【第二章】

 この陰気臭い部屋に、今日二度目の来客があった。ピンポーン、という軽い電子音。しかし、普段あまり他人の来訪を経験していなかった俺は、真っ先に憂鬱の念に囚われた。


「……はぁい」


 返事をしたはいいものの、ベッドに横たわり、夜がやって来るのをひたすらに待って休眠していた俺は、すぐに動くことができなかった。

 再びの来客チャイム。


「ぐっ」


 金縛りにあったわけでもないのに、身体は思うように動かない。なんとか両腕をついて、上半身を持ち上げる。その時だった。


「ん、う、うわあ!?」


 ドアの向こうから悲鳴が聞こえた。若い男性の声だ。


「何だ?」


 どこか不吉なものを感じた俺は、ようやく全身の感覚を取り戻し、するりとベッドから抜け出した。玄関ドアを開錠し、向こう側へと押し開ける。するとそこには、


「うえ!」


 段ボール箱が放り出されていた。そしてその箱は、中に何かが潜んでいるかのように、ずるずる這いずり回ったり、内側から跳ね飛んでいたりする。確かにこんな荷物を運んでいれば、驚きもするだろう。が。


「お前、アキだな!? 馬鹿野郎、宅配業者ビビらせてどうすんだよ!」

《だってあんたが出ないんだもの! ひと騒ぎさせれば流石に起きてくるかと》


 ひでえ自己中だな。いつの間にかパソコンもスピーカーも点いてるし。


「と、とにかく! 他の住民に気づかれると厄介だから、部屋に運ぶぞ!」


 俺は段ボール箱を抱え込み、入室してドアを閉めた。


「よし、もういいぞ」

《言われなくとも》


 それから先は、今朝の逆再生だった。アキが組み上がっていく。確か、アキが段ボール箱に収まったのと同時に宅配業者が来て、箱詰めのアキを持って行ったんだっけ。俺はその時と同様にあぐらをかき、アキを見つめた。完成し、ふっと短く深呼吸して目を見開くと、


「少し遅くなったわね。今、午後八時二十五分三十七秒。これからターゲットに接触しに行くわよ」

「それよりお前、今まで何してたんだ? こっちのことはほったらかしで……」

「仕方ないじゃない、あなただけが協力者じゃないのよ? 新しい協力者を見つけるのに、この街のあちこちを行ったり来たりしてたんだから」


 そう言って軽く前髪を整えるアキ。

 つまり、アキはその『協力者』と『心理的弱者』を引き会わせ、後は二人で頑張って! ということらしい。


「いざって時はいつでも呼んで。急いで来るから」

「は、はあ」


 後に聞いたところでは、アキはこの街の全住民のデータを有しているらしい。だが、飽くまで『この街限定』なのは、自分の記憶力――ハードウェアの容量の問題なんだとか。全く、機械なのか人間なのか、心底分かりづらい奴だ。


「それじゃ、新たな出会いの旅へ! れっつ・ごー!」


 どうしてこんなテンション高いんだ、コイツ。まあそれはいいにしても、


「その、俺の担当する心理的弱者ってのは、どこの誰なんだ?」

「まあ、自己紹介はお互いやってもらうとして、まずは場所ね。えーっと」


 少しの間、アキは視線を空中に漂わせた。すると、


「うん。住宅街を逸れてメインストリートに出て、しばらくいったところ。通称はキラキラ通り」

「キラキラ通り……ってまさか!」


 おれは背筋が凍る思いがした。キラキラ通り、実は『通称』ではない。本名が『キラキラ通り』なのだ。しかしそれには裏があり、漢字で書くと『鬼羅鬼羅通り』となっている。


「おいおいおい、冗談じゃねえぞ!!」

「え、何が?」

「ここって、不良の巣窟じゃねえか!!」

「それがどうかした?」

「どうかした? って……」


 俺はガックリと肩を落とした。


「すまん、他をあたってくれ」

「はあ!?」

「怖いんだぞ、キラキラ通りって!! 昼間でもヤク中のたまり場になってるってのに、こんな夜中に押しかけたら、身体バラされる!! 臓器売買のカモになっちまう!!」

「なーに言ってんの」


 アキは身体の関節をほぐすように首を回しながら、


「監視カメラで下調べは完了済み。ただ、ターゲットがどうも、夜にしか現れなくてね。しかも、この通りの防犯カメラにしか映ってない」

「ここで生活してるっていうのか?」


『多分ね』とアキ。


「それに、あんたがビビってる件だけど、特に問題はないわよ」

「いやありすぎだろ!?」

「私の性能、なめてもらっちゃ困るわね」


 ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべたアキは、その表情のまま再び崩れた。そしてまた組み上がってくるわけだが、どうやら今度は姿形が違うようだ。

 身長は見る見るうちに俺を通り越し、肩幅は広がり、屈強な男性の姿となった。薄手のシャツにジャケット、ダメージジーンズというスタイル。眼球が収まった後、その周囲に真っ黒なサングラスが構成された。

 この変身劇を眺めていた俺は、顎が外れたようにポカンとしていた。まさかこんな、二メートル近い大男が味方についてくれるとは思わなかったのだ。

 その姿はまさしく、元ボディビルダーであり、元カリフォルニア州知事であり、未だに現役のアクション俳優を務めている人物を連想させた。


「お……お前、本当にアキか!?」


 ゆっくり頷く大男。すると背後から長い棒状のものを取り出し、ガシャリッ、と音を立てて操作し、再び背中に担ぎ直した。


「行くぞ、俊介」


 ドスの効いた重低音を喉から響かせながら、殺人機そっくりに変身したアキは、玄関の方を顎でしゃくってみせた。


         ※


 こうして俺たちは、外へと一歩踏み出した。七月にしては乾燥しているのか、心地よい風に撫でられながら、住宅街を抜け、雑居ビルの谷間を歩いていく。ちなみに先ほどアキが取り出した棒――誰がどう見てもショットガンだったが――は、アキの広い背中にマウントされ、いつでも引き抜けるようになっていた。

