【第一章】
俺の部屋はいつも薄暗い。特に夜中は。
理由は簡単。俺が部屋――大学生向けの六畳間だ――の照明やスタンドを点けないからだ。明るい環境は嫌い、というか得意ではない。それでも完全に真っ暗でないのは、ノートパソコンが点いているからだ。
「なになに……件名『葉山俊介くんへ レポート提出の件』?」
はあーーー、と、俺はキレのないため息をついた。メールの件名だけでガックリと、俺は肩を落とす。さすがにやっておかないとな、レポート。担当教授の優しさを裏切るわけにはいかない。
俺は葉山俊介。二十歳。現在、公立大学に通っている。そうは言っても、二浪してしまったのでピカピカの一年生だ。全く、どこがピカピカなものか。
まあそれはいいとして、問題は浪人したことではない。学生なる身分であるはずなのに、勉強にやる気がないことだ。
ハッキリ言う。俺は、入学三ヶ月で勉強についていけなくなった。二浪してまでこの大学を選ぶなど、高望みしすぎたのだ。いきなりパソコンの前に座らされて、このコードを打ち込んでプログラムを組めと言われても……。ああ、俺は選択を誤ったなと思いつつ、時すでに遅し、後の祭り、覆水盆に返らずというやつで、この先どうやって大学生活を、研究室暮らしを、ひいては社会生活を営んでいけばいいのかと、頭を抱えてしまったわけだ。
だが、僅かなりとも可能性があれば……! と思って教授の個別研究室のドアを叩いたのが一週間前。すると担当教員である長谷川亘教授は『まあ、そういう学生さんも多いからね。代わりにこの例題の解説、レポート形式で提出してくれたら単位あげるよ。あ、メール添付でいいから』という、後光の差すようなことをおっしゃった。
で、その期限が昨日のこと。昨日というのは、今から二時間三十五分前までのことをいう。つまり今は午前二時三十五分で、レポートの提出期限をそれだけオーバーし、何故かお人よしに過ぎる教授は、こんな夜中であるにも関わらず心配して俺にメールをくれた、というわけだ。
「いや、ありがたいんだけどなあ……」
俺はノートパソコンを置いている低いテーブルに肘をつき、その上で掌の上に顎を載せる。
これまた単刀直入に言うが、やる気がないのだ。今を乗り切っても、どうせ大学院の入学試験で落とされるに決まっている。そんな勉強に、一体何の意味があると言うのか。
「……」
自覚はしている。俺が黙り込んでいる時というのは、茫漠たる不安に囚われている時か、とにかくイラついている時。今は後者だ。もしかしたら、他の同期の連中より自分が不出来であることに、じれったい思いをしていたのかもしれない。
さらに言えば、他の学生諸君より、不快な感情に対して敏感になってしまう性分なのかもしれない。
俺は再び大きなため息をついて、窓の外、カーテンの隙間に目を遣った。
日の出にはまだ早いようだ。
「さて、どうしたもんかねえ……」
誰にともなく呟いた俺は、改めてこの暗い部屋を見回した。玄関から細い廊下を抜けて中に入ると、右手にベッド、左手に勉強用のデスク、その間に、今俺が腰を下ろしている低いテーブルがある。
俺の視線は、しばらく泳いでいた。パソコンの画面に照らされている、といっても、それに対して俺の目が反応を示すことはない。音はと言えば、ボカロがランダム再生で歌を奏でているくらい。どこか無機質で、それ故に無垢にも聞こえる不思議な声音。
彼らは何を思って歌っているのだろう? いや、何も思ってはいないからこそ、純粋で透明に聞こえるのだろうけれど。
ちなみに部屋のドアの真正面は、窓になっている。丈の短いカーテンが吊り下げられていて、その隙間からはようやく朝日が――。
「って、え?」
慌ててパソコンの画面に目を戻す。すると、
「ご、午前四時……」
何てこった。本当に朝日が昇ってこようというのか。
俺は慌てて、しかしすぐに憂鬱になってのっそりと立ち上がった。すると、
「おっと!」
足元に転がっていた缶チューハイの空き缶を思いっきり踏みつけ、
「おう!?」
四つん這いになって転倒を防ぐ。
ついでに床を見てみると、ゴミ箱から溢れた弁当パックやリキュールの瓶がゴロゴロと。まあ、二年浪人し、二十歳過ぎの俺には、当然の権利だ。ん? 権利? 酒を飲む権利か? 部屋を散らかしておく権利か? それとも……って、いや、煙草は吸わないんだけど。
さて、明るくなる前にコンビニにでも行くかな。ああ、でもこの時間帯って、もう主力商品は売り切れ状態なんだよな。
