第1章 立脚編 香りは華、湯気は舞

第1話 オシャレなんてしなかった

 彼らは憲兵であった。暗くて深くて寒い海の底のように、濃紺の制服と、帽子。金色の装飾が、いかにも偽りの光のように、ぎらりと光っている様だった。向こう側に開くのであろう、小窓のついた鉄の扉の前で少し勿体ぶった咳ばらいをした彼らは、指の節で大きめに、強く、塗装された扉を叩いた。厳格な声で、

「おいハウンティ、起きなさい!充分に休んだだろう!」

と叫んだ。



 実際には、それらの兵士がやってくる、一時間近く前に起きていた。今朝は悪夢を見ているかのような気分で目を覚ました。重苦しい夢の中から、果てしなくツラい絶望の現実に、嫌でも呼び戻された。夢ならば覚めてほしいが、残念ながら夢ではない。かといって夢の中に戻ろうとしても、それを夢の国の税関は許してくれないらしかった。

 私は、幽閉されていることに気付いた。戦場で気絶したのだから、命があったことは奇跡的なことだった。それが良い事なのか、悪い事なのかは、私にはわかりかねた。生きて捕虜の辱めを受けず…普段の私ならそんな風に一蹴し、自ら衣類で首をくくるのだが、仲間の死にゆく姿を見た後は、そんな言葉は喉の下で閊えて、どうしても出てこなかった。そういえば、血で濡れていたであろう衣類は取り替えられ、簡素だが清潔な服が、私を包んでくれていた。私は普段から年相応の女の子たちがやるようなオシャレなんてしなかった。この天下をひっくり返す運動を始めてから、私の生活も、優先順位も、すっかり変わってしまった。あの頃の純粋無垢な私はもう、心のどこを探しても出てこないけれど、あの頃には決してなかった強さが、生活と共にあった。

 探しても探しても見つからない。それは、私の中の子供の素直さと同様に、この独房から抜け出す解法もそうだった。色々あちこちを見てみたが、ひんやりとした石の冷たさが、足や指先に残るだけだった。木製のくびきで固定され、手がすっかり冷えきっていたが、体の方は熱を帯びて暑いくらいだったので、冷たくなった手で首を覆い、寝台の上に腰を下ろした。そんな静かな中で、彼らは扉を叩いたのだった。



「聞こえているのかハウンティ!返事をしなさい!」

「うぅ…き、聞こえている!」

まったく不愉快だ。実力で負けたとはいえ、私自身の政府側への不満は、窓枠のパテの汚れのように、しつこく残っている。同じ生き物として認めたくないくらいだ。怒りは憎しみへと変わり、棘々した気持ちは揺れる陽炎かげろうへと変わった。しかし、復讐をせんとばかりの感情とは逆に、喉の奥から出た声は、コップになみなみと継がれた水を零さないように運んでいるかのような、恨めしさのこもった、弱々しい声だった。

 憲兵はヒョイと子窓を開けて、私を、気の毒なものを見る目で遠巻きに見た。そして、何やらを扉の向こうで、この部屋の出入りを管理する刑務看守に囁くと、私の部屋に入ってきた。

「反乱分子ハウンティよ。お前は政治犯としてこの監獄にいる。それはお前もわかっての事だろう。そうだね?」

偉そうに、それもありきたりな言葉を、私に向かって吐き捨てた。目も声もひげも、中途半端に偉そうにしているのが更に腹が立つ。それでも、私は手の自由が封じられているし、殴り合うのにはあまりに恰好が無防備だ。私が暴力に訴えないことを確認すると、彼は少しトーンを落として話を続けた。

「よくもまぁ我々に、これほどまで手をかけさせたものだ。お前たちの都市陥落の暴動で、いったいどれほどの武器が反乱軍の手に流れてしまっただろう。軍の所有している銃も弾薬も、確かに新しい開発はストップしているが、それでもタダではない。おかげで軍隊の物資も、人的資源も、火の車だよ。なぁ。」

 組織管理の話をし出すとは、この憲兵はある程度高い階級の兵隊なのだろうか。その憲兵が私に手を焼き、辟易しているというのだから、まんざら悪い気はしなかった。彼らは職業上の敵であり、政治上の敵だ。それ以上でも以下でもない。そう信じて疑わなかった私に、この後の長きにわたる人生が予想できたわけがない。


