第9話 いつものことでしょ

 いつも仕事が終わってから向かうため、監獄へと続く廊下はあまり歩いていて心地の良いものではなかった。疲労もあるが、何より日の暮れた暗い廊下が、空気を必要以上にどろどろとしたものに変えた。もしもこれが夏ならば、五月蠅い虫の声に淡い夕焼けと、もっと感覚的な情緒を楽しむことができたのだろうが、冬のうすら明るい蛍光灯の照らす廊下は、吐く息の白ささえも見せるのを渋っているようだ。

 棟の入り口でスズ少尉が立ち止った。

「じゃあ、見てくるよ。」

「うん…」

 重く垂れこめているかのようなこの雰囲気が、お互いに好きではないらしかった。子犬のような小さい返事だった。彼女の性格を鑑みれば、あまり見慣れた様子でもない。上官に怒られた時でさえ、茶目っ気を忘れない元気な子だと思っていたのだが。

らしくないぞ、なんて励まそうとしたけど、それも馬鹿らしくてやめた。他人の心配をしている場合ではない。

 カードキーを通した時のピーという音一つにも、神経質になる。見つかりでもしたらすべてが水の泡だろう。細心の注意を払うことを怠ってはない。壁の影に人がいないか、窪みや周りの覗き窓に隠しカメラがないか、次々と目を移しながら、同時に公式の監視カメラにも気を配りながら歩く。

(焦るな、不自然になるな。最初からゆっくり一定のペースで歩けば大丈夫だ。)

頭の中で反復しながら、カツカツと歩いていく。

 そして、誰もいないのを確認しながら、目的の牢の前に着いた。前回来たときには、わざと声を上げていたが、備え付けのカメラが音を拾うかどうかを確認していたためだ。どうやら映像だけが記録されるらしい。

 囚人を留め置く場でそんな物騒な、と思った人もいるかもしれないが、恐らく、特殊な手錠に理由がある。私が逮捕された時やここに来るまでに何度か見た留置所は、重い扉に外から中を伺う小窓がついているという密室だった。私の動きを奪ったのも、ドラマで刑事が使うような、ただの鉄の手錠に過ぎない。

 一方で、この元部下らは現行犯逮捕されたため拘置所にいる。特に男なので、外からはプライバシーなく見られる檻――鉄の棒がひたすら縦に並べられている部屋である。そんな開けっぴろげな空間は、見えやすいため脱獄がしにくい。加えて、肝心の手錠は機械である。レンタルビデオ屋が設けている、持ち出し防止の門を想像すれば分かりやすいだろうか。手錠に電子チップが入っているため、不正に外に出た瞬間に警報が鳴り響く。そして、GPSによる位置情報が拘置所側に丸分かりになる。そういった経緯で、監視カメラの音質はお世辞にも良いとは言い難いものが採用されていた。

 そんな音質を犠牲にしたカメラであっても、こちらを向いているのだ。自然に振る舞わなければならない。


 二名の囚人は寝転がったまま、慎重に目だけをこちらに向けた。そして、巻かれていた尻尾を、あくまで自然に伸ばした。

 ここまで伸ばせば、カメラに映ってくれているであろう。私は視線を近づけるかのようにしゃがんだ。そして、檻からはみ出た尻尾の上に、袖口からメモを落として乗せた。しゃがんでいると、体の前面で行われることは秘密性が高まる。

「お前達、囚人生活もキツくなってこないか。」

などと取り留めのない会話を始める。勿論スズ少尉を不審がらせないためだ。

「私はもし羽を伸ばせるなら、野鳥にでもなりたいよ。風に乗って自由に空を飛びたいって、誰もが夢に思うだろ。」

「ああ、問題ないよ。」

「そうか、いやぁ強いな。お前らは。」

 これらの会話も暗号を忍ばせてある。どうやら発信機については問題ないらしい。片方が尻尾を巻き戻し、奥に潜む相方にメモを渡す。そして後ろ向きにメモを広げると、すぐに機械を取り出した。その指示を書いておいたから。

「関心関心。お前たちは実に優秀だ。その夢も、すぐに回収してやるさ。約束しよう。」

 檻の中にだって、死角を作ろうと思えば作れるものだ。それは、拘置所側の「脱獄させない自信」の裏打ちでもあったろう。ただ、今その自信は裏目に出ている。脱獄の抜け穴があるのではなく、通信端末が隠されているのである。こいつらの場合は拘置所内でコソコソ組み立てていたのだから、悪い意味で能力のある奴らには、懲役を除けばさぞかし自由の効く空間だろう。

 こんな競争は不毛だ。だが、私たちは自分をそう簡単に変えられない。変える事が出来ない。私だってそうなのだ。今大切だと思える物が変わったとしても、それで私は変わったのかと言えば、変わっていない。視野が広がっただけであって、私は常に基本的な私の延長線上にあるのである。


