第2話

 タンザナイト、正式名称はブルーゾイサイト。深い青紫色をした宝石。しかしそれは角度や石によっては紫や深い赤色を見せる、夜の名を冠した美しい宝石の名前。

食事の手を止めないままに男は、そう口弁を垂れた。男娼館、徒花の二階にある一室。相対したばかりの彼に笑みを絶やさず相づちをうつリアは、会話の先を探しながら語を継いだ。

「あいにく本物のその、タンザナイト、でしたか。その石を見たことはございませんが、高価なものだとは聞いたことがございます」

「希少性は確かに高いけど、そういった話じゃない」

 ではどういった話なのだろうか。彼は、突然その名前を出し語り始めたのだ。話の先が全く見えない会話に、正直に首を傾げた。

「では、どういったお話で?」

 和やかに訊くが男はすぐに答えない。目の前の食事を一口含み、ゆっくりと咀嚼する間を空けた。それから深い緑色をした瞳がツイとこちらへ向き直る。

「あんたを見てると、その石を思い出す。サファイアのような鮮やかな青じゃあないし、アメジストほど型通りの紫でもない。だから、タンザナイト」

「……申し訳ございません。石は知識も見たこともあまり無いものですから、いまいち分からないのですが」

「貢がれたこと、無いのか?」

 心底驚いたと言うように、彼は初めて食事の手を止めて顔を覗き込んできた。

「女郎のように着飾ることもございませんので、ごくたまに頂く程でしょうか。……そう、ですね。アメジストという名でしたら、聞いた覚えがございます」

 ふぅん。顔から目を離さず男はひとりごちる。

「まぁあんたには渡しにくいのかもしれないな」

 カシャンと高い音をたてて食器とフォークがぶつかった。そのおかげで空いた彼の両手が迷いなくこちらへ近づき、長い前髪をかき分け顔を露にされる。両耳を包み込むように触れる様は、まるでキスの直前のようだ。なのにどうして、そんな甘やかな空気は流れない。

「不思議だな。さっきからあんたを飾るデザインが一向に思い付かないんだ。ピアス、チョーカー、ネックレスにブレスレット。それとも…………。違うな。どれも、違う」

 左目が言葉と共にそれぞれの場所を追う。無意識なのだろうか、二人の間にある雰囲気を否定するように、それはずいぶんと艶っぽい仕草だった。

「男を飾っても仕方がないからではありませんか」

 口調はそっけなく、しかし視線には色を乗せて彼を誘う。しかし彼はそれに気付いているのかいないのか、苦笑いを浮かべるだけだ。

「あんたほどの花を放ってはおけない性分でね」

「それは嬉しくございます。が、できれば着飾るのではない方向でそろそろかまって頂きたいのですが」

男は肩をすくめ、顔から両手を遠ざけた。それを追う目線にも艶を乗せる。

「悪いが今日は連れの付き合いでな。女には飽きるほど困ってないから、溜まってもいないんだ」

「確かに。あなた様ほどの男を放っておく花はいないでしょうね」

 先程の言葉を揶揄するように言い返した。相手はそれを気にするでもなく、変わらず自分のペースで話を進める。

「あなた様じゃなくて、隼人って呼んでくれないか」

「では私のことも、リアとお呼びください」

「じゃあリア」

 なんでしょう。と応答すると、彼はまた一口食事するだけ間を空けて申し訳なさそうにベッドを指差した。

「申し訳ないんだが、ベッドを貸してくれないか」

「この部屋も私も、今は全て隼人様のものにございます。どうぞご自由にお使いください」

「ただ眠りたいだけなんだけど、それでもかまわないのか?」

 彼にその意志がないことは、部屋に入った段階で薄々気がついていた。自分を見るその冷めた瞳と上がらない口角が、彼が自分の意思でここに来たのではないことを告げていたのだ。それとなく誘ってはみたけれど、それでも反応がないのならば仕方がない。だから、再度繰り返す。