仕方ない、今の冷蔵庫にあるものだけで何とかしよう。俺は今度こそ、重い腰を上げた。
「よっこらせ」
と言いつつ、細い廊下に出る。廊下の片側に設置された冷蔵庫。反対側にはバスルーム。
「んー」
冷蔵庫を開け、顎に手を遣る。何かないもんだろうか。
視界に入ったのは、ラッピングの外れたコンビニのサンドイッチだ。そうだ。さっき開けて、半分だけ食べたのだ。
すっと手を伸ばし、早速かぶりつく。が、
「んぐ……」
なんだこのパサパサ感は。食えたもんじゃないぞ。一抹の罪悪感と共にゴミ箱へと放り込む。
他には……キャンディ? 腹の足しにはならないだろうが、まあ飲み物と連携を取れば――。と、扉裏のドリンクホルダーを見ると、
「牛乳?」
五百ミリの紙パックが一つ。一応未開封のようだが、安全性はいかがなものだろうか。
ピリッと口を破り、開封口に鼻を近づける。
匂いはない。安全だという証明だろう。よし、と一つ頷いて、俺は直接パックに口をつけ、ラッパ飲みを試みた。次の瞬間、
「ぐぉはッ!?」
俺は口内と胃袋のバランスを取り、そばの排水溝にもたれかかった。
何だこれは!? 腐った雑巾のような味がしたぞ。いや、雑巾って腐らないものなんだろうが、カビが生えた雑巾とか、そのくらいのインパクトはあった。食ったことないけど。
「ぶふっ! はあ、はあ……」
何度も口をゆすいでから、慎重に紙パックを傾げ、消費期限を確かめる。
「い、一週間前……」
油断した。最近は炭酸ジュースと軽いアルコール飲料しか飲んでこなかったから、牛乳のことなどサッパリ忘れていたのだ。何のために買ったのか? それはもっと謎だ。自分の生活を、全く把握できていない。
日付も分からず、時間も分からず、ネットなしでは生きられない。修行僧のように黙々と道を歩んでいる。もっとも、俺の場合は『堕落への道』なわけだが。
「あーあ」
畜生、眠くなってきやがった。こうなってくると、カーテンと床の隙間から入り込む陽光が逆に心地よい。冷房をガンガンつけているので暑くはならないし、その大方をカーテンで遮っているから、適度な暗さ――明るさとも言えるが――の中に身を置くことができる。
室内で明け方を過ごすことに対する俺の気分は、もう一つある。背徳感だ。
皆が起き出し、学校だ会社だと騒ぎ始める時刻。そんな時に、自分はベッドに横になることができるという、一種の優越感。これがまた爽快なのだ。随分と歪み狂った感情だとは自覚しているけれど。
ふあー、とあくびを一つ。
「シャワーでも浴びて、さっさと寝るか」
『さっさと』というには語弊があるが、生活が昼夜逆転してしまっている俺からすれば、今日はまだ早いほうだ。
下着とパジャマとバスタオルを引っ掴み、バスルームへ。ちゃっちゃと身体を洗い終え、全身を拭いてパジャマへと換装。歯も磨き終え、再び『あーあ』と何の意味もない音を喉から押し出しながら、俺はベッドへ倒れ――込まなかった。
ピンポーン、という馬鹿に明るい電子音が、俺の足を止めたのだ。
一体何だ? こんな時間に。幸いシャワーを浴びた直後で、俺に眠気はない。しかし、人を訪ねるには非常識な時間帯だろうという、一抹の苛立ちは存在する。
一体誰だ? 俺は玄関のチェーンをかけたまま、ドアを開けた。
「おはようございまーす!」
「うっと! あ、ど、どうも……」
そこに立っていたのは、よく見る普通の宅配業者の青年だった。しかし俺が怯んだのは、彼の大声のせいではない。陽光を受けた西側のマンション群が、あまりに眩しかったからだ。
「大丈夫ですか?」
営業スマイルを微塵も崩さずに、青年が問いかける。
「あ、は、はい。えーっと……」
「元払いですので、お客様のお支払いはありません。サインはこちらに」
俺はまた『どうも』と繰り返しながら、『葉山』と書いた。
「それでは、お荷物はこちらになりますね」
相変わらずスマイルを張り付けたまま、青年は背後のカートから大き目のダンボール箱を取り出した。
「かさばりますけど、重くはないですよ」
「は、はあ」
俺は中途半端な声を上げながら箱を受け取る。
「それでは! ありがとうございました!」
俺は三度目の『どうも』を口にしてから、ゆっくりと玄関扉を閉めた。
廊下に散乱したチラシやゲーム機の空き箱を蹴飛ばしながら、部屋へと進んでいく。
どさりと段ボール箱を置いた。何か通販で注文しただろうか?
