くな、と自分を叱咤する。

「けれど、ひどい隈です。見ているこちらが辛くなる」

 身をかがめ、右目に口づけを落とした。持ち上げられた瞼の向こうは深く輝く緑色。そこに、やはり色欲は浮かばない。隼人は喉の奥で笑い、キスをした唇を親指でなぞった。

「ダメだ、リア。それ、眠りそうになる」

「襲いませんから、眠ってください」

 ダメだ。隼人は繰り返し、緩慢な動作で体を起こした。

「来るって言ったから、仕事の合間に時間空けてきたんだよ。だから、そんな長居もできない」

 約束を破ったと彼に怒りをぶつけたのはつい昨日の出来事。しかしこんな姿を見てしまったら、たとえ自分が待つしか出来ない身だとしても、過去の自分を叱責したくなる。

「約束など、やぶってしまえば良かったのです」

 ゆるゆると首を横に振られる。今日は、否定されてばかりだ。

「俺が会いたかったから。それに」

「それに?」

「昨日のリベンジもある。ちょっと待ってろ」

 重そうに腰を上げ、ソファへと足を進めると、捨てられた黒く小さなバックを開け、中を漁る。その手が細長い何かをつまんで外に戻ってきた。

「あぁ、あった。ほら、これ」

 そう言って手渡されたのは、昨日とはデザインの違うブレスレットだった。銀鎖を使っていることに変わりはないけれど、よりシンプルなものになっている。

「……隼人さまは、ブレスレットがお好きなのですね」

 溜息を押し殺して尋ねれば、隼人はいや、と否定してしばし口をつぐんだ。ギシッとベッドが鳴く。隣に座った彼は、リアの手首にブレスレッドを付けながら不明瞭に答えた。

「適当に作った物でも、あそこまで拒否されたのは始めてだった。だからついむきになった、かな」

 左手首に感じるブレスレットの重さと冷たさに触発され、脳裏に記憶が浮かんでは消える。シルバーの種類も昨日とは違うようだ。そのくすんだ色合いがさらに記憶を刺激させた。

「ですから、気に入らない事など無いと」

 蓋が揺れている。つとめて平静を装うが、うまくできている自信がない。

「なら、なんであんたは震えてるんだ」

 ほら、ばれている。鎖の冷たさに反応して震えだした指先に舌打ちした。もちろん心の中だけで、である。それから、営業用の笑みを浮かべ、隼人と向き合った。

「――……昔見た夢を思い出してしまったのです。よく覚えてはいないのですが、とても怖くて。それでついと言いますか、身体が勝手に反応してしまうのです」

「あんた、嘘下手だな」

「言外の意味を込めたつもりでしたが?」

 目線が合わさる。次の手を探るようにお互い押し黙ったせいで、居心地の悪い静けさが部屋に充満した。それもわずか、形のいい唇がふと思い出したように動き出した。

「ミナセって娼婦を知ってるか」

 一瞬戸惑い、急に変えられた話題のその向こう側を探る。表向きは笑みを刻んだままで、言葉を選んだ。

「アマリディアのミナセでしたら知っております」

「以前、彼女から何かアクセサリーを作ってほしいと依頼を受けたことがある」

隼人は顔をうつむけると、ブレスレッドをなぞりながら話しつづけた。鎖にじんわりと温もりが移る。

「条件はひとつ。ネックレスだけは作るなと言われた」

「何故、ですか?」

「ミナセはこの国で生まれ育ったわけじゃない。外から売られてこの国へ来たクチだ。あまり環境のいい人売りの船じゃなかったらしくてな、ネックレスでもチョーカーでも、首に何か巻くとその頃の事を思い出すから、嫌なんだそうだ」

