第2章 遠征編 艶は漆、器は錦
第7話 いいんだよ、もう上司じゃない
私は立脚に成功した。組織の中に地位を得たのではなく、憲兵という職業に、自分の旗を立てた。その確かな確信が、今さら私の表情から消えることはない。あれほどまでに殺伐とした心境も、今は菩提樹の影に隠れ、安息に裏打ちされた微笑みさえこぼれてくる。
現在は早朝4時半、少佐の執務室で紅茶を御馳走になっている。カップに注がれた艶っぽい紅茶からは湯気が躍っていたが、外の薄暗い世界の中を、高い音を残しながら風が通り過ぎるのを聞けば、その温もりももっていかれてしまうのではないかという孤独感が込みあがってくる。
「もう15分くらいね…」
少佐はぽつりと、だが充分すぎるほどしっかりと呟いた。出発まで、あと15分、私の運命が決まる旅まであと15分。
これが早いのか、遅いのかは、言うに値しないだろう。いよいよ始まるのだ。討伐の旅が。
私はスズ少尉との一件の後、死に物狂いで働いた。一秒さえももったいないと思い、一つの礼さえ面倒くさがらなかった。必死に頭を下げて電波盗聴器の使い方を教わり、今までの憲兵が集めてきた暗号を頭の中に敷き詰め、現状の捜査と拮抗がどう食い違っていたかを立体的に考察した。太陽も星も、霧も霜も、何度も私の周りを回っただろうが、そんなことをいちいち考えていられないほど、情報の分析と収拾に頭を使った。
周りの奴らの中には、頑張っていると見た者もいれば、
「ただ、我々や上司に取り入るためのパフォーマンスだろう」とか、「どれほど頑張っても過去の傷が癒えるもんでもないわ」と見た者もいたんじゃないだろうか。しかし、そんなものを気にしているのも馬鹿らしいので、ひたすら黙々と資料を読み込んでいた。
すると不思議なもので、いつしか周りの奴らも仕事のペースをせかせかと速め始めた。職場にあからさまに勤務態度がお固い存在が一人いると、各員は自分とそいつを比較して、或いは第三者から比較されるのを恐れて、軽い焦燥感を抱いたのだろう。ここにいるのはエリートばかりなので、その焦りを前向きに活かすのが上手いらしい。
そうなるとエリート達は、当然自分の集めた情報について、自分以外の考察や解釈を欲するようになる。仕事をするにあたって、より正しいものがないかと探究したくなるのは、生きている者の
さて、私は元々持ち合わせていたある程度の情報がある。それは、テロ組織「INTET」、公称「インティファーダねっと」の会合が、とある法則性の下に定期的に開かれる、ということだ。場所を転々と変えながら開かれるこの会合は、暦の上で一見すると、その日付は全く持って無作為であるように見える。だが、これには裏の意味があるのだ。例えば前回は、
これが、教皇に対して同情心を呼びかけているのか、それとも神経を逆撫でしているのかは、推測の域を出ない。ただ何となくだが、私はINTET首領のマドレフが教皇を褒めているところは聞いたことがなかった、ということだけが心に引っ掛かった。いかんせんこの闘争に、教皇や教皇庁は、過去全然関係のないことだし、むしろ構成員も、政府に対しての不満がメインであったようにしか思えない。
次に、偶然地元警察に寄せられた、一つの通報の記録である。どうやら何組かの構成員が、北の針葉樹の群生する森を超えた先にある『紫の峠』に出入りしていたらしい。ペアで行動していたのは、諜報よりも視察に近いはずだ。分かりやすく言えば、目利きの2人くらいが視察に行くことで、異常が発見されるかどうかが分かるのである。政府軍の偵察が目的なら人員は散らすだろうし、それを見た地元警察は「この他に、もっと人数がいるかもしれない」と報告してきた筈だ。だが、どうやらその推測はしていなかった。なにより、この土地は言うほどあの組織に敵意がない。環境がよくないため、あまり豊かでもないし、人口密度が極端に低い。従って、組織にとっては攻撃の対象にするほどの旨味も関心もない、ある意味平和な土地だった。あそこはすぐに身を隠す場所ができる岩山である。そんな僻地だからこそ、現に地元警察はその場に急行してなお、視察らを見つけることはできなかった訳だ。会合を開くにはうってつけと言える。今回通報によって多少騒ぎになったが、いざ開催される会合は、もうしばらく後だ。ほとぼりは充分に冷めているだろう。
私はこの資料をまとめて、少佐に提出した。従来からの政敵には懐疑的な奴らもいたが、理詰めで押し切ることに成功した結果、私たちはその会合の日に合わせて、事前に遠征に出ることになったのである。
「おい、お前」
時と場所が変わり、ここは拘置所である。私は、裁判を待つ囚人、――かつての部下で、捕縛された奴ら――の前にやってきていた。
「な、、、ハウンティ!?何で!?」
「なんだ、どうしたというんだ、その恰好は!」
