【第七章】

《そうか。君も大変な目に遭ったね、葉山くん》

「ええ、まあ……」


 キラキラ通りに機動隊が突入してから三日後。レポート作成中の俺のスマホに、長谷川教授から着信があった。アキがウィルスに殺されかけて以来、俺は教授とは会っていない。というより、大学に行っていない。どうせ何もなくても行かなかった可能性が高いわけだが。


 教授は、どこからか俺が警察に連れていかれたことを聞いて、連絡をくれたのだ。こんな時――アキが破壊されかけ、麻耶は警察署に拘留中だ――にレポートだ何だと騒ぐのは、一見滑稽かもしれない。しかし、俺はここ数日間に起こったことが、現実だったのか夢だったのか、分からなくなっていた。引きこもりに逆戻りして、現実逃避に走っていたのだ。その逃避先が、かつて苦手意識を持っていた勉強だというのだから、皮肉なものである。


《葉山くん? 大丈夫かい?》

「あ、は、はい」


 本当なら、ここでアキのことを心配すべきなのだろう。だが、そんな気持ちにはなれなかった。

 忘れるべきだと思ったのだ。アキのことも、麻耶のことも、キラキラ通りの連中のことも。

 警察だ財閥だといった強大な力に、独りの札付き学生が対抗できるわけがない。

 しかし……。


 いつの間にか教授との通話を終えていた俺は、スマホをベッドに投げ出し、


「はあ……」


 テーブルの前に腰を下ろした。

 相変わらず、パソコンの画面だけがチラつく薄暗い部屋。

 結局、俺には何もできなかったなあ。そのへんの不良に少し顔が利くようになったくらいで、そして少し勉強に身が入るようになったくらいで、何も変わっていない。

 変わらなければ。現実に立ち向かわなければ。できることもできないことも、やらなければ。しかし、どうしたらいい?

 ――麻耶、俺は君に会いたい。

 その時、スマホが着信音を奏で始めた。


「誰だ、こんな時間に……って、教授?」


 またか? 何か言いそびれたことでもあったのだろうか。


「はい、葉山で――」

《あ、やっと繋がった! あんた、無事!?》


 その声を聞いた瞬間、俺の胸で何かが覚醒した。


《アキ、お前か? お前だな!?》

「そうよ俊介、決まってるじゃない! 私、声を変えることができるけど……偽物かどうかなんて、疑ってない?」

「知るかそんなこと! とりあえず、今はデフォルト状態みたいだな」

《正確には、ちょっと違うわね。私はだいぶ修復されたけど、まだ物理的実体には意識を移せないのよ》


 身体を構築して意識をインストールさせ、物理的に動き回ることができない、というわけか。


《あなたに、早急に伝えなければならないことがあってね――。今代わる》

《俊介? あんた、そこにいんの!?》

「麻耶!! 今は警察署にいるんじゃ……」

《もう帰されたよ!! それより、美耶が、美耶が……!!》


 美耶がどうしたって!? 


「落ち着けよ、麻耶! 美耶が一体――」

《美耶が、自殺しようとしてる!!》

「……ぇ」


 俺は喉が詰まる思いがした。実際、言葉は詰まった。


《美耶のスマホに、遺書が残ってたんだよ!! 理由は分からないけど、自殺するって!!》


 カタン、と音を立てて俺のスマホが手から滑り落ちる。慌てて拾い上げると、今度はアキの声で、


《私がナビゲートするから、スマホの電源は切らないでおいて。俊介のいるところが一番追いつきやすいから》

「あ、ああ! でも、本当に美耶が……?」

《じゃああなた、美耶が警察に捕まったと思ってたの?》

「……」


 今度こそ俺は言葉に窮した。そうだ。確かに、機動隊突入時に俺たちが連れられていく際、美耶が一緒だったわけではなかった。俺はてっきり、別の機動隊員や刑事たちに美耶が連れられていったものだと、勝手に判断していたのだ。

 まさか、アジトに引きこもって、警官隊の捜索をやり過ごしたのか? あまり現実的ではないが、しかし、警官隊とて人間だ。どこかしらに見落としがあって、それを先読みした美耶が、そこに隠れていたとしてもおかしくはない。


