【第五章】
「なるほどねえ~」
「そ、それだけだからな! これ以上、こっ恥ずかしい話させんなよ」
「はいはい」
その日の夕方、俺は再びやって来たアキを出迎えた。やはりエネルギー温存の観点から、自分で歩いてくるより荷物として輸送されてきた方がいいらしい。いつも通り、彼女の前には烏龍茶の注がれたコップが置かれている。
アキが運ばれてくるとなると、俺が部屋のインターホンですぐに起きられる状態でなければいけないわけだ。それを思うと憂鬱だが、今日はそんな心配はなかった。
この歳で初めてのキスである。錯乱しない方がおかしい。いや、その前日には事故で唇が合わさってしまったが……あれは事故だ。
まあ、確かに奇妙なシチュエーションではあったけれど、これはいわゆる『両想い』というやつだろう。アキからも、救出目標となる人間に恋愛感情を抱いてはいけない、などとは聞いていないし、これからも麻耶を助けてやっていきたいとも思う。
などと考えていた最中、
「うわっ!?」
ビシャッ、と俺の顔に冷水がひっかけられた。目の前には、俺のコップを握ってこちらに腕を伸ばしているアキがいる。
「って何すんだよ!?」
「あんたがだらしない顔してこっちの話聞かないからでしょ。ちょっとは冷静になりなさい」
お前に言われたくねえよ! ……とはアキも言われたくないだろうから、ここは黙っておく。しかし、だ。
「お前、格好変わったよな。どうしたんだ?」
「ああ、これ?」
アキは腕を広げ、自分の服装に目を遣った。今までのパステルグリーンのワンピースではなく、深い赤のシャツと黒いロングスカート。
「んー、まあちょっとね。追手が結構そこまで来てるらしいのよ」
「追手?」
頷くアキ。そういえば、最初に会った時『逃げ出してきた』なんて言ってたな。
「そいつに見つからないように、部分的にアルゴリズムを変えてみたら、実体化する時に服装の変化、ってことで現れたわけ」
へー。アルゴリズムって何? 美味しいの?
「ところで、神崎さんは大丈夫なのか?」
「ええ。南町病院に無事収容されたわ。いろいろと偽装工作が大変だったけど」
「ふーん」
ご苦労なこった。
「で、あんたは? 今夜も月野のアジトに行くの?」
「多分。ああいや、行けるかどうか分からない」
俺は少し言葉を濁した。別に悪意があってのことではないが。
「明日の昼間に、ちょっと用事がな。出かけてくるぞ」
「出かけるって、どこへ?」
「……俺の実家に」
「あ、そっか」
アキの返答は素っ気ないものだった。敢えて気にしていない風を装ってくれているのかもしれない。
「うん……じゃあ、気をつけて」
「お前もな」
※
最寄駅から新幹線で一時間。距離にして八十キロほど南下したところに、俺の実家はある。
俺は何とはなしに、車窓から景色を眺めていた。真っ先に目に入ったのは、ひたすらに高いビル。どこかの財閥の金が動いているのか、などと思うと、麻耶や美耶の両親が支える月野財閥のことが連想されてしまう。
「ケッ、金持ちが」
俺は思わず、毒づいた。
それからしばしの時間が経過した。次の停車駅の名前が読み上げられる。
はっとした。俺は目を覚まし、ゴシゴシと両目を拭った。危うく降りそびれるところだったのだ。やはり昼夜逆転を叩き治すのは一仕事だな、と思う。
「んーーーっと」
とりあえず伸びをして、深呼吸。新幹線のホーム上は騒がしいが、それは飽くまで駅の中だけだ。一歩外に出れば、そこにはよくある田舎町が広がっている。俺の帰省先だ。そしてここには、俺のお袋が住んでいる。
こうして手早く帰省することができるのだから、本当はもっとお袋のそばについていてやるべきだったのかもしれない。しかし、俺には――浪人していた時期の俺には、とても耐えられる状態ではなかった。その家に住み続ける、ということが。
ホームの階段を下りて、さっさと駅のエントランスを出る。懐かしいな。
「あれから一年、か……」
誰にともなく、俺は呟いた。正面には、真っ青な空。そしてそれを背景に、堂々と居座る入道雲。もうすっかり夏なんだなあ。
と思った時には、俺の足は自然に動き始めていた。実家の方面へと。
すると、去年は見なかったものが目に入った。
「ん?」
