【第六章】


 部屋に戻ると、俺は荷物を置き、すぐに冷蔵庫に向かった。烏龍茶を用意し――ただしコップは一つだけだ――、どすんとテーブルの前に腰を下ろす。

『アキは一旦アメリカに帰ることになった』などと嘘をついていたが、どうやら本当にしばらくは現れないらしい。

 やることのない俺は、意識を漂わせる。幽体離脱ってこんな感じなのだろうか。ぼんやりしてしまって、どうにも『何かを考える』ことができない。集中力も欲望も、意識さえも失ってしまったような気がする。そんな中、一つだけ思うことがある。


「麻耶、元気かな……」


 俺は腰を上げた。そうだ。いまからでもキラキラ通りに行ってみよう。しかし、カーテンを開けてみると、


「……」


 とっくに陽は昇っていた。麻耶たちはもう眠ってしまったかもしれない。叩き起こしてまで会うのは迷惑甚だしいし、第一、話すネタがない。アキの正体を明かしていない限りは。


「仕方ねえな、俺も寝るか」


         ※


 夜八時。

 真夏と言えど、とっくに陽は沈んでいる。これなら話し合いに行っても構わないだろう。俺は軽いバックパックを担ぎ、キラキラ通りへと向かった。


「おお! 旦那、お久しぶりっす!」

「麻耶姉に伝達! 旦那がおいでになったぞ!」


 ツナギ二人組は元気なもので――これでヤク中なのか? こいつら――、俺はあっさりと裏通りを闊歩する権限を得た。もちろん、向かうのは麻耶の部屋。しかし、麻耶は既に広場におり、ソファに腰を下ろしていた。


「あっ、俊介!」


 立ち上がり、たたたっ、と寄ってくる。な、何だよ、かわいいじゃねえか。

 初対面の時の、お互い猜疑心に見舞われていた時の姿が冗談のようだ。麻耶の目元はパッチリとして、理由は分からないが瞳が輝いている。

 俺も片手を大きく挙げて、駆け寄ってくる麻耶を受け止めるようにして抱きしめた。


 俺は麻耶の頭を軽くくしゃり、と撫でながら尋ねた。


「昨日は何かトラブルなかったか?」

「うん! あたいたちがいるからね、誰にも手出しはさせねえよ」


 うーん、その男勝りな口調がなければもっと魅力的なんだが……。でもまあ、こうして俺のことを好いてくれる人の善意に対し、とやかく言う筋合いはあるまい。

 麻耶の頭を撫でながら、ふと広場の反対側を見ると、


「美耶?」


 あのおさげ姿は間違いなく美耶だ。人見知りする様子もなく、こちらを見つめている。その瞳は、何故か俺や麻耶よりも年長者であるかのような風格を漂わせていた。何故そう感じたのかは、全くもって分からないのだが。


「美耶、テキーラ持ってきてくれよ! 皆で一杯やろうぜ!」


 しかし。


「おーい美耶、なければラムでもいいぞ?」


 その呼びかけに、美耶は動こうとしない。


「何だよ、どうしたんだよ美耶?」


 麻耶は俺から離れ、美耶の方へとずんずん歩を進めていく。喧嘩腰で近づいていく麻耶の肩を、俺は軽く掴んで止めた。


「おっと、ちょっと待て」


 そう言って、麻耶に代わって美耶の方へと一歩を踏み出す。


「美耶、どうかしたのか? 何かあったのか?」


 美耶は首を振ろうとも、何らかのジェスチャーを取ろうとするでもなく、ただただ突っ立って俺たち二人を見つめている。瞼を半分閉じた、細くて遠い目で。

 俺はゆっくりと美耶に近づいた。


「酒の場所が分からないのか? もし高いところに置いてあって取るのが面倒だ、ってんなら俺が代わりに――」


 と言おうとしたところ、美耶はささっと廃ビルの隙間に身を潜めてしまった。俺は振り返り、麻耶に向き合う。


「なあ麻耶、お前、美耶と喧嘩でもしたか?」

「いんや。ただ、最近ちょっと調子がおかしいっていうか……」


 俺は麻耶たちのアジトとなっている部屋の情景を思い出した。入って左側に、仲良く並べられた二台のベッド。あれが、月野姉妹の仲のよさを体現していると思っていたのだが、麻耶はやや困惑した様子で