「じゃあ、美耶は今どこにいるんだ?」

《市街地を徒歩で、まっすぐ『サンライズ21』に向かってる。最近よく見かけるんじゃないの? 駅裏に建てられた高層ビル》


 俺は最近、外出した時のことを思い出した。そうか。お袋に会いに行く時、新幹線の窓から見えたのは、あの建築途中のビルだったのか。


《ねえ、俊介……》


 今度は麻耶の声だ。電話の向こうから、嗚咽に混じって、しかしはっきりと声が響いた。


《美耶を、助けて》


 俺も目頭が熱くなるのを感じながら、


「分かった。大人しく待ってろ」


 と言ってやった。


《ここから先は、私のナビゲーションに従って。麻耶との通信は、盗聴の恐れがあるからここまでで》

「了解だ。まともなナビ、頼むぜ」


 そこからの俺の判断は、我ながら迅速だった。


「タクシー拾うぞ。電車やバスよりは融通がきくはずだ」


 俺は自室の鍵さえ持たずに、外へ飛び出そうとした。


《あ、ちょっと俊介!》

「何だよ!?」


 アキの声を無視してドアを押し開ける。そして俺の目に飛び込んできた光景に、俺は愕然とした。『絶望的』言ったら誰しも頷くような状況だ。


「な……なんだこれ……」


 水だ。水が空からぶちまけられている。要は、そのくらいの勢いの雨が降っていたということだ。

 呆然と立ち尽くしていると、轟、と音がしてものすごい風が吹き込んできた。もちろん、雨粒と一緒に。ほぼ同時、一旦ドアを閉めようとした俺の視界が、一瞬真っ白になった。間もなく、何かが地面に叩きつけられるような打撃音がした。雷だ。相当近い。


 つまり。


「これじゃあ渋滞でまともに車なんか走れっこねえじゃんか!!」

《それを伝えようとしたんでしょうが!!》


 俺は一瞬でびしょ濡れになった身体を反転させ、背中をドアに押しつけた。

 くそっ、どうしたらいい? 何か移動手段、それもかなり距離のある場所を歩いている人間に追いつけるだけの速度のあるもの。

 その時、閃いた。


「あ」

《何!?》

「チャリがある。大学にちゃんと行ってた頃は、それなりに飛ばしてたんだ」

《それよ!! その手があるじゃない!!》


 興奮気味のアキに、確認の意味も含めて俺は確認を試みた。


「このスマホ、防水仕様だよな?」

《もちろん!》

「じゃあ、行くぞ」


 ドアの方に振り返りかけて、俺はあるものに目を留めた。合羽だ。だが、今はそんなものを着込んでいる暇はない。それに、フードまで被ってしまうと視界が遮られる。合羽作戦は止めだ。びしょ濡れで突撃するしかない。

 そう考えているうちに、俺は愛車のロックを開錠し、転倒防止ストッパーを蹴り上げ、軽くジャンプするようにして尻をサドルに乗せた。


「行くぞ!!」

《ええ!!》


 ものの数秒で、俺は頭のてっぺんから足の先までびしょ濡れになった。服を着たままシャワーを浴びたみたいだ。だが、そんな些末なことに囚われてはいられない。


「美耶、姉さんを泣かすんじゃねえぞ!!」


 しばらく平地を走っていくと、


「おっと、見えてきやがったな」


 住宅街の途切れる場所、急な上り坂の下に辿り着く――までもなくそのまま爆走。普段なら、真ん中あたりで息切れを起こし、一旦自転車から下りて引っ張っていくのだが、


「なんの、これしきいいい!!」


 非常事態だという認識が俺の足の筋肉に伝達されたのだろう、俺は我ながら信じられない速度で、上り坂の半分を乗り越えた。

 このまま残り半分も……ッ!!

 と思ったものの、世の中そう甘くはないらしい。七十パーセント(目測)ほどで、さすがに足が悲鳴を上げ始めた。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 俺の肺は酸素を渇望し、心臓はひたすらに動脈に酸素を注入し続ける。

 とまあ、中学理科の知識を脳から引っ張り出すことで、なんとか身体の疲労を誤魔化そうと試みる。自転車のギアは、三段階のうちの『1』。これ以上、ギアを軽くはできない。


「こん畜生おおおおおおお!!」


 俺は叫んだ。すぐに爆弾的豪雨の前にかき消されてしまったが、一種の雄叫びのようなものだったのかもしれない。叫んだお陰で、足に新たな力が宿されたような気がした。

 人間は通常、最大筋力の三十パーセントしか使っていないらしい。下手に全力を出すと、身体にガタが来るからだ。だが、今はそれどころではない、ということを、俺の身体は認識してくれた。


「どりゃあああああああ!!」


 こんな雄叫びは、ファンタジー世界で怪物に突撃する時に発するようなものだろう。だが、こんな急斜面を登る人間がいる、しかもこんな悪天候の中で、なんてのもなかなかファンタジックじゃなかろうか? 現実離れしているという意味で。