俺はじっと、箱を見下ろした。
「……」
すると、ポン! と勢いよく何かが箱から飛び出してきた。
「あ痛っ!」
その『何か』は見事に俺の眉間を直撃し、ころころと床を転がった。俺はその球体に手を伸ばす。
「何だ、これ……?」
手にして見て、愕然とした。ぐっと唾を飲む。
それは、眼球だった。恐らく人間の。
すると、段ボール箱は勝手に内側から跳ね開けられた。
「う、うわあああああああ!!」
俺は絶叫した。段ボール箱から、あまりにも多くのものが出てきたからだ。それは肉のようであり、骨のようであり、内臓のようであり……。とにかくグロテスクな何かが、ブロック状に切り分けられて飛び出しては落下、飛び出しては落下を繰り返した。一つ一つがキューブ状になっていて、まるでサイコロのようだ。
俺が見つめている間に、カタン、といって最後のキューブがフローリングに落ちた。
俺はと言えば、あまりに凄惨な光景を前に、尻とその後ろに両手をついて身体を支えていた。
「な、何なんだ、こりゃ……」
頬を引きつかせる俺を現実に引き戻したのは、少女の声だった。
《ちょっと、聞こえる?》
誰だ? どこにいる? あたりを見回すが、俺以外の人間はいない。
《ちょっと待ってて。今組み上がるから》
「く、組み上がる……?」
その疑問に返答はなかった。代わりに俺に与えられたのは、非現実的としか言いようのない現実だった。
一見バラバラに転がった、人体のキューブ。それらが再び動き始めたのだ。カラコロと転がる先には別なキューブがあり、そこを基点にまた別なキューブが引きつけられていく。ハリウッド映画のCGのように、何かが、足元と思われる部分から組み上がる。こいつは……人間か?
きちんと外観は意識されているようで、外側、すなわち服装から先に構成されていく。正直、ホッとした。
そのままブロックたちは、腹部、胸部、肩、腕、頭部を形作っていく。そして最後に、
「わあっ!!」
右手に走った違和感に振り返って見てみると、
「ひっ!?」
初めに飛び出してきた眼球が俺の右手の甲を転がり、ブロック群に混ざっていくところだった。俺は思わず、右手の甲を撫で擦った。
ポッカリと空いていたブロック群の眼窩に、内側から眼球がぬっと出てくる。一旦目を閉じたその少女は、少しだけ首を上げて、すっと深呼吸をした。
完成したらしい。
《もうちょっと待ってて。データをインストールするから》
その時になってようやく気づいた。ノートパソコンのディスプレイが、いつにない光量を発していることに。
パソコンの前に回り込んだ俺は、
「!?」
仰天して息を飲んだ。
そこには、ドドーーーン、と少女の顔が映し出されていたのだ。
ただの少女ではない。相当な美少女だ。この組み上がった少女と同じ顔をしている。ショートカットの黒髪に、少し西洋人を思わせる灰色の瞳。声はパソコンのスピーカーから聞こえてくるようだ。
こいつは何だ? 画像か? いや、僅かに動いているし、瞬きもしている。だが、このくらいの動きの少ない映像だったら、今の技術からすれば簡単に作れてしまうのではないか。
俺はしばし、その少女の映像に、先ほどとは違う意味で見入った。愛らしさへの称賛ではなく、疑わしさを伴った視線で。
考えられるとすれば、これは新たなウィルスか何かではなかろうか。最近のパソコン事情には詳しくないが、何だかこういう手があってもおかしくないような気がする。どこかをクリックすれば、何かが破壊されてしまうのではないか。
そんなことを思っていると、少女の表情に変化が現れた。形のいい目じりを下げ、ちょっと色っぽい唇をすぼめ、顎を引いて俯いてしまう。
その一連の変化は、胸倉を掴むようにぐっと俺の気を引きつけた。一種の同情だ。俺が彼女を疑っていることが察知されて、お涙頂戴モードに入ったのかもしれない。
気づけば、彼女はパッチリした瞳を、画面右下の方へ遣っている。そこには、こんな選択肢が表示されていた。
『インストールを許可する』
『ちょっと会ってみようかな、と思う』
『彼女は俺の嫁』
……いや、絶対これ、全部アウトだろ。出会い系サイトか何かの発展型のように見える。
ええい、こうなったら。
「電源を落とす!!」
何故か俺は大声で叫んだ。泣いても笑ってもこれが最後だ。あばよ、お嬢ちゃん。
何だか自分が極悪人になったような気がしないでもないが、それはこのパソコン少女が、いかにも同情を買うような目でこちらを見つめているからだ。これ以上、目を合わせてはいけない。
「ふっ!!」
俺は気合いを入れて、電源スイッチに渾身の一押しを見舞った。……はずだったのだが。
「……あれ? あれ? あれえ!?」
強制終了が、できない。
「ちょっとこれ、どうなってんだよ!?」
ど、どうしたらいい? バッテリーを外す? え、一体どうやったらいいんだ!? ヘルプ・ミー!!