私は、ちっぽけな虫でも見つけたかのような目で、そいつらを突き放そうとした。薄暗い
「お前ら、外に通じているだろう?」
囚人2名は沈黙した。かつてのテロの上司が、敵の服を着て現れたのだから、その気味悪さと言ったらないだろう。それはおろか、もし親睦を深め、理想を語り合った上司が、スパイとして偽りの顔をこしらえていたのならば、それはまさに不快を絵にかいたようなものだ。
「ああ、まあ。静かにしていてもらえるのなら助かる。いいか?今回しか言わないからよく聞け。」
腕を組むと、ビニールで包まれた腕章が指に触れた。年季の入った電球は、白い腕章をくすませて、いまや酒場にでもいるんじゃないかというほどである。嘘のような現実が、アルコールの酔いにでも例えるべきか、くらりくらりとあたりに漂っているかに感じた。
「まず、お前らからだ。お前らから助けてやる。通信用の端末を、今まで隠し持っていたというのは、そうとうの力量を持っているということだろうからな。だから、脱獄の手引きの順番の最初は、お前らからだ。」
私にそんな権限なんてあるわけがない。まして、私自身も監視されているのだから、嘘もいいところだ。だがその言葉は、自由を喉から手が出るほど欲していた囚人らには「待ち望んでいた言葉」だったようだ。私に味方であってほしい、スパイなんかであってほしくはない…そういった心理状況が、説得力の不測をなんとか補った。
「私も今頑張っている。もうちょっとだけ待っていろよ。」
去り際に私は軽く微笑みかけた。そいつらがどんな顔をしていたかは分からない。興味関心がなかった…そう言えば、自分にも嘘をつくことになるだろう。嘘を嘘で塗り固めて、随分窮屈な生活に対応できたもんだなぁと、私は感嘆した。
それでも心のどこかでは、現実に向けて非情になれ、と言い張るもう一人の私が、確かに見つけていたのだ。見なかったのではなく、とても見ていられなかった、という事実を。
戸口を出ると、ニヤついた笑みを浮かべながら、付添い且つ監視役で同伴した(ついてきてもらった)スズ少尉が立っていた。私の話していることはほぼ全部聞いていたのだろう。冗談を本気でとらえるような性分でもないし、特に気にするでもなく、「おまたせ」と話しかけた。
「ふ~ん、随分イジワルなことを言う上司さんですねぇ。」
「いいんだよ。もう、上司じゃないんだから。」
いつも通りのおどけた態度に、素っ気なく返して歩き始める。囚人の様子を見に行きたい、と持ちかけたときから、ずっとこの調子で私を面白がっている。やれやれ。
コツコツと、いつかの日に聞いたような、二人分の足音が、長い廊下に響いた。あのときよりも重苦しさはなく、機関の人間特有の、あの足早な音が反響した。
唐突にスズ少尉は口をきいた。
「あ、でも憲兵としては、通信機器を囚人にそのまま持たせ続けるのはマズいなぁ。取り上げるべきね。私が後でやっとかないと。」
「ん、それはそうだな。公判の前までには押収しておかないと、検事局がうるさいだろう。ただ…」
危ない危ない。瞬間的に言葉が続いたからよかったものの、通信機器のことは慎重に取り扱うべき点だ。私が何とかして、あいつらのバックにいるINTET本部に、「隠された情報」を送ろうとしていることを、スズ少尉に悟られるわけにはいかない。決してである。
ただ、そもそもあの囚人達が通信機器を持っているかどうかというのは推測でしかない。最初の表情から見て、反省とか更生はしていないのは分かる。そして檻の中に居ながらにして、簡易な通信端末をどっかから出回った部品で組み立てる技能も確かにある。ただ、もしも彼らがその悪知恵を働かせていないならば、それはそれで問題だ。芝居を打ったことが露見し、スズ少尉に不信感を抱かせるのは避けられない。急いで頭を回転させて、それらしい理由を持ってこなければ。
「ただ、刑務官が見つけないとも限らないぞ?普通、刑務官が巡回中に見つけた、という事の方がいかにも自然だ。お前は、私の心中を察してさ、奴らに励ましの態度をとった私が取り上げることよりも、お前が動いて押収した方が自然だと気遣ってくれたんだろうけど。」
「ははあ、なるほどね。どうして私が分かったのかと一回疑問に思っちゃえば、ハウンティの名前が自動的に浮かび上がってくるわね。『あいつは知っていたのか!?』なんて。」
「だから、本当にすまないのだけど、今回のお前の手柄にはしないで、見逃してもらえないかな…?本当に、この通り…。や、勿論、刑務官が見つけないまま裁判が始まるんだったら、直前で出向いてもらって全く構わないが。」
「…ふふ。分かったわよ。でも、ハウンティ最近付き合い悪いじゃん?たまには息抜きも必要なんだし、来週の遠征が終わったら、一緒にどっか美味しいもの食べに行こうよ。少佐もお誘いしてさ。」