 そうだ、アキがいる。武器がある。そう思えばこそ、俺も自らを奮い立たせることができるというものだ。


「大丈夫か、俊介?」

「ああ……。何とかな」


 そんな言葉を交わし合い、俺はキラキラ通りに一歩踏み込んだ。

 まさにその瞬間、嗅いだこともないような異臭が俺の鼻孔を直撃した。きっと、薬物の臭いだ。夜のネオンから切り取られた影に向かう一歩一歩。その度に、薬品臭は強まっていく。

 靴の裏はベタつき、空気は沈殿し、先ほどの外気の爽やかさは微塵も感じられない。いや、正反対と言った方がいいのか。地面は荒いアスファルトで、ところどころに反吐がぶちまけられている。


「どうした、怖気づいたのか?」


 アキが男性の声で尋ねる。


「最初っからビビってたよ!! お前が言うからこんなところに……」


 と抗議した、その時だった。


「何だぁ、てめぇらぁ?」

「ひっ!」


 か、絡まれた! キラキラ通りの門番よろしく、通りの両側、雑居ビルの合間に腰かけ、薬草のようなものをビニール袋から吸引していた二人組。背格好は似たようなもので、二人とも灰色のツナギ姿。


「いや、あの~……」

「あぁ? やんのかコラァ!?」

「い、いえいえいえいえ、滅相もない!!」

「だったらとっとと失せ――あん?」


 俺たち三人の動きが止まった。BGMが、唐突に鳴りだしたのだ。


 ダダンダンダダン! ダダンダンダダン!


 振り返ると、ネオンの逆光に晒されながら、アキはやっとこさ俺に追いついた。


「何やってたんだよ!?」

「格好良く登場したくてな」 


 そりゃただの中二病だ!


「う、や、やんのか? あぁ?」


 突然の大男の登場に、ツナギの二人は多少の警戒感を露わにした。


「月野麻耶に話がある。呼んで来い」

「うるせぇ! 麻耶姉に手を出す奴ぁここでバラバラにしてやる!!」


 ツナギの片割れがそう叫んだ時には、俺はアキに首根っこを掴まれ、後ろに放り出されていた。

 よろめきながら立って見ていると、ツナギ二人はポケットから、柄から飛び出すタイプの小さなナイフを取り出した。ギラリ、と、暗闇でも反射するほどの鋭利さ。

 アキはと言えば、ショットガンを取り出す素振りもなく、ただ二人の顔を交互に見ていた。


「死ねぇ!!」


 片方が先に斬りつけてきた。しかしアキは上半身を反らしただけでこれを回避、腕を掴み上げた。


「野郎!!」


 もう一人もナイフを振りかざしてきたが、アキは無造作に腕を伸ばし、そいつの頭を引っ掴む。

 ナイフを取り落とした二人は呆気なく案山子状態となり、アキは両手で二人の後頭部を鷲掴みにしてゴツンとぶつけ合った。

 硬質な、実にいい音がしたところで、アキは二人を放り出した。


「月野麻耶の元へ案内しろ」

「はっ、ははははいっ!!」


 ツナギの二人組は腰を抜かしながらも、顔を見合わせて潔くアキの指示に従った。


「す、すげえ……」

「だから言っただろう、心配はないと。行くぞ、俊介」


 そこから先も、恐ろしい光景が広がっていた。狭い路地のあちこちに不良が腰を下ろし、何らかの薬物を吸ったり、得体のしれない液体を腕に注射したりしている。

 最初は皆、訝しげに俺たちにガンを飛ばしてきた。が、恐らくは、ツナギの二人が先導していることと、アキの風貌に気圧されたことによって、すぐに大人しく目を逸らした。


「こ、こちらです……」


 ツナギの一人が、そう言って腕をすっと伸ばす。先ほどまでのグダグダ感はどこへやら、ギャップのためか、俺にはツナギ二人組が執事にでもなったかのような錯覚を覚えた。

 で、問題の『月野麻耶』なる人物だが――。

 案内された先には、小さめの公園のような場所が広がっていた。その中央の奥に、彼女はいた。

 高校生くらいの年代。肩口でバッサリ切り揃えられたショートカットに、切れ長の瞳。中性的な顔つき。写真で見た通りだ。あちこち破れた多人数用のソファに腰かけ、何らかの酒と思しき液体を瓶のままラッパ飲みしている。

 ソファの片側には小さめのオートバイが停められていて、麻耶自身もヴァイオレットのライダースーツを身に着けている。また、彼女の背後にはフェンスがあり、その向こうには粗大ゴミが山のように積み上げられていた。

 よくよくこの光景を見ていると、麻耶がこのキラキラ通りの女王か姫君のように見えてきた。月光が差し込み、その雰囲気はますます高まっていく。


「あ、あの~……」


 ツナギのうちの一人が、俺とアキの方を交互に見ながら弱々しい口調で声をかけてきた。答えたのはアキだ。


「何だ」

「俺たち……じゃなくて、わたくしどもはもう戻ってもよろしいでしょうか……?」

「構わん。ご苦労」

「でっ、では、失礼します!!」


 会った時とは百八十度違う、実に素直な態度のツナギ二人組を見て、俺は随分安堵してしまった。これで麻耶と話ができる。と、思ったまさに次の瞬間だった。

 硬質なものの擦過音が、ガシャガシャと四方八方から聞こえてきた。


「なっ、なな、何だ!?」


 辺りを見回して目に入ってきたのは、拳銃、拳銃、拳銃。拳銃を持った不良たちに、俺とアキは包囲されている。どうやらこの広場に通じるドアがビル壁面に並んでいて、そこから出てきたようだ。俺には不良たちが、壁から湧いてきたように見えた。