屋台が並んでいる。そうか。今週の日曜日、すなわち今日は花火大会だった。
既に鑑賞席を確保したのだろう、多くの人が屋台で食べ物を買ったり、お土産品を品定めしたり、金魚すくいなどの遊びに興じたりしている。ふと見ると、射的コーナーが設けられていた。
「はい、残念賞~! ティッシュペーパーです!」
あらら、ケチなことをするもんだ。まあ、アキが大男モードでショットガンを持ち出せば、全部の的を倒しきれるだろう。いや、屋台が風圧で吹っ飛ぶ方が先か。
俺は思わず笑みを漏らしながら、ジーパンのポケットに手を突っ込んで、人混みを縫って歩いて行った。
祭り会場から歩くこと約三十分。いや、本当は二十分で着くのだが、熱中症対策の飲料水を忘れてきたのを思い出して、コンビニに寄ったのだ。ちなみに、サングラスなしでも視力に支障がない程度には、俺の目も人並みに働くようになっている。
さて、俺が到着したのは、築十年ほどのアパートだった。新しくもなく、古くて窮屈な思いをするほどでもない。ごくごく一般的なアパート。ここに来るまでずっと、多少の目移りはあったにしても、俺が考えていたことがある。
お袋のことだ。
一応部屋番号は教えてもらっていたので、問題はない。はずだったのだが、
「……」
俺はお袋の部屋、三〇二号室の前で立ち止まった。
人殺し。夫殺し。亭主の苦労にも気づけない、愚かな女。
などなど、あらん限りの誹謗・中傷を書いた紙が、玄関一杯に貼られている。郵便受けにも、何やら『死』だの『殺』だのと物騒な言葉の切り抜きが突っ込まれ、一杯になっていた。
こういう事態を避けるために、俺とお袋は引っ越してきたというのに。噂というものは恐ろしい。
それはさておき。まあ、親子とはいえ礼儀はあるだろう。そう思い、俺はインターフォンを鳴らした。
インターフォンの、ジリジリというこもった音と共に『はあい』と気楽な応答が聞こえてくる。パタパタというスリッパの音が近づいてくる気配に、俺は身構えた。
いや、普通は身構えるほどのことはないのだろう。しかし、今更になって突然、緊張感が俺の踵から後頭部までを突き抜けた。やがて、外履き用のサンダルに足を通す音がして、ガチャリ、と開錠の金属音が響き渡る。
「どちら様ですか?」
中年女性の、少しか細い声。それと共に、チェーン越しにやはり女性の顔が覗いた。
「やあ、母さん」
俺はそっと笑みを浮かべた。うまく笑顔を作れたかどうかは甚だ怪しいが。
しかし、それでも女性――お袋はぱっと驚いたように瞬きを繰り返し、やがて笑みを浮かべた。
「あら、俊介! どうしたの?」
「急に母さんに会いたくなってね」
「連絡ぐらいくれればいいのに……」
チェーンを外しながら、僅かに非難がましくお袋は言う。
「だって母さん、携帯もスマホも持ってないじゃんか」
「家電があるでしょう?」
ああ、そういえば。
「ごめん、忘れてたよ」
「全く、いざって時におっちょこちょいなんだから」
お袋は笑みを深める。『おっちょこちょい』と言われて気分がよくはないが、かと言って悪くもない。そんな、親子の距離感。母子の駆け引き。
通されたのは、少し手狭なダイニングキッチン。冷蔵庫や炊飯器、コンロが並び、奥にはシンクがある。中央には楕円形のテーブルだ。
どれも小奇麗にされていたので、俺はほっとした。お袋が精神的な病か何かで、まともな生活を送れていないのではと思っていたのだ。それは杞憂だったらしい。
「俊介が来ると分かってたら、ケーキくらい準備したのに」
冷蔵庫の陰に引っ込むお袋の背中を見ながら、
「そういう風な気を遣わせたくなかったから、敢えて何も言わずに来たんじゃないか」
と、俺は誤魔化しながらも唇を尖らせる。
「まあ、これで我慢してちょうだい」
台所から戻ってきた母が両手に持っていたのは、近所の和菓子屋名物の煎餅だった。
「あらいけない、飲み物出すの忘れてたわね。喉渇いたでしょう?」
「ああ、いや、大丈夫。買ってきたから」
俺は背負ったリュックサックから炭酸飲料を取り出して見せた。
「そんなものばっかり飲んでると、骨が溶けちゃうわよ」
「たまにしか飲まないよ。心配しないで」