 ついと目線が上がる。

「あんたも、そうなのか」

 あぁ、まただ。深い深い緑の瞳に、心の奥底を覗かれているかのようなこの感覚。自分自身も知りえない事を、知りたくもない事を暴かれるような、気味の悪い感覚に陥る。

 いっそ話してしまおうか。どうせ、たいした話ではないのだから。

揺れる思いに、クラリと目眩がした。

自分ばかりがこんな目にあっているわけじゃない。道端の石ころのように価値のない話だ。だから、だから……だけど。

「たとえそうだとしても、そうでないとしても、たった三度会っただけの方にお話しする事ではございません」

「それって、言外に肯定してるよな」

 合わさった瞳の中に、泣きそうに笑う自分がいた。お願い、忘れてないから。今は出てこないで、――。眼裏に浮かぶ人影を振り払うように首を振った。

「申し訳ございませんが、もうこの事でお話できることはございません」

 そう言うと、隼人は視線を逸らせ小さく何事かを呟いた。

「気に入らないな」

「え?」

 再び上げられた瞳は、苛立ちに熱を帯びていた。

「気に入らない。目の前に居るの俺なんだけど。なぁ、今、誰の事思い出してんの」

 怒らせた、まずい。本能的に離れようとした体を捕まれ、そのままベッドに押し倒された。両の手首をそれぞれ掴んだ手に体重をかけられ、下半身は足で体を挟むように拘束され身動きが取れない。望んでいた態勢なのに、緊張に体が強ばる。

「いっ」

 ブレスレットごと捕まれた手首が痛い。昨日に続けて二回目だ。頭の隅でそんなどうでもいい事を考えた。

「過去なんか思い出すな。俺だけを思い出せ。この痛みを、熱を……口づけを。そのブレスレットを見るたびに、思い出せ」

 熱い舌が唇を割り、口内を犯す。いやに上手いキスだ。このままバリバリと喰われてしまいそうな錯覚と陶酔が、脳までも犯す。ずいぶんと理不尽な怒りをぶつけられている気がするが、その結果がこのキスならば甘んじてそれを受け止めようと思ってしまう程に。それに不思議だ。瞼の裏に見えていた記憶の欠片は消え去り、今はもう、彼しか見えていない。

 噛みつくような荒い口づけは、だんだんと優しいものに変わっていった。……身体が、熱い。

「ぅん」

「リア……」

 腕を拘束していた手が解かれ、優しく頬を撫でた。涙でボヤけた彼の顔には、苦い笑みが浮かんでいる。

「最悪な客だな、俺は」

 寝不足で感情を制御できなかった。苦々しく続けられた言葉は鼓膜を揺らすことなく右から左へ流れ去っていった。

「隼人さま」

「出来れば、さっきの事は忘れてくれ」

 思い出せ、と言った舌の根も乾かぬうちに、今度は忘れろと言う。本当に、最悪な客だ。

「キスも、ですか」

「キスも、だ」

「嫌です」

 頭はまだぼんやりとしていて、焦がれるままに手を伸ばし、首に絡めた。今度は自分からキスをする。

「なら、許して欲しい」

 何を、とは問わない。きっと、何もかもをと言われるに決まっているから。それに、許せと乞われれば許すしかないのだ。それが、彼と自分との関係性なのだから。

 手首にはまったブレスレットが、付けた本人によって器用に外されてしまった。

「もうあんたを傷つけるようなものは作らないから」

 手の内に隠すように握られたそれを視線で追う。

「けれど、それがないと思い出せませんよ」

「だから、忘れろって」

「でしたら、忘れさせて下さい。今の、キスのように」

 困ったように彼は笑う。どうしたと言うのだろう。途切れた会話に首をかしげることで尋ねれば、甘い声が答えてくれた。

「帰る」

「は?」

 いい雰囲気は何処へやら。ためらいもなくベッドから降りた彼は、バッグを掴むと片手を上げて詫びてきた。

「悪い。これ以上あんたと居ると、頭おかしくなりそうだ」

「ちょ、ちょっと隼人様! どういう意味です!?」

 慌てて起き上がり、戸に手をかけた彼を捕まえた。振り向いた隼人に文句を言おうと顔を上げると、また口を塞がれる。触れるだけのキスに、動きを止められた。

「またな」

 後ろ手に戸を開け、部屋を出ていく彼の姿が見えなくなる。また遠い外の世界へと行ってしまったのだ。淡い約束を残して。

「またなって……。期待させないで下さいよ」

 ため息をつき、ブレスレットの痕に触れた。そこに残る、温もりを確かめるように。


 夢、だ。またいつもの、赤い死体と蝶の夢。しかし、いつもと同じではない。目が開かれているのだ。薄い紫色をしたガラス玉が。そしてただ景色を見ているだけのそれが、蝶を捕らえた。