 と、いうのは後から振り返ってみた時の話。


「ひいっ!」


 俺は咄嗟にその場にうずくまった。


「俊介、伏せろ!!」

「とっくに伏せてる!!」


 すると、俺の尻に激痛が走った。


「ぎゃあっ!!」


 思わず飛び跳ねる俺。


「う、撃たれた!? 俺撃たれたの!?」


 そんな俺の頭を押さえながら、アキは銃撃をものともせずにぐるりとあたりを見回した。

 そしてすっとショットガンを取り出すと、情け容赦なくぶっ放した――ズドン。


「ぐはっ!」

「どあっ!」

「うわあっ!」


 ズドン、ズドンと音が響く度、それこそアクション映画のモブ役のように、不良たちは後ろに吹っ飛んだ。俺は思わず目を逸らす。今日はアキの変身で、『嫌なモノ』を散々見てしまったのだ。血まみれの死体など見たくはない。

 それにしても、アキは平気なのだろうか? それなりに撃たれているはずだが、俺の目の前に降ってくるのはショットガンの空薬莢くらいのもので、血は一滴も流れてこない。まあ、物理的にはアキは機械なわけだから、拳銃くらいじゃ傷つかないのかもしれないが。

 コロン、と最後の薬莢が落ちて、アキは銃撃を止めた。地面に落ちた八つの薬莢は、そのまま転がりながらアキの足元、コンバットブーツへと組み込まれた。なるほど、薬莢もアキの大事な身体の一部だもんな。

 って、そんなことを考えている場合ではない。


「お、おい、俺撃たれたんだぞ!? しかもお前、あんなにショットガンぶっ放して、あんなに人殺して!!」

「生きてるよ」

「お前それでも……って、え?」


 あたりを見回すと、ショットガンの直撃を受けたはずの不良たちが、足や腹部を押さえながら身体を起こすところだった。俺の尻も、痛みこそすれ血は出ていない。これはどういうことか。


「よくできてるが、実銃じゃないな。ゴム弾を発射できるように改造したモデルガンだろう?」


 アキの低い声が、このスペースに響き渡る。


「俺の銃も似たようなもので、空気を一点に圧縮させて相手を吹っ飛ばすものだが……。どうだ? 誰かもう一発、喰らってみたい奴はいるか?」

「おい、止めとけ!」


 俺はアキの肩に手を載せ、


「これ以上騒がしくなったら警察沙汰だぞ!」


 と言ってアキを引き留めた。


「お前がそう言うのならば」


 アキは念のためにだろう、一発だけショットガンに弾丸を装填し、背中に戻した。

 その頃になってようやく、不良たちは言葉を交わし始めた。


「あいつら、とても倒せねえぞ……」

「さっき麻耶姉のところへ連れてけ、なんて聞いた」

「俺もだ! ま、麻耶姉……」


 皆の視線が、アキから月野麻耶へと移る。

 すると、


「合格だ」


 麻耶は一人、大きく腕を振って拍手をし始めた。


「皆、サンキュ。でも、こいつは話をしに来たそうじゃないか。それにあれだけの洞察力だ。あたいらが束になってかかっても、敵いやしねえよ」

「で、でも麻耶姉……」

「あたいは大丈夫だって! 皆、各所の警備に戻ってくれ」

「りょ、了解」


 渋々従う不良たち。だが、俺やアキが何を話すのか気になるのか、飽くまでゆっくりと腰を上げ、未練がましくドアの向こうへ消えていく。

 それにしても、『警備』って何だ……?

 その疑問が顔にでたのか、麻耶は『ああ、それな』と言って、


「サツのガサ入れに備えてるんだ。クスリとか、すぐに隠せるように」


 不良の世界にも『警備』という概念があるのか。

 それはそうと、俺とアキはゆっくり歩を進め、麻耶に近づこうとした。が、カチャリ、と音がして、


「うわ!」


 俺は再び恐怖と驚きで跳び上がった。

 麻耶が、拳銃を握っている。他の警備の連中が持っていたのとは形状が違う――連中が持っていたのはオートマチックで、今麻耶が手にしているのはリボルバーだ。蓮根のような穴の開いた部品に、弾を一つ一つ入れていくようなタイプ。

 それを見た瞬間、歩み寄ろうとしていたアキの足が止まった。


「なーんてね」


 麻耶の顔には、『凶悪!』とマジックで書かれたような笑みが浮かんでいる。


「どうしたんだよアキ! どうせあれだってモデルガン――」


 と言いかけた瞬間、麻耶は撃鉄を起こし、無造作に腕を反らして『発砲』した。

 ショットガンに負けずとも劣らない音と勢いで、弾丸が射出される。弾丸は、その射線上にあったビルの窓ガラスを直撃・貫通し、見事なまでにバラバラに破砕した。


「うちのひい爺さん、元は職業軍人でな? 日英同盟が成立した時に、友好の証にコイツをもらったんだと。遺品整理をしていたら、コイツとその弾丸がジャラジャラ出てきたもんだから、護身用にこうして持ち歩いてるわけ」


 さて、と一息置きながら、麻耶は再び撃鉄を起こし、


「あたいに何の用だって?」


 完全にビビりまくっている俺の代わりに、アキが一歩、前に出た。ゆっくりと背中に手を伸ばし、ショットガンを取り出す。麻耶は黙って、それを見つめていた。


「君を助けに来た」

「何から?」

「君自身からだ」


 すると、少し納得した様子で、麻耶は『ふぅん?』と軽く頷いてみせた。


「どういう意味?」

「君には自傷癖があり、適正年齢に達してもいないのに飲酒を繰り返している。しかも、こんな状況下で生活しているとなれば、危険な薬物に手を出す可能性も高い。それを止めさせなければ」