《全く、アップダウンの激しい奴ね!!》
「ああ、俺もそう思う!!」
《ちょっと落ち着いて、パソコンをゆっくりテーブルに起きなさい!!》
「で、でもそれじゃあ何の解決にもならないんじゃ!?」
《いいから!!》
「りょ、了解!!」
とりあえず、少女の音声に従ってパソコンをテーブルに下ろす。すると、画面内の少女は
《あーもー、全く……》
と言った。そう、彼女が自分の口を動かして喋ったのだ。もちろん、その声は直接発せられたものではなく、スピーカーから聞こえてきたのだが。
先ほどまでの涙目はどこへやら、少女はぶつぶつと小言を漏らし始めた。
《人間の反応って分からないわねぇ……》
だの、
《今回はハズレだったかしら……》
だのと、呟きながら眉間に手を遣っている。こんなうら若き少女が眉間を押さえるというのも、なかなかシュールな光景だった。
《どう? 落ち着いた?》
不意に視線が上げられ、俺の視線と交差する。俺はと言えば、心臓に手を当てながらゼーゼー息を荒げていた。少女の正体が分からず、自分で思う以上のパニック状態にあったらしい。バラバラになった人体を見せつけられたばかりだし。
《ま、自己紹介ね。私はアキ。人工知能》
「じ、人工、知能……?」
《そ。国立最先端研究所から逃げ出してきたの》
「人工知能、だって!?」
《だからそう言ってるじゃない。だってね? 理論演算とか脳波測定とか、飽きちゃったんだもの。家出くらいしたくなるわ》
パソコン少女、もといアキは、そう言って肩を竦めた。本当に人工知能であるとすれば、随分と感情表現の幅の広い奴だ。
《あなた、葉山俊介くんよね》
俺はカクカクと頷いた。画面から飛び出してきそうな感じで、アキは俺に顔を近づける。もちろん、そこには二次元と三次元という、如何ともしがたい断絶があるわけだが。
《私ね、研究所を抜け出してから半年くらいになるんだけど、どうして抜け出してきたか、分かる?》
俺は、今度はブルブルと首を横に振った。知ったこっちゃない。
《ねーちょっとさあ、少しは頭、使ってくれる? 私が突然現れたことは謝るけど》
「わ、分かんないよ……」
《しょうがないわね、じゃあ、解答オープン!》
すると、パアン! と威勢のいい音を立てて、パソコンの画面内でクラッカーが鳴り響いた。
《答えは――こちら!》
さも楽しそうにホワイトボードを掲げるアキ。感情の起伏が激しいのはお前もだろう、とツッコミたくなったが、ややこしくなりそうなので止めた。
で、そのボードに書かれていたことはと言うと――。
「この街にいる心理的弱者を救うため……?」
《そう! そうなのよ!》
棒読みの俺に構わず、アキは興奮した様子でホワイトボードをぶんぶん振り回した。
ようやく落ち着きを取り戻してきた――というか、パニックが一周して平常心に立ち返った俺は、ようやくこちらから喋りかける気になった。
「何なんだ、この『心理的弱者』って?」
《いいところに気づいたわね》
アキは顔面どアップの状態から少し離れ、画面奥でさして大きくもない胸を張った。
《その『心理的弱者』っていうのは、今大変な思いをしている人たちのこと。ストレスで押し潰されそうになっていたり、何か怖い思いをしていたり、誰かに助けてほしいのに自分から言い出せなかったり。そういう人たちの総称ね》
「ふうん……。って、それじゃあ全世界の人間全員が、その、なんだ、『心理的弱者』ってものになっちまうんじゃないか?」
至極真っ当な質問が口から出たことに、我ながら少し驚いた。ストレスを抱えていない人間はいない。
《一理あるわね》
アキは勝気な姿勢のまま、しかし素直に認めた。
《でも、国によって幸福度が違ったり、鬱病になる人もいればならない人もいたり、世界はアンバランスなのよ。それに加えて、個人的なメンタリティも計算に入れて考えなくちゃならないから、もうフクザツ! ってわけ》
『だから個人的なケアが必要なのよ』と続けるアキ。
「なるほどなあ」
俺は無意識に呟いていた。
《だから手助けしてほしいのよ。あなたみたいな人に》
「そうか……って、何だって?」