俺はテーブルの、入り口側に座った。真横の窓から、さんさんと陽が照りつけている。観葉植物の意味合いだろうか、反対側には、無造作に花瓶に挿された花が飾られている――というか、伸びるがままになっている。
俺は五百ミリのペットボトルのジュースをラッパ飲みした。
『飲み物はなくても大丈夫だ』とお袋に知らせるつもりだったのだが、お袋は冷蔵庫を漁ったり、麦茶をコップに注いだりで、全く気づく様子がない。というか、わざと無視しているのだろうか? もしかしたら、久々に会った息子に世話を焼きたかったのかもしれない。
「お待たせ、俊介」
お袋は麦茶のコップを二つ持ってきて、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。
「ああ、サンキュ」
軽く意地を張っていた俺だが、やはり真夏の水分補給に、飲み物の飲みすぎということはないらしい。一気飲みしてしまった。それだけ麦茶が美味かった、ということでもある。
「麦茶、まだあるから自由に飲んでね」
「うん」
コトリ、とコップを置きながら、俺は頷く。すると顔を上げた時、ちょうど席に座り直したお袋と目が合った。
「で、今日はどうしたの?」
「ああ、それが――」
と言いかけて、俺は口をつぐんでしまった。だが、ここまで来た以上、引き下がるわけにはいかない。
「最近、人助けをしたんだ」
「あら、よかったわね。一体何があったの?」
興味津々で俺の顔を覗き込んでくるお袋。
その目を見て、俺は狼狽した。俺が今から語ろうとしていることは、今のお袋にはキツすぎるのではないかと思ったのだ。だが俺とお袋の間に、心理的な壁、隠し事はしたくない。
そこまで思い至って、俺は口を開いた。
「自殺しようとしていた人を助けた」
一瞬、静寂が訪れた。セミの鳴き声が、馬鹿みたいに俺の鼓膜を震わせる。それだけ俺には勇気の要る発言だったのだ。
しかしお袋は、特に驚く様子はない。
「あら、素敵じゃない」
と、両手で頬杖をつきながら嫌味のない笑みを向けてくるばかり。
俺はどうしたものかと思ったが、お袋は表情を崩さなかった。ただ少し、笑みを浮かべるのとは別に、皺が深まったように見える。
「どうやって助けたの?」
「それは――」
俺は、神崎がパイプの下敷きになった件について語って聞かせた。だが、お袋は全く落ち着いた態度で、うんうんと頷きながら聞いていた。
「じゃあ、その場にいた皆で、神崎さんを助けたのね?」
「うん。まあ、俺にできたことなんて微々たるもんだったろうけどね」
そう。微々たるもの。しかしそれで救われる命があることを、俺は二年前の事件を思い出しながらぼんやり考えていた。
※
「俊介、釣りに行こう!」
「は?」
「釣りだよ。浪人が決まって大変なのは分かるが、リフレッシュも必要だぞ。父さんの腕前を見せつけて――」
「んなこと言ってる暇があったら、ここの微分積分教えてよ」
「全く、俊介はつれないな。魚は釣れるのに!」
「……」
俺は必死に耐えていた。勉強中だというのに、親父がうるさい。
俺にとって浪人することは、さして精神的苦痛をもたらすものではなかった。まあ、人生こんなもんだろうというくらいの認識にすぎない。だが、その邪魔をされるのは心外だった。自分の努力が他人に踏みにじられるようで。
そもそも、最近の親父の言動がおかしいのだ。半年前から、何やら精神疾患で会社を長期休養することになり、一日中布団を引っ被っているのが普通だった。
しかし、今日の親父は、ここ数ヶ月の休養の中で最もおかしかった。つい先ほどの、両親の会話を思い出す。
「あなた、大丈夫なの? 無理して立たなくても……」
「心配するな。今日は調子がいいんだ」
明るい会話に興じる親父。その対象が、今度は俺に向いたということらしい。
「なあ俊介、つき合ってくれよ。お前も少しは自然に触れて気分を切り替えた方が、勉強もはかどるぞ」
「……」
「微分と積分だな? どれ、父さんが見てやる」
すっと俺の手元から、テキストを取り上げる親父。
「あっ、おい!!」
俺は座ったまま手を伸ばした。が、親父はわざと意地悪をするかのように、ひょいひょいとテキストを振り回す。
畜生、せっかく集中でき始めたところだったのに……!
