黒蝶
雨月 日日兎
第1話
また同じ、夢を見ている。
いつもと変わらない薄闇と、その中で横たわる朱に染まった死体。温もりは無く、蘇生などとうの昔に叶わなくなったその身体の周りを、蝶が一頭、さ迷っていた。ゆらゆらと、近づきは離れを繰り返す蝶は、そこにあったはずの御霊を探しているよう。黒い羽に、黒の紋様を刻んだそれはしかし、望むものがそこにないことを知っていた。
――あぁ、早くしないと。
その思いに触発され、夢は景色を変えてゆく。死体から緑が芽吹き、次々と花を咲かせてゆくのだ。そしてそれはやがて果てのない花畑へと姿を変えた。再び、蝶はその羽を羽ばたかせる。ただひとつの花を探して。だから蝶は、色とりどりに咲いている花の名前を知らない。知らなくても構わないとも思っている。蝶が探している花以外は、名を知る必要がないと思っているのだ。けれど。
――無い。どこにも無い。
花は見つからない。それもそのはずで、ふらふらと舞い続ける蝶は、その花の色も形も知らないのだ。だから、薄闇も相まって視覚情報は役に立たっていない。漂う甘い匂いを頼りに探すが、どこもかしこも甘い匂いだらけ。
――どうして無い。どこにある。なぜ見つからない?
焦燥と絶望がその身を蝕み出したその時。
「そろそろ起きなよ」
ぶっきらぼうに掛けられた声に、幻の花畑は霧散して消えてしまった。緩慢に開けられた眼が、部屋の中を一周見渡す。外の明かりを遮るカーテンの隙間から漏れる光が、もう太陽が随分と高く在ることを教えた。
「花、は……?」
寝起きで、掠れた声が出た。
甘い匂いがそこら中から漂い、鼻孔をくすぐる。不快なものではない。この国で生まれ育った者にとっては嗅ぎ慣れた匂いであり、国外の者にとっては心浮き立つ匂いなのではないだろうか。欲情を駆り立てる匂いだ。娼婦街という場所柄、違和を感じるはずもないその匂いを意識した隼人はしかし、確かにそれを感じていた。それは何なのか。馴染みらしい娼婦の女に捕まっている友人をぼんやりと眺めながら、ひとり思考の中へ入り込む。
「また今度来るよ」
「今度って、いつ?」
「今度は今度さ。明日か明後日か、そのまた先か」
あぁ、そうか。女を振り切れそうな彼に向かって二つ頷く。それに気付いた友人は怪訝そうな顔をして、腕に絡み付いた両手を剥ぎ取った。
「じゃあな。……隼人、なに頷いてるんだ?」
「いや、何か、違和感があると思ってたんだ」
「何かって、何が」
歩きながら話そうと顎で示す。
「俺だけが感じるものだったよ」
歩きだすと、甘い匂いが空気の流れに沿って肌を嘗めた。まるで、何本もの見えない袖引きに纏わり付かれているようだ。
思考が分散されやすい脳を持つと困る。数秒前の会話を忘れて思索に更けてしまうところだった。会話の間が妙な具合に空き、だから何だよと言われる寸前で慌てて語を次ぐ。
「ここに仕事以外で来たのは初めてだったと思ってな。どうりで景色が違うわけだ」
言葉にすると、盛大な溜め息が隣から聞こえてきた。呆れたと言いたいのだろう。
「それでも女が喰えるんだからな、お前は」
「喰われてる、の間違えだ。お前はよく来るみたいだな」
また別の店の女が、友人に向かって手を振っている。それに軽く手を上げるだけで、彼はさらに娼婦街の奥へと進んでいった。
「初めて会ったって同じような素振りをするぞ。そうじゃなきゃ、やってられない世界だからな」
「今の、いい女だったな」
「好みのタイプか?」
「あぁ、イメージが幾つか湧いた」
再度、溜め息。
「本当にお前の頭の中は仕事のことばっかりなんだな」
「好きでやってるんだ。構わないだろ」
それに好きじゃなくても、これしか自分の存在意義は無いのだから。だから今思い付いたイメージを形にするために帰りたい。そう続けようとしたが、さすがに彼でも怒るだろうと思い言葉を呑み込んだ。