 やがて、雨粒で霞んだ俺の視界に、一時停止の交通看板が見えてきた。ここから大通りに入り、駅裏まで行くのだ。

 上り坂制覇まで、あと……何メートルだ、こりゃ? とにかく、あともう少しなのだ。

 そんな油断が招いたのだろう、


「うおおお……わうっ!!」


 コケた。見事な横転だ。身体の右側、肘をアスファルトにぶつけ、擦過する。シャツの繊維は簡単に裂けて、俺の右腕の皮膚はごっそり持っていかれた。まあ、慌てて左にハンドルを切ったので、対した怪我ではないのだが。


「いってぇ……」

《俊介、大丈夫!?》

「ああ、このくらいなら……」


 これもまた目測だが、俺はほぼこの坂を制覇していた。地面が水平になるまで、すこしばかりの距離は自転車を引いて登ることにしたが。


「はあっ、よし!!」


 俺は再び自転車に乗り、爆走を再開した。

 予想通り、幹線道路は渋滞していた。ボンネットや屋根に雨粒が当たり、そこら中に弾かれる。信号はもはやその機能を果たせず、ふとその先を見れば、マンホールから水が溢れ出していた。


「アキ、やっぱりチャリで来たのは正解だったみたいだな」

《私の方でも交通情報をモニタリングしてるけど……。やっぱり小回りの利く自転車、っていうのは最適ね。車で行こうとしたら、この渋滞に巻き込まれるか、すごい勾配の激しい山道をいかなくちゃならないから》

「なるほど、なっと!」


 俺が再びペダルに重心をかけようとした、その時だった。


「うっ!」


 俺は再び倒れ込んだ。今度は左側だ。激痛に息が詰まり、慌てて左腕で身体を支える。


《どうしたの!?》

「あ……足、つった……」

《はあ!? そんなこと言ってる場合じゃ……って、あれだけの坂を一気に登ってきたんだものね、仕方ないか》


 そんな悠長なことをのたまうアキを無視して、俺は自転車を倒し、ガードレールに両手をついて片足で飛び跳ねた。


「いてえよぉ!!」

《うーん……》


 アキも迷っているのだろう。こんな無様な俺を叱咤するか、それとも励ますか。まあ、美耶の自殺を止める、という意味では些細な問題なのだろうが。


「うっ……く」


 俺はつった左足をなんとかペダルに乗せ直し、ゆっくりと進みだした。徐々に痛みが引いていく。

 

 動けずにいる車たちを見つめながら、俺は軽い下り坂に入っていた。

「アキ、飛ばすぞ! しっかり掴まってろ!!」

《掴まりようなんてないじゃないのよ!!》

「細かいことは気にするな!!」


 そのまますぐにマックススピードへ。これでも高校時代は、危険運転取り締まり強化週間に五回はとっ捕まった経験がある。若気の至りというやつだ。

 俺は法定速度をとっくに超えているであろう勢いで、下り階段に差し掛かった。と、いうか飛び出した。


《ちょっ、俊介!?》

「黙ってろ、気が散る!!」

《私が正気でなくなっちゃうわよ!!》


 アキの悲鳴のような声を聞き流し、自転車の角度を調整、適度にブレーキをかけながら、ガタンガタンと下りていく。

 ここでコケたら洒落にならない。そんな思いを無理矢理胸の奥に封じ込め――ネガティヴ・シンキングは人類の敵だ――、運転に集中する。俺は階段を下りきって、崖と車道とを隔てているガードレールにぶつかる寸前に舵を切った。


「くっ!」


 ガタン、と揺れるのを自覚しながら、ガードレールを蹴って方向を合わせる。この道路も渋滞していたので、ちょうど車と車の間に自転車をねじ込むようにして走り込んだ。

 その時だった。


《そこの自転車、停まりなさい!!》

「何だ!?」


 げっ、覆面パトカーの前に出ちまったのか。渋滞の最後尾、真っ白なクラウンが渋滞の列に並んでいた。運転席の窓からぬっと腕が出てきて、パトランプを屋根に乗せる。


 俺は咄嗟に逃げることを考えたが、これだけの混雑状態では、自転車といっても小回りを利かせるのは至難の業だ。俺は素直に自転車を降り、スマホが無事ポケットに入っていることを確認した。そして、どうにかしてサツの連中から離れなければと考え始めた。


《ゆっくりそっちに行く。逃げようとは思わない方がいいぞ》


 ん? この声は……?