「美耶の奴、一緒に寝たがらねえんだ」

 

 と一言。まさか。


「それって、いつからだ?」


 俺は麻耶の前に回り込んで、その両肩を掴んだ。


「おっと! 何マジになってんだよ?」

「いいから、教えてくれ。できるだけ正確に!」


 すると麻耶は人差し指を顎に当て、上目遣いで答えた。


「ここ一週間のうちであることは間違いない。あんたたちが来てから、だね。でもこんなにあたいらを避けてる美耶を見るのは……うーん、二、三日前くらいからかな」

「そうか」


 俺は腕を組んで考えた。三日前は分からないが、二日前、つまり一昨日のことなら思いあたりがある。

 もしかして、俺と麻耶がキスするところ、美耶に見られたんだろうか?

 まあ、美耶は麻耶の身内だし、見られたところでどうということはないんだが、しかし……。

 俺は手を顎に遣って考えた。


「なあ麻耶」

「あん?」

「美耶ってどんな子だ?」

「ど、どんな、って言われても……。あんな感じだ。普通はもっと愛想いいけどな」

「愛想が悪い時ってどんな時だ?」

「なっ、んなこと知らねえよ! 本人に訊いてみるしかねえだろうさ」


 ふむ。直に訊くしかないと。だが、美耶は元々無口な方だし、一筋縄ではいかないだろうな。

 しかし、もしも俺の予測が当たっていたとしたら。


「厄介なことになったかもしれないな……」


 俺は麻耶にすら聞こえないような小声で、そう呟いた。

 

 まさに、次の瞬間だった。


《警察だ!! 君たちは完全に包囲されている!! 無駄な抵抗は止めて、我々の指示に従え!!》

「!?」


 警察? 俺たち(というか麻耶たち)の悪事がバレたのか? どうして急にこの場所が分かってしまったのかは分からないが。

 ……などと悠長なことを考えている場合ではない。


「おい、俺たち逮捕されちまうのか!?」

「ハッパを隠せ! 早く!!」

「早まった行動はするなよ、お前ら!!」


 俺は必死に声を張り上げたが、その程度で治まるような混乱ではない。


《繰り返す!! 無駄な抵抗は止めて警察の指示に――》


 怒号と、多くの人間がぶつかり合う騒音。それらが相まって、状況は手に取るようにして分かった。


 やがて、通りの向こうから、ヤク中たちの姿が見えてきた。と思ったら、呆気なく突き飛ばされた。代わりに俺の視界に入ってきたもの。それは、強化透明プラスチックの盾と警棒、それにヘルメットで武装した機動隊員たちの姿だ。


「麻耶姉、こっちへ!」


 広場に面した廃ビルのドアのうち一枚が開き、俺たちに向かって手招きする。


「駄目だ、あたいは戦う!」

「何言ってんだ!!」


 俺は二度目、麻耶の頬を引っ叩いた。


「モデルガンじゃなくて実銃を使おうとしてるんだろ?」

「ああそうだ!」


 するとアキはガンベルトから拳銃を抜こうとする。しかし俺は、無理矢理にそれを止めた。


「何するんだよ!?」

「あの盾は、対テロリスト鎮圧用に開発された最新式だ。拳銃の銃弾なんて通すはずがない。それにお前がこの拳銃を所持しているとバレたら、銃刀法違反まで喰らっちまう」


 俺はぐいっと腕を伸ばし、麻耶の愛銃に手をかけた。


「何すんだよ!?」

「この拳銃がお前の所有物ではないように、指紋を拭きとって誤魔化す」

「できるのか?」

「やるしかねえだろう!!」


 俺はツナギ二人組たちが必至に機動隊を喰い留めているのを見つめながら、ハンカチを取り出し、偶然所持していたミネラルウォーターをかけ、グリップや弾倉を中心に磨いた。

 それから、


「そりゃっ!」

「あーーー!!」


 フェンスの後ろ、粗大ゴミ置き場に向かって放り投げた。


「な、ななな、何すんだよ!?」

「これで少しは時間稼ぎができる。銃刀法違反を犯していたことを否定できるかもしれない」


 などと会話を交わしているうちに、機動隊は広場にまで突入してきた。もうこうなったら、素直に指示に従うしかあるまい。機動隊の気迫に圧倒されたのか、麻耶も俺と視線を合わせて頷いた。