「それで、どこへ向かってるんだ。ずいぶんと奥まで来てるようだけど?」
「女に飽きたなどと抜かすお前に、ピッタリの店だよ。ほら、あそこだ」
指差した方向には二階建ての黒壁の建物がひとつ。看板も何もない店があった。
「本当に店か? 看板ないぞ」
「ここにあるのは店だけだよ。お前もよく知ってるだろ。それに営業中だよ、ほら」
友人の指差した方を見ると、入り口近くの壁に取り付けられた花瓶に、花が一輪飾られている。
「へぇ。粋な看板だな」
そうか、というように肩をすくめ、彼は店の中へと入っていった。それに続いて入るとすぐに、受付と奥へと続く廊下が伸びていた。
「いらっしゃい」
声をかけてきたのは、自身も娼婦として稼げそうな赤毛の女だ。
「新規の客を連れてきてやったよ」
カウンターの上へもたれ掛かり友人は親指でこちらを指差した。一度視線をやり目礼した彼女はすぐに目の前の人物へと向き直る。そのぞんざいな態度に友人の方が片手を上げて詫びてきた。
「それはどうも。有り難いねぇ」
勝ち気そうな彼女によく似合う口調だ。けれどそれは同時に、彼女が娼婦上がりではないことを告げていた。美しい髪色や顔から勝手にそう思い込んでいたのだが、どうやら予想は外れたらしい。脳裏に描かれていた絵が解け別のものへと変わってゆく。
「隼人、こいつは杏華。ここの店の主だ」
呼びかけに、思考の海から現実へと引きずり戻された。
「ウェルノの隼人だ。できれば客としてではなく取引先として寄りたかったな」
「へぇあんたが。けど、そんなつれないこと言わずに楽しんでいきなよ。今日はとびきりの花が空いてるんだ」
「リアか?」
杏華の言葉に反応したのは、友人の方だった。やや頬を紅潮させた彼に、店主は呆れた様子を隠しもせずに鍵を手渡す。
「あんたはカジだろう? もう部屋で待ってる。さっさと行ってやりな」
「噂はかねがね聞いていたからついな。じゃ、お先に。楽しんでけよ」
「あぁ」
最後の言葉は残される友人に向けて言い、廊下の奥へと消えて行くその背に生返事を返した。聞こえただろうか。遠ざかる背は楽しげに揺れている。それをある程度まで見送り女店主の方へ向き直ると、彼女は布で仕切られた受付奥の部屋を覗いていた。
「サク、カジへ伝えに行っておくれ。ようやくご来店されたとね」
「はい、ただいま」
杏華の言葉に、幼い子供の声が答える。とすぐに軽快な足音が聞こえ遠ざかっていった。それからこちらに向き直った彼女に、男の消えていった廊下の奥を見やりながら尋ねる。
「よく来るのか?」
彼女もまたチラリと同じ方を眺め、そしてすぐに手元へと視線を戻した。
「よくってほどは来ないけど、顔見知りになる程度にはね。はい、これが鍵。廊下を右に、階段を上がってすぐにあるから」
手渡された鍵には二〇三の文字。それに向かって苦笑いを贈る。
「食事を頼んでも?」
「……大したものはないよ」
訝かしむような間が空いた。
「なんでもいい。朝から何も食べてないことを思い出したんだ」
「仕事かい?」
「そんなものかな。じゃ、よろしく」
鍵を手に廊下を歩く。後ろではまた店主が後ろの部屋へと声をかけていた。
「ユナ、急いでリアを呼んできて。それから食事の用意を……ユトが空いてるから運んで貰って」
「はい、すぐに」
またも幼い声。この声たちもやがて、客の相手をすることになるのだろう。その事に、憐憫など微塵も感じない。この国では、好んでなるものはいないが、娼婦は位の高い職業なのだ。なにせ、生活の安定を生涯約束されているのだから。その理由はこの国の成り立ちから始まるのだがそれはまた別の話だ。
隼人は鍵を握りしめ、自分のために用意された男娼の元へと歩みを進めた。
――ギシリ。
階段が己の代わりに抗議する。早く帰って仕事をやらせろ、と。
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