 ドスを利かせているのだろうが、まだ若い。迫力不足だ。こんな人、最近出会った気がするぞ。

 バタン、と運転席側のドアが開き、コートを着た人物が出てきた。そして俺は、その人物が目を細め、こちらを見定めようとしているのを確かめた。

 メガホンを下ろし、


「全く、あんな無茶な運転を――」

「細木刑事、ですよね?」

「って君は!」


 相手はポカンと口を開けたまま固まった。その手から傘がするりと落ちる。


「葉山くんじゃないか! 一体どうしたんだ?」


 俺はパトカーに視線を移し、無造作に近づきながら


「緊急事態です。俺をサンライズ21まで連れて行ってください!!」

「緊急? あそこはまだ建設中で、人の出入りは――」

「あったんですよ。説明が難しいけど」


 一瞬黙した後、細木は


「まあ、こんなところで止まってはいられない。パトカーに乗ってくれ」


 すると助手席から、ぬっと短い首と頭が出てきて、


「おい、どうしたんだ細木? 早く運転席に戻れ!」

「あ、肥田刑事も一緒なんですね。なら話は早い」


 俺は頭上に『?』を浮かべている細木のそばを通り過ぎ、


「すいません肥田刑事、俺です、葉山です! ちょっと緊急事態で!」


 と声をかけた。


「おう、どうしたんだあんちゃん? ついにハッパに手を出して自首しに来たのか?」

「違います!!」


 俺にそれなりの迫力があったのだろう、肥田もまた黙り込んだ。

 その隙に後部座席に滑り込んだ俺は、自転車を乗り捨てながら叫んだ。


「サンライズ21までお願いします! その後だったら、事情聴取でも何でも受けますから!!」


 細木が運転席に戻ると同時、肥田は


「緊急事態って何があったんだ?」

「美耶が……月野美耶が自殺しようとしています!!」

「何だって!?」


 叫んだ二人の刑事の声がハモった。


「場所はサンライズ21、屋上からの飛び降りです!! 月野美耶は、今は失踪扱いなんでしょう? 彼女は連日の警官隊の捜索をやり過ごして、自殺する決心を固めたんです!」

「しっかし、何だってそのビルなんだ? 確かそこは月野財閥が運営する大型のマンション兼ショッピングモールになるはずだが……」


 うなじを掻く肥田に、『だからですよ』と後ろから声をかける。


「どういう意味だ?」

「刑事さんたちも読んだでしょう? 母親からの手紙。今までずっと除け者扱いされてきた腹いせですよ、きっと。両親の、一世一代の投資に関連して『自殺者が出た』というレッテルを貼りつけることで、両親に大打撃を与えるつもりなんです。財政的にも精神的にも」


 しかし、肥田は軽くかぶりを振りながら


「そんな推測だけじゃ、警察は動けな――」


 と言いかけたところ、


「いえ、話の筋は通ってますよ」


 ハンドルを握った細木に口を挟まれた。


「それだって推測だろ、細木?」

「しかし……」


 俺はうなだれた。そう、これは俺とアキにとっては確定情報だが、アキの存在を隠しておかねばならない以上、その信憑性は一気に下がる。

 くそっ、ここまで来て……!


「でも、まあいいか」

「ですよね肥田さん、やっぱりこれだけじゃ――って、え?」

「あんちゃんの言うとおりにしてみようじゃねえか。細木、車をあのビルにつけろ。責任は俺が取る」


 慌てたのは細木だ。


「ちょっ、本気ですか肥田さん! こんなことで動いていたら、上層部の大目玉を喰らうことに……!」

「相手は月野財閥だ。自分の娘が自殺しようとしていてそれを警察が見過ごしたとしたら、その方が警察全体に対するダメージはでかい。だったら、俺たち二人がちょっと懲罰を喰らうだけで済ませた方が、よっぽどいいじゃねえか」