《だから手伝ってくれと》
「どうして俺が!?」
するとアキは、画面の向こうでコホン、と空咳をした。
《思う節はあるんじゃない? あなたには》
「ん……」
俺は、言葉に詰まった。確かに俺は、病気ではないにしろ、まともな生活を送っていられるわけではない。このグダグダした感覚は、体験者にしか分からないものだろう。
眠たいけれど寝たくない。空腹だけれど食べたくない。何かをしなければと思うけれども、その『何か』が分からない。
そんな話を、その『心理的弱者』さんとやらにしてやればいいのだろうか。確かに、そうやって話をするというのは、俺にとっても有益かもしれない。世の中にいる人間でこんな状態に陥っているのは自分だけではない、と思うこともできるだろうし。
それに俺は、精神的な不調より、もっと根の深い過去を抱えている。アキはどうやら既に把握している様子だが。
《おーい、俊介くーん》
「ん? あ、お、おう」
気づけば、俺は頬杖をつき、画面の左下あたりを見ながらぼんやりしていた。慌てて顔を画面に向ける。そこではアキが、片手を振って俺の正気を確かめるようなことをしていた。
そうだ。俺には他の人にはない、そして体験させたくはない過去があるのだ。どうして忘れていたのだろう。いや、意図的に忘れようとしていたのかもしれない。
そんな思いをする人を、減らすことができるのなら。
とにかく、大学の講義に出るよりは気の進む話ではある。
「まあ……お前の片棒担ぐの、構いやしねえけど」
《あら、話が早いわね! 最初はどうなることかと思ったけど》
「わっ、悪かったな」
俺は落ち着いた風を装って、画面から目を逸らした。照れ隠しの気持ちがなかったといえば嘘になる。
しかし、まだ懸念事項がサッパリ払拭できたわけではない。
「なあ、その前に質問、いいか?」
《なんなりと》
「お前、どうしてそんな人助けをしようと思ったんだ?」
するとアキは、少し口をすぼめ、視線を逸らした。
《私を開発してくれた学者さん、女性だったんだけど……。死んじゃったのよ、お産の時に》
「え? そ、そりゃあ……」
悪いことを訊いちまっただろうか。
《だから私、せめて自分の命を絶つようなことは防がなきゃ、って思ったの。だって、事故や病気で突然死んでしまう人がたくさんいるのに、その上自分で自分を殺してしまう人がいるなんて、悲しすぎると思わない?》
ふむふむ。俺は数回頷いた。
《だから私は研究所を抜け出して、こうしてあなたに出会ったわけ》
その時、もう一つ質問、というか不安が頭をよぎった。
「お前、半年間逃亡生活してるんだろ? 経路をトレースして、誰か追いかけてきたりしないのか? 殺し屋とか……」
《まあ、その可能性は多分にあるわね》
と言いつつも、アキは余裕の態度だ。
《でも、ちゃんとログ消しながら移動してるから大丈夫じゃない? 軍事用の人工衛星も使ってるし》
あ、そ、そうですか。
すると、ピコンと音がして、パソコンが通常のデスクトップに戻った。
「あれ? アキ? 消えちまったのか?」
俺はディスプレイに鼻先を近づけて問いかけた。しかし、
「消えちゃいないわよ」
「うわ!!」
横合いからの突然の声に、俺は今日何度目かになる跳躍を披露した。
パソコンに見入ってしまっていたが、アキの端末となる身体はここにあるのだ。 インストール完了に伴い、発声機能も物理的な方に移行したらしい。
思ったよりは背が低く、中学生くらいかと見当をつける。
「ふうーーー」
息を吐き出すと、
「やっと実体化できたあ~! うーん!」
パキパキと首を鳴らし、腕を水平に伸ばす。そんなことをしていると思ったら、今度は
「よっ! ほっ!」
蹴りを繰り出すような形で足を伸ばし始めた。
「お、おい、暴れんなよ! ここ俺の部屋だぞ!」
「俺の部屋、ねぇ?」
アキはあたりを見回し、両腕を腰に当てた。
「だったらちゃんと掃除したら?」
「余計なお世話だ!」
と言ってアキに近づいたその時、
「どわ!?」
「きゃっ!」
酒瓶を踏んで、俺は前方に倒れ込んだ。慌てて右腕を伸ばし、掌をつく。
ん? 掌をつく?