「皆、抵抗は止めて! 敵いっこねえよ!!」


 と、鶴の一声。

 その麻耶の声に、一瞬時間が止まったかのような錯覚が、俺たちを覆った。スクラムの要領で機動隊を押し返そうとしている連中も、モデルガンで脅しをかけていた連中も、機動隊に混じった刑事たちまでも。


「これ以上戦っても、皆怪我するだけだ!」


 麻耶の必死な横顔を見て、俺も加勢した。


「そ、そうだ! 公務執行妨害までしたことになっちまう!」


 すると、ところどころから、

「麻耶姉がそう言うなら……」

「仕方ねえ、ハジキは捨てよう」

「刑事ドラマみてえだな……」


 などなど諦めの声が聞こえてきた。

 機動隊もすっかり落ち着いたようで、手元の写真と不良たちの顔を見比べ、薬物反応があるかどうかを調べ始めている。その最中だった。


「おう、ちょっと道空けてくれい」

「あー、すいません、通してください」


 という声が、混沌とする視界の奥から聞こえてきた。やがてそれらの声の主が、機動隊と不良のごたまぜになった場所から姿を現した。

 一人は、背の低い小太りの刑事だ。茶色のコートを肩にかけ、独特の存在感を放ちながら歩み寄ってくる。

 もう一人は対照的に、痩せて背の高い刑事。灰色のコートをきちんと着込み、最初の刑事の腰巾着のように、すぐ後ろをついてくる。


 俺は少しだけ身体をずらし、自分の半身で麻耶の身体を隠すようにして、二人を睨みつけた。

 最初に口を開いたのは、小太りの刑事だ。すっと警察手帳を出しながら、


「月野麻耶、だな?」


 僅かに頷く気配が、俺の背後から感じられる。


「ご両親から直々に、お宅へ連れ戻すよう要請されている。一緒に来てもらう」


 しかし麻耶は不敵な笑みを浮かべながら、


「嫌だと言ったら?」

「おい馬鹿!」


 俺は小声で僅かに振り返りながら、


「さっき言っただろう? 公務執行妨害まで喰らっちまうって!」

「そういう君は、葉山俊介くんだね?」


 俺に声をかけてきたのは、痩身の刑事だった。先の刑事と同様に、警察手帳を見せる。


「君がこの通りに出入りしていることは、分かっているんだ。一緒に来て、話を聞かせてもらえないかな?」

「その前に」


 俺は交互に、二人の刑事に視線を送りながら、


「俺たちをどうするつもりだ?」

「大人には敬語を使うもんだぞ、坊主」


 小太りの刑事が目を細めるが、俺は怯まない。怯むわけにはいかなかった。


「相手に名前を聞くときは、自分が名乗ってからだぜ、おっさん」

「ちょっと君!」


 痩身の刑事が心配げに小声で俺を咎めようとしたが、


「ふっ、ははっ、ははははははは!!」


 その声は小太りの刑事の豪快な笑いにかき消されてしまった。


「ちょっと、何笑ってるんですか、肥田さん!」

「だってよ細木、こいつ、俺に向かって口答えしやがった! こいつは本気だぞ!」


 なるほど、小太りな刑事が肥田で、痩躯の刑事が細木というらしい。

 すると肥田は腕を組み、うんうんと頷きながら、


「確かに、何かを守りたいって気持ちはよく分かる。その何か、ってのが惚れた女だったらなおさらだ。しかしな――」


 すると肥田が顔を上げた。その瞳には、社会の深い闇を見続けてきたのであろう、暗い光が輝いている。さすがにこれには、俺も唾を飲んだ。


「ここは日本、法治国家だ。法律違反をした奴は、それなりの待遇と、それなりの処置をもって罰せられる。まあ、正確には罰せられるかどうかは微妙なんだが、普通の人間とは異なる経験をさせられる。そのくらい、分かるだろう?」


 怒鳴るでもなく、手を挙げるでもない。その口調も語る内容も淡々としていて、暴力性は一切感じられない。しかし、それでもこのベテラン刑事の言葉には、とてつもない説得力があった。まるで心に重石を載せられたようだ。