『責任は俺が取る』。肥田は繰り返した。

 納得した様子の細木。頷いてみせる俺。アキも電子空間のどこかで、ガッツポーズをしているだろう。


「おっと、後続車はないようだな。頼むぞ、細木」

「了っ解!!」


 すると細木は、凄まじいスキール音を立てながら、車体をぶん回した。


「どあ!?」

「あんちゃん、シートベルトを忘れるな!! なあに、すぐに慣れるさ!!」


 ウー、ウー、というパトランプの音と、


「交通課様のお通りだあああ!!」


 という細木の叫び声が混ざり合った。ハンドルを握ると性格が変わる人、なんてのはコミックでよく見るが、まさかリアルに存在していたとは。


「馬鹿野郎、お前は今は刑事課じゃねえか!!」

「なあに、腕は落ちてません、よっと!!」


 俺は気分が悪くなる暇も与えられず、あっちこっちに頭をぶつけた。せめてシートベルトを締めてから飛ばしてくれ。


 一旦、パトカーは逆走した。


「細木刑事、これって逆方向なんじゃ……」

「シッ!」


 肥田は俺の口に自分の人差し指を当てながら、鋭い声を上げた。


「今の細木は、誰にも手をつけられない。なあに、このあたりのカーナビは、全部細木の脳みそに入ってる。心配するな」

「そ、そうじゃなくて! こんなに爆走して大丈夫なのか、ってことですよ!!」

「皆、掴まれ!!」


 細木の叫び声が響く。次の瞬間、


「……?」


 身体が、宙に浮いた。もしかして。

 俺はできる限り歯を食いしばるようにして、衝撃に備える。その直後、

 ズゥン、と腹に響くような衝撃が、車体と車内を震わせた。俺は察した。これは跳び下りだ。通りから跳び下りて、大雨で誰も通行しようとはしない山道に入ったのだ。

 細木は車体の尻を振るようにして、荒れた山道を行く。山道と言っても、倒木がそのまま放置されているような険しい道だ。泥を弾き飛ばしながら爆走するクラウン。一体、どのくらいの賠償を請求されるのかと思ったが、『責任は俺が取る』という肥田の言葉に懸けるしかなかった。


 そんなことを考えつつも、俺は歯を食いしばり続けていた。舌を噛み切ったら大変だ。しかしそれも容易なことではなく、あっちでガタン、こっちでゴトンと激しくクラウンは揺れ続けた。


「車道に出るぞ!!」


 勢いはそのままに、ドリフトをかけながら車道に出る。すぐに十字路にぶつかったが、細木からはブレーキをかける意志が微塵も感じられない。


「今なら行ける!!」


 とだけ告げて、十字路に差し掛かった……はずだった。

 鳴り響くパトランプ。威嚇するクラクション。真っ白に染まる、俺の視界。

 そして、クラウンの左後部座席――俺が腰を下ろしていた場所だ――のドアが思いっきりひしゃげた。


「うわあああああああ!!」


 ドアがぐしゃりと、巨人にでも握り潰されたかのように変形し、俺はその余剰エネルギーをまともに喰らった。主に左腕に。クラウンは、突っ込んできた軽トラックの勢いを殺しきれず、その場で水平方向に一回転した。その間も、軽トラックほどではないにせよ、あちこちが他車とぶつかった。


 クラウンが止まった時、あたりはクラクションに満ちていた。俺はゆっくりと目を開ける。あれだけの事故だ、無傷でいられた自信はない。と、思っていると、


「ぐあああッ!!」


 左腕の神経が復活し、激痛をもたらした。左腕に無数の裂傷が走っている。身体の他の部分は無事なようだが、こんな血まみれの左腕をぶら下げて、どうやって美耶を助けようというのか。クラウンも大破しており、ドアを蹴とばしながら外に出てくる二人の刑事と目が合った。


「大丈夫か、葉山くん!!」


 細木が慌てて駆け寄ってきた。どうやら無事だったらしい。肥田は無線機で事故の報告を入れていた。彼もまた大丈夫だろう。だが俺は……。


「ビルには他の刑事を向かわせる! 君は病院に!」

「駄目です!!」


 俺は声を張り上げた。その勢いで、あらぬ方向に曲がった左腕にビリビリと激痛が走る。それでも。


「あなたたち大人が行ったんじゃ駄目だ! きっと美耶はすぐに跳び下りを決行する! 俺に……どうか俺に任せてください!!」


 俺は右手だけをアスファルトにつけ、両膝を追って頭を下げた。

 肥田も細木も黙り込む中、


「おや? 俊介くんじゃないか」


 人混み・車混みの中から、低いバイクの音がした。それにこの声。まさか……。


「神崎……さん……?」


 俺が振り返ると、重量級のバイクのエンジンを僅かに噴かした神崎龍美がそこにいた。ノーヘルだったのですぐに分かってしまった。


「神崎さん!!」


 俺は久々の挨拶もそこそこに、事態を大慌てで話した。あまりに俺が早口で喋るものだから、刑事二人はついてこられない。だが、神崎の方は事態を把握してくれたようだ。


「そのビルに向かえばいいんだね?」


 いつになく(と言っても大した回数会っていたわけではないけれど)真剣な目を光らせる神崎に、俺は頭を下げた。


「お願いします!!」

「うん、それは構わないんだ」


 淡々と、神崎は応じた。


「ただ、ご覧の通り、私の足はまだ不自由でね」


 視線を下ろすと、両足のブーツの口から、ぐるぐる巻きにされた包帯が見えた。


「松葉杖がないと歩けないし、階段を登るなんてことになったらとても耐えられない。私は俊介くんを搬送することはできるけど、美耶ちゃんの説得に協力することは不可能だ。それでもいいかい?」