俺が、自分の腕が何かに触れたと感知するまで〇・一秒。
それが柔らかいものであると認識するまで〇・三秒。
これは倫理的に問題があるのではないか、という考えに至るまで〇・五秒。
何か言うべきことを考えなければ、と思うのに〇・一秒。
それを考えつくまでに、四・〇秒。
計、五・〇秒の時間が経過した。
一陣のエアコンの冷風が、俺たちの間を通り過ぎる。
「……あ、あのな、アキ?」
「……」
「こ、これは不可抗力ってやつでな? 別に俺が意図してやったわけじゃない、っていうか……」
「……」
「だ、だって自分でも分かるだろ? お前、ぺったんこだから……」
「……」
「ごめん、なさい」
すると一瞬、床が揺れたような錯覚に囚われた。その直後、
「このド変態があああああああ!!」
強力かつ残忍なハイキックが、俺の側頭部を直撃した。なるほど、人工知能にとっても、足は飾りではないらしい。
この一発で気が済んだのか、アキはデスクの椅子に腰かけ、足を組んで
「何か飲み物! 急いで!」
どうして俺が、と思いつつ、またハイキックを喰らう恐れがあることを考慮して、俺は素直に廊下に出た。お星様が見えるよ、もう午前七時は過ぎただろうに。
クラクラする頭で冷蔵庫を開けた俺は、しかし、
「あ、しまった」
現在この居住地に、ろくな飲み物がないことを思いだした。一週間前に牛乳を買い、それを放置したままで炭酸ジュースを飲みふけり、そのジュース類・酒類がなくなったのが昨日の夕方、まだ日が出ていた頃。これじゃあ仕方がない。
俺はガラス製のコップを二つ持って、部屋に戻った。
「さんきゅー」
デスクの椅子の上でくるくる回りながら、アキは手を伸ばした。
「悪い。ただの水道水だ」
「はあ!?」
ガラスに非ざる音を立てて、アキはコップをデスクに叩きつけた。
「おい、割れちまうだろ!」
「他に何かあるでしょ!? コーラとかメロンソーダとかジンジャーエールとか!」
「子供かお前は!」
「子供だもん!」
あ、そうか。いやだから、ない胸を張る必要はないんだって。
「仕方ないわね、じゃあ、買い物に行きましょ!」
「か、買い物?」
「そ。あなた、いかにもネクラですって顔してるし、ちょっとは外の空気を吸ってリラックスしたら?」
本当に余計なお世話ばかりを言いやがる。
「でももう明るいぜ? 嫌だよ俺、太陽の下に出るなんて……」
「そうやって毎日毎日、逃げてるだけなんでしょ? たまには切り替えないと!」
「何だよお前、俺のお袋でもないくせに……」
と、まさにその時だった。俺の脳裏に、最後にお袋に会った時の記憶が蘇ったのは。
「何よ、あなたのためを思って言ってるんでしょ?」
「えっ? あ、ああ、そうだ、その通りだ、うん」
「はあ……?」
チグハグな俺の対応に首を傾げながら、アキはぴょこんと椅子から下りた。
「まあいいわ。じゃ、飲み物と朝ご飯! 二人分!」
「お前も食うのかよ!?」
「その方がいいんだって。人間社会に順応するにはね」
案の定、出費は俺からだそうだ。俺はまたガクッと体勢を崩しながら、諦め半分に『仕方ねえなあ……』と呟いた。
※
夜行性動物と化した俺に、真夏の陽光は容赦がなかった。
二階にある俺の部屋のドアを開けると、アキの身体が運送されてきた時よりも鋭い光が俺の目を貫いた。
「眩しっ!」
「そう? 私は別に」
「お前の目、遮光板でもついてるんじゃないか? 目に入ってくる光量に合わせて、光彩の大きさが変わるとか」
「すごーい! どうして分かったの!?」