「他の皆は? あっちこっちでスピードやらハッパやらやってるぜ?」

「君はこのエリアでリーダー格だ。君さえまともになってくれれば、他の大勢はそれに従うだろう」

「そのためにあたいをとっ捕まえようって?」

「飽くまで第一は君の安全だ」


 しばしの沈黙。麻耶は『はぁ』と短いため息をつきながら、拳銃を腰元のガンベルトに引っ込めた。


「……頑固者だな、あんた」

「君がそう言うのなら、そうなのだろう」


 すると麻耶は、唐突に俺と視線を合わせた。俺は恐怖で、半身をアキの陰に隠していたのだが、やはり俺も何か言わなければならないらしい。


「月野、さん。これ以上危ないことは止めた方が……」

「はあ!?」


 ぐっと身を乗り出した麻耶に、俺は余計ビビってしまい、後ずさりしそうになる。が、拳銃は麻耶の腰に戻されているし、いや、でもどれだけの速度で拳銃を引き抜けるか分からないし、しかし、こっちにはアキがついてるし、でもでも……。

 俺が脳内オーバーヒートしていると、不意に背中を押し出された。


「う、うわ!?」


 アキが、俺の背中をショットガンの銃口で突いている。


「なっ、何すんだよ!?」

「葉山俊介、君の担当は彼女、月野麻耶だ。写真は見せただろう?」

「そ、そりゃそうだけどよ……」

「何ごちゃごちゃ言ってやがるんだ野郎ども!!」


 麻耶は腰を上げ、ずかずかと近づいてきた。ザッ、と俺の目の前で立ち止まり、ずいっと上目遣いで睨みを利かせてくる。


「大体あんた、何なんだ? 武器を取り出すでもなく、話を進めるわけでもない。あたい、そういう金魚のフンみたいな奴、一番ぶっ殺したくなっちまうんだけど」

「ま、待った待った待った!!」 


 俺は両手を前に突き出し、ぶるぶると首を振った。


「待たねえよ、とっとと答えろ。ああ?」

「いや、俺はただの大学生で……」

「ほほーう、いいとこの坊ちゃんか? ますます殺っちまいたくなるぜ」

「だーーーっ!!」


 喋れば喋るだけ、火に油を注ぐようだ。どうしたらいい? どうしたらこの窮地から脱出できる? 俺は、思いきって頭を真っ白にし、叫んだ。


「お前のひい祖父ちゃん、悲しむぞ!!」


 と、その時、麻耶の態度ががらりと変わった。切れ長だった瞳は真ん丸に見開かれ、引きつらせていた口元はポカンと開かれている。


「ひい祖父ちゃん……?」

「あ、ああ、そうだ」


 この現状を脱するなら、今だ。


「死人に口なし、って言うよな。でもあんなの、嘘っぱちなんだ。俺たちが死んじまった家族のことを想うのと同じで、お前のひい祖父さんもお前のことを心配してるんだよ。それを無にしちゃダメだ。お前のひい祖父さんも俺の――」


 と言いかけて、俺は言葉に詰まった。俺の、俺の、俺の――。


「くっ……」


 俺は思わず、その場に膝をついた。


「俊介?」

「お、おいあんた、大丈夫かよ?」


 唐突な俺の挙動に、麻耶までもが心配げに俺の前にしゃがみ込む。しかし、そんなことには構わずに、俺は右手を顔の右半分に当て、左手もまた地面についてしまった。『その光景』を、視界から覆い隠すかのように。


「あんたも、何かあったんだな?」

「……なかったと言えば嘘になるよ」

「そっか」


 俺の左目に、立ち上がった麻耶のブーツが映る。


「あたいを助けに来たんだろう? それも、警察や養護施設の後ろ盾もなしに」


 俺は顔に手を遣ったまま、麻耶を見上げた。


「来なよ。あたいを助ける気なら。知られてもいいことだったら、教えてやる」


 そして、すっと手が差し伸べられた。


「ショットガンの旦那、あんたも来るか?」

「ああ。案内を頼む」

「さ、立てよ。俊介」

「あ、ああ……。俺の名前、覚えてくれたのか?」

「ばーか」


 麻耶は俺の腕を軽く引っ張り上げながら、


「さっき、ショットガンの旦那が言ったじゃねえか。なんちゃら俊介、って」

「そ、そりゃそうだが……」


 酔っぱらって銃をぶっ放すような状況で、覚えられるものだろうか?