「はい!!」


 俺は即答した。きっと、神崎という味方が登場したお陰で安心したのだろう。


「このバイク、意外と小回りが利くんだ。渋滞の中でも割とすいすい行けると思う。さ、後ろに乗って」


 俺は促されるがまま、左腕の痛みに耐えながら足を動かし、シートに跨った。


「まあ大丈夫だろうけど、変なところは触らないでおくれよ」

 

 その一言に、俺はカッと頭に血が上ったが、


「そ、そそそそんなわけないじゃないですか!!」

「なあに、からかっただけさ。それじゃ、行こうか」


 ポカンとしている刑事二人を残し、俺は神崎の腰に右腕を回しながら、バイクに揺られていった。


「アキ、今、美耶がどこにいるか、追尾できるか?」

《あっ! もうビルに入ろうとしてる!》

「まずいな……」

「どうだい? 事態はマズイ方向かい?」

「ええ、美耶はビルに到着しちゃいました!」


 豪雨に負けないように、声を張り上げる。


「ま、急がば回れってね」


 そういう神崎のドライビングは、実に見事だった。

 俺のように突発的に飛び出すでもなし、細木のようにスタントマン顔負けの曲芸を為すわけでもなし。飽くまで緩やかに走る。それでも、景色の流れは極めて速かった。車道の真ん中を、ひゅんひゅん飛ばしていく。途中でいくつかのサイドミラーに接触、吹っ飛ばしたが、神崎はそれが当然のことであるかのように、速力を弱めるようなことはしない。

「あとどのくらいで着きますか!?」

「ざっと三十秒かな」

 三十秒? 訝しんだ俺が上を見上げると、

「あ……」

 サンライズ21は、もはやすぐそこにまで迫ってきていた。軽い上り坂を、相変わらず飛ばしていく神崎。

 すると間もなく、凄まじいスキール音を伴ってバイクは駐車した。見事に、工事用入り口に横づけする形で。

「ぐわ!! ……っと」

 俺は危うく反動で振り落とされるところだった。

「はい、到着~」

「そんな呑気そうに言わないでください!!」

『そう?』と言いながら肩を竦める神崎。

「アキ、状況は!?」

《今、電子ロックのかかったドアのデータを漁ってるけど……。あっ、いた!!》

「何階だ!?」

《一階からエレベーターに乗ったところ!!》

「了解! 神崎さん、ありがとうございました!!」


 俺はスマホを仕舞いながら、さっと神崎に頭を下げた。しかし神崎は首を左右に振りながら、


「その言葉は、君が美耶ちゃんを救出できた時に言ってもらおうか」


 ピッとおどけた敬礼のような動作をしてから、神崎はようやく動き出した渋滞の列の向こうに消えていった。


「行くぞ、アキ」

《ええ!》


 鉄筋コンクリートや金属製のボルトがむき出しの内装。思いの他、殺風景だ。って、建設途中だから当然か。フロアには仕切りなどはまだ存在せず、作業中の人間の姿も見受けられない。極めて高い空間が広がっているが、これから天井や床板が取りつけられていくのだろう。

 しばらく左右に目を凝らしながら進むと、ガタンガタン、という僅かな音が耳に入ってきた。これは……エレベーターか!

「アキ、エレベーターの緊急停止と各フロアの電子ロック、できないか!?」

《さすがに無理ね。今の私は病み上がりだから》


 全く、呑気に言ってくれる。

 俺は、音を立てるエレベーターに隣接した、もう一つのエレベーターシャフトを見つけた。

 すぐに一階のボタンを叩き、金属製のドアが開いていくのを待つ。


「間に合ってくれよ……!」


 腹部にジリジリした熱を感じながら、俺は二本目のエレベーターの到着を待っていた。


「くそっ、早く来いってんだよ!!」


 エレベーターシャフトを蹴っ飛ばす。が、痛みは俺の方に跳ね返ってきた。特に蹴りに使った右足、ではなく左腕に。


「い、いてぇ……」


 そうか、やはり全身の筋肉はどこかしらで繋がってるんだな。などと感慨にふけっている場合ではない。が、それが思いの外俺の気持ちを落ち着かせた。

 あちらこちらに取りつけられた裸電球が、無骨な鉄骨や金属板を照らし出す。このエレベーターとて例外ではなく、下りてくる度に黄色、赤、青などといった発光ダイオードの灯りを反射している。真っ暗だったら、俺はビビってこのビルに入ることすらできなかったかもしれない。