「だから悪いが、あんちゃんとお嬢ちゃんには警察署まで来てもらう。細木、手錠」

「あ、はい」


 俺たちの方を顎でしゃくってみせる肥田に応じて、細木が手錠を取り出す。しかし、その時だった。


「待って!!」


 麻耶が声を張り上げた。


「こいつは……俊介は、ただここに出入りしてただけだ! 酒もハッパもやってないし、何にも悪いことはしてねえぞ!! 捕まえるんならあたいだけを――」

「そうもいかないんだ、麻耶ちゃん」


 細木が、その長身を腰から折って麻耶と視線を合わせる。その声はやはり穏やかだ。


「彼、葉山俊介くんは、実に詳しくここの、キラキラ通りの実情を知っている。これから調査をするにあたり、どうしても彼の協力が必要なんだ」

「だからって手錠なんか!」

「いいんだ、麻耶」


 俺は一息ついて、


「刑事さん、俺の身柄の扱いは一任します。でも麻耶は、薬物には手を出していません。酒だけです。それは俺が一番よく知っています」

「つまり深酒はしていた、ということだな? 未成年で」


 何事も聞きのますまいとしていたのだろう、肥田はこちらの弱みを突いてきた。


「君には手錠は必要ないね、二十歳過ぎだろう?」

「……ええ、そうです」


 下唇を噛みながら、俺は細木に応じる。


「なら話は早い。お嬢ちゃんには手錠を掛けさせてもらう。あんちゃんには任意同行を求める。これでいいか?」


 俺は落ち込んだまま、首を上げることができない。麻耶も、ここまで言われれば素直に従うしかないと思ったのだろう、素直に両手を差し出した。


「えー、こちら交機一〇三、青年一名、未成年少女一名の身柄を確保、対策本部に戻ります」

《本部了解》


 こうして、俺は生まれて初めて、パトカーに乗り込むことになった。


         ※


 連れられて行くパトカーの中。運転席に細木、助手席に肥田、後部座席に俺と麻耶が座っている。

 パトカーの窓はスモークガラスだ。視界はほとんどない。それでも、しょんぼりとした顔馴染みの連中が機動隊のバンに乗せられていくのが見えた。確かに、いつかはこうなる日が来るのではないかと思ってはいたが、それが今日だとは。人間、随分呑気な生き物だ。


 って、待てよ。


「刑事さん、質問、いいですか」

「今回連れていく連中には黙秘権がある。これでいいか?」


 適当にあしらおうとするのは煙草をくわえた肥田だ。すると細木が、


「肥田さん、車内全席禁煙です」


 肥田はチッ、と軽い舌打ちをし、『で、何が何だって?』と言いながら俺の方に振り向いた。


「どうして今日だったんです、機動隊の突入は? 場所がここ――キラキラ通りだと分かっていたんでしょう? 何故今日まで待ったんです?」

「ああ、それな」


 すると、前部の席と後部座席を隔てる防弾ガラスの向こうから、一枚の写真が押しつけられた。直後、俺と麻耶は同時にひっくり返りそうになった。


「神崎龍美……さん?」


『お前らも知ってるだろ』という態度で肥田が頷く。


「彼女がキラキラ通りに頻繁に出入りしていることは、我々も承知している。その彼女が先日、足を負傷して入院した。その傷口から、面白いことが分かった」


 肥田が意地の悪い笑みを浮かべる。それを察したのか、細木がハンドルを握ったまま軽く小突いた。同時に説明役を強引に引き継ぐ。


「神崎龍美の足の怪我だが、普通だったら起こり得ない、奇妙な傷が見られたんだ」


 そりゃあ、パイプの下敷きになって怪我をする、というのは奇妙だろう。少なくとも、そのへんですっ転ぶよりは。

 そんな疑念が俺の顔に出たのだろう、細木は言葉を続けた。


「奇妙だというのは、パイプを固定していたネジが食い込んだ痕だ。この形状のネジは、三十年以上前から建築材として使われていない。そんなパイプの下敷きになる人物がキラキラ通りから現れた、ということは、その周辺の建物も老朽化して、ちょっとした衝撃で崩れる恐れがあるということ」


 つまり、と言いかけた細木の言葉を引き継ぎ、肥田は


「今日を機会に、お前らを救出したんだよ。あんなところでたむろしていたら、災害発生時に死傷する確率が高まる。そこでようやく、対策本部も重い腰を上げて、お前らの一斉検挙に出たのさ」