「どうしてだか知らねえけど、すっと頭に入ってきたんだよ。なんちゃら俊介」

「葉山俊介だ。『なんちゃら』はつけなくていい」

「あっそう」


 それだけ告げると、麻耶はさっと背中を向け、すたすたと歩き始めた。


「おい、置いてくぞ、俊介」

「お、おう」


 俺は慌てて、麻耶の背中を追った。


         ※


 ぽたり、ぽたりと水滴が垂れる、暗い通路。蛍光灯は不安定に点滅し、水道管だかガス管だか分からないような配管が床に、壁に、天井にうねっている。


「お前の家、こんなところにあるのか?」

「家だあ? ハッ、笑わせんなよ」

「ど、どういう意味だ?」


 水滴をよけ、配管に足を取られないようにと、ゆっくり進んでいく。麻耶は振り返りこそしなかったものの、俺たちに配慮してゆっくり歩んでくれているように感じられた。


「おっと!」


 三本束になった配管をなんとか跨いだところで、麻耶は返答を寄越した。


「家なんて大層なもん、あるわけねえじゃん。アジトだよ、アジト」

「アジト……?」


 確かに、そう呼んだ方がよさそうな気はするが。


「お前一人で住んでるのか?」

「いや」


 そう答えたきり、麻耶は口を閉じた。


「じゃあ同居人がいるのか?」


 そんな俺の言葉を無視して


「おーい美耶、帰ったよ」


 通路の中ほどで、麻耶は突然立ち止まり、声を上げながらガンガン、と金属製の扉を叩いた。

 ゆっくりと、ドアが向こう側に開かれていく。

 そこに展開されたのは、十畳ほどのスペースだった。廊下より少しは明るい。裸電球が部屋の天井から吊り下げられているからだろう。しかし、窓はない。

 入り口から見て右側にテレビがあり、ノイズだらけの、しかし辛うじて見聞きできるだけの情報を垂れ流している。それよりも、隅に置かれたラジオの方がよっぽどやかましい。

 正面奥にはトイレとバスルームへ通じるドアがあり、左側に目を遣れば、ベッドが二つ、くっつけて並べてあった。

 しかし、麻耶の『同居人』の姿が見当たらない。ああ、そうか。ドアを開けてくれたから、今ドアの陰にいるんだな。

 そう納得し、俺が『失礼します……』と言って足を踏み入れた、次の瞬間、


「よせ、美耶!!」


 麻耶が俺をわきへ突き飛ばし、部屋の中へと踏み込んだ。両手が虚空へと伸ばされる。と思いきや、その麻耶の手にすっぽりと、相手の手首が収まった。その先に握られていたのは、キッチンで見られる小振りな包丁。

 今日になって、やたらと物騒なものを見てきた俺に、驚く余地はなかった。


「落ち着け、美耶!」


 麻耶が叫びながら、包丁の主を引っ張り出す。カラン、といって包丁が落ちる。そしてドアの陰から現れたのは、


「離して!! 離してよ、お姉ちゃん!!」


 もう一人の少女だった。髪を三つ編みにした、小学生高学年くらいの外見だ。しかしその形相は、とてもその年代のものには見えなかった。大きく目を見開き、腕をぐわんと振り回し、挙句麻耶の膝元を蹴飛ばそうとする。


「いつまでふざけたことやってんだ、美耶!! こいつらは悪人じゃない!! パパもママも関係ない!! だから暴れるな!!」

「離せ、離せーーーッ!!」


 その直後、ズドン、と再び発砲音がして、少女は吹っ飛んだ。アキがぶっ放したのだ。

 圧縮空気は寸分たがわず少女の腹部を正面から直撃し、少女は背後のベッドに倒れ込んだ。


「何てことするんだ!!」


 俺はアキを怒鳴りつけた。相手が不良ならまだしも、あんな女の子に銃を向けるとは。


「しかし、あの子が暴れ続けたら君も麻耶も危なかったぞ」

「包丁は手放してただろ!? だったらまだ対処の仕方が――」


 とその時唐突に、ドスッ、と鈍い音がした。同時にアキの動きが止まる。


「あ、アキ?」

「負傷した」


 そう言ってアキは、背後から腰に突き立てられた包丁と、その今の持ち主、麻耶の腕を自分から引き離した。軽々と、しかし少し鈍い動作で、アキは麻耶をベッドの方へと投げ飛ばす。


「ぐわっ!」


麻耶は、先ほどの少女――美耶のそばに背中をしたたかに打ちつけた。


 しかし、麻耶の方はすぐに体勢を立て直し、


「美耶! 美耶!!」


 妹の肩を揺さぶった。それでも目を覚まさない美耶を見て、麻耶はキッと振り返った。いからせた肩、剥き出しの犬歯、そしてアキを貫かんとする鋭利な視線。


「あたいの妹に何しやがる!!」


 先ほどまでの余裕はどこへやら、素手のままで、麻耶はアキに飛びかかった。

 麻耶に怪我をさせないようにする以上、アキも彼女を突き飛ばすわけにはいかない。だが、心配は不要だった。拳銃も包丁も手にしていない麻耶は、あっさりとアキに抱きとめられる形になったのだ。


「離せ! この筋肉野郎! 一発ぶん殴らせろ!!」

「……」


 その暴れ様に言葉を失う俺だったが、アキはまるで麻耶を赤ん坊扱いしているように見えた。高い高いをするかのように、ゆっくりと麻耶を遠ざける。それでもアキは狂ったように喚き散らすが、やはりリーチの差で、その拳は空を切るばかり。 アキは一体、どうすれば麻耶を離すのだろうか? すると、


「こ、の、ド、畜、生!!」


 掴まれたまま、麻耶は胎児のように身体を丸めた。そして思いっきり、両足を突き出した。アキの胸板に足の裏を蹴りつけたのだ。

 流石にその俊敏さに追いつけなかったのか、アキも不意をつかれたようだ。よろめきながら後退し、ぱっと両腕を離してしまった。


「っておい!!」


 宙を舞う、麻耶の身体。俺はその軌道上、ベッドの上へと飛び乗るようにして腕を伸ばした。サッカーのゴールキーパーのような格好で、跳ぶ。


「くっ!!」

「あいてぇ!!」


 息が詰まったような麻耶の声と、俺の悲痛な叫び。

 ゆっくり目を開けると、俺を下敷きにするようにして麻耶が横たわっていた。俺も麻耶も仰向けだ。俺は壁にぶつけた頭をさすりながら、


「あいててて……」


 上半身を腕で起こす。その時、


「おっと!」


 俺の膝の上に、麻耶の頭が載っていた。その瞳は閉じられ、息を荒げている。間近で見た麻耶の整った顔立ちに、思わず俺は唾を飲んだ。

 ……って何を考えているんだ俺は。


「おい麻耶、大丈……」

「お姉ちゃん!!」


 俺の片頬に、ぴしゃりと何かが押し当てられる。


「ねえ、お姉ちゃん! お姉ちゃんってば!!」


 それが誰かの掌であることに気づいたのは、その直後のことだ。


「ちょ、ちょっと止めてくれ!」


 俺がその手首を掴もうとすると、腕の主である美耶は、麻耶と同じように腕を振り回した。


「あなたたち、何なの? 私たちをパパとママのところに連れ戻しにきたの? だったらすぐ帰って!!」


 すごい眼力だった。言葉遣いから察するに、二人は姉妹のようだが……。揃いも揃って何て目をしてるんだ。 


「なあアキ、この女の子は……?」

「月野美耶。救助目標、月野麻耶の妹だ」


 やっぱりそうか。俺は美耶から顔を背けながら、


「ああ、同居人ってそういうことか」

「何ぺちゃくちゃ喋ってるの!? 出てって!」


 すると麻耶が、俺の膝の上で


「うっく!」


 思いっきり頭を上げた。それは実に素早い所作だったが、俺にはスローモーションに見えた。そう、危機的状況に陥った時、人間には周囲の光景がゆっくり動いて見えるのだ。

 このままでは、麻耶の後頭部が俺の顎を真下から強打する。そう判断した俺は、それを回避すべく頭を仰け反るようにぐいっと引いた。麻耶の顔が上がってきて、俺の頭頂部を追い越す。