 ゴオン、と重低音を響かせ、金属の箱が着地する。俺は乗り込むが、


「あれ?」


 昇降ボタンが見つからない。


「アキ、これはどうなってるんだ?」

《調べる。ちょっと待って》


 これではますます美耶のリードを許してしまう。と、思った矢先、


「うっく!」


 俺は思わず尻餅をつく。エレベーターが、金属部品を擦らせながら勝手に上昇を始めたのだ。


「おい、アキ!!」

《分かった。そのエレベーター、工事中の現場の階と、屋上にしか停止しないのよ》

「いっぺんに屋上に行くには?」

《ちょっと待っ――》


 俺が手加減しつつ、右側の柱に拳を叩きつけた。その直後、頭上から足元までが、縮むような錯覚に囚われた。物理的には錯覚ではないのだけれど。


「アキ、スピード上がったぞ!? 一体何が――」

《あ、あんた屋上直通ボタン、押したんじゃない?》

「え……?」


 俺が右手の先を見ると、確かにスイッチのようなものがある。そこにある文字は『R』。屋上、ということか。

 自分の足場がぐんぐん上がっていく感触を得ながら、俺は歯を食いしばっていた。

 速く……速く……もっと速く……!

 やがて頭上から、ギリギリと鉄骨材の擦れる音がした。美耶が、屋上に着いたのだ。ここのエレベーターに、到着を知らせる音色はまだ流れてこない。客がいないから当然と言えば当然か。

 やがて俺のエレベーターも、屋上に到達した。と言っても、屋上に繋がるフロアに、だ。そこから屋上に出るには、電子ロックを解除して――美耶は解除カードか何かを持っていたのだろう――、向こう側に観音扉のように開く鉄扉を押し開けねばならない。


「ドアノブがついていやがる」


 左手が使い物にならない俺は、右側のノブだけを掴んで回した。

 しかし、だ。


「あれ? あれ!? 開かねえぞ、これ!!」

《シッ! 美耶ちゃんに気づかれるかもしれない!》

「でもどうするんだ、このドアは!? すぐ向こうに美耶がいるんだぞ!?」

《電子ロック解除不可……というより、このドア自体が建設用の足場の一部だから、普通のドアよりロックは軽いはず》

「つまり、ブチ破れって言いてえのか?」

《そうね》


 うわ、アキの奴『そうね』で流しやがった……。


《ドンドン音はするでしょうけど、外は豪雨。美耶ちゃんはだいぶそこから離れたようね。多少音を立てても聞こえないでしょう》


 まあ、それはそうか。


「よし、じゃあ、行くぞ!!」


 俺は刑事ドラマよろしく、無事な方の右肩で、ドアに体当たりを試みた。


         ※


「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 一体何度目になるのだろう。俺はぶつかっては跳ね返され、ぶつかっては跳ね返され、を繰り返していた。右肩はまだ骨折や脱臼はしていないが、じわじわとダメージは蓄積されているだろう。

 それでも。

 それでも、俺には許すことができない。

 美耶が、自殺という形で両親に復讐することを。

 このビルを、彼女の墓標にすることを。

 そして、麻耶の嘆き悲しむ未来を見過ごすことを。


 すっかり理性の抜け落ちた脳みそで、とにかく目の前のドアを開けることだけを考える。


「畜生ぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 すると、俺の願いが通じたのか、ドアはついに、俺の右肩の前に敗れ去った。ギシィッ、と音を立てて開かれる。

 かく言う俺は、何やら奇声を上げながら、雨で濡れた屋上を転がって背中を打った。その時になってだろう、ようやく美耶はこちらに振り向き、俺を視認、そして驚嘆した。言葉はない。


 俺は、掠れ声を何とか聞こえるレベルまで拡声し、美耶に呼びかけた。そして、飛び降りを止めるように語りつつ、詫びた。彼女の気持ちに気づいてあげられなかったことを。しかし、それでも美耶は『黙れ!』と連呼し、話に応じようとはしない。

 こうなったら……。それこそ心理学テキストのパクりだが、やってみるしかない。具体的な話をすることで、相手の気を逸らす。


「……れ、だま……れ……」


 ぐしゃぐしゃになった顔に手を覆い被せる美耶に対し、俺は思うことを述べ始めた。


「君や君のお姉さん――麻耶さんは、両親に捨てられたものだと思っている。そうだろう?」

「……」

「正直、俺もそれには反論できない」

「えっ」


 美耶は顔を上げ、呆気にとられた表情で俺を見た。ズタボロの俺を。

 どうやら美耶は、俺がてっきり愛や希望を語るものだと思って、ここまでやって来たのだと考えているらしい。だが、話はそんな安っぽいものでは済まない。


「麻耶から聞いた時はぞっとしたぜ。何せ、親が厳しいんじゃなくて無関心なんだもんな。『愛の反対語は憎悪ではなく無関心』なんだそうだ。君には分かるんじゃないか、美耶? この言葉の、本当に意味するところが」