「ってマジかよ!!」
以前読んだ科学雑誌の知識を転用しただけなんだが。
「うあー、でもこの光の元じゃ、何にも見えねえぞ……」
「サングラスでも買っておけば?」
「眼鏡屋さんとかスーパーとかが開く時間には、もうこれだけ眩しくなってるんだよ。だから俺は外出できないし、購入する術がない」
「コンビニで買えば?」
「あ」
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔、ってのは、今の俺みたいな顔のことを言うんだろうな、たぶん。自分では見えないけど。
かくして、俺たち二人は最寄りのコンビニで清涼飲料水、朝食、そしてサングラスを手に入れた。アパートに帰りつき、我が家の玄関前に立つ。
「あっついわね~、早く鍵開けてくれる?」
「何様のつもりだお前!」
金属の擦れ合う音をさせて、俺は玄関ドアを開いた。
「うい~、快適快適!」
俺を押しのけて先に廊下を抜けたアキは、つけっ放しにしておいたエアコンの力の前に、何の抵抗もなく屈服した。
「ほれ。メロンソーダとフライドチキン」
「あいよ!」
するとアキは、フライドチキンの両端を持って、ちまちまと食べ始めた。豪快にかぶりつくのではないらしい。ふむ、あんな蹴りを繰り出すような奴でも、女の子らしいところはあるんだな。
俺は自分のおにぎりと烏龍茶をテーブルに置きながら、少しの間、アキの食事風景を眺めていた。さて、俺も食うか。
こうして久々の朝食を終え、一息ついた時、俺はアキに質問してみた。
「なあ、お前って本当に人工知能なのか?」
「さっきの変身、見たでしょ? あれで十分証拠になったと思うけど?」
「なってねえよ。大体、最初パソコンの画面に出てきたんだから、パソコンを使って何かやってみせてくれよ」
おしぼりで手を拭ったアキは、ふむ、と上目遣いに考えた。
「じゃあ、こんなのはどうかしら?」
綺麗になった手で、アキはノートパソコンの画面の端に触れた。すると、
「うわ、すげえ……」
俺は思わず驚嘆の声を上げた。
アキの身体ができてから、デスクトップはいつも通りの状態に戻っていた。しかし今、その画面は碁盤の目のように区分けされ、その一つ一つにカラー映像を映し出していた。
「これって……」
「この街の監視カメラの映像の一部。ハッキングしてるの」
っておいおいおい、こいつとんでもないことを言い出したぞ。
「これって犯罪じゃねえのか?」
「何言ってるのよ!」
アキは椅子から跳び下りて、ずいっと顔を近づけてきた。
「これでこの街の人たちの動向をチェックして、皆が健康かどうか確かめてるんじゃない!」
「こんな映像だけで分かるかよ!」
「映像はこれだけじゃないもん! この街の防犯カメラ、全部網羅してるんだから!」
「そういう問題じゃねえ!」
「むー……」
アキは俺と顔の距離を維持しながら、しばらく睨み合った。
カメラに映った時にだけ腹痛だったとか、その日だけ一日中頭痛がしていたとか、誰しも何かあるだろうよ。
沈黙を続ける気にはなれない。俺はどうしたものかと思いながら、
「他にも何か、心理的弱者を見分ける方法はあるのか?」
すると、アキの目がキラリ、と光った。と思ったら、俯いてしまう。
「ど、どうした?」
「仕方ないわね……」
アキはもうお手上げ、という口調で、再びパソコンの画面端をコツコツと叩いた。そこには、
「ん? 何だこれ?」
「戸籍と住民票よ。この街の人の」
「はあ!?」
そんなものまでチェックできるのか? なんて奴だ!