 多少話した後、私はスズ少尉の元へ戻り、小声でスズ少尉に通信端末のことを話した。スズ少尉は押収を後回しにしようとしたけど、「今私達の話し声が聞こえた事を理由に踏み込んだ方がいい」、「奴らも今なら油断している」、と早期の回収を勧めた。

 さて、頭で飛び火の炎上するリスクを計算する。何故私が通信機の存在を知っていたのか?確信はないが可能性があったから摘発を勧めた、と言えばよい。何故私がこっそり会いに来ていたのか?その可能性を確かめるための視察だ、と答えればよい。監視カメラの映像では、何のメモを渡していたのか?そのメモが見つかる可能性は?ゼロだ。わざわざ消化できる紙に書いて食わせたから。

「なあ、スズ。」

やぶから棒に、私は彼女に頭を下げた。

「あいつらの前では、あくまで偶然に出くわしたことを装ってくれないか?よろしく頼む。」

「・・・はいはい。」

 スズ少尉は折れた。監獄への道を忍び足で進みだす。私は逆方向に歩き、スズ少尉の応援を呼ぶために、刑務官の事務室へ向かう。あんな容姿だから舐められるかもしれない。小走りで一本道の廊下と階段を上り、大きく息を整えた。事務室に軽いノックをし、返事を待たずに開けた。

「憲兵だ。○×号の犯罪者の私物に押収の許可を。」

 いつもの如く眉間にしわの入った顔だったのか、あちらさんは相当驚いて、怖がらせさえしたようにも見えた。それでも私は心の内では、元部下たちに本当にすまないと謝っていた。夢も望みも本当に回収してしまったことを。

 静かな夜が、騒がしい数日を引っ張ってきた、序幕である。


 案の定、私達の告発は相当効いたようだ。当番の刑務官や執行官らは軒並み引責で減給処罰、憲兵隊は警察と共に事情聴取を行った。刑務官は法務省の管轄なので、この件を境に以後、警察・軍機関は相対的に法務省への地位が向上したように思う。スズ少尉は大手柄で、総務課内の空気が明るく彩られた。ついでに私も祝われそうになったが、あくまでスズ少尉の手柄である、自分は間接的に働いたに過ぎない、と一歩も譲らなかった。

 ここはまだ、成功者に名を連ねるのは得策ではない。憲兵内部に私の政敵が沢山いる。中途半端な成功を得るよりは、実績を確かなものとする遠征の時まで、目立つべきではないだろう。下手に動いて警戒されるよりはむしろ、今回スズ少尉には私の都合のいいように動いてもらったわけだから、スズ少尉に賛辞がいくよう、できるだけ影をひそめることに徹さなければならない。

 例えば、もし私が押収に貢献したことが話題になりすぎると、今回の違反者が「私が情報取引の手段を利用したこと」を積極的に主張するのは明らかだ。そんなことではせっかくの苦労が台無しになってしまう。ただ、スズ少尉が演技してくれたから、「奴らは偶然見つかった」と思い込み、私が今の地位で活動できるよう、その件はなんとか黙ってくれる筈だ。かつて帰属した組織のために。その点、検事局に感づかれて、事情聴取の時に私が話題に上ったら一瞬でアウトだ。万が一にも、遠征までは情報をストップさせなければ。


 ほんの一日を開けて、私の司法取引の件について、第一回目の弁護士との面会に臨んだ。部屋に連れられると、小気味良い、低身長の中年が椅子から立ち上がった。眼鏡をかけた、毛のないその男は、軽く礼をすると、えらくフレンドリーにこちらを見た。私も礼を返したが、警察関係者が私の後ろからぞろぞろと部屋に入ってくるのが気になって、急ぎ気味に席に着いた。

「よろしくお願いします。」

「はい、よろしくお願いします。」

 通常の面会なら面会室を使うのだが、立ち会う部外者がおらず、事案関係者のみの話し合いなので、会議室が使われた。十名に足りないとはいえ、制服を着た憲兵や、屈強な刑事達が会議室の壁に沿って囲むように立ち、交渉と説明をするラブラドーラ少佐の代行が、席へ着いた。異様なまでに堅苦しい部屋に、この弁護士一人だけが私の味方としているのである。客観的に見れば心細いのだが、弁護士本人は流石に慣れているのであろう、そんな緊張は表情からは見て取れなかった。

「あなたのような人を、こういった形で弁護するのは、私も初めてなのでね、あんまりないですからね。警察の方から司法取引が依頼されるのは。」

それは誰にともなくいったのだろうが、その場にいた憲兵全員が、そうだよなぁと、ラブラドーラ少佐の顔を思い浮かべた。

 代行は一通り、今回の憲兵側の経緯といきさつ、目的を説明した。また、先日の押収劇を挙げて、その目的の為に私が機能していることを明らかにして、話の本題に入り始めた。そう、これまでの破壊活動についてである。