「なっ、そんなことで!!」


 麻耶はがばっと立ち上がった。防弾ガラスに頬を押しつけ、手錠をかけられた手を不器用に動かしながら、どんどんと叩く。


「あたいらは家にいられなくなったから、あの通りに逃げ込んだんだ! 誰も助けてくれないから! なのに、何の予告もなしにあたいらを捕まえて、連れ去って……。それが大人のやることかよ!?」


『それは』と言いかけた細木を片手で止め、肥田は語った。


「だからといって、お前らを放っておけると思うのか? お前らの大半は、違法薬物の虜になってるんだぞ? いつ、どこで、他人を傷つけるような犯罪に走るか分からない! それに、『誰も助けてくれない』というのは誤認だ。スクールカウンセラーなり精神科のドクターなり、話せる相手は――」

「あたいはそもそも『大人』が信用ならねえって言ってんだ! そんな連中、糞くらえだ!!」

「おい麻耶!!」


 俺は流石に言い過ぎだろうと思い、麻耶の肩を押さえた。


「離せよ俊介!!」

「お前も落ち着け!! 裁判で不利になったらどうする!?」


 その言葉に、麻耶の動きに一時停止がかけられた。


「さい……ばん……?」


 すると、肥田はふっと息を吸ってから、


「まあ、これを読んでみてくれ」


 と言いながら、防弾ガラスとパトカーの天井の間から一枚の紙を滑り込ませてきた。俺はそれを受け取り、麻耶を見つめる。俺も読んでいいものかどうか、確認したかったのだ。

 はっと正気に戻った麻耶は、カクカクと首肯する。それを見届けてから、俺は麻耶によく見えるようにしながら、自らも目を通した。


         ※


 麻耶ちゃんへ。

 お母さんです。元気ですか。

 突然だけれど、あなたもいい加減大人になってもらわないと困ります。あなたは月野財閥の、重要な跡取りなのですよ。

 家出をして、一人暮らしの真似をするのも、いい加減おやめなさい。それで一人前の人間になったつもりですか? そんな調子で生きていけるほど、世の中は甘くないのですよ。

 早く帰っていらっしゃい。お父様もお怒りです。

 では。


         ※


 俺は愕然とした。プルプルと腕が震えてくる。言うまでもなく、怒りからだ。

 一体なんなんだ、こいつらは? 自分の娘が、それも二人共が家出をしているというのに、『帰ったらお怒り』だと?

 俺の視線が、何度も手紙の上を走り回る。そして、怒りの感情一色に染まった俺の頭を、もう一つの衝撃が襲った。

 この手紙には、娘の心配をしている気配が全く感じられないのだ。ちゃんとご飯を食べているかとか、身体を崩してはいないかとか、何かしら言葉があって然るべきなのに。

 こいつら夫婦は、娘に何もしてやらない。麻耶の言葉を思い出してみれば、叱ることもなかったという。両親の注意を浴びたかっただけなのに。振り向いてほしかっただけなのに。せめて一度だけでもいいから、心配してほしかっただけなのに。


「ちょっ……俊介?」

「……」

「しゅん――」

「この、畜生共が!!」


 俺は勢いに任せ、手紙をビリビリと破り、ぐしゃぐしゃに丸めて防弾ガラスに拳ごと叩きつけた。


「うおっ!?」

「わあっ!?」


 さすがの刑事二人も仰天し、麻耶でさえも狼狽した。しかし、そんなことなどお構いなしに、俺の怒りのボルテージは上がっていく。


 こんな、こんなことって……。どうして子供がこんな目に遭わなきゃならない? 何故親からの寵愛を受け取ることができない? どうして、どうして、どうして――。

 愛情に欠けた人生を送らねばならない?