「えぇ。もちろんでございます。けれどよろしければ、近くに居ることを許してくださいませんか」

「添い寝は遠慮する」

「ではベッドの端にでも腰をかけさせてください」

「それであんたは、仕事をしたことになるのか」

「はい。隼人様がそれを望んでくださるのならば」

 彼はここに来て初めて楽しそうに口の端を上げて笑った。

「望むのならば、ね。答えはひとつしか用意されていない気がするのは、俺の気のせいか、リア?」

「気のせいではありませんか? 嫌でしたら、近づくなとひと言おっしゃっていただければ、そのように致しますよ」

 笑顔は崩さない。リアの高圧的とも取れる口調にしかし、隼人は喉の奥を震わせるだけで流した。

「確かにいい花だな。線の細いだけの優男なわけじゃないってことか。……いいよリア。添い寝さえしなければあんたの好きなようにしな」

「ありがとうございます、隼人様」

 それから食事を終えた隼人は、宣言通りベッドへ横になり寝る体勢をとった。リアもまたその足元近くに腰を下ろし、さも楽しそうに隼人の顔を眺める。そんな彼を、まだ眠気の訪れない眼で見返す隼人が気だるげに口を開いた。

「眠るまで少し、お喋りに付き合ってくれないか」

 小さく、リアは笑う。

「そんなに何度も確認を取らなくともよろしいのですよ。幾度目かにはなりますが、私は今、あなた様の物なのですから。……もしかして、隼人様は娼婦街にはあまり来られないのですか」

「仕事以外でここに来るのは初めてだ」

「それでしたら、納得いたしました」

 ごろり、天井を見上げた隼人は乱れた前髪を指先で梳いて元へと戻す。長く伸ばされた右側の髪で顔の半分を隠すのだ。

「リアは、ずっとここに居るのか」

 彼の問いかけに、視線が彷徨い手元へ伏せられた。

「正確な時間は分かりませんが、お館様(おやかたさま)に買って頂いたのはずいぶんと前のことのような気もします」

「酷い所に売られたんだな」

 言葉は同情的であるが、声音は先から何も変わらない。人身売買の末にここへたどり着いた者も多いこの国だ。過去が暗い者も少なくはないだろう。それにいちいち同情をしていればきりがない。

「恨んでるのか」

「誰をです?」

「あんたを売った、親を」

 続けられる彼の問いに、商売用ではない笑みが零れ落ちた。苦笑いと嘲笑の間くらいだろう。顔を伏せているのだから見られてはいないだろうけれど、娼婦としてあるまじき失態だった。つかの間のほつれをすぐさま引き締め、淀みないように答える。

「覚えていないものを恨むことは出来ません。けれど、そうですね。この容姿に産んでくれたことには感謝しております。お陰で、今ここで暮らせているのですから」

「その過程がどんなに残酷でも?」

 内側を探るような質問が続き、さすがに苦笑を露にした。

「隼人様は存外、知りたがりなのですね」

 質問に対する答えは用意しない。別の言葉で掻き乱し、うやむやにしてしまうのがいい。初見の客に、いや得意の客にさえ踏み込ませない領域だ。

「知りたいよ。あんたのことは、もっと知りたい」

「でしたら、やはり一度抱いてみてはいかがですか。外側も内側もよくお分かりになると思いますが」

 手元から隼人へ視線を戻すと、クツクツと楽し気に喉を鳴らす彼がいた。本当に眠かったのだろう。この短い時間で、瞳にはとろりと睡魔が宿っていた。

「寝てる間に喰われそうだ」

 会話は続けるがどこか億劫そうな声音。もうお喋りは終いにした方が良さそうだ。

「そんなはしたないことは致しません。どうぞご安心してお眠りください」

 隼人は小さく喉を鳴らして返答すると、微睡む瞼を下ろし眠りの海へと沈み始める。それからしばらく続いた無言の後、眠ったかと思われた隼人が小さく口を開いた。

「なぁ」

「はい」

「蝶は……?」

「え?」

 夢と現の狭間で呟かれた言葉に、心臓が高鳴る。同時に、脳裏に黒い羽をはためかせる蝶が一頭、ひらひらと舞い始めた。

「蝶、ですか?」

 それにつられて掠れた声でなんとか問い直すが、彼は海の底へと近づいているのか、モゴモゴと口を動かすばかりだ。

「黒蝶は……」

 ようやく明瞭な言葉が紡がれたと思えば、そこで途切れ、代わりに寝息が唇から漏れ始める。結局何を言いたいのか分からないままだ。しかしリアの脳内を掻き乱すだけの力はあった。蝶は瞼の裏にまでやってきている。