「分かったよ、奢ればいいんだろ。奢れば。」
「へへー。早速少佐にも聞いてみよ。」
まったく、無邪気な奴だ。押収を遅れさせたことには2つの目的があるのだが。
まず、現在の私がどういうことになっているかを、組織に知らせなければならない。これは囚人の方がベラベラ喋ってくれるだろう。もし完成されていなくとも、時間さえ与えれば作るだろう。そこに関してはそう難しいものでもない。
そして次に、もう一度私が訪問する時間ができる。しかも、次の遠征に間に合うようにしなければ意味がない。これは私が檻の前まで行っているのだから、決して正規の「面会」という手続きを取っているわけではない。だから、立会人となる刑務官はいない。付添いのスズ少尉は陰から聞き耳を立てていただけだ。お互いに死角の位置に当たるため、筆談は十二分に可能だろう。
こいつを欺いたとしても、悪気は何も感じない。何も傷つかない。だからせめて、これを徹底して完遂すべきことで報いるのだ。そうすればこいつは何も知る必要もないし、そうであれば巻き込まれることもない。これが私の、権謀術数のスタートラインだった。
涼しい廊下を超えて、私とスズ少尉は少佐の執務室に寄りかかった。仲が良くても上司は上司。ノックと名乗りを欠かさずに入室する。軍人という縦社会で、礼節を護らないと殴られるとよく聞く。幸い私は赴任してからはそんな目に合っていないが、憲兵の外の一般の軍人には、上司に泣かされている兵隊の話はごろごろある。
「失礼致します、少佐。」
「失礼します。」
暖房の効いた部屋の中は、足早に歩いてきた私達には少し暑いくらいだった。
少佐は何やら調べ物をしていたらしい。シェルフに分厚い本を押し込んだのがちらと見えた。私は普段から、情報の報告と整理の為に執務室に出入りしていたので、何の気もなしに入ったが、むしろスズ少尉の方が慣れない様子だった。私の後に続いてそそくさと入った。普通は呼び出しを食らって、しかも直接の上司と一緒に参じるのだから、それが普通なのだろう。意識して見れば、私の特殊性が際立つ話だ。
「うん、どうしたの?」
「独自の情報収集の一環として、囚人A、Bの公判の日時をお伺いしたいと思うのですが。それと、もし検事側が開示に応じるのであれば、追求の具体的な論点と段取りも押さえておきたいと思い、お願いに参りました。」
うーん、と少佐は首をかしげた。そして、それは私の担当じゃないから、答えるまでには時間がかかる、という旨の返答をした。しかも、実際に資料がないらしい。いつもならファイルを漁るか、電子ファイルでも操作するのだが、デスクについたままウンともスンとも動く様子がない。
さて、困った。困ったぞ。これはできるだけ急かす案件だ。何と言っても、遠征の前に調整をすることを目的としているのだから。心臓がグッと圧迫される感じがした。それとなく、不自然なく急かす理由がどこかにないだろうか。
ふと思い直し、私は
「できるだけ急いで欲しいんですよ、その情報。具体的には遠征の前まで。」
と、するりと“遠征の前”というワードを出してみた。「元テロ犯がかつての部下に、速やかな接近を試みたい」という意味は、普通なら怪しくて仕方がないだろう。警戒するのは当たり前だ。
そこで、私は後ろで口数がものすごく減っていたスズ少尉に、間髪をいれずに話を振った。
「だって…なぁスズ少尉。」
「え?あ、はい。その、遠征の後に、ご一緒に食事にいきませんか?ハウンティ持ちで。」
すぐに表情を読もうと振り返ると、特に疑いも無い顔の、きれいな瞳が確認できた。
「あら、ハウンティが持つの?でも、上官なんだから、私の分は私でいいよ~」なんて穏やかな、いつも通りの少佐がそこにいた。こちらがちょっと表情を和らげると、向こうも微笑みを返した。
まったく、博打とはこれほど気の休まらないものなのだな。でも、これでやっと一安心。これで私からの要件はもうなくなった。胸につかえていたものが自然と溶けていった。
謀略の出だしは自己採点では百点満点なんじゃないか。でも、もうたくさんだ。顔色を見ながら事を進めるは私の性に合わない。今日の所は肩の荷を降ろし、ゆっくり休んで、また来る明日に備えなければ。
と、私は油断していた。スズ少尉と少佐の会話を聞き流していた時、ふいに、呼ばれた。
「そうそう、公判日程で思い出したわ。ハウンティの裁判のことなんだけど…」
「…!」
油断していたよ。神様は、まだ終わっていないぞ、降ろさせはしないぞとばかりに、肩と荷物を接着していた。
組織ではなく、私個人の身の上について。彼女はいつも通りの、無害な、のんびりした顔付きで、話しを始めたのである。
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