「返してくれよ、父さん!」
と言った直後、
「ぶわ!」
椅子が傾き、俺は椅子ごと机の引き出しのあたりに倒れ込んだ。
「いってぇ……」
「おお、分かったぞ! ここの答えは――」
その答えが何だったのかは覚えていない。それよりも、
「返せよ!!」
と怒鳴ったことの方が、ずっと頭に残っている。
「ん? ああ、悪い悪い。邪魔したか」
俺は無言で、親父の手からテキストを引ったくる。
「父さん、俺は遊びでやってるんじゃないんだぞ!? 釣りだか何だか知らないが、出てってくれ!!」
「おい俊介、鼻血が――」
「いいから消えろ!! 鬱陶しい!!」
この言葉は、咄嗟に怒りの念から表出したものだ。が、この二言、今になって思えば、親父にとっては致命傷だったのだ。
言ってみれば、ストレスで限界だった親父の心、崖っぷちで立ち続けている親父の背中を、俺は言葉という武器で思いっきり突き飛ばしたのだ。
当時の俺にはそんな実感はなく、ただただ怒っていた。とても冷静ではいられない。
親父の差し出してきたティッシュペーパーを、親父の手を叩くことで突き落とした。普通だったら喧嘩にでもなりそうなパターンだが、親父は灰色の瞳で俺と視線を合わせた後、『そうか』と呟いて出ていった。
翌日、親父は自殺した。
第一発見者はお袋だった。
俺が勉強中居眠りしてしまい、そのまま朝を迎えたその日。シャワーを浴びようと階段を下りたところで、お袋がリビングの前でへたり込んでいるのを俺が見つけた。
「母さん、どしたの?」
などと呑気に声をかける。
お袋は手を口に当て、もう片方の腕で、倒れそうになる自分の身体を支えていた。
「なあ、母さん?」
不覚にも居眠りをしてしまったことでイラついていた俺は、無造作にお袋に歩み寄り、お袋の視線の先にあるものを見ようとした。しかし、
「俊介、見ちゃ駄目よ!!」
というヒステリックな、否、狂気じみた声に足を止めた。今思えば、俺の全身を震わせるようなお袋の声音は、一種の悲鳴だったのかもしれない。
そこからのお袋の対応は早かった。火事場の馬鹿力、という言葉があるが、似たようなものだと俺は思う。混乱が一周回って、お袋は冷静になったのだ。
お袋は俺の両肩を掴んだ。
「ちょっ、母さん、どうしたんだよ!?」
中年の一般女性とは思えない気迫で俺を圧倒、そのまま階段下まで俺を追いやった。そのすぐそば、玄関横の棚に置かれた固定電話を手にし、素早く一一九とダイヤルする。
その時の俺に与えられていた情報は、『リビングで何かがあったらしい』ということだけ。
「一体どうしたってんだよ……」
首を傾げながらリビングに向かおうとお袋に背を向ける。が、そんな俺の後ろ襟を、お袋は片手でむんずと捕まえた。
「うおっと!」
その場でたたらを踏む俺には目もくれず、お袋は淡々と電話先の質問に応じていた。
「はい、はい……夫です。昨日までは普通に生活を……」
親父? 親父の身に何かあったのか? それで一一九となると、心臓発作とか脳内出血で倒れたということだろうか。
再びリビングへ向かおうとする俺を、
「俊介、行かないで!!」
「ッ!!」
今度は息をも詰まる勢いだった。容赦なく俺の首は上半身のシャツに絞められ、喉仏が潰れそうになる。かと思えば、布地が限界を迎えたのか、ビリビリと俺のシャツは裂けてしまった。
と同時、両腕を伸ばし、ギリギリで立っていたお袋は、電話機の方も引っ張り込み、壁からケーブルが外れる事態となった。
俺はお袋の腕を振り払おうとしたが、それには及ばなかった。
「う……うぁ……」
精根尽き果てたのか、お袋はもう通じない受話器を握ったまま、泣き崩れた。瓦解したと言っても過言ではない、身体がバラバラになるような勢いで。
もちろん、こんな状況なのだから、俺は『お袋に肩を貸す』なり『水を持ってきて飲ませる』なり選択肢はあったはずだ。だが、それよりも半ばパニックの伝染を受けてしまった俺は、怖いもの見たさも相まって、三度、リビングへと足を向けてしまった。
ちらりとお袋を振り返る。これ以上衣服を裂かれては困ると思ったのだ。が、お袋は完全に沈黙し、涙と鼻水で玄関フロアに水たまりを作っていた。
俺は思い切ってお袋から視線を外した。リビングへと一歩、また一歩と踏み出す。そして、親父と邂逅した。
その瞬間のことは、よく覚えていない。親父の足が浮いていて、全身が脱力し、首に縄がかかっていた。
認識できたのはそこまで。実際の首つり自殺というのは、頚椎の骨折やら気道の圧迫やらが原因で死に至るそうだが、これらは単なる後づけの知識にすぎない。重要なのは、親父が『自ら』命を絶った現場に居合わせた、ということだ。