 ここで、私は初めて警察らが「社会の治安が荒れている。これは内戦状態ではなく、あくまで犯罪グループが騒いでいるだけだ」という解釈に気を使っていることに気が及んだ。当たり前だが、弁護士は「ふ~ん、本当にそう?」という表情をしていたため、特別に印象に残った。私自身がどんな表情をしていたかは知らない。


 一通りの意見提出が済み、かねてからの和解案である「執行猶予」に話は収束した。

「さらに減刑に向けての努力っていうのは必要ですか?」

「いえ、おきになさらず…」

充分すぎるほど厚遇を受けているのは自分だって分かっている。これ以上があるのかとまで思ったのだが、いかんせん敬語に慣れない。不自然に他人事な言葉回しになってしまったのではないかと気になって、口の中で小さく反芻した。

「そうですね、分かりました。いやあ助かりますね。いつもあなたのような人を弁護するなら、こっちも助かるんですけどねぇ…」

担当はまた資料に目を落とした。私の従来の破壊活動については民事上の責任はいずれ要求されることだろう。ただ、私の就職能力にまで噛みつかれると、賠償金の支払いどころではない。本当に、私を信用できるかの判断は、今までの私の仕事の態度や経歴が評価基準になるのだ。

 孤児院にいたころ、施設職員は皆、複数の教会に身を置く聖職者であった。彼らは勿論言うのだ。「真なる強者は他者を殺さない」、「徳に優れたものは当然法を超えないものだ」…貧者を前に何を言ってんだ、とも思ったが、習慣化された私は他者を殺さなかった…少なくとも、司法の目の届く範囲では。そのことが、今ここまで効いてくるとは。

 私は常に、貧しさを理由には他を殺しはしない。貧しさを理由には、ね。必要性と犯罪の程度を比較考慮し、常に最少になるように行動選択していたにすぎない。その結果が尚テロなのだ。この国は一体なぜ私達を、少なくとも私と同じ境遇の者を、生み出してしまったのだろうか。

 ぼんやり考え事をしながら、適当に話し合いを切り抜けて、面会を終了した。自分の裁判の事なのに、随分と他人事な思考回路をしているとも思うが、明日以降はいよいよ遠征だ。特に翌日は早朝から出勤なのだし、あまり神経を使いたくなかった、という言い訳で許して欲しい。


 直後、帰りの廊下でパーシェスク総長とすれ違った。10名に昇るかという部下を引き連れた彼は、この間会ったようなオジサンのような雰囲気ではなく、もっとかたくて暗い、あの鉄の牢屋にも似たような、底の見えない表情をしていた。廊下の壁に沿って、私達憲兵は敬礼をし、軽く応える総長を見送った。

 その瞬間、彼は私と目を合わせた。私は顎を引くように見せて頷き、短く息を吸った。彼は私を知っている。理解はしていないだろうが、とにかく知ってくれている。

 私は全方面に対して大博打を仕掛けたわけだ。胃を休ませる暇がないという嘆きさえも、今の私には、速やかに忘れたい物だ。



 洗い物を終え、カチャリとティーカップを置いた。少佐のお気に入りのカップには椿色の線と、バラの花が描かれている。私は一瞬その鮮やかな赤に、ずきりと心を痛めるものがあった。瞼を閉じながら手を拭き、タオルを物干しにかけた。寒い廊下から部屋に戻ると、オイルヒーターの電源を切り終えた少佐は、手袋を手にはめながら

「悪いわね。」

と洗い物をした私を気遣った。厚い外套が手渡される。

「いえ、私の方こそ、紅茶ごちそうさまでした。」

「なに、いつものことでしょー。」

「…そう、ですね。」

扉を開く私の手が、かすかに震えているのを横目で見ながら、結露によって湿りきった廊下に出た。この正体は寒さでも緊張でもなく、私の中に、ほんの一握りだけ残っていた、罪悪感だった。

(私はこれから嘘をつく。しかも、多くの笑顔を人質にとった。手にかけることを選んでしまった。)

 私は一歩前を歩く少佐の、外套の下に隠された、弱々しくて丸い肩を想像した。どこの世界に、うそつきの自分と、上官の肩なんて重ね合わせる奴がいるのか。でも、程度が違えば嘘もまた善、ならば結果が良ければ私の嘘もまた善になる筈だ…そんないい加減なことを抱え込み、最後には私は私自身に嘘をついてしまったのだ。


 数時間後、誰もいない執務室の扉が急いで叩かれた。

「ラブラドーラ少佐!まだおりますか!ハウンティが!ハウンティが裏切った!!監視カメラに映像が!!」

今までパーシェスク総長が止めてくれていた情報が動き始めたが、これもまた充分な余裕の内。私達はもう旅に出てしまった。動き始めた歯車に、かみ合う歯車はもう存在しない。泥をかき回しながら、泥の中に隠れていくだけ。そのうち、すべての組織が汚れ始めるのである。

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