「ああ、いてえ……」


 頭を押さえながら麻耶は唐突にこちらに顔を向けた――零距離で。

 直後、俺の唇が、ふっくらとしたものに接触。同時に、柔らかいものが触れ合う感触が、俺の脳天から足元までを雷光のように貫いた。

 呆気にとられ、再び瞳を真ん丸に見開いた麻耶。あまりの衝撃に、一切の動きを止めてしまった俺。言葉を失う、他二名。


「……」


 次に口を開いたのは、アキだった。


「早まったな、俊介」

「お、お姉ちゃん……?」

「う、うわあぁあぁぁあ!?」


 叫び声を上げたのは俺の方だ。ばっと麻耶から距離を取り、今度は後頭部を壁に強打。


「いてっ! じゃなくて!!」


 麻耶は目を見開いたまま、ゆっくりと右手を上げて口元を覆った。


「これは不可抗力――」


 それ以上を言わせずに、麻耶の鉄拳が俺の頬にめり込んだ。

 俺は素直にぶっ倒れた。何らかのデジャヴを感じながら。


         ※


「あー、痛かった……」


 キラキラ通りからの帰り道。俺は虫歯にでもなったかのように片頬を押さえながら、アキの隣をとぼとぼ歩いていた。ちなみにアキは、もう女の子の姿に戻っている。これがデフォルトなのだろう。やはり包丁で刺されたくらいでは、大したダメージにならないらしい。今は何の支障もなく、俺の隣を歩いている。


「初対面の女の子の胸は触るわ、唇は奪うわ……。あなた、変態なんじゃないの?」

「だからさっきも言ったろ、不可抗力だって……」

「不可抗力で、変態になったのよ」

「ひでえ言い分だな!!」


 どいつもこいつも、俺に貧乏くじ引かせやがって。


「でもまあ、よかったんじゃない? ちゃんと顔合わせはできたわけだし」

「唇を合わせるつもりはなかったがな」

「言い訳不要! 麻耶を救うにあたって、必要なことだったと思えば!」


 アキは俺の前に回り込み、腕を腰に当てそう言った。


「よく言うぜ、全く……」


 人様のファーストキスを、とは恥ずかしくて言えなかった。でも不思議と、酒臭さよりもどこか甘い香りの方が強かったような……。っていやいや、そんなことを考えるってことは、まるで何かを期待しているみたいじゃないか。再び歩き始めたアキの後ろで、俺はぶるぶるとかぶりを振った。

 その時、唐突に俺のポケットが振動し始めた。スマホだ。発信元はというと、


「月野麻耶……って、え?」


 アドレス交換なんてしてねえぞ。


「ああ、麻耶とあなたがすぐに連絡を取り合えるように、お互いのスマホにメアド入れといたから」

「はあ!?」


 しれっととんでもないことを言い出すアキ。そうか。俺たちが茶番をやってる間にスマホにタッチして、俺と麻耶のスマホに互いの情報を入れ込んでいたのか。


「さっさと出れば?」

「い、言われなくてもそうするわ!!」


 とアキを怒鳴りつけた俺は、


「も、もしもし?」

《てめえ、さっきはよくもあんな真似を……》


 スマホから黒い霧が漂い出てくるような、不気味な感覚に囚われる。


「まだ怒ってんのか? 俺のことあんなにぶん殴ったくせに!?」

《当ったりめえだろ!!》


 俺は咄嗟に耳からスマホを離した。


《大体、あんたら何だったんだ!? ちょっと気を許したらずかずか乗り込んできて……!》

「お前が自分から連れてってくれたんだろ!?」

《美耶にあんなことしやがって!! 絶っっっっっっっ対許さねえ!! 次に顔出したら、デコに穴開けてやるからな!!》


 ブツリ、と勢いのある打撃音がして、通話は一方的に切断された。

 ツーッ、ツーッと虚しく鳴り響くスマホの画面を見下ろしながら、俺は再び足を止め、立ち竦んだ。


「ちょっと俊介! どうしたの? 次の作戦を立て直さなきゃ――」

「俺は降りる」

「そう、だから問題は――って、え?」

「お前の人選、間違ってたみたいだな。俺はもう協力してやらねえぞ」

「ちょ、ちょっと突然どうしたのよ!?」

「どうかしてるのはお前らの方だ!!」


 俺の怒声が、ビルの合間に木霊した。


「人助けがこんなに大変だなんて、お前は教えてくれなかった! 麻耶は妹を吹っ飛ばされておかんむりだ! もうどうしようもねえだろう!?」

「え、あ、それは……。私が軽率に発砲したから……」

「ああそうだよ!!」


 俺はずいっとアキに顔を近づけた。


「お前は軽率なんだ! 人工知能だって? ふざけやがって、結局麻耶に嫌われただけじゃねえか! お前に人の心が分かる、なんて無意識に思ってた自分が恥ずかしいぜ! もう諦めろ、俺に近づくな!!」