だが、考えてみれば妙なものだ。その事件以降、いろんな書籍やネットの情報にあたってみたが、どうも生物は『自らの生存』を第一に考えるものらしい。つまり、親父が行ったような自殺というのは、極めてイレギュラーな行為だと言える。
となると、そのイレギュラーな行為の原因は、親父の内心ではなく外部にあるわけだ。そしてこの事件の表舞台に引っ張り出されたのは――お袋だった。
親父は平々凡々なサラリーマンだったが、出身は古い名家だった。だからと言って、直接的に俺たち家族に影響があったわけではない。しかし事ここに至って、『名家出身』の親父の肩書は、お袋に牙をむいた。
妻であるお前が主人の自殺を招いたのだ、と。
我が家の家系から、自殺などする脆弱な者が現れるわけがない。
内心からこの世を憂うような暗い人間が出るわけがない。
だから、原因は家庭環境にあるはずだ。
それが、名家としての、親父の実家による見解だった。
今思えば滅茶苦茶な話だ。誰にだって弱みはあるし、凹む時もある。問題は、それを外部に訴え出ることができるかどうかだ。親父とお袋は仲が良かった、というか喧嘩したことがなかったようだし、それは十分可能だったのではないか。
しかし、それは数ヶ月後、あっさり破られることになる。
「俊介くん、世の中そう上手くはいかないんだよ」
弱った顔をしながら相談に乗ってくれたのは、伯父だった。親父の兄だ。
「名家の出身だからこそ、自分が耐えて見せなければ。お父さんはきっとそう思ったんだ。私の弟だからね、考えることは分かる。だが、そうやって我慢することが、お父さんにとって、自分で自分の首を絞めるような結果になってしまったんだ」
と、そこまで語ってから、伯父ははっとした様子で口元に手を遣り、
「俊介くん、本当に申し訳ない!!」
と言って畳の上で頭を下げた。
「えっ、申し訳ないって、何が……」
俺がポカンとしていると、伯父はゆるゆると顔を上げ、
「あ、ああ、何ともないならそれでいいんだ。気にならなければ……」
という謎の言葉を放ち、素早くお袋に礼をして去っていった。
今思えば、なるほど、絞首自殺した親父の話の中で『首を絞める』という言葉を使ってしまったことで、俺が不快な思いをしたと思ったのだろう。そのことに気づいたのは、実はつい最近のことだ。
さて、伯父が突然やってきて、俺とお袋に面会の機会を設けた時期。その頃には、本家・葉山家からのお袋への風当たりは相当なものになっていた。
まず、家への書類の投函数が一気に増えた。それらは、親父が死んだことへのお悔やみ――の皮を被った、お袋へのいわれもない誹謗中傷だった。何故俺がそんなことを知っている、というか察しているのかと言えば、ある夜、お袋のすすり泣きを聞いてしまったからだ。
そっと、灯りの漏れ出すお袋の自室を覗いてみると、化粧台に座ったお袋の背中が目に入った。次に、その前に置かれた封筒の束。あのすすり泣きは、悲しみや喜びによるものではない。そんなことは、直感的に察せられた。これはきっと、悔し泣きなのだ。それは、俺にも肌で感じられた。
次に、イタズラ電話があった。無論、二回や三回ではない。多い日で二桁。大抵は無言で切れたが、たまに変声機を通したような無機質な声で『死ね』『殺す』などと吹き込まれたこともあった。初めて俺がイタズラ電話を取ってしまった時の言葉は、『この恥さらし!』という甲高い声で、その日は流石に寝つきが悪くなってしまった。
ここで重要なのは、俺がイタズラ被害に遭った回数は、所詮氷山の一角に過ぎない、ということだ。特に書類・手紙の類については、お袋は決して俺には見せようとしなかった。見たいとも思わなかったが。
恐らく、本家の連中がお袋を責めるために、近所の人たちをそそのかしたのだろう。幸い、俺は葉山家の血を継いでいる、ということで攻撃対象を免れた。それでもお袋がされていることを思うと、居ても立ってもいられなくなった。それで勉強に支障が出たとしたら、と思うと背筋が凍る思いがした。
幸い俺は現役時代に狙っていた志望校に合格を果たし、それを機に、お袋とは別々に、それぞれ引っ越したわけだが……。どちらも上手くいっていないことは、もはや言うまでもない。
「俊介、俊介!」
「……んあ」
目の前で、誰かの手がぶんぶんと振り回されている。誰の手かなんて明確だ。
「母さん、どうしたんだ?」
「どうかしてるのはあなたよ、俊介。なんだかぼーっとしちゃって」
「ん、ああ……」
「何か、悩みごとでもあるの?」
「いや」
俺は即答した。それでもお袋は、自分の指を胸の前で組み合わせ、不安げにこちらを見つめている。
「……母さん、まさか俺が大学でいじめられてる、なんて思ってない?」
「そ、そうよ!」