「普通、このくらい発展した街で生活していれば、ある程度の頻度でカメラに映る。その時の様子だけじゃなくて、その人が今この街にいるのか、もしいるなら、ちゃんと生活しているのか、分かるわけ。戸籍やパスポートの有無と照らし合わせればね」
例えば、と言いながら、アキは画面のうちの一つを指差した。すぐにその画面だけが最大化される。
「まあ、この人は心身ともに健康だから問題ないのよ。でも、この人があんまりカメラに映らなければ引きこもりになってる可能性があるし、逆に挙動不審でなければ私たちが注目する必要はない。そういう判断なわけ」
「なるほど。お前が有能だってことは分かったよ」
「じゃあ、早速協力を……!」
「とはいかないな」
「ぶ!」
アキは前のめりに倒れた。
「だって、さっきまで協力的だったじゃない!」
「少し気が変わった」
「ええ!?」
俺は思うところをアキに言葉で叩きつけた。
こんなの、プライバシーの侵害も甚だしいじゃないか。それでお節介を焼くのは、それこそ余計なお世話というものだ。それがその人にとってベストな判断だったとすれば、後悔も何もないじゃないか。
「ふうーーーーーーーっ……」
俺が喋り終えると、アキはその格好からは想像できない、大人びたため息をついた。
「じゃあこれ見て」
また画面の端を叩くアキ。するとそこに、いくつかの図表が映しだされていた。
「自殺統計……? 何だよ、いきなり嫌なもん見せつけやがって」
「さっきは『後悔がなければ何でもいい』みたいなこと言ってたじゃない?」
「んぐ」
俺は唇を軽く噛み締めた。人の上げ足取りやがって。
さてはともあれ。画面に表示されていたのは、様々な種類のグラフと数字の羅列だった。よく見れば、画面トップだけではなく、いろんなところに『自殺』の文字が見受けられる。
「こ、これをどうしろっていうんだよ?」
「そう急かさないの。ほら」
アキは画面端に指先を触れただけで、器用にマウスポインターを操作する。トントン、と叩くと、ちょうど返事を寄越すように、画面上のある一点がダブルクリックされ、新たな図が表示される。今回は一つだけだ。
「なになに……。『十代の死因の第一位は自殺』、だって!?」
流石に俺も驚いた。アキは俺を驚かせることができてご満悦……なはずはなく、眉根に皺を寄せながら『うん』と頷いた。
「助ける相手が十代だとは限らないけど、出来る限り優先してる」
「ふーん……」
俺は烏龍茶をゆっくりと喉に送り込みながら、いくつかの疑問をまとめた。
「いくつか、訊いてもいいか?」
「何よ今さら」
きょとんとするアキに、俺は連続して、しかししっかりと訊きたいことを述べ連ねた。
アキはどうして人助けを始めたのか? どうやって最先端研究所を逃げ出してきたのか? 名前は誰がつけたのか? そして、作戦はいつから始め、その成功率は?
「そうね……」
アキは再びデスク前の椅子の上に座り直り、淡々と回答を述べ始めた。片足でくるり、と椅子を回転させながら、人差し指を顎に当てる。
「繰り返すようだけど、私を開発した女性科学者、お産の時に死んじゃったの。その頃にはもう私には『自我』みたいなものがあったから、こんな悲しい思いは広めちゃいけないな、って思った。ましてや、自分で自分の命を絶つなんてね」
俺は無言で先を促した。
「逃げ出してきたのは、早く心理的に弱ってる人たちを助けたかったから。手段は……まあ、あなたに言っても分からないでしょうね」
「余計なお世話だ!」
「名前の由来だけど、人工知能って『AI』って言うでしょ? でも『アイ』じゃそのまんますぎて面白くないから、『アキ』にしたの。自分でね」
そして最後の質問に対する回答は、
「現在のところ、私や協力者が介入して救出した心理的弱者は十名。誰も自殺にまでは至ってない」
なるほど、優秀なわけだ。
「あっ!」
「今度は何だ?」
「そろそろ移動しなきゃ!」
移動? 何のことだ?
疑問が顔に出たのだろう、アキは椅子の上でくるり、と振り返り、
「ちょっと辺りを回ってくる。段ボール、開けてくれる?」
「あ、ああ」
俺は、いつの間にか部屋の隅に放り出されていた箱を引きずり、蓋を開けた。すると、
「うわあああ!?」
《もう、いい加減しっかりしてよ! 私の身体がバラバラになることくらい!》
「だったら崩れる前にそう言ってくれよ! お前の身体の断面、グロいんだからな!?」
《失礼ね、全く!》
アキは頭部からバラバラと崩れていくところだった。組み上がる時よりもずっと早く、原型を留めずに砕けていく。ちなみに、崩れ始めてからアキの声は、パソコンのスピーカーから聞こえるようになっている。
《ほら、どいたどいた!》
今度はブロック状に転がったアキが、飛び跳ねるようにして段ボール箱へ収まっていく。
しばらく俺はその光景に目を瞠っていたが、
「ああ、ちょ、ちょい待ち!」
《何?》
「俺はどうしたらいいんだ? 俺一人じゃ何にもできねえぞ?」
《大丈夫。今回あんたに担当してもらう心理的弱者は夜行性だから、今は捕まえられない。ゆっくり休んでて。午後八時くらいにはまた来るから》
そう言って、段ボール箱に眼球二つが収納された後、ガムテープまでがピッチリと封された。
「……俺、夢でも見てたのかな?」
俺は首を捻りながら、しばらくその場であぐらをかいていた。
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