「ちょ、俊介、あんたまでキレちまって、どうするんだよ!?」

「お前の方こそどうかしてる!!」


 俺は、どこへ向けたらいいか分からない怒りの矛先を麻耶に向けた。麻耶の胸倉を掴み、揺さぶる。


「よく聞け馬鹿野郎、お前は親から見捨てられたも同然なんだぞ!? お前の両親は、親としての責務を果たしていなかったんだ!! まるで俺の親父みたいに!!」


 その瞬間、はっとした。

 俺は自殺した親父を、そんな風に思っていたのか? 俺が自殺に追い込んだようなものなのに、そんな感情を抱くのはあまりに理不尽だ。家族の一員として。

 気づけば、俺の目の前には、不審と怯えの色を表した麻耶がいた。横からは、こちらに注意を払う刑事二人の気配。聴覚がまともになった時には、パトカーの走行音と、住宅地を抜けていく静けさが感じられた。


「……悪い、麻耶。ちょっと親父とトラブってな」

「あ、う、うん……」


 これはいつか話さなければならないだろう。しかし、今は俺の親父についてどうこう言っている場合ではない。


「手紙、お前も読んだな?」

「ああ。そうしたら、突然俊介が……」

「刑事さんたちは? 読んだんですか?」


 さらに沈黙を深める二人。しかし、やがて諦めたように、肥田が語り出した。


「そうだ。俺も細木も読まされたよ」

「読まされた?」


 俺がオウム返しに尋ねると、肥田は薄くなった髪に手を遣りながら、


「上の連中に命令されたんだよ。『この手紙を読んで、月野麻耶に対しては、お前らも厳しく接するように』ってな。俺も一端の警部補だが、今の捜査本部の場合、上には上がいる、って感じでな」

「まさか、上層部の人たちも月野財閥から圧力をかけられてたんじゃ……!」


 ゴクリ、と唾を飲む音が、細木の後ろ姿から聞こえた。肥田もまた、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。


「くっ……」


 紙切れを握りしめた拳をガラスに押しつけたまま、俺はうなだれた。許せなかったのだ。こんな思いをしている子供が――単に幼いという意味ではなく、交流を持つ相手として親を欲する子供が――いるということが。


「畜生、畜生……」


 って、何だこれは? 視界が滲んでくる。頬に水滴が走る。俺は泣いているのか? 何故?


 そうか、きっと悔しいのだ。

 そんな大人がいることが。それを許す社会が存在することが。そこから逃げ出した子供たちの居場所を守れなかったことが。

 どのくらいの時間が経ったのだろう、俺は喉を鳴らし、目をつむっていた。

 ふと、頬に温かい肌触りが伝わってきた。目を僅かに開き、視線を温もりのある方へ。

 そこにいたのは、俺の頬に指を当てた麻耶だった。


「俊介、そんなにあたいたちのこと……」


 拳をガラスから離し、顔を上げてみる。


「何も言うなよ」


 とダメ押しをしてから、俺は涙をぐいっと拭った。そっと麻耶の手を取り、押し返す。


「お前は自分の心配だけしてろ」

「でも、美耶は……」

「大丈夫、ちゃんと保護されてるさ」


 すると、会話が一段落したのを見定めたのか、肥田が声をかけてきた。


「あんちゃん、財閥に詳しいのか?」

「詳しいわけじゃないけど……。月野財閥のボスとその女房は、とんでもない馬鹿野郎だってことだけは今分かりました」

「ふむ……」


 恐らく麻耶も同じことを考えていたのだろう。自分の両親が罵倒されているにも関わらず、口を挟もうとはしなかった。

 すると肥田が、どっしりと背もたれに身を預けてから語りだした。


「このあたりはな、第二次大戦中の空襲で焼け野原にされたんだそうだ」


 親父によく聞かされたよ、とはにかんでみせる。


「そんな街を立て直すのに、資金源になってくれたのが月野財閥だ。GHQから随分目をつけられていたようだが、それでも解体されずに根強く生き残って、街の復興やら公共事業やら、いろいろと便宜を図ってくれたらしい」

「だったら!!」


 俺は思わず身を乗り出した。鼻先をガラスに押しつけるようにして喚きたてる。


「その一パーセントでも、子供に、今の麻耶の親父に熱意を向けてやればよかったんだ! そうすれば麻耶の親父だって、大人からの愛情を感じられただろうし、麻耶だって一人前の『子供』にでいられただろうに……」