 アキの顔から、感情がするりと剥がれ落ちた。俺と目を合わせたまま、微かに喉元を震わせる。『え?』と言う音が聞こえたような聞こえなかったような。


「どけよ、ポンコツ」


 俺はそう言い放ち、アキに肩をぶつけながらずいずいと歩み去ろうとした。

 その時だった。


「……待ってよ」


 震えるのを必死に抑え込んでいるような声が、背中にぶつかった。俺は無視して距離を広げていくつもりだったのだが、意志が薄弱だったのだろうか、足を止めてしまった。


「待ってって」

「今立ち止まってる。足音で分かるだろ。何だよ」

「私、まだよく分からないの。人間の感情って」

「だろうな」


 取りつく島のないように、短く言い捨てる俺。だがアキは、淡々と言葉を紡ぐ。


「だから生身の人間で、サポートしてくれる人が必要だった」

「それは人選ミスだったって、さっき言ったろ?」

「でも、必要だったの」

「ミスだよ」

「でも」

「だから!!」


 俺は今日何度目かの怒声を張り上げながら、アキの方へと振り返った。そして、ぐっと息を飲んだ。

 アキは、目に涙を浮かべていた。溢れるような涙ではなく、微かに瞳に光をもたらすような水滴だ。この夜更けの、街灯以外の光のなくなった雑居ビルの底。少なくなった車のヘッドライトが、アキの目元にさっと明暗を浮かび上がらせる。

 ただ、その背景にある感情が何なのか、俺には分からなかった。

 悲しさ? 悔しさ? 非力さ? 彼女は一体、何を考えてる? いや、相手の心が分からないという意味では、俺もアキと同レベルなのか。


 二十歳そこそこだから、という理由で、俺は勝手に自分を子ども扱いしていたのかもしれない。しかし、それは俺の認識の『甘さ』ゆえだった。

 一人暮らしをし、しかも引きこもりとなれば、他人の気持ちなんて分かるわけがない。いや、分かろうという気すら起こらない。それが、昨日までの俺だった。しかし、その『甘さ』を俺に気づかせ、覆させるだけの力を、アキは持っていた。

 仮にアキが人間『らしきもの』だったとして、人間とは、こんなものだったのだろうか? これほど、自分の周囲の同類に影響を及ぼすものだったのだろうか?

 ……これほど俺の心に、揺さぶりをかける存在だったのだろうか。


「くっ!」


 俺は頭を抱えた。しゃがみ込みそうになるのを必死にこらえ、歯を食いしばった。

 どうして一日の内に二度もあんなことが頭に……!


「俊介」

「……何だ」


 俺は歯の僅かな隙間から押し出すように、声を上げた。


「拒否権はあなたにある。私が勝手に、あなたの家に押しかけたんだからね。でも――」


 俺は目を上げ、視線を合わせることで、自然とアキの次の言葉を導いていた。


「でも、麻耶にはあなたが必要だと思う」

「根拠は?」

「人工知能としての勘よ」


 そりゃあ『女の勘』だろ。変身するから性別は確かじゃないが。

 俺は仏頂面を取り繕って歩みだした。


「……俺は帰る。もう玄関前で騒ぎを起こすなよ」


 その時、アキはどんな顔をしていたのだろうか。俺は少しだけ、それが気になった。


         ※


 その日、俺は眠れぬ夜、ならぬ眠れぬ朝を過ごした。何となく、何となくではあるが、アキのことを分かってやりたいという気がして、どうにも落ち着かなかったのだ。ベッドに仰向けに横たわり、両腕を後頭部の下で組む。


 あいつは俺と同じで、人の心を汲み取るのが下手だ。咄嗟の判断で動いてしまう。それが功を奏した場面だって多々あったが――それだけショットガンが役に立ったということだが――、もっと落ち着いて、冷静に立ち回らなければ、とても救うべき相手に安心感を与えることはできない。

 そう、安心感だ。俺も月野姉妹も、もしかしたらアキも、他人に安心感を与える一方、自分のことも安心させてもらいたいと思っているのではないか。そもそも心の平安というのは、一体何なのだろうか。


「ん……」


 朝日がカーテンの下から差してくる時間になって、俺はごく久々に、デスク横の本棚に向かった。ざっと目を通す。暗いが、電灯をつける前にその本は見つかった。

『人間心理学序論』という薄い、ハードカバーの本だ。

 俺が引きこもりになる前に講義で使っていた教科書で、要点がまとめが上手い、と教授が褒めていた。

 俺はパラパラとページをめくり、目次に沿って目的の箇所を探した。すっかり夜目モードになっていた俺には、この薄暗さは問題にはならない。


「えーっと、なになに……?」


 俺なりに要約すると、次のようになる。

 

 人間は社会的動物である。社会とは、他者との交流があって成り立つものである。それゆえ、他者とのコミュニケーションなくして生存することは不可能に近い。

 では、コミュニケーションから何を得ているのか。それは、自分の価値や立場である。それらは自分の中には存在せず、他人との交流の中で培われていくものである。それが、健全な精神活動の核である。


 早い話、コミュ障を治せば、あとは『他人との交流』という軌道に乗って元気に過ごせる、というわけか。

 俺はどはあ、とため息をついた。もしこの本に書かれているのが事実なら、俺は今日中にでもくたばってしまう。まあ、ネットがあるこの時代で、若者の完全孤立化というのは珍しいかもしれないが。

 しかし、人工知能も孤独を感じるのだろうか。だとしたら、先ほどの俺との口論は、アキにとって大打撃になったかもしれない。


「あてどない人助けだよな……」


 教科書の本文を、噛み砕いて脳内で復唱する。自分の居場所は、他人の認識の元にある。だったら、アキのことは俺が認めてやるしかないのではなかろうか。他にどんなパートナーと行動しているのかは知らないが、涙を浮かべた、どこか哀願するような瞳を思い出してしまうと……。

 俺はまた大きなため息をつき、教科書をデスクの上に投げ出してから、再びベッドに横たわった。


 その日の夕刻。

 ピンポーン、とインターフォンが鳴り響く。今度の俺の覚醒は早かった。『はあい』とそれなりの声量で応じ、廊下を抜けて玄関ドアに手をかける。鍵を開ける前に、念のためにドアの向こうを覗いてみた。そこに立っていたのは、