 ――忘れたの。

 空気を揺らさない声が聞こえる。

 ――忘れないでよ、――。

 呼ばれた名前は聞こえない。ただ這い上がる恐ろしさに、蝶は、リアは花畑を見ることなく覚醒した。荒い息が自分のものではないように聞こえる。まだ身体の半分はあちら側に置いたままだ。それ故ちらつく紫に肩を抱いた。もうすぐ夜が明ける。広いベッドの上で一人、眠る前は隣にあったはずの温もりが、今はもうない。

 娼婦街にある建物は全て、客を迎える棟と娼婦が寝起きする棟とに別れている。道もまた客の通る表通りと、娼婦や娼婦相手に仕事をする者のみが通れる裏通りとがあり、商人は通行証が必要になる。こうして、徹底的に娼婦を隔離し守るように、この街は造られていた。定休日の存在も、そのひとつだろう。

 昼も近くにようやく起きてきたリアは、青い空を見上げてため息をひとつついた。胸の奥に漂っている雨雲を吐き出すように湿り、憂いを帯びたそれを吸い込んで、サラは大きな目を瞬かせた。

「どうしたの、リア」

 少し高めの少年のような声に、心配していると素直な感情を含ませる彼。先ほどからそこに居るのは知っていたが、存在を失念していたようだ。

「どうもしませんよ」

 取り繕うように笑ってみせたが、灰色の瞳は納得していないようだ。

「ユトじゃ、満足できなかった」

 何と言ってごまかそうと考えているうちに、恐る恐るそう尋ねられた。思いもかけない方向からのその問いかけに、会話が不自然に間を空ける。それと同時に、明け方に取り残されていた理由を理解した。

「あぁ、やっぱり。サラのところで口直しをしていたのですね」

「うん。お陰でちょっと寝不足」

「リアとやると、お前が恋しくなるんだよ」

 気だるそうに黙って聞いているだけだと思っていたユトだが、喋る元気はあるようだ。

「でしたら誘いに乗らなければ良かったのでは?」

 眠気覚ましに入れたコーヒーを傾ける。舌の上を流れる香りにまだ睡魔の居座る頭の奥がジンと痺れた。

「強引に誘っておきながら何言ってやがる」

「手を振り払うことも出来たでしょう。今までだって何度もそうしてきたのですから」

「夢を見たくないから抱き潰せってすがってきた手を振り払うほど、薄情じゃねぇよ」 

「夢?」

 また意外なところに食いついてきたな。

 疑問をたたえているだろう瞳から逃げるために、視線はコップへと注ぎ続けた。

「結局夢中になっていたではありませんか。途中で私だということを忘れるほどに。名前を間違えられるかと思いましたよ」

「間違えそうになったのはお前だろ」

「え、嘘。リアが? ありえない」

 すぐに疑問の矛先を変えたサラの幼さに、唇を少しほころばせる。誘導した会話の道先もけしてなだらかなものとは言えないが、もう一方と比べればずいぶんと歩きやすい。徒花の中でもこの二人とはよく話す間柄ではあるが、だからと言って話せる内容の夢ではないのだ。自分の思考に、二対の紫が脳裏に甦る。柔らかくなったはずの唇が、真一文字に結ばれた。

「そう思うだろう」

「そりゃね。ね、ユト。何て言ってたの」

「いや、俺もよくは覚えて……」

「リアが良すぎて?」

 恋仲であるサラに笑顔で尋ねられたユトは、視線を彷徨わせ、唇を親指の腹で何度もなぞった。言葉を探しているようであり、飲み込んでいるようでもある。微笑みと共に首を傾けられたのを視界に入れて、ようやく視線を戻した彼は、今度は親指の先をリアへ向けて言い訳がましく釈明をした。

「……だって、こいつだぞ?」

「ユトに褒めて頂けるなんて、光栄ですね」

「で、なんて言ってたの?」

「あー、確か。は――」

「隼人様、ですよ」

 先手を打って名を明かすと、サラの大きな瞳がより開かれ驚きを露にした。灰の虹彩は、陽光が差し込むとより一層その神秘さを増す。美しいな。渦中の人物がそう呟く声が聞こえそうである。