 黙り込んだ美耶の前で、頭にある知識と言う名の剣を振りかざし、美耶の自殺願望を少しずつ、少しずつ斬り落としていく。


「だからな、死ぬなよ。もし、『死んじまったら記憶も何もなくなっちまう』なんて思って自殺を肯定したいんだったら、一度考えてみろ。麻耶、つまり君の姉さんのことを」

「お姉……ちゃん……?」


 目を見開き、首を傾げた美耶の前で、俺は大きく頷く。

「美耶、君はお姉ちゃんっ子だ。そうだろう? 他にまともな家族なんていないんだから。その唯一の家族の悲しみに対して、君は無関心でいるつもりか?」


『それは暴力だ』と俺は続けた。


「これ以上ない暴力だ。そうやって無関心に、麻耶の心を踏みにじることは」


 十分語ったな、俺は。そう判断し、


「美耶、一歩でいい。こちらに――俺の方に一歩、踏み出してみてくれないか」


 と告げる。美耶は先ほどから俯いたままだ。


「ゆっくりでいいぞ。とりあえず、俺の方へ」


 そう言ったまさに次の瞬間、


「ふ、ふふっ、あはははははははっ!!」


 美耶が、爆笑した。腹に手を回し、上を見上げ、夜空に向かって笑う。笑って笑って笑い続ける。それはあたかも、道化師を笑うように無邪気で嫌味のない、純粋な笑いだった。そう言うにしては、あまりにも大人びている感があったけれど。


「み、美耶……?」

「あー、笑った笑った」

「一体どうしたんだ……?」

「どうしたも何も、こんなおかしなことってないじゃない」


 すると、ふっと美耶の顔から笑みが消え、真顔になった。


「私が自殺するのに致命的な妨害が入っちゃった。前部で三つ。一つは、あなたが私を止めるために、大怪我をしながらでもやってきたこと。二つ、あなたは私のことで、無関心ではいられない、つまり少なからず大切な人間だと思ってくれていること。三つ目は、これから試す」


 そう言うと、美耶はあっさり屋上の端から離れ、俺に向かって歩み出した。

 美耶の足元で、軽く水滴が跳ねる。一歩踏み出してくれと言っておきながら、しっかりとした足取りで向かってくる美耶に、俺は恐怖すら覚えた。

 そんな美耶が俺に告げたのは、書き文字にして僅か四文字。


「キスして」

「駄目だ」


 俺は、理由は分からないが即答していた。気づいたらそう答えていた。俺の視界の中の美耶に、麻耶の悪戯っぽい笑顔が被る。


「じゃあ、抱きしめて」


 特に望んでもいない、ただ俺を試すような上目遣い。それに向かって俺は、


「駄目だ」


 と再び突っぱねた。


「やっぱり、お姉ちゃんの方が大事?」

「ああ。すまない」


 もう俺に、嘘をつけるだけの余力はなかった。きっと美耶は、自分が優先されなかったことで、俺を恨むだろう。麻耶を恨むだろう。そして、飛び降りを決行するだろう。俺には何も変えられなかった――。

 その時だった。

 美耶の無表情に変化が現れた。頬が微かに赤く染まり、軽く唇を開いて息をつく。安堵だ。


「よかった……」

「えっ、一体何が、何だって?」

「だって困るもの。お姉ちゃんの思い人が、私みたいな妹にも手を出すようなだらしのない奴だったら」


 美耶は手を後ろに回し、僅かに腰を折りながら、再び上目遣いで


「俊介さんはそんな人じゃないって、証明してほしかったの。合格、おめでとう」

「あ、ああ、ありが、とう……」


 美耶が自殺を思いとどまる三つの条件。それは、俺が必死で美耶を止めに来ること。美耶を大切に思っていること。そして、だからこそ、麻耶への誠意を示すこと、の三つだったのだ。


「俺にできるのは、これだけだ」


 そう言って、俺は美耶の頭に右手を載せた。


「えへへ」


 美耶の無邪気な笑みを目にした次の瞬間、俺の足元が歪んだ。


「んあ?」


 フラッ、と重力に引かれる。膝に力が入らない。視界が暗転する。


「どうなって……る……?」

「俊介さん!!」


 美耶の悲鳴が聞こえる。そして、何も聞こえなくなった。

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