お袋はテーブルに手をつけ、身を乗り出してきた。そんな余計な心配をかけるまで、俺はぼーっとしていたのか。アホか、俺は。
「大学戦線異状なし、葉山俊介軍曹は無事、存命であります」
おどけた調子で言ってから、俺は椅子を降り、さっと敬礼してみせた。戦争映画の観すぎかな、と思う。
だが、そのおどけた所作のお陰で、お袋はほっとしたらしい。
「よかったわ、あなたが元気で」
「何だよ、大袈裟だなあ」
そう、お袋は随分と熱心に俺を見つめていた。
「えっと、何?」
するとお袋も立ち上がり、出口を塞ぐコースで俺のそばまで回ってきた。そして、思いっきり俺を抱きしめた。
「ちょっ、母さん! 俺は赤ん坊じゃないんだから、こんなこと止めてくれよ!!」
狼狽する俺を無視して、お袋は涙ながらに訴えた。
「母さんにとって、あなたこそ生き甲斐よ、俊介。悩みがあったらすぐに言いなさい。電話でもいいわ。だから、だから……」
要するに、もう少し俺を引き留めておきたい、というわけか。俺はどこか安堵感を覚えながらため息をつき、
「じゃあ、母さんお手製のハンバーグでも作ってくれる? 久々に会ったんだしさ」
それを聞いて、お袋はようやく俺から手を離し、涙を拭って俯きがちに頷いた。
「材料、ある?」
「ええ、大丈夫よ」
「でも挽き肉って捏ねるの大変だよな。俺がやるよ」
「ありがとう、俊介」
油断すればまた泣き出しそうなお袋の前で腕を組みながら、俺は手近にあったエプロンをお袋に放った。
「ありがとう、俊介」
「さっきも言ったじゃないか、その台詞」
「だって私の生き甲斐だもの」
「それも言った」
恥ずかしくなるから、もう止めてくれ。そうは思いつつも、俺の安堵感は深まった。
晩飯が終わり、俺はいそいそと帰宅準備を始めた。できれば今日、いや、明日の未明にでもキラキラ通りを訪れておきたい。
「そんじゃ。また来るよ」
「うん。母さん、あなたを待ってるわ」
まだ微かに日差しが差し込む玄関で、俺はお袋に手を振った。
景色が俺の視界を流れていく。
帰りの新幹線では眠らなかった。高速で過ぎ去ってゆく森林の黒々とした影、住宅地の放つ淡々とした灯り、真っ暗な中に一線を引いたような海岸線。それらを俺は、何を考えるでもなく、ぼんやりと眺めていた。
ウォークマンを持参すべきだったと反省する。そうすれば、落ち着いた音楽を耳にして、より落ち着きを取り戻せただろうに。まあ、今日は我ながら、意外なほど冷静だったとは思うのだが。
いや、冷静だったのはお袋の方か。でなければ、俺はお袋と一緒に『大黒柱の喪失』という負のスパイラルに落ち込んでいたかもしれない。
ふと、先ほど食べたハンバーグの味が思い出された。親父も含めて、三人でよく食べたものだ。今はもう親父はいないけれど、お袋はいる。不思議な体験だが、俺はお袋のハンバーグの味を思い出すことで、『強く生きて』というメッセージを受け取ったような気がしていた。無論、それはお袋がくれた『思い』であって、お袋も何とか、自らを叱咤しているところなのかもしれない。
「降りるのは次の駅、か」
俺は小さく呟き、あと数分で到着するというアナウンスを聞きながら、座席に忘れ物がないか確認した。まあ、持ち運びに苦労するような荷物を持って出かけたわけではなかったけれど。
「……」
駅のホームに降り立ち、音のないため息をつく。少しは俺も元気になれたような気がして、発車する新幹線をぼんやりと見送ってから、階段を下りて改札を出た。
さて。身軽な俺は、このままキラキラ通りに向かうことにした。
正直、麻耶に会いたかったのだ。これが恋なのか何なのか分からない。しかし、とにかく今の俺は、熱烈に麻耶の気に留まることを望んでいた。
会いたい。そして今の俺が元気であること、麻耶にも未来が開けていることを伝えたい。駅の構内から外に出た俺は、思いっきり伸びをし、パチンと両頬を叩いて気合いを入れ、キラキラ通りのある北側へと足を伸ばした。
勾配のキツい坂を登っていく。このあたりは住宅街で、街灯や監視カメラが市民を守るべく、その目を光らせている。
できるだけカメラには映らない方がいいんだろうな。そう考えた俺は、通い慣れたこの道を、足早に通り過ぎていこうとした。
その時だった。俺の視界で、誰かが地面に倒れているのが見えたのは。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺は慌てて駆け寄った。街灯の光で、その人物が何者なのかを確かめる。
「……っておい!!」
俺は愕然とした。何故なら、今俺の腕の中で荒い息をついているのは、誰あろうアキだったからだ。
俺は手を震わせながら、アキをそっと仰向けにした。一体何があったんだ?