「黒蝶……は、あなた様の夢の中でも、舞うのですか?」

 答えのない問いかけに一人苦笑し、そっと顔にかかる髪を払った。隠していたぐらいなのだから、何か特徴的なものでもあるのかと思っていたけれど、その端整な顔立ちには目立つ黒子さえない。顔を近づけて覗けば、目の下には隈が張り付いている。よほど疲れていたのだろうか。それでも起きない彼から体を起こし、ベッドの端からも腰をあげた。

 足音を消して近づいたのは、入口のすぐ横に備え付けられたハンドル。これを動かすと受付の奥にある娼婦付きの部屋のベルが鳴る。部屋と同じ並びで飾られたベルが鳴れば、その部屋の娼婦へ付いている少年がやって来る仕組みになっているのだ。しかしこれは、どこの娼婦館でもこの仕組みは同じだろうか。時間をもて余した思考が他愛もない方向へと歩き出した。それもつかの間。

「リア兄様、今参りました」

 小さなノックのあとに、まだ高い子供の声が続いた。内開きの扉をそっと開け、リアはやってきたユナへ視線を合わせるように膝を曲げる。

「ありがとうございます。食器の片付けをお願いしたいのですが、一人で大丈夫ですか」

 リアの問いかけに、ユナは考えるように首を傾げた。

「……ユト兄様に手伝って、もらいます。えっと、少し待って下さい」

「少々お待ちいただけますか、ですね。いいですよ、お願いします」

「はい」

 足音も静かに走り去る少年の姿に、リアは微笑みを浮かべていた。素直に娼婦としての指導を呑み込んでゆく彼らのことを、憐れだと思った事はない。望む、望まないに関わらず、ここで生きてゆく為の術はきちんと教えてやらなければならないと思っているし、その術を知らないことの方がよっぽど憐れだと思っている。そして何より、彼らは守られているから……。隼人との会話の所為で、思考が過去へと繋がりやすくなってしまったようだ。自分の未熟さにため息が漏れる。

「そんな仕種までいちいち色気たっぷりだなぁ、おい」

 からかう声に視線を上げると、先ほども料理を運んできたユトが口の端を歪めて立っていた。

「ご苦労様です、ユト。まだ体が空いているなんて、今日はお休みですか」

「今日は予約されてるから来るのを待ってるだけだ。でなきゃ今頃ベッドの上だ。お前こそ、何してんだよ」

 歪みを引っ込め、憮然とした態度で尋ねてくる。この粗っぽい様が、彼の人気の高さに一躍買っているそうだ。

「お連れ様に引っ張られてこられたようで、お相手はしない予定です。ユナも、お館様にそう伝えておいて下さい」

「はい」

「今はベッドでお休みになられてるので、その間に片付けをと思いまして」

「起きないか?」

「お疲れのご様子でしたので、それは大丈夫でしょう」

 どうぞ、と扉を大きく開き中へと誘導する。静かに、気配を殺した二人が食器を持って出ていく。その間にリアは再びベッドの端へ腰掛け、その寝顔を覗き込んでいた。

 食べ物の匂いが薄くなる。食事にあまり関心の持てない彼にはそれだけで、部屋の空気が澄んだように感じられた。窓を開ければさらにいいのだが、なぜだか彼から目が離せない。寝ているだけのその姿を飽きもせずに眺め続けていた。時を忘れてそうしていると、今度はこの部屋に取り付けられたベルが二度三度声を上げる。終わりの時間が迫っている合図だ。

「隼人さま、起きてください」

 海の底から少し戻ってきていたのか、小さく眉をひそめ隼人が唸り声を上げる。それからゆっくりと瞼が上がり、すぐに閉じられた。

「時間か……」

 掠れた声で呟き、右目を手のひらで覆いながら起き上がった彼はまた、前髪で顔の右半分を隠してしまう。

「よく眠れた。ありがとう」

「でしたらお礼にキスくらいして下さい」

「……あんたって、ほんといい花だな」

 半分以上冗談で口にした言葉だ。期待などしていなかった。けれど、隼人は苦笑をこぼすとそっと顔を近づけてきた。素直に目を閉じて受け入れるそれは、可愛らしい啄むだけのキス。それでも目を開けて間近で見つめ合うと、ついさっきまでなかったはずの欲が、わずかに漂い始めていた。