「それって、あのドタキャンした?」

「えぇ」

「珍しいね。リアがそんなに執着する相手なんて。もしかして、好きになったの?」

「私が、あの方を?」

 頷く彼に、笑みが嘲笑に崩れた。

「あり得ません。いえ、あってはならない事です。私と彼は男娼とその客です。これ以上の関係などありえませんし、それ以上の感情も必用ありません。それに、そんな事を望んでいい立場でもありませんしね」

「リア」

 言い終わると同時に咎めるような声が、斜め前から名を呼んだ。

「それは男娼としての立場か、それともお前自身の立場かどっちだ」

「娼婦だろうと何だろうと好きに恋して楽しく生きるのがこの国なのですから、私自身の立場として申し上げております」

 片手でカップの中身を揺らしながらつまらなそうに返答をした。軽く挑発するように上目に見やれば、ユトもまた冷たく瞳を光らせる。そこからは相手を傷つけることを構わない、棘を含んだ言葉の応酬だ。

「だったらそれまでの過程がどうであれ、今のお前はリアだろう。そんな事を望んでいい立場に決まってんじゃねぇか」

「理屈はどうであれ、過去があってこその私です。それを捨てることなど、どうしてできましょう」

「捨てろとは言っていないだろ」

「言っているようなものでしょう。捨てろ、忘れろと」

「自分で自分の首を絞めてるようにしか見えないんだよ。結局それのせいで今もお前は苦しんでるんだろ。いつまで縛られていやがる」

「私が私であり続ける限り、永遠に」

「理解出来ねぇな」

「お互い様でしょう」

 にらみ合いは長くは続かなかった。盛大に眉をしかめたユトが諦めたように鼻を鳴らし立ち上がったからだ。

「行くぞ、サラ」

 待って。とそれまで黙って聞いていたサラがやわらかに静止を求めた。

「僕も、外から来たからリアの言っていること、なんとなく分かるよ。どんな過程であれそれが今の僕をつくったものだから、捨てることはできないんだってこと。でも、今僕はサラだから。ユトの言うことも、なんとなく分かる」

 交互に二人を見ながらサラはとつとつと話す。

「どっちの言うことも間違ってはないと思うけど。でもリア。彼を好きなことは認めてあげてもいいんじゃないかな。自分の感情を殺すようなことは、しなくていいんじゃないかな」