「おいアキ! アキ!!」
頬を叩いてみるが、アキの意識は戻らない。街灯の下で、アキの顔が真っ白になっていることを俺は見て取った。
その時だった。
「少し離れてくれるかい、葉山俊介くん」
淡々とした、聞き覚えのある声が、俺の鼓膜を震わせた。
俺が慌てて振り返ると、街灯の光の中にその人物が入ってきた。
「は、長谷川先生……」
僕は馬鹿みたいに塞がらなくなった顎を動かし、彼の名を口にした。
長谷川亘教授。俺がアキと出会う前、夜中の未明にも関わらず、俺のレポート提出を催促してくださったありがたい先生だ。結局レポートは提出できなかった……というよりしなかったのだけれど。これでは会わせる顔がないが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「長谷川教授、これは一体どういうことです!?」
ぼさぼさの髪に少し白髪交じりで、かと言って歳をとっているようには見えない、すっと伸びた長身の背筋。フレームのない眼鏡をかけ、半袖のカッターシャツにジーパンという、よく分からない服装。間違いなく、長谷川亘教授だった。
「その前に私が訊きたいのだが……。葉山くん、怪我はないかい?」
「あ、俺は大丈夫です。膝を擦りむいたくらいで……」
と言って、俺は自力で立ち上がり、教授と目を合わせた。
気づけば、教授以外にも人間がいた。黒服にサングラス姿の男性数名が、俺とアキ、それに教授を囲んでいる。次にもたらされたのは、質問の一斉射撃だった。
「君の名前は?」
「どこの学生かね?」
「AIと出会った経緯は?」
そんな彼らに、僕はマスコミにたかられる政治家よろしく、『えー』だの『あー』だのと繰り返していた。しかし、そこに救いの手を伸べてくれたのは教授だった。
「彼は私の知人だ。大学に戻るついでに、私の方から事情聴取しておく。君たちは、アキを研究所へ送り届けてくれ」
「了解です、長谷川チーフ」
黒服たちはそう言って、アキを慎重に担架に載せ、運んで行った。その先には救急車のような車が見えたが、それも黒かった。いかにも隠密任務向き、といった印象を受ける。
教授はこちらに手招きをしながら、白いセダンの方へと俺を誘った。
「君は確か、葉山俊介くん、だね? 私の講義を受けていた」
「あ、はい。葉山俊介といいます」
「葉山くん……。ああ、プログラミングⅢのレポートが未提出だったよ。まだ期限は延ばせるから、無理のない範囲でやってくれ。身体の健康が第一だ」
「は、はい」
歩きながら、他愛もない会話を交わす。レポートの催促をシカトしてしまって申し訳ない、と思い、ろくに言葉が出てこない――かと思ったのだが、アキの弱り切った姿を思い出すと、いろいろと尋ねずにはいられなかった。
「教授、あなたがアキを開発したんですか?」
「いや、私じゃない。私はただチーフという立場にあっただけで、開発は私の元で働く研究員たちがやってくれたよ」
そういえばある先輩が、人工知能の開発が難しいだの何だのと愚痴っていたことを思い出した。その時は、ロボットコンテストに応募でもする気なのか、くらいにしか思わなかったが、まさか本当に人工知能の製作に携わっていたとは。
「乗ってくれ、葉山くん」
律儀なことに、教授はセダンの助手席のドアを開けてくれていた。
「あっ、どうもすみません」
俺はヘコヘコと頭を下げながら、ゆっくりと乗り込む。反対側から運転席に教授が乗り込み、緩やかにセダンは発進した。
「葉山くん、こんな時間だから送っていこうと思うんだが――」
「えっ、そんな! 申し訳ないですよ!」
「申し訳なくなんかないさ。我々の開発した人工知能は、まんまと君を利用していたんだ。お詫びする必要があるのは、こちらの方だ」
教授はつと、人差し指で眼鏡のフレームを押し上げた。
車内は冷房がかかっていたが、教授は汗だくのまま。俺も落ち着かず、背中を汗が伝っていくのが感じられた。
その時、助手席と運転席の間に、一枚の写真が貼りつけられているのが見えた。仏頂面の教授と、その前で椅子に腰かけ、大きくなったお腹に手を当てている女性が写っている。