「お前には一緒に来てもらおう、ミス・ハウンティ。我々の上官がお前に話があるそうだ。その恩恵に感謝し、言葉を預かるように。」

「検事の執務室の事か?」

私は足に力を入れて立ち上がった。しかし、大人しく連れられる為ではない。真正面から向き合って、少し身を屈め、鋭く眼光を光らせて言う。

「冗談じゃねぇぞ!私を裁判の下に、公衆の目の下で何日も生かしておくつもりか!舐められたものだな。もう私は死を恐れている段階ではない。すぐに殺せ!」

闘争心をむき出しにして一歩片足を踏み出した。この場で暴れてやろう。

「貴様ら公権力の奴隷は、無辜むこの民を苦しめ、何度も何度も革命の志士を殺してきたではないか。立法政治を望む国民と、いち早く我々という汚辱を消さなければならない使命感との間で、恐れおののきながら仕事に臨んできた。さあ、私の身に縄をかけた王手の状態で、とどめを刺すことに何を躊躇うっていうんだ?」

私は卑しくにやりと笑ってみせたが、その憲兵は、仏頂面を崩さず、しかし目だけは呆れたように色を失い、また偉そうに答えた。

「助かった命は大切にするものだ。お前は一人の政治犯として、技術の上では優秀と褒められながら、何故死に急ぐというのか。未だ動乱は終息の目途は立っていない。お前たちのまいた種はお前たちが直視して、その片付けを手伝え。」

「いや、悪いのは貴様らだ。」

「黙れ。発言を許した覚えはない。いいから黙って着いてきなさい。」



 私は靴を与えられ、その憲兵の後ろを歩かされた。途中、何人かの刑務官――つまり看守だ――とすれ違った。彼らは憲兵に敬礼をした様子だったが、私自身は脱走を防止するための目隠しをさせられていたため、どんな表情をしていたのか、私たちと同じ顔をしているのか、見ることができなかった。

エレベータで何回か上り、その階で長く歩いて止まった。呼び出された部屋の前に就いたのだろう。そこで、

(いや、目隠しをしていたから長く感じただけかもしれない…この目隠しが取られないことには分からないな…)

などと考えていた。隙があればすぐに逃走に転じようとの趣旨からだが、結論を出す前に、あっさりとその布を取られた。光が眼の隙間から食い気味に入ってきて、ほんの一瞬まぶしかったが、すぐに目が慣れた。思っていたよりもかなり移動が短かったので、ほんの少し困惑したが、キョロキョロしたい気持ちを内側に抑え、冷静沈着を演じる。

 いかにもなドアに、いかにもな壁。公務員の庁舎なんてそんなものだ。小さいときに親と一緒に入った、町役場のような作り…なんて感想が似合う。

(なんたってこう公務員は、エリートは、同じような雰囲気を好むのだろうか。)

そんな疑問から苦笑しそうになったが、少し考えて直ぐに、一般の誰もが見て「嫌悪感を催さないもの」という理屈に当たった。どういう趣向を持っていようが、いわゆるフォーマルなものへと自然に帰結するのだろう。

憲兵がノックをして扉を開けるのを見た。

「失礼します。」

 かしこまって入るものが一名、無言で入る者が一名。そりゃあ私が言う理由なんて、お世辞を使って裁判を少しでも有利な物にもっていくか、或いは立場にフェアなことを示して、思想にのみ忠実なことを分からせて尊敬を買おうなどという下心があれば言うだろう。だがそんなこと、検察に分かってもらえるなんて粉微塵にも思ってなかったし、長年の敵にへりくだるようなことをしたいとも思わなかった。

 部屋の中でまず目に入ったのが、大きくて古い、木製の本棚だった。法律関係の本や、犯罪者たちのファイルだろうと推測されるが、かなりの量が並べられて収まっていた。日の光に照らされて、少し色の落ちた分厚い本の背表紙や、留めている糸の少しはみ出しているところを見れば、それらはある程度の年季が入っていることが分かった。本棚は開き戸になっており、戸はガラスが張られていて、中々風情があった。そしてチェストは本だけで埋められている訳ではなく、みんなもよく見るだろう、ノスタルジックな星の模型が飾られている。他の棚にはフラスコやよく分からない薬品を入れた、怪しい試験管らしきものがあった。どうやらこの部屋の主は、理系の研究者がやるような実験も自分でするらしい。いい趣味をしている。

不躾ぶしつけにじろじろと見るのも品がないので、目を向けるだけでは見えない角度の物を詮索する事はあきらめた。潔しとしないから入室のあいさつを省略したのだから、その気持ちに適した態度を続けるべきだろう。

 私は顎を引き、目を引き締め、あくまで毅然きぜんとした態度で、連行した憲兵の誘導通りに動き、机に向き合った。金がかかっていることは素人目にも分かる、いかめしいデスクと黒いレザーの椅子。そこに座っていたのは…


 そこに座っていたのは、法廷に私を引きずり出す検事ではなかった。守るのを嫌がるだろう弁護士でもなかった。ここ数日の見飽きた紺色の制服に、白い腕章。



憲兵だった。

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