 ふうむ、と唸って視線を逸らし、腕を組む肥田。


「お前んとこの娘はどうなんだ、細木?」

「私の娘ですか? まだ三ヶ月ですけど……」


 すると、『あちゃあ』と言いながら肥田は額に手を遣った。


「これじゃあ参考にならんか……」

「で、でも家内と二人でちゃんと面倒みてますよ! 子育てには経験が……」

「と言っても三ヶ月なんだろ? 娘さん。まだまだこの嬢ちゃんの年頃には達していない。そんな生意気なガキ相手をした経験があるのは、俺一人ってわけだな」

「うぐ……」


 ハンドルを握る細木が前屈みになる。するとお返しとばかりに、


「肥田さんは息子さん、幾つでしたっけ?」

「長男が二十歳、二番目が十七だ」

「ならトラブルの一つや二つ、抱えててもおかしくない。そう思いません?」

「んー、酒や煙草には手を出すなと散々言っているんだが……」


 そう言って胸ポケットを漁る肥田に、


「だから車内は全席禁煙だって、言ってるじゃないですか」


『これだから、お子さんを叱るのに説得力なんてないよなあ……』と小声でぼやく細木。


「何か言ったか?」

「いえ、何も」


 何だか下手な漫才を見ているような気になった俺は、ひとまず一番の問題に切り込むことにした。


「俺たちの身柄はどうなるんです?」

「ああ、今警察署に向かってる。葉山くん、君はいくつか質問を受けてから、すぐに帰されると思うよ。でも月野さんは……」


 細木は説明途中であるにも関わらず、言葉を濁した。


「まだ前科はないようだからね。厳重注意で済まされるだろうけど……」

「月野財閥がこの事実を潰しにかかる。そうでしょ?」


 細木は何とも言えない横顔で、音のないため息をついた。

 これでは今までと同じだ。麻耶は誰にも叱ってもらえずに、ハリボテの家族愛の向こうに消えてしまう。あるいは、親戚中をたらい回しにされるかもしれない。先ほどの手紙には、『父親が怒っている』と書かれていた。怒りの原因は、『財閥の跡取りの立場を自覚せよ』という一点であり、決して『親として心配して』怒るということはないだろう。


 何とか、その流れを変えなければ。しかし、アジトのあったキラキラ通りにはもう戻れない。どうしたらいい? こんな時、アキがいてくれたら……。

 そんな思索をしていると、急に身体が前方に揺れた。パトカーが停車したらしい。


「着いたぞ」


 という肥田の声の元、俺たち四人は警察署に足を踏み入れた。


         ※


「つまり、葉山くんはその友達にお願いされて、キラキラ通りに行き、月野さん姉妹に会ったんだね?」

「ああ、はい……」


 警察署エントランスにある、ソファが並べられた一角。そこに、俺は細木刑事を前にして腰を下ろしていた。麻耶は不安そうな顔で、肥田刑事に手を引かれていったが、まあ相手の刑事があの人柄なら麻耶も大丈夫だろう。俺がそう願っているだけかもしれないが。

 すると細木は立ち上がり、


「缶コーヒーでいいかい?」

「えっ? ああ、はい」


 何だか意識がぼんやりしているが、どうやら細木が缶コーヒーをおごってくれるらしい、ということは分かった。


「はいよ」

「ど、どうも……」


 最初は手をつける気になれなかったが、今になってようやく、喉がカラカラであることに気づいた。ゆっくり手を伸ばすと、キンキンに冷えたアルミの感触が掌から伝わってくる。