「私の妻だ」
俺の視線の先を読んだかのように、教授は呟いた。
「奥様がいらっしゃったんですね」
てっきり未婚を貫くのかと思っていたが。
「正確には『元』妻だな。娘の出産時に、二人そろって天に召されてしまった」
「……!?」
いや、普通なら謝るべきところだろう。悲しいことを思い出させてしまったのだから。
しかしここ数日、人の死というものに触れてきた身としては、とても落ち着いて無礼を詫びることなどできなかった。あまりに衝撃が大きすぎたのだ。
俺が正気に戻ったのは、次に教授が俺に声をかけてきた時だ。
「すまないな、急に暗い話をしてしまって」
「あっ、いえ……」
教授の表情は窺えなかった。窺うことが、できなかった。本当は自分が一番辛いはずなのに、どうして俺のようなダメ学生に謝ろうとするのだろう。
それから、教授はぽつりぽつりと話を始めた。
流産の可能性が高かったこと。
医師には、妻と娘の片方を諦めるよう宣告されたこと。
どうにか二人とも助けてくれと懇願し、結局二人とも喪ってしまったこと。
「それでも人は生きていくものだ。時間の流れというものは、ありがたいようで恐ろしい。意識しなければすぐに過ぎ去っていくし、忘れようとすればするほど、その経過は遅くなる」
『いやはや、全く恐ろしい』と言って、教授は口を閉ざした。
「もしかして、アキのモデルって……」
「別に似せて創ったわけじゃない。無意識のうちに、と言えば逃げになってしまうが、どうしても似通ってしまうんだよ。在りし日の妻にね。妻とは大学で出会ったんだが、自分が小さい頃の話をするのが大好きだったんだ。写真も見せてもらったから、人工知能の出来映えと、幼少時からの妻の写真の姿とをマッチングさせて、アキが完成したわけだ」
『命名権は私にはなかったようだがね』と、教授は肩を竦めた。
帰りがけの主な話題は、アキの身に何が起こったのか、だった。
「アキは一体どうしたんです? 何故あんなところで倒れていたんです?」
「君がアキの名付けたAI――我々もアキと呼ばせてもらうが、彼女は暴走していたんだ。
「暴走?」
ハンドルを握りながら頷く教授。
「そこで我々は使ったんだ。暴走した人工知能を駆逐するための、最終兵器を」
最終兵器。その言葉に、俺は唾を飲んだ。コンピュータウィルスの最新バージョン、とでもいったところか。
「これから人工知能はどんどん普及するだろう。生活、娯楽、情報通信、その他未知の領域の開発。だが、もし『彼ら』が『我々』に対して反旗を翻すようなことが起こったらどうなる?」
それこそSF映画の話じゃないか。俺は、普段だったら一笑に伏すであろうところを、しかし無視できずにいた。それだけ教授の言葉は重かったのだ。
「そんな事態に備えて、対AI用の人工知能を同時開発しているのさ。毒を以て毒を制す、とでも言うべきか」
と、いうことは、ウィルスのバージョンアップはまだまだ続くというわけか。
「だがこれ以上、君たちのような一般人に迷惑がかからないよう、アキは完全な警備・管理下に置く。今さら信じてくれとは、自信を持っては言えないがね」
「……」
教授は俺のアパートの前で停車した。
「教授、ありがとうございました」
降り立った俺が頭を下げると、教授は
「アキの件は心配しなくていい。我々が総出を上げて修復する」
『修復』……。元に戻るのか?
その言葉に、俺の胃袋から一気に心配事が溢れだした。
「俺、またアキに会えますか?」
俺の降りたドアを閉めようと腕を伸ばしていた教授は、上目遣いで
「あまり期待はしないでくれ」
と一言。
『そんな!』とか『また会わせてください!』とか、言いたいことはたくさんあった。否、言いたいことはたった一つで、そのバリエーションがあっただけだ。しかし、俺はそのいずれをも、言葉にすることができなかった。
俺は肩をガクッと落とし、遠ざかっていくセダンのテールランプが見えなくなるまで、ずっと頭を下げ続けた。
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