「あの方が他のお客様とは違う、特別な方だとは思っております」

 硬い声音で出した応えに、ユトが盛大に舌打ちをした。

「らち明かねぇな。もういいだろサラ」

「……うん」

 足の悪いサラを抱き上げ、二人は部屋を出て行った。

「ありがとう、サラ。ごめんなさい、ユト」

「謝ってんじゃねぇよ、ばぁか」

 姿が見えなくなる直前にかけた声に、ユトは笑って、サラは小さく手を振って応えた。そうして冷えたコーヒーと共に取り残された空間で、ひとりため息をつく。

 彼らに心配されているのは痛いほど分かった。しかし、夢の話を告げなかったのと同様に、隼人に好意を持っていることを認めることは、譲れない一線なのだ。

これが、罰なのだから。

 ――忘れないで。

 また、声が聞こえる。胸の奥の傷を抉り何度も鮮血を溢れさせるその声に、眉をしかめて目を瞑った。

「憂い気な表情も様になるんだな」

 過去にとらわれ始めていた思考が、その声に切り裂かれた。反射的に声のした方へ顔を向けると、そこには彼がいた。

「は、やと様。どうしてここに」

 わずかばかりの庭と裏通りとを区切る柵の向こう側で、隼人はリアの問いに答えとして、首から下げていた通行証を振って見せた。

「あ、今そちらに。すぐまいりますから」

 大きな音をたてて椅子から立ち上がったリアは、言葉通り慌ただしく彼のもとへと足を急がせた。昨日も会ったというのに、心は急くばかりで身体が追い付かない有様だ。

「お待たせいたしました」

 髪を乱したリアの姿に隼人は笑い、視線を後ろの建物へとずらした。

「ここがあんたの店の裏店だったんだな。たまに通ってたけど、気づかなかった」

 今日もまた目の下には濃い隈が張り付いているが、昨日よりも体調は良さそうである。

「それは……この間初めていらっしゃったのですから当然ではないのでしょうか」

「チラとでもあんたを見たら、見逃すはずがないんだけどな。と思って」

 笑う彼にむず痒さを覚え、視線を下へと逃がした。すると目に入ってきたのは、少し着崩れた服とそこから見える赤い痕。

「女性との楽しいひと時の後で、ぼんやりとしていたからではありませんか?」

「は? 何言って――……言っとくけど、俺から手を出したんじゃないからな」

 首元を手のひらで覆い、強い口調で彼は言った。それでも、誰かと事に及んだ事は否定しなようだ。

「へぇ、左様でございますか。確かに、女性に困ってはいないようですね」

 心の内を温かく満たしていたものが、みるみるうちに冷たくなっていくのを感じる。それと同時に、どろりとした熱が思考を溶かし始めた。あまりの熱さに目の奥がクラリと揺れる。

「リア」

「早くお仕事に戻られては?」

「終わったら寄ってもいいか」

「生憎、今日は定休日です」

「なら、」

「隼人じゃないか」

 言葉を続けようとした隼人を遮って、その名を呼ぶ者がいた。声の主を確認した隼人は眉を顰めてその名を呟く。

「衛士那(えじな)」

 綺麗な男だ。それが、彼を見たリアの第一印象だった。抜き身の刃のような冷たい美しさ、それを纏った彼は薄い唇に弧を描きながら隼人の前で足を止める。彼の持つ雰囲気のせいだろうか、二人の間の空気はひんやりと張り詰めたもののように感じた。

「ここで会うとは思わなかった。仕事の帰りかい」

 腹の底に響く低い声だ。この声だけで女性を、いや男であっても多くの人を虜にできるだろう。男娼として値踏みするぶしつけな視線を意にも介さない彼を、リアは遠慮なく観察した。

「いいや、これからもう一軒回って帰る」

「ちなみにどこか聞いても」

「アマリディアだよ」

 ヘーゼルの瞳が驚きに見開かれた。その鮮やかな色合いは男には不釣り合いだが、逆にそのおかげで冷たさがやわらぎ人間味を感じさせている。

「まさか、ミナセじゃないだろうね」

 聞き覚えのある娼婦の名前に、隼人はハッキリと眉をしかめて舌を高く鳴らした。

「二人同時に呼びつけるとは、タチの悪い女郎だな」

「同意するよ。でもだったらもう行かないと、遅れてしまうね」

「それはテメェもだろ」

 リアと話す時よりも口悪く反論した隼人は、剣のある瞳をこちらへ突き刺した。

「話せるだけでいい。終わったら会いにくる」

「遅くなるようでしたら、そのまま帰られた方がよろしいのではありませんか。お忙しいようですし」

「あんまりからかうなよ、男娼」 

 頬の片側だけを歪ませ笑った彼の言葉に、胸の奥が引きつれるような痛みを覚える。自身はさんざん冷たい態度をとっていたというのに、身勝手な心だ。

「……申し訳ございません」

 血の色をしていそうな声で謝罪を吐き出し、頭を伏せた。

「いいや、俺の方こそ悪かった。……忠告通り今日はそのまま帰るよ」

 細い指先が髪の毛をかき乱し、離れてゆく。

「またな」

 やさしい感触に顔を上げるころにはもう、隼人は背を向け歩き始めていた。

「あいつ、口悪いし冷たいよね」

「え?」

 三日月のように目を細めて笑う衛士那は視線で追っていた隼人の後ろ姿を顎で指し、同意を求めるように首を傾げた。切っ先を突き付けられた感覚に、一歩足が下がる。

「君、綺麗だね。名前は」

「リアと、申します」

「リア、ね」

「何してる衛士那! 遅れるって言ったのはテメェだろ!」

 遠くから聞こえた隼人の声に、衛士那は肩をすくめた。やれやれとでも言いたげである。

「じゃあ、またねリア」

 小さく手を振って去ってゆく後姿を見送る。どろりと再び熱を持った身の内に、服を握りつぶすようにして胸の真ん中をつかんだ。苦しい。苦しくて、痛い。覚えのあるその感覚は、もう二度と感じることはないと思っていたものだった。

 あぁ。吐息に音を混ぜて笑う。

「貴方になど、会わなければよかった」

 のどかな昼下がりの風景に馴染めないまま、リアは何かを振り切るようにその場を後にした。

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