「まあ、時間はまだまだあるし、ゆっくり話をしてくれればいいよ」

「はい」


 俺はプルタブを開け、甘ったるい液体を喉に流し込んだ。ううむ、ブラックにしてもらえばよかったかな。

 俺と同じ缶コーヒーを手に、細木が向かいのソファへ腰を下ろす。するとすぐに、細木は口を開いた。


「まず、君は罪には問われない。二十歳過ぎだからね。飲酒していても問題はない」


 いや、キラキラ通りではミネラルウォーターしか飲んでないんですが。しかし、そんなことよりも。


「麻耶は? 彼女はどうなるんです?」


 俺は僅かに身を乗り出した。

 すると細木は、うーんと唸りながら腕を組んだ。


「彼女の場合、薬物に手を出した様子はないから、問題は飲酒だけで厳重注意で済むだろう。でも、家出のことがね……」


 片手を顎にやった細木は、眉間に皺を寄せた。


「月野さんのご両親は、今回ばかりはおかんむりだからね。しばらくこちらで留置、そういうことになるかもしれない。風当たりは強――」

「会わせてください」


 俺は細木の言葉を遮るようにしながら、声を差し込んだ。


「俺を、麻耶に会わせてください」


 ぱっと目を上げる。

 すると細木も顔を上げ、少し首を傾げてから腕時計に目を落とした。


「あと十五分もすれば、休憩が入るからその時には会えると思うけど……」

「案内してもらえますか。面会室に」

「しかし今彼女は……」

「会わせてください」


 俺は繰り返した。すると、三度目の正直というやつだろうか。細木は渋々が半分、諦めが半分といった顔つきで立ち上がり、軽く手招きをした。


 階段を登り、二階へ。そこではひっきりなしに電話が鳴り響き、飛び交う怒号も相まって凄まじい騒音を響かせていた。上のプレートには『刑事課』とある。


「僕らはこっちだ」


 駆け足で細木に追いつくと、やがてひんやりとした、静かな廊下に出た。そこから先は、リノリウムの床にコンクリートむき出しの壁と天井が続いている。

 細木はある小部屋の前で立ち止まり、俺を振り返った。


「ここだ。もう休憩時間に入っているから話はできるけど、正直今の彼女に会うのは……」

「それは俺が決めます」


 心配げに眉を下げた細木の前で、俺はさっさとドアノブに手をかけ、押し開けた。

 ガチャリという聞き慣れた金属音が響く。そこは、六畳ほどの小さな部屋だった。窓やガラスの類はなく、出入り可能なのは、俺が今入ってきたドアだけだ。

 麻耶はパイプ椅子に座り、制服姿の警官二名に護衛されていた。いや、ただの見張りなのか。しかし、


「二人とも、少し外してくれないか」


 という細木の声が聞こえた。


「はッ、しかし……」

「いいんだ。彼は特別だ」

「了解しました」


 その時になって、ようやく麻耶は顔を上げ、

「俊介!」


 と叫んだ。先ほどまで俯いていたのは、両親が来ると思って不貞腐れていたのだろう。

 そのせいで足元にまで注意が及ばなかったのだろうか、麻耶は足を絡ませて転びかけた。


「おっと!」


 俺は麻耶の肩を押さえるようにして、彼女の転倒を防ぐ。

 背後で細木がドアを閉じる音がした、その直後、


「俊介! 俊介!!」


 麻耶は泣きながら、俺の肩に顔を押しつけてきた。


「あたい、捕まっちゃった。他の皆も、美耶も……」


 俺は何も答えられない。警察署まで連行されてきたであろうことは想像がつくのだが。

 どうしようもない俺は、麻耶の背中に腕を回すことで、何とか『大丈夫だ』と伝えようとした。なんて無責任なんだろうと思ったが、それしか、俺にはしてやることができなかった。


「俊介、大丈夫? 俊介は何も悪いことしてないよ? そうだよね?」

「あ、ああ。俺はもう無罪放免だ」

「よかった……」

「他の皆だって大丈夫さ。俺の勝手な主観だけど、皆まだまだ若いだろ? やり直すチャンスはきっとあるはずだ」

「うん……うん!」


 麻耶は俺以上の腕力で、俺の背中を締めつけた。

 麻耶が安心してくれた様子であるのを確認した俺は、こちらから質問することにした。


「お前、さっきの刑事に酷いこと言われなかったか?」


 すると麻耶は、俺の背中に回していた腕をだらん、と下ろし、一歩後ずさった。


「パパとママの指示に従え、って」


 それはそうだろう。警察の上層部にまで圧力を利かせられる月野財閥だ。警部補というのがどれほどの地位なのか分からないが、きっと肥田に、そしてその上司に財閥が圧力をかけてきた可能性はある。つまり、『うちの娘をさっさと家に帰せ』ということだけだろう。


 俺が、『やっぱりそうか』と呟いた直後、唯一の出入り口が開いた。


「質問の続きだ、お嬢ちゃん。大丈夫か?」


 背中から聞こえてくるのは肥田の声。そこに気遣いの色があることを察した俺は、先ほどの麻耶の意気消沈ぶりに納得した。麻耶は肥田の前で散々暴れ回ったのだろう。


「大丈夫か?」


 繰り返した肥田に、麻耶は俺とすれ違うようにして、頷きながら歩み寄っていった。

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