「こいつは……まずいな」

 苦味を増した笑みで彼は囁いた。

「隼人様」

 引きずりこむように、その名を呼べば慌てたように体を離される。

「悪いな、リア。また今度だ」

 そっと握らされた硬貨に動きが鈍る。指を開いて確かめると、それはあんなキスをしただけの相手に渡すには高すぎる額だ。しかし返さなければともう一度名を呼ぶよりも先に、その体は扉の向こうへと消えてしまった。

「酷い方だ」

 ため息を吐き、シーツが少し依れたベッドへ体を沈める。天井を映す瞳を閉じ、指先で唇に触れた。思い出すのは、彼の感触。

「……また今度、ですよ。隼人様」

 彼の居なくなった部屋で一人、すっかり温もりの移ったバルカ硬貨を指先につまんだ。こんなものをとっさに出せる彼は、きっとそうとうな稼ぎがあるのだろう。淡い光源に向かって銀色の硬貨を掲げた。

 初めてこれを見たのは、親に売られたあの日。貨幣の種類はたぶん違うだろうが、同じ色と形をしていたのは覚えている。確か、あの日は雪が降っていて……いや、桜が散っていたんだったか。もしかしたら、色付いた葉だったかもしれない。

 苦い笑みが込み上げてきた。

 分かっているはずなのに、なぜ思い出そうとするのだろう。自分はもう、あの頃のことはほとんど覚えていないのに。故郷の景色も、兄弟の顔も、両親の温もりも何もかも忘れてしまった。そんな自分が唯一記憶している袋から取り出された銀貨。ダメだ、と分かりながらも止めることは出来ない。その色が、記憶を結びつけた。

 ――あの鎖の冷たさへ。

「チクショウ……」

 小刻みに身体が震え出す。

 貴方様のせいで。

 緩く開いた記憶の蓋から漏れ出したその感触に、右手首を握りしめ震えを抑えこんだ。

 貴方がこんなものを渡さなければ、過去を尋ねなければければ、きっと思い出すことなどなかったはずなのに。

「チクショウ」

 震える体を、胎児のように丸めた。チクショウ、チクショウ、チクショウ。同じ言葉を何度も何度も繰り返す。

「忘れない。忘れることなんて、出来やしないから。……お願い」

 小さく名を呼ぶ。

「今だけは、目を瞑ることを許して……」

 お願い。声をも震わせた懇願を吐き出し、きつく目を閉じた。過去から、目を背けるように。

 どのくらいの間そうしていただろうか。小さく戸を叩く音に瞼を上げた。

「誰です?」

「ユナです。よろしいですか」

 震えの収まった体を起こし、戸を開ける。他の客といつ出会うとも分からない状況に、自然と柔らかな笑みが顔に張り付いた。しかし、普段から見慣れている彼には違いが分かったのだろう、怖々とした調子で用件を告げられた。

「リア兄様、お館様がお呼びです」

 不思議そうに瞬きする澄んだ瞳と、変声期前の高い声に、強ばっていた頬が和らぐのを感じる。まだまだ、だな。自省の念に、笑みを苦笑に変えたリアは、ユナと目線を合わせるように膝を折った。

「ごめんなさい、ユナ。変な顔をしてしまいましたね」

 謝罪の言葉に目を丸くして首を横に振る義弟の頭をそっと撫でる。やわらかな髪質に彼の幼さを改めて知った。

「ありがとう。……そうだ、ユナ。手を出してごらん」  

「こう?」

 差し出された小さな手のひらに、バルカ硬貨を乗せた。首をかしげる彼に、小さな笑声がこぼれる。

「そのうち、甘味屋が来るでしょう。だから、これで何か好きなものを買いなさい」

「いいの、ですか?」

「えぇ。ただし、皆で分けるのですよ?」

 制限された狭い世界での数少ない楽しみのひとつを手にし、ユナの幼くも端正な顔が笑みに輝いた。

「ありがとう、リア兄さま」

「どういたしまして。さ、皆の所に行きなさい」

「はい!」

 軽やかに遠ざかる背を見送り、膝を伸ばす。さて、呼ばれた理由は何だろうか。きつく握りしめた手首の跡を見とがめられなければよいのだが。様々なことに思考を散らしながら階下へと降りる視界に、ひらり、黒蝶が横切った。

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