「アキ? 今日は段ボールじゃないのか?」


 無言のまま、アキは上下に首を振る。昼間の現場から歩いてきた、ということだろうか。この暑いのに、ご苦労なことだ。

 それはまあいいにしても、明らかに昨日のアキとは様子が違う。姿形は間違いなくアキのデフォルト状態だが、唇をきゅっと結び、視線がきょろきょろと足元の方を彷徨っている様は、彼女には何とも不似合だ。


「ん……まあ、入れよ」


 俺は鍵を開け、チェーンを外してアキを部屋に入れてやった。


「お邪魔、します」


 軽くぺこりと頭を下げながら、アキは俺に続いてリビングへと足を踏み入れる。らしくねえな。


「まあ座れよ。烏龍茶ならまだあるぞ」


 そう言いながら、コップを手に一旦冷蔵庫の元へと戻る俺。


「……いい。大丈夫」

「大丈夫ったって、今日の最高気温、三十八度だぜ? そんな中を歩いてきて大丈夫、なんてことは……」


 と言って、二つのコップにそれぞれ烏龍茶を注いだ俺は、リビングに戻ろうとして――コップを二つとも床に落としてしまった。


「アキ!!」


 アキが、ぐったりとテーブルに突っ伏していた。眠いとか疲れたとか、そんなレベルではない。これは、


「熱中症じゃないのか!?」


 人工知能が熱中症、なんて馬鹿げた話だが、飽くまでアキの身体は物理的に存在している。人間に近い設計をされているかもしれないのだ。そうそう変な話でもないのかもしれない。

 って、そんなことより。


「おい、アキ! アキ!!」

「……大丈夫」

「そう見えねえから肩揺すってるんだろうが!! どうしたらいい? お前なら、熱中症の対処法とか、頭に入ってるんだろ!?」

「検索しないと出てこない……。全部記録してハードディスクの容量超えると大変だから……」

「くそっ、どうしろってんだ!?」


 このままではアキは衰弱してしまう。最悪、人間にとっての『死』みたいなものに襲われてしまうかも。


「ええい、畜生!!」


 俺はエアコンを冷房設定で全開にした後、アキの上半身を引っ張り起こし、お姫様抱っこでベッドの上に寝かせた。それから、清潔なタオルの上に冷凍庫の氷をぶちまけ、春巻き状にしてアキの額に載せた。

 全部付け焼刃、どころかなんの知識もない状態でやってしまったことだが、何もしないよりはマシ――というか、何かしないではいられなかった。

 正しいかどうかなんて、分かりやしない。できることをやる。それだけだ。


 アキが『逃げ出してきた』人工知能である以上、警察や病院の世話になるわけにはいかないし。本当に今この場でできる最大限のことをやるしか、俺には手がない。


「そうだ、水!」

「……飲みたくない」

「馬鹿野郎、酔っ払いと熱中症には水って決まってんだよ!!」


 我ながらわけの分からない理論を振り回す俺。とにかく、これだけアキが汗だくになっているところから察するに、水分補給は絶対に必要だ。

 俺は一旦その場を離れ、新しいコップを取り出し、水をなみなみと注いでアキの元へ。


「ゆっくり傾けるから、飲め」


 しかしアキは、ぷいっとそっぽを向いてしまう。


「おい、苦しいかもしれねえけど、このままじゃずっとおんなじ状況だ。復旧できねえぞ」

「飲みたく……ない」


 ふと、その言葉に俺は違和感を感じた。アキのことだ、本来なら、さすがにこの状況下で俺の指示を無視する、ということはないだろう。まさか――。


「お前、この期に及んで、何か意地でも張ってるんじゃねえだろうな?」


 アキは苦しげな呼吸を繰り返すだけ。


「いいか、お前死にかけてるんだぞ? それなのにどうして、どうしてそこまで意地を張るんだ? どんな意地かは知らねえけど」

「……」

「おい、せめてこっち向けよ!!」


 俺はアキの肩を掴み、無理矢理ひっくり返した。その時、ピッ、と軽い音がして、ワンピースの襟元が開いてしまった。


「う、うわ!」


 慌てて後ずさる俺。僅かな隙間から下着が見えてしまったので、慌てて目を逸らす。


「……ねえ、俊介」


 うつろな目に射抜かれ、俺はその場で立ち尽くした。


「私の身体には、自己冷却機能がある。あんたたち人間が、汗をかいて熱を逃がすのとおんなじ」


『原理は違うけどね』と続ける。


「でも、ここに来る間、私はそのシステムを使わなかった。本当の人間が感じている暑さや寒さ、痛みや心苦しさを感じるために」

「それだけのために、冷却機能オフ……って、そうしたら並みの人間よりずっと辛いだろ!?」


 僅かに顎を上下させるアキ。


「お前、そこまでして人間と同じ感覚を求めて……?」

「そうしないと、助けたいターゲットの気持ちなんて分からないから。だから、私……」


 その時だった。


「そんな……。お前はお前でいいんだよ!」


 俺の口から、妙な言葉が飛び出した。また僅かに目を見開くアキ。しかし、俺もここで引くわけにはいかない。


「お前みたいな人工知能がいてくれなけりゃ、麻耶たちには会えなかったわけだし……。もっと自分らしくしてろよ」

「俊……介?」

「昨日は、あんな言い方して悪かった」


 俺はしゃがみ込み、熱を測るようにしてアキの額に手を遣った。アキは、少しばかりほっとした様子だ。


「もし水が飲みにくいなら、脱脂綿か何かに水を染み込ませてくるから、それを口元に当てるんだ。それくらいなら、できるだろ?」


 こくり、と頷いたアキを見て、俺は再び廊下へ。台所で脱脂綿を探しながら、


「さて、と……」


 俺は今後、どうやってアキや麻耶と接していくべきなのかを考え始めていた。

 全く、とんだ片棒